2015年9月28日
9月28日 廃炉作業員の現状を伝える団体AFW 1
今週は、福島の人々・そして我々が、
廃炉まで40年とされる福島第一原発と、どう向き合っていくべきなのか。
この重要なテーマを、社会に問いかける団体について、お伝えします。
一般社団法人・AFW。アプリシエイト・フクシマ・ワーカズの略です。
アプリシエイトの意味は、「価値を認める。感謝する」。福島第一原発の廃炉現場で働く人たちの、実情を伝える団体です。代表は、吉川彰浩さん(35)。
福島県浪江町出身、いわき市で避難生活を送っています。そしてご自身も震災当時、原発作業員として、“その場所”を職場としていました。
◆福島第二原発の復旧作業
震災前は、福島第一原発・第二原発で東電社員として働いていた。震災当時は第二原発で復旧対応をしていた。原子炉を冷やす水「冷却水」は通常、川から第二原発へ引き上げるが、川の設備が津波でダメになってしまい、数十年前に使用をやめていた井戸水を先輩に教えて頂き、設備の復旧・修復をした。一度入れた熱くなった冷却水を冷やすための設備も同時に復旧するということを延々と朝から晩までやっていた。
吉川さんはこうして、事故から1年数か月にわたり、福島第二原発の復旧作業に従事していました。第一原発から距離にして12キロ。3月11日の揺れの後、すべての原子炉が自動停止した第二原発も、安全を確認できるまで、1年以上がかかったと言います。
そして2012年6月。吉川さんは東京電力を退社。その理由は、ほとんど報じられない、作業員の実情を伝えなければという想いでした。
◆作業員が辞めていく・・・
3月・4月は第二原発も第一原発も厳しい状況。自分たちの家族も避難生活をしている中で、原子炉の状況を維持するため、人間的でない生活。泊まり込みで朝から晩まで働いていた。それが続く中で、精神的に疲れてくる人間も増えた。当たり前だが、社会からの厳しい目もあった。人格を否定するような、特攻隊のような。「死んでもやれ」「やってあたりまえ」という状況に耐えきれなくなり、東京電力の社員も、協力企業も作業員の方も、もう続けられないから辞めるねと、毎週毎週のようにお別れ会があった。命がけで作業をして頑張ったはずなのに、誰に褒められるわけでもなくひっそりと。でも仕事を辞めるというのは人生が変わってしまう。人生を棒に振るというか。そういう方をずっと見てきて、現地から声を挙げたかったが働いているうちはなかなかそういうことができない。現状はこんな状況で頑張っている、ということだけは伝えたい。これが伝わればもしかしたら辞めていく方に対して、社会が感謝・敬意を持つのでは。そうすれば人知れず辞めるなんてことが減るのではないかと。
もう一つは、社員として「廃炉」をしていかないといけない。将来的に信頼できる仲間がいなかったら無理だと実感した。絶対にできない。特にベテランの現場を知り尽くした人が重要。
大きな設備で重要な機器がどこにあるか長年の経験で覚えているところもある。第一原発は水素爆発も起こしているわけで、高線量の作業場所になってしまう。短時間で効率よく作業をするということが非常に求められる。その時に長年働いてきた方がいらっしゃらないと与えられた仕事が上手くできない。そうなると高線量被ばくをして作業する方が危険な状態になるということもある。職歴で言えば30年とか現場で働いてきたような生き字引のような方が、この状況下で「辞める」と言う。この状況を改善しないと取り返しがつかないことになる。ならば(自分自身が)辞めて、一刻も早くこの状況の改善を訴えないと取り返しがつかなくなるという想いで、辞めればなんでも言える。外から支えたいと思って、東電を離職した。
実際、事故の後、復旧作業に関わる作業員に対する偏見は、本人たちだけでなく、その親族の方にまで及んだ、ということも言われています。
そして吉川さんは退社後、廃炉作業に取り組む人たちの実情を伝えるため、ひとりで活動をスタート。これがAFWという団体へと繋がることになります。明日はその活動についてお伝えします。
★AFWウェブサイト
廃炉まで40年とされる福島第一原発と、どう向き合っていくべきなのか。
この重要なテーマを、社会に問いかける団体について、お伝えします。
一般社団法人・AFW。アプリシエイト・フクシマ・ワーカズの略です。
アプリシエイトの意味は、「価値を認める。感謝する」。福島第一原発の廃炉現場で働く人たちの、実情を伝える団体です。代表は、吉川彰浩さん(35)。
福島県浪江町出身、いわき市で避難生活を送っています。そしてご自身も震災当時、原発作業員として、“その場所”を職場としていました。
◆福島第二原発の復旧作業
震災前は、福島第一原発・第二原発で東電社員として働いていた。震災当時は第二原発で復旧対応をしていた。原子炉を冷やす水「冷却水」は通常、川から第二原発へ引き上げるが、川の設備が津波でダメになってしまい、数十年前に使用をやめていた井戸水を先輩に教えて頂き、設備の復旧・修復をした。一度入れた熱くなった冷却水を冷やすための設備も同時に復旧するということを延々と朝から晩までやっていた。
吉川さんはこうして、事故から1年数か月にわたり、福島第二原発の復旧作業に従事していました。第一原発から距離にして12キロ。3月11日の揺れの後、すべての原子炉が自動停止した第二原発も、安全を確認できるまで、1年以上がかかったと言います。
そして2012年6月。吉川さんは東京電力を退社。その理由は、ほとんど報じられない、作業員の実情を伝えなければという想いでした。
◆作業員が辞めていく・・・
3月・4月は第二原発も第一原発も厳しい状況。自分たちの家族も避難生活をしている中で、原子炉の状況を維持するため、人間的でない生活。泊まり込みで朝から晩まで働いていた。それが続く中で、精神的に疲れてくる人間も増えた。当たり前だが、社会からの厳しい目もあった。人格を否定するような、特攻隊のような。「死んでもやれ」「やってあたりまえ」という状況に耐えきれなくなり、東京電力の社員も、協力企業も作業員の方も、もう続けられないから辞めるねと、毎週毎週のようにお別れ会があった。命がけで作業をして頑張ったはずなのに、誰に褒められるわけでもなくひっそりと。でも仕事を辞めるというのは人生が変わってしまう。人生を棒に振るというか。そういう方をずっと見てきて、現地から声を挙げたかったが働いているうちはなかなかそういうことができない。現状はこんな状況で頑張っている、ということだけは伝えたい。これが伝わればもしかしたら辞めていく方に対して、社会が感謝・敬意を持つのでは。そうすれば人知れず辞めるなんてことが減るのではないかと。
もう一つは、社員として「廃炉」をしていかないといけない。将来的に信頼できる仲間がいなかったら無理だと実感した。絶対にできない。特にベテランの現場を知り尽くした人が重要。
大きな設備で重要な機器がどこにあるか長年の経験で覚えているところもある。第一原発は水素爆発も起こしているわけで、高線量の作業場所になってしまう。短時間で効率よく作業をするということが非常に求められる。その時に長年働いてきた方がいらっしゃらないと与えられた仕事が上手くできない。そうなると高線量被ばくをして作業する方が危険な状態になるということもある。職歴で言えば30年とか現場で働いてきたような生き字引のような方が、この状況下で「辞める」と言う。この状況を改善しないと取り返しがつかないことになる。ならば(自分自身が)辞めて、一刻も早くこの状況の改善を訴えないと取り返しがつかなくなるという想いで、辞めればなんでも言える。外から支えたいと思って、東電を離職した。
実際、事故の後、復旧作業に関わる作業員に対する偏見は、本人たちだけでなく、その親族の方にまで及んだ、ということも言われています。
そして吉川さんは退社後、廃炉作業に取り組む人たちの実情を伝えるため、ひとりで活動をスタート。これがAFWという団体へと繋がることになります。明日はその活動についてお伝えします。
★AFWウェブサイト