2015年12月7日

12月7日 被災地に年賀状を届けるプロジェクト「元気メール」

今日は、東北の仮設住宅に年賀状を届けるプロジェクト「元気メール」です。
これまでもこのコーナーで毎年ご紹介してきました。

活動の中心となっているのは、神戸のNGO「アセック」の理事長、瓜谷幸孝さん。阪神淡路大震災で、全国から「励ましの便り」を募集して、仮設住宅のお年寄りに届けたのが「元気メール」の始まりです。東日本大震災以降は、東北に向けた「元気メール」を募集。毎年お正月に、瓜谷さんたちアセックのメンバーと仙台のボランティアスタッフが仮設住宅で暮らすお年寄りに、直接年賀状を手渡しています。今年は、宮城県石巻市の小中学生が書いた「元気メール」をネパール大地震の被災地の子供たちに届け、さらに活動の和が広がりました。

東北はいま、大震災から数えて5回目のお正月を迎えようとしています。
   
◆時間が経つほど心の支えが必要になる
なんで5年も続けているかといえば、時間がたつほど苦しくなるから。最初の一年目はしゃにむに頑張る。だんだん一年、二年と時間がたってきたら、周りが忘れてきて自分が置き去りになったような気がする。時間がたてばたつほど、最初に頑張ったことに比例して、不安やマイナスの材料ばかりがでてくる。だから、時間がたつほど心の支えが必要になってくる。
誰か一人が自分を励ましてくれる、自分を心配してくれる人がいたら人は生きていける。元旦の一月一日に一本の電話もかかってこない、一枚の年賀状も届かない、誰ひとり自分を訪れる人がいない、そんな一年の始まりだったら、元気がでてこない。だから新しい年にはなにか希望なり目標を持てるように今年も年賀状を届けたい。
毎年行くところを変えている。全然元気メールを届けたことがないところに届けている。2015年の正月には宮城県名取市の閖上に初めて行った。一人にだいたい5枚ぐらい渡す。1枚だと寂しいから。子どもやらお年寄りやら海外の方のはがきとか、いろいろなのを混ぜて、仮設住宅を一軒一軒回った。何人かのお年寄りは、その年賀状を受け取って繰り返し繰り返し読まれて、涙ぐまれていた。「必ず返事を書きます、ありがとう」と。それで、今年の初めから全国の方たちと閖上の皆さんの文通が続いている。やっぱり文通のやりとりが続くことによって、「一回この人に会ってお礼を言いたい」と思うようになる。目標や目的ができたら人はぶれない。神戸と石巻で元気メールのやりとりをした人も実際に会いに行っている。


アセックでは今年も東北の仮設住宅への「元気メール・年賀状」を募集しています。
内容は季節の言葉や、自分の趣味や日常のことなどなんでも構いません。イラストや俳句を添える方もいるそうです。
集まった年賀状は、来年のお正月、瓜谷さんたちが宮城、福島で暮らす仮設住宅のお年寄りに直接手渡します。
 
◆「被災された方へ」
お年寄りには抽選付き年賀状が喜ばれる。どんな方に渡るかわからないので、宛名は「被災された方へ」と。裏の文面は新しい一年の始まりが元気になるようなものがいい。人が元気になれば自分も元気になれる。自分が一生懸命こころを込めて書いたら、それが相手に伝わる。もらった方はたいがい相手の方に返事を書く。だからできたら、自分の名前と住所を書いてほしい。「ありがとう」という気持ちをもらった人も伝えたいので。


2012年のお正月はおよそ3000通集まった「元気メール・年賀状」も今年2015年は1000通と、だいぶ数が減ってしまいました。
「ぜひ皆さんからたくさんの元気を東北に届けてください!」と瓜谷さん。

★「元気メール年賀状」の送り方
 宛先は「被災された方へ」と書いてください。内容は自由です。
 できればご自分のお名前、住所も書いて、封筒に入れて
 アセックあてに12月26日までに送ってください。
 複数枚書いてくださる方も大歓迎!

送り先:〒655-0046
    神戸市垂水区舞子台8丁目16番地16−604
    アセック「元気メール年賀状」係
    締切12月26日(土)着
担当:瓜谷 携帯090-6735-4253

2015年12月2日

12月2日 福島県相馬市出身 巨人・鈴木尚広選手3

福島県・相馬市出身。読売巨人軍・鈴木尚広選手のインタビューをお届けしています。

今年、19年のプロ野球生活で初めて、オールスターゲームに出場。試合の途中から「代走」として出場する選手が、オールスターに出るのは大変珍しいこと。誰にも負けない特技を見つけて、それを極めれば、大舞台に立てるし、ヒーローになれる。それが相馬市の子どもたちの力になる。そう考えて鈴木選手は休むことなくトレーニングを続けています。

そんな鈴木選手が、故郷・相馬への想いをより強めるきっかけとなったのは、やはり東日本大震災でした。2011年3月11日、プロ野球はオープン戦の最中。当時を鈴木選手が振り返ります。

◆「このまま野球をしていていいのか」
中西:鈴木選手は震災時はどこにいらっしゃったんですか。
鈴木:広島で試合していましたね。震災を知ったのが試合の途中で、ロッカーにテレビがあって緊急放送になって、相馬の名前も出たんです。津波が10mくらいくるという予想が流れてきて、ちょっと・・・どうしたらいいのかということがありました。電話ももちろんつながりませんでしたし、ただ待つのみという感じで試合どころではなかったですね。

中西:ご両親は相馬市にいらっしゃったんですか。
鈴木:はい。弟もいます。

中西:そのあと、、相馬に足を運ぶことができたのはいつですか。
鈴木:球団から許可を得まして2週間後に相馬に戻って。地元の母校、中学校が避難所になっていたので声掛けをしたり、お手伝いをしたり、海の現状を間近で見て。言葉にならないくらいで。自然の強さってこんなにあるのかと。船があり得ないところに来ていましたしちょっと自分の想像では考えられない光景がありましたね。

中西:ぼくもそうでしたが、スポーツって、こうなってしまうと何もできないんだなと感じたんですが。
鈴木:何もできないことのほうが多かったですね。このまま野球していいんだろうか、プレーしていいんだろうかと言うところがあったんですが、弟から、「お兄ちゃんは、野球で頑張ってみんなに夢や希望を与える仕事なんだから、こっちのことは俺に任せて、お兄ちゃんは好きなことをやってくれ」と。ちょっとウルっと来てしまって。今でも覚えているんですけど、そういう弟の後押しもありながら、もう一回頑張る姿を見せるのが被災地の皆さんのためにもなるかなと考えました。

中西:震災後にプロ野球もJリーグも再開して、その時に「覚悟」、今までやってきたプロ野球と変わりましたか。
鈴木:僕は福島県出身なので、やっぱり自分が活躍することでそういうものを風化させないという意識は高まりましたよね。自分のためでもあり福島県の皆さんのために頑張るという想いが自分の中に、より入ってきましたよね。

中西:鈴木選手の人生は、もう鈴木選手だけのものではない。
鈴木:もちろんそうですね。自分のためにやってきた野球が、そうじゃない、そういう人達のためにやるという。野球に背を向けないで見つめて、より自分を成長させるということに繋がってきていると思います。

  
鈴木選手のご両親、弟さんは無事だったわけですが、相馬市は400人以上の方が亡くなっています。そんな状況で、スポーツ選手の多くがスポーツやってる場合か・・・と悩んだと言います。鈴木選手も野球を続ける意味を 改めて真剣に考え、そして最後の後押しをしたのは弟さんでした。

そして去年、鈴木選手は 代走での盗塁・日本記録を更新。規定打席に達していない選手として、初の200盗塁も達成。鈴木選手を知らなかった方も、来シーズンは途中出場する鈴木選手の走り、ぜひ注目してほしい!


明日は、高橋由伸新監督の下で迎える、来シーズンの話です。鈴木選手と高橋新監督、普段はどういう関係なのかも語ってもらっています。
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パーソナリティ 鈴村健一

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