2015年12月22日
12月22日 女川駅前プロムナード「シーパルピア女川」2
今年3月、JR女川駅が開業して、復興に向け新たなスタートを切った宮城県女川町。その駅前に明日、テナント型の商業施設「シーパルピア女川」がオープンします。駅から海に続くプロムナードに26の店舗が連なる、女川の新しい「顔」。
施設を運営する「女川みらい創造」の近江弘一さんは女川のサッカーチーム「コバルトーレ女川」の創設や「石巻日日新聞」にも関わる、女川街づくりの中心的な人物の一人です。
◆「わが町女川と言えるようになった」
出身は女川町と石巻の中心にある渡波という猟師町。海水浴場の目の前で育ったので海が好きでずっと暮らしてきました。もともと石巻でウェットスーツの会社をやっていて、48歳でその仕事を全部やめるんですけど、そのあと「コバルトーレ女川」というサッカーチームで地域を活性化しようと、ある意味Iターン事業みたいなことをやりはじめて、女川に来た。
親父の墓を整備しなくちゃいけないなどあって、いろいろルーツ探しをしていたところ、自分のルーツが女川の離島「出島(いづしま)」にあることがわかった。それ以来「わが町女川」と言えるようになり、そんな中震災でいろんなものがなくなって、大変な中、いろんな声掛けがあったので、引くわけにはいかないといまに至っている。
女川町には震災後、「きぼうのかね商店街」という仮設商店街ができて、およそ50のお店がお店を構えました。仮設商店街の運営は再来年の3月まで。それぞれの店舗が、いま「次の選択」を迫られています。
◆震災後5年目でそれぞれの選択
震災で商店だけでなく水産業の加工場などもすべてのものが流されて、商業施設もここに仮設商店街があるが、いろいろな選択肢があって、自立再建で街に降りて新しいお店をやる人もいれば、今回僕らが運営する駅前商店街「シーパルピア女川」に入る人もいる。それから、宅地ができたときに「店舗兼住宅」でやりたいという人たちや、仮設商店街がなくなったら廃業するという人たち。いろんな事業がこの街で起きていて、震災後5年を迎えようとしている。
復興とはいえ、経済とはどこかで競争なので、今後いろんなことが起きてくると思う。女川さいがいFMが2016年3月で終わることも含めて、いろんなことが現実のなかで継続性を問われてくると思し、議論されることになると思う。そういう意味では「シーパルピア女川」はテナント型なので、3年5年といろいろ入れ替わりがあると思う。その時が女川町の勝負だと思う。今年プロムナードがスタートしたが本来の真価を問われるのはこれからなんだろうなと思う。
女川町は、須田善明町長をはじめ、復興街づくりの中心を30代、40代の比較的若い世代が担っています。50代後半の近江さんは、そんな彼らをサポートする頼もしい存在です。
◆「将来を担う人たちから笑われるような決断はしたくない。」
僕らが生きている間に女川へ来てくれてありがとうと、須田町長はよく言うが、僕たちは次の世代のために仕組みをつくる人たちだと思う。コバルトーレにしても、僕らはつくっただけで成功もなにもなく終わるかと思う。そういった意味では僕が50代で女川の街づくりに参加している意味というのもひしひしと感じている。僕らはたぶん創設メンバーなんですよね。それをもっとよくしたりできるための骨を揃えておくのが僕らの仕事だと思っている。次の世代がやるでしょ、次の世代がやりやすいようにしておく。将来街を担う人たちから笑われるような決断はここでしたくない。生きざまとして仕事をしているので。その事業やその活動は、少なくとも僕の次の世代には伝わるわけだから。だから不安だけど、その先にあるものはもっといろんなものができてくると思うので、楽しみだし期待ですよね。
明日開業する「シーパルピア女川」には、スーパーや飲食店、雑貨のお店や音楽スタジオなど26の事業者が入り、営業をスタート。「シーパルピア女川」のオープンを記念して12月23日から5日間に渡り「おながわ復興まちびらき2015冬」も開催されます。ぜひ復興の歩みをその目で確かめてみてはいかがでしょうか。
施設を運営する「女川みらい創造」の近江弘一さんは女川のサッカーチーム「コバルトーレ女川」の創設や「石巻日日新聞」にも関わる、女川街づくりの中心的な人物の一人です。
◆「わが町女川と言えるようになった」
出身は女川町と石巻の中心にある渡波という猟師町。海水浴場の目の前で育ったので海が好きでずっと暮らしてきました。もともと石巻でウェットスーツの会社をやっていて、48歳でその仕事を全部やめるんですけど、そのあと「コバルトーレ女川」というサッカーチームで地域を活性化しようと、ある意味Iターン事業みたいなことをやりはじめて、女川に来た。
親父の墓を整備しなくちゃいけないなどあって、いろいろルーツ探しをしていたところ、自分のルーツが女川の離島「出島(いづしま)」にあることがわかった。それ以来「わが町女川」と言えるようになり、そんな中震災でいろんなものがなくなって、大変な中、いろんな声掛けがあったので、引くわけにはいかないといまに至っている。
女川町には震災後、「きぼうのかね商店街」という仮設商店街ができて、およそ50のお店がお店を構えました。仮設商店街の運営は再来年の3月まで。それぞれの店舗が、いま「次の選択」を迫られています。
◆震災後5年目でそれぞれの選択
震災で商店だけでなく水産業の加工場などもすべてのものが流されて、商業施設もここに仮設商店街があるが、いろいろな選択肢があって、自立再建で街に降りて新しいお店をやる人もいれば、今回僕らが運営する駅前商店街「シーパルピア女川」に入る人もいる。それから、宅地ができたときに「店舗兼住宅」でやりたいという人たちや、仮設商店街がなくなったら廃業するという人たち。いろんな事業がこの街で起きていて、震災後5年を迎えようとしている。
復興とはいえ、経済とはどこかで競争なので、今後いろんなことが起きてくると思う。女川さいがいFMが2016年3月で終わることも含めて、いろんなことが現実のなかで継続性を問われてくると思し、議論されることになると思う。そういう意味では「シーパルピア女川」はテナント型なので、3年5年といろいろ入れ替わりがあると思う。その時が女川町の勝負だと思う。今年プロムナードがスタートしたが本来の真価を問われるのはこれからなんだろうなと思う。
女川町は、須田善明町長をはじめ、復興街づくりの中心を30代、40代の比較的若い世代が担っています。50代後半の近江さんは、そんな彼らをサポートする頼もしい存在です。
◆「将来を担う人たちから笑われるような決断はしたくない。」
僕らが生きている間に女川へ来てくれてありがとうと、須田町長はよく言うが、僕たちは次の世代のために仕組みをつくる人たちだと思う。コバルトーレにしても、僕らはつくっただけで成功もなにもなく終わるかと思う。そういった意味では僕が50代で女川の街づくりに参加している意味というのもひしひしと感じている。僕らはたぶん創設メンバーなんですよね。それをもっとよくしたりできるための骨を揃えておくのが僕らの仕事だと思っている。次の世代がやるでしょ、次の世代がやりやすいようにしておく。将来街を担う人たちから笑われるような決断はここでしたくない。生きざまとして仕事をしているので。その事業やその活動は、少なくとも僕の次の世代には伝わるわけだから。だから不安だけど、その先にあるものはもっといろんなものができてくると思うので、楽しみだし期待ですよね。
明日開業する「シーパルピア女川」には、スーパーや飲食店、雑貨のお店や音楽スタジオなど26の事業者が入り、営業をスタート。「シーパルピア女川」のオープンを記念して12月23日から5日間に渡り「おながわ復興まちびらき2015冬」も開催されます。ぜひ復興の歩みをその目で確かめてみてはいかがでしょうか。