2016年1月6日

1月6日 気仙沼 アンカーコーヒー3

今週は、気仙沼のコーヒーの名店「アンカーコーヒー」についてお届けしています。

「アンカーコーヒー」は2005年に気仙沼でオープン。自家焙煎の美味しいコーヒーを提供するお店として人気を集めていましたが、東日本大震災による津波で本店を含む気仙沼市内の2店舗と焙煎工場が流出。去年の春に、「アンカーコーヒー」のフラッグシップでもある「マザーポート店」と名付けた本店を再建しました。

再建場所には被災しなかった内陸部を選びました。資金は民間の被災地応援ファンドなどを活用。海辺のロッジのようなお洒落なデザインで、1階にある焙煎室はガラス張りで、来店した方が見学できるようになっています。

港町・気仙沼の“復興への願い”も込められた「マザーポート店」。しかし震災後、小野寺さんは、とてもこの町でお店を再建できるとは、思わなかったと話します。

◆「場づくり」としてのコーヒーショップ
もうね、ぐちゃぐちゃになった場所を見た瞬間に、これはこの町を捨ててどこかで新しいところで生きなくちゃいけないんじゃないかと、正直、思いました。このごたごたを片付けるのに何年必要だし、これをどかすっていってもどこにどかすのこのがれきの山を?ダメだなって思いましたもんね。当時アンカーコーヒーとフルセイルコーヒーというブランドがあったんですけど、アンカーコーヒー2店舗、フルセイルコーヒー3店舗、5店舗でやってたんですね。アンカーコーヒー2店舗、海の近くにあったんで2店舗とも被災して使えない状態、3店舗はあったんですよ。なのでその3店舗があったおかげで張り合いが出来たというか、それを動かし続けなくちゃいけないし、ここで休んでる場合じゃないんだっていうところもあって、で気仙沼で働いていた人たちも、一店舗、車で40分くらいかかるところ、岩手県なんですけど、ワークシェアリングしようと。こういう時はもう働き続けることが何より大切だと思うんだ。だから働きたい人は、そこまで行って働きましょうよって言って往復してましたね。そうすると気仙沼の人たちが気仙沼では買い物できないから、一関へ行く、そうすると一関への延長線上にうちの店があるので、そこで会って、「ああなんだ元気だった!」とか言って抱き合ったりとか。
で2011年の12月には、田中前っていうところでアンカーコーヒーの仮設店舗を作ることが出来たんですね。カフェっていうのは、私たちの仕事っていうのは「場づくり」だと思ってるんですね。人と一緒に集える場所、そういう場所ってのがすごく重要だよなっていう。で、そこでもやっぱり、うちの内の脇っていう場所は、いちばん人が亡くなった、無くなった人の多い地区なんですね。気仙沼の中では。で、どこが誰に生きてるか死んでるかもわかんない状態で、アンカーコーヒーに近所のおばさんたちとかやってきて、「わあ元気だったんだ良かった!」とか、「今どこにいるんだ?」とか、コミュニケーションというか、そういう情報を得る場としてもコーヒーショップ、カフェっていうのはすごく重要なんだと思いました。


震災よって、自身の手掛けるコーヒーショップ、カフェの「役割り」に気づかされた小野寺さん。新しく作ったフラッグシップの「マザーポート店」という名前には、こんな思いが込められています。

◆母なる港、マザーポート
マザーポートっていう名前は「母港」っていう意味ですけど、なんていうかここが母港になってお客様がここにいらっしゃったり、あと我々の母港になればいいなってのもあるし、何よりも優しさとか、母なる港、みたいな、そういう雰囲気ってのはすごく重要だよなって思ってて、それでマザーポートって名前にした感じですね。



真新しいアンカーコーヒーの「マザーポート店」。エントランスには大きな錨のオブジェがあって、木造の店内は落ち着いた雰囲気で、挽きたてのコーヒーの香りが広がっています。気仙沼へ行かれた際は、ぜひ足を運んでください。

また宮城県と岩手県で8店舗を展開。自家焙煎の商品は、オフィシャルサイトで通販もしています。

2016年1月6日

1月5日 気仙沼 アンカーコーヒー2


今週は、気仙沼のコーヒーの名店「アンカーコーヒー」についてお届けしています。
「アンカーコーヒー」は2005年に宮城県気仙沼市でオープン。シアトルスタイルの洗練されたデザインの店舗で自家焙煎の美味しいコーヒーを提供するお店として人気を集めていましたが、東日本大震災による津波で、本店を含む気仙沼市内の2店舗と焙煎工場が流出。去年の春に「マザーポート店」と名付けた本店を再建しました。

「アンカーコーヒー」代表 小野寺靖忠さんに、2011年3月11日、震災当日の話を聞きました。

◆イタリアに届いた悲劇
気仙沼の内の脇という所で育って、内の脇は大川と内湾に挟まれた土地だったので、津波が来ていちばん最初くらいにもまれてしまった町。僕は震災の日の午前10時のローマ行きなので上空だった。10時に飛んだのでシベリア上空とかそのくらいの時間。降りて携帯にスイッチ入れた瞬間にすごい数のメールが入ってきたんです。大津波10メートルなんてのが見えて、「えっ」と思ったら、「気仙沼で」ってのが出てきたんで、「やべえな」っておもったら、うちの嫁さんと姉から一通ずつメールが入ってて、嫁からは「お姉ちゃんを除く家族みんなは避難して無事です」と。お姉ちゃんからは「魚市場の屋上にいます。従業員のみんなは逃げたんだけど、気仙沼とんでもないことになったから、お前はそっちで仕事して、帰ってこなくていいぞ」と。すぐに帰ってきてどうこうできない状況というのがわかったと思うんで、もう稼いで来い!ということでした。よし、じゃ稼ごうと思ったんですけど、一緒に添付されてきた写真が、うちの店の2階まで水浸し、真っ黒い水がそこまで入ってる写真。これはほんとにどうしようもないな、家も無いだろうなっていうのがあったし、だから昼間は向こうでネゴシエーションしている相手の前で、「あー良かったよ、もう35年経ってる家だったしさ!建て替えようと思ってたし、壊す代いらなくなったよ!」みたいな話をしながら、「家族もみんな無事だったし、よかったよかった」なんていう話をしつつ、夜中は泣きながらFacebookとかツイッターで情報取集とか、あとうちの従業員とか元気なのかどうなのか、気仙沼の本当の状態はどうなのか、情報収集して。
あとアリタリア航空がストを起こして、5日後くらいから福島の原発事故で飛ばないって話が出てましたよね。で、アリタリアのカウンターに行って、「分かりませんよ、飛ばないかもしれませんよ」って言ってきたんで、「あのな、おれは気仙沼ってところ出身で、家も無くなったし、うちのコーヒーショップも2店舗無くなったんだ。君たちが積んでいく俺のバックには、子供のための暖かい服とか、食べ物とかがいっぱい入ってんだよ。そういう人を連れていくかもしれないんだって、ちゃんと伝えてくれ。たぶん家がなくなって着るものも食べるものも無くて、気仙沼で寒い中いるんだよ」っていう話をして。そしたら「関空だったら飛ばします。」っていうことで、関空に飛んでもらって、それで気仙沼までなんとか帰ってきたって感じですね。


小野寺さん家族が暮らしていた内の脇という地区は、大川と内湾に挟まれた、「島」のような場所。もしもの時は、道が2本しかなくて渋滞のリスクがある、また歩くと遠い地域の指定避難場所ではなく、急いで大川を渡って、内陸のほうへ避難しようと、家族で決めていた。たまたまあの時間は、お姉さん以外の家族は家にいたので、揃って避難して無事。お姉さんは店の従業員を避難させて、魚市場の上で津波から逃れた、ということでした。

「アンカーコーヒー」の小野寺さんのお話し。明日は、お店の再開に込めた思いについて伺います。
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パーソナリティ 鈴村健一

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