2016年1月12日

1月12日 気仙沼 すがとよ酒店2


気仙沼・鹿折地区で90年以上ご商売を続ける「すがとよ酒店」。
菅原文子さんとご主人、そしてその長男・次男夫婦は震災前、まさに家族総出で、このお店を盛り立てて行こうと動き出したばかりだったと言います。そんな中、気仙沼はあの大震災と津波に襲われました。菅原文子さんは、ご自身の津波体験をこう振り返ります。

◆主人の手を取った瞬間に津波が
津波があったとき私は家にいて、じいちゃんばあちゃんは昼寝の時間で2階にいた。あんな大きな揺れがきてどうしようもないから、息子たちは自分の子供たちの安否を保育園や小学校へ見にいき、主人はご近所や店を見回った。そんなのはいいから早くお父さん2階に上がってよって言った。2階にじいちゃんばあちゃんがいて、逃げるという感覚がなかった。まさかあんな大きな波がくると思わないから2階にいれば大丈夫だろうという考えだった。その時に市の広報で「大津波警報」が出た。大津波という言葉を聞いたことがなかったがどうしようもない。祖父祖母もぱっぱと歩けるわけじゃないし。そのうちに、お父さんはいつまで上がってこないんだろうと思って窓を見たらお店に入ってくるのが見えたので、ああよしよしと思ったが、なかなか上がってこない。うちは2階が玄関なので靴を履いて下に降りて行った。階段の下から5段目くらいに降りたらもうすでに水が来ていた。ふとみたら主人が倉庫からやってきたのだが、水位がどんどんあがり、主人は腿あたりまで来ている水をかき分けるように来たので、早く早くと急かして主人の手を取った瞬間に大きな波が来て、主人は持って行かれてしまった。私も腰から波をかぶり駆け上がって玄関の戸を閉めたが、波が階段を駆け上がるようだったので、屋根に続く階段を上った。振り向きながら、2階に残ったじいちゃんを呼んだのだが、じいちゃんは「早く行け」と言っていて、その姿が最後だった。私は屋根の上で、周りは火の海の中で一晩過ごした。爆発音が聞こえたりしたが幸いにも我が家には火は燃え移らなかった。怖いとも悲しいともなんの感情もなかった。妙に月や星が綺麗だなと思ったりして。次の日の夕方に息子が迎えに来てくれて、「じいちゃん、ばあちゃん、親父は」と聞くので、お母さんしか生きていないと言って・・・。日が落ちる前に一度屋根から降りた時、じいちゃんは2階の窓際で冷たくなっていた。じいちゃんごめんねと言って、こんな状態だからばあちゃんもどこかで亡くなっているのだろうと、すぐに上に上がってしまった。それを息子に告げると、次男は「あした必ず助けに来る」と言ってくれたが、もう私は嫌だ、ここを出ると車を乗り越えたりひっくり返った家の屋根をよじ登ったりして、向こう岸にたどり着いた時には日が暮れていた。次の日の夜明けに、川の上流にある長男の実家に軽トラックで移動・避難したのだが、お嫁さんが「生きていた」と泣いてくれて。絶対この家族から離れるものかと感じた。


気仙沼市を襲った津波は、最大でおよそ20mの高さだったと言われています。
「まさか、そんな大きな津波が来ると思わなかった」「2階にいれば大丈夫だろうと思った」。大変 リアルな証言でした。ただ、そんな状況でも菅原文子さんは、この日から1ヶ月半で、お店を再開させたと言います。あしたも、菅原文子さんのお話をお届けします。

2016年1月12日

1月11日 気仙沼 すがとよ酒店1

今週は、宮城県気仙沼市から、一軒の酒屋さんの「復興」へ向けたストーリーです。

お話を伺ったのは、気仙沼にある「すがとよ酒店」のおかみさん菅原文子さん。
震災と津波で、自宅兼お店は全壊となり、現在は、元のお店から数キロ離れた仮設のプレハブ店舗でご商売を続けています。あの津波で、お店とご家族を失った当時、菅原さんはこんなことを考えたと話します。

◆100年の歴史を持つ町の酒屋
わたくしの店は「すがとよ酒店」という気仙沼市鹿折という町の酒屋さんです。あと4年で100周年。震災で二代目の父と母と、主人を亡くしてしまったんですが、小さなお店だけれどもずっとこれまで先人たちが守ってきた我が家・店をなんとか続けたい、繋げたいと思って。私には息子が3人おりますので、次男は小売店を守るということで仙台から戻ってきました。私たち家族にしたら一大決心だった。あの頃は自分としては正常なつもりではいたんだけど、すごい張り詰めているというかたくさんの人に「頑張って下さい」と言われて、頑張って下さいという言葉に潰されそうでしたね。

 
震災の直前、すがとよ酒店は、文子さんとご主人、ご長男夫婦、さらにお店を守りたいと仙台から戻ってきた次男夫婦で、お店を盛り立てようと動き出したばかりだったと言います。その背景には、個人経営の、いわゆる「地元の酒屋さん」を取り巻く、厳しい環境がありました。

◆マグロ漁船とともに生きてきた
私が嫁に来た当時なんかはマグロ漁船が多かったんです。マグロ船というのは日の良い日に出るんですよ。そういう時は港に何回も配達に行ってね、「祝 大漁」って熨斗紙に書いて船頭さんに缶ビール、お船の皆さんにはお酒2本とかね。大安日の時には熨斗紙を描いても書いても足りないくらい港に運びましたよ。それがだんだんマグロ船がダメになって、そういうこともなくなって。マグロ船が1度出港したら乗組員は飛行機で帰ってきて、船は外地の造船所で修理をしたり点検をしたりと言う時代になったんです。だから港がどんどんマグロ船を相手にした商いも寂しくなってきたの。震災の10年〜15年くらい前はそうでした。それから安売りの量販店ができてどこでもお酒が買えるような状況になって、小売店をやっていくというのは本当に大変なことでした。だからあんまり手に入らないようなお酒を持ってきて売るとか差別化をしてきた。次男を呼び寄せたのもネットとかこれからの商いを考えてのこと。それでさあこれから4人でタッグを組んで成果が見えてきたかなというところで震災になっちゃった。あれから4年8か月が経過して、ご存知のようにどんどん状況が変わって。来年はどうやら地元に帰れそう。鹿折地区にお店を建てて帰られそうですが果たして人のいないところでお店をやっていけるのかと言う新しい問題がある。


あしたも、菅原文子さんのお話をお届けします。
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パーソナリティ 鈴村健一

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