2016年1月14日

1月14日 気仙沼 すがとよ酒店4

気仙沼・鹿折地区、「すがとよ酒店」は、津波の被害を受け、現在は元のお店から数キロ離れたプレハブの仮設店舗でご商売を続けています。

気仙沼では、住宅再建のための土地の造成、災害公営住宅の整備が徐々に進んでおり、すがとよ酒店も、いよいよ新しいお店での再出発が近づいています。すがとよ酒店のおかみさん、菅原文子さんのお話です。

◆「点」が増えて「面」になる
こないだなんか私たちの住んでいた地域が消滅したんです。危険地域で住めないので。90世帯あったんですけど、もともとの鹿折地区に残ったのは3世帯か4世帯。みんな散らばってしまって。地元に帰れそうではありますが、お店を建てたとして果たして人のいないところでやっていけるのかという問題がある。じゃあどうするか。ものを売るだけじゃなく、もっと別の思いを共有できるお店にしたいと思ってね。2階にピアノを置こうとか。6万5000人くらいしかいない気仙沼にはおかげさまで、両国酒造と男山酒造という立派な美味しいお酒を作る酒蔵がある。南部杜氏が品評会で金メダルを取るような良いお酒を造っている。ピアノの生演奏があるようなところでお酒の試飲会をやったり、楽しむ会をやったり、遠方から訪ねてくる方々に気仙沼のいろんなことをご紹介しながら商いができたらね。新たな夢ですね。そういうものをやっていけたらと思うし。ご覧の通りまだまったくかさ上げ工事中のところもあって、橋や道を作ろうと頑張ってはいるが、面でどうぞいらっしゃいと受け入れるのは時間がかかる。点として我が家があったり誰かのお店があったりする。その点がどんどん増えたら面になるから、何年かかるかわからないけど、その「点」として戻ろうとして、その青写真の設計図を造っている最中です。


ただ、鹿折地区に40店舗ほどあった商店街は、廃業や移転が相次ぎ、結局残るのは10店舗程度だそう。立地条件など様々な問題もあると言います。ですから菅原さんは、「経済的な状況もそれぞれ違う。みんなで頑張りましょう
とは言えない」として、商店街から独立してお店を再建することにしたと言います。

また、本来 行政から引き渡される土地では時間がかかるため、お店をいち早く再開できる「別の土地」で、ご商売を再開する予定です。不安を感じながらも、菅原さんは「とにかく、ウチはやるんです」と前を向きます。

◆あの日までの想いを胸に
11月6日に鹿折地区の街の重要なまっすぐな道路があさ6時に開通して、私はその日6時前に行って待っていたの。様々な思いがこみ上げて、工事関係者の見守る中で、まだ朝日も登っていなくて、私も万感の思いだった。これからこの街が新しくなると思って。勝手に「希望の道」と名前をつけてね。本当に嬉しくて。これがこの街の夜明けだと思って。とにかくこの街とともに、もうちょっとでお店も100周年になるし。亡くなったじいちゃんばあちゃん、商店街のみんなもね。商店街でも17人くらい亡くなったかな。私の頭の中にも、息子の頭の中にもあの町はあるのね。だからまた、新しいものだけどあの日までの思いを大切にして、ここでまた再出発だなと思って。おじさんたちにありがとう、道を作ってくれてありがとうって呟きながら走りました。ワクワクドキドキ。でもお客さんくるかな・・・(笑)


菅原さんは、「今年の年末には、もうお店も大丈夫になっているはず」とおっしゃっていました。ゴールデンウィーク過ぎには、土地が引き渡され、お店の再建が始まるということです。



2016年1月13日

1月13日 気仙沼 すがとよ酒店3


気仙沼・鹿折地区、「すがとよ酒店」のおかみさん菅原文子さんは、震災と津波で、夫の豊和さん、そしてそのご両親を失いました。豊和さんはお店の2階へあがろうとする途中で、津波に連れ去られ、そのまま行方不明になってしまいました。

そんな中、文子さんは、ご商売を再開することを決意をしたといいます。

◆酒に託した「負げねえぞ気仙沼」
涙がでなかった。お父さんもじいちゃんもいなくなってどうしていいかわからなかったし、主人が行方不明ということもあって凍りついたようになんの感情もなくどうしていいかわからない状態になってしまった。息子たちは毎日のように「親父を探すんだ」と潰れかけたお店でがれきの中を探したりする毎日だったが、私は自分がこれからどうやって生きていくかを考えて、町も無くなりお得意さんも亡くなった中で、私に別の生きる道なんてあろうはずがないし、これまでやってきたことをやるしかないと考えた。ちょうどその時に息子が「うちのお得意さんが、みんな集まって泣きてえんだ、酒もってこいって言っているけど、お袋どうする?」っていうから、そうだ、なんだかわからないけどやろうと。小さな13坪の土地に3坪のプレハブを置いて、気持ちを切り替えた。そうしたら何も怖いものはなかった。失うものはないし裸一貫でなんでもやれると思った。ゴールデンウィークの頃に、「まげねぇぞ気仙沼」って書いたラベルを張ったお酒を並べたら、どんどんそれが広まって、メディアの人も全国に広めてくれて、全国から発注がくるようになって、泣いている暇もなかった。必死になって働いてね。でも気持ちの中には、お父さんがいない、おとうさんどこいったのと思い続けて、なんとも言えない月日だった。そんな中でご縁があって、大切な人に手紙を書こうという企画をやっているのを勧められた。「あなたの悲しみも手紙に書けばいくらかは悲しみが癒されることがあるんだよ」と勧めてくれた。それでお盆過ぎに主人にむけて手紙を書いたんです。11月に「あなたへ」という恋文が大賞を頂いた。


2011年の11月。菅原文子さんがつづった手紙は、京都の老舗紙問屋が主催する「恋文大賞」で、9000通の応募の中から大賞を受賞。今回、そのお手紙の一部を、ご本人にあらためて朗読して頂きました。

◆「あなたへ」
あなたへ。ひぐらしがうるさい位 鳴いています。きょうは八月二十一日。お盆を過ぎて町は静かになりました。あなたが突然いなくなって五カ月と十日。もう五カ月、まだ五カ月と、とても複雑です。あの日、忘れようにも忘れられない東日本大震災が起きました。あなたは迎えに行った私と手を取り合った瞬間、すさまじい勢いで波にのまれ、わたしの目の前から消えました。あなたは一体どこへ行ってしまったのでしょう。季節の巡りは早く、まもなく涼風が吹いて秋がやってきます。願わくは寒くなる前に、雪の季節が来る前におかえりください。なんとしても帰ってきてください。家族みんなで待っています。わたしはいつものようにお店で待っています。ただただひたすらあなたのおかえり、待っています。
平成23年8月21日 菅原文子  菅原豊和さま


この手紙を書き上げた翌年、2012年6月。夫の豊和さんはご自宅から数分のがれきの下で発見されたということです。また、文子さんがご商売を1か月半で再開できたのは、豊和さんが、最後まで店を守ろうと、お店のシャッターを閉じてくれたことで、お酒が流されず、一部残ったからなんだそうです。

あしたも、菅原文子さんのお話をお届けします。
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パーソナリティ 鈴村健一

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