2016年2月2日
2月2日 1000年先へ伝えたい 南三陸町 「高野会館」2
昨日に引き続き、宮城県南三陸から「高野会館」の保存をめぐる動き、お伝えします。
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南三陸ホテル観洋の関連施設、高野会館は現在、ホテル観洋が企画する被災地の語り部バスツアーのコースになっています。「語り部バス」を運用する、南三陸・ホテル観洋 支配人の小野寺浩さんは、たくさんの方をこの建物に案内して、ここで起きたことを伝え続けています。
![](/cms/thumbnails/a6/a66ba398020afd17c52f7b4d4a47192b.jpg)
![](/cms/thumbnails/a2/a2bc9a46107d33903a505b2b1a92e07d.jpg)
◆327名の命を守った建物として残すことを決めた
当日はこの建物に、お客様としては330名。当然、中でイベントに参加していた方々の他に、ご近所、周囲の方々も避難して上がってきましたね。だから一時的には500人くらいがこの建物に入り込んだ。それぞれ避難された方もいらっしゃいましたけど、翌日の朝に向けてここにいた方、327名とワンちゃん2匹のこの場所で命を守られ、全員が助かった。一人の犠牲者も出さなかった場所なんです。これから時間が経てばたつほど、どうしてそれだけ多くの人が助かったのかということをみんなで考えていかないといけないと思うんですよね。ですから我々はそれを伝えるために、やはり残すべきだと。この建物がずっとあればいろんな形でそれを後世に伝えていくことが、もしかするとしやすくなるのかなという思いはあります。
こうして15メートルとも言われる大津波から多くの命を救った高野会館は、国の予算に頼らず、所有する会社の「自費」で保存されることが決まっています。
そこまでして保存する理由は、この建物がつなげる「記憶」の中に、たくさんの教訓があるからです。屋上へ避難した人たちの厳しい環境や、その中での助け合いについて、小野寺さんはこう語ります。
![](/cms/thumbnails/53/53cbc72f35e3ba812fda0fab15c68725.jpg)
![](/cms/thumbnails/01/01bc7a92d6568ba14b29e0689b91a2e8.jpg)
◆助け合いの中で1晩過ごした
まずこの建物は備蓄ですとか非常用設備を整えておりました。実は各フロアに、飲み水や食料などを備えておりました。ところが3階までにあったものは全部流されましたから、この屋上に残されたほんの数本、一部が残っておりました。それをその夜300人で、500mlのペットボトルを、50人から80人に1本が分けられた。キャップに1杯ですよ。それを分け合って飲んで喉の渇きをしのいだんですね。そうやって本当にみんなで協力しあって助け合ったんです。それから、ほとんどが演芸大会に参加した高齢者でしたが、若い方々、周りから避難してきた方も含めて、中には高校生もいたそうですが、そういった方々が非常にみんなのお世話をした。みんなでできる限り、限られたスペースの隙間を塞いでいたそう。高校生なんかは一晩中、震えているおじいさんおばあさんが寒くならないように隙間を手で塞いだそうです。そういったこともされたそうですし、あとはどうしても、327名が守られたと言いましたけど、数名の方がそれぞれで避難したんですね。実際わかっている限りでは4名の方がそれぞれのご自宅に帰られたそうです。ご自宅は今までの地震や津波で一度も被害がなかったので、「家にいれば安心だ」と思ってみんな帰ったんですね。結果的にその4名は全員津波で流されました。今まで大丈夫だったことは、全然大丈夫じゃない、安全でもなかった。今回はことごとくいろんな場面でそれが見られました。だから絶対に忘れることはできない。今回のことを風化させるわけにはいかないんですね。余計にね、830名の方の無念を思いますとね、やっぱりやるべきことは、我々生き残った者、町民の方も含めて使命として、必然的に与えられた役割。それをやっていかなくちゃいけない。子供や孫につなげていく、それより先にもつなげていくだけだと思います。
東日本大震災による、南三陸町の死者は620人。そして212人が、未だ行方不明のままとなっています。
ホテル観洋 震災を風化させないための「語り部バス」
あしたも、高野会館の保存を巡る南三陸のいまをお伝えします。
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南三陸ホテル観洋の関連施設、高野会館は現在、ホテル観洋が企画する被災地の語り部バスツアーのコースになっています。「語り部バス」を運用する、南三陸・ホテル観洋 支配人の小野寺浩さんは、たくさんの方をこの建物に案内して、ここで起きたことを伝え続けています。
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◆327名の命を守った建物として残すことを決めた
当日はこの建物に、お客様としては330名。当然、中でイベントに参加していた方々の他に、ご近所、周囲の方々も避難して上がってきましたね。だから一時的には500人くらいがこの建物に入り込んだ。それぞれ避難された方もいらっしゃいましたけど、翌日の朝に向けてここにいた方、327名とワンちゃん2匹のこの場所で命を守られ、全員が助かった。一人の犠牲者も出さなかった場所なんです。これから時間が経てばたつほど、どうしてそれだけ多くの人が助かったのかということをみんなで考えていかないといけないと思うんですよね。ですから我々はそれを伝えるために、やはり残すべきだと。この建物がずっとあればいろんな形でそれを後世に伝えていくことが、もしかするとしやすくなるのかなという思いはあります。
こうして15メートルとも言われる大津波から多くの命を救った高野会館は、国の予算に頼らず、所有する会社の「自費」で保存されることが決まっています。
そこまでして保存する理由は、この建物がつなげる「記憶」の中に、たくさんの教訓があるからです。屋上へ避難した人たちの厳しい環境や、その中での助け合いについて、小野寺さんはこう語ります。
![](/cms/thumbnails/53/53cbc72f35e3ba812fda0fab15c68725.jpg)
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◆助け合いの中で1晩過ごした
まずこの建物は備蓄ですとか非常用設備を整えておりました。実は各フロアに、飲み水や食料などを備えておりました。ところが3階までにあったものは全部流されましたから、この屋上に残されたほんの数本、一部が残っておりました。それをその夜300人で、500mlのペットボトルを、50人から80人に1本が分けられた。キャップに1杯ですよ。それを分け合って飲んで喉の渇きをしのいだんですね。そうやって本当にみんなで協力しあって助け合ったんです。それから、ほとんどが演芸大会に参加した高齢者でしたが、若い方々、周りから避難してきた方も含めて、中には高校生もいたそうですが、そういった方々が非常にみんなのお世話をした。みんなでできる限り、限られたスペースの隙間を塞いでいたそう。高校生なんかは一晩中、震えているおじいさんおばあさんが寒くならないように隙間を手で塞いだそうです。そういったこともされたそうですし、あとはどうしても、327名が守られたと言いましたけど、数名の方がそれぞれで避難したんですね。実際わかっている限りでは4名の方がそれぞれのご自宅に帰られたそうです。ご自宅は今までの地震や津波で一度も被害がなかったので、「家にいれば安心だ」と思ってみんな帰ったんですね。結果的にその4名は全員津波で流されました。今まで大丈夫だったことは、全然大丈夫じゃない、安全でもなかった。今回はことごとくいろんな場面でそれが見られました。だから絶対に忘れることはできない。今回のことを風化させるわけにはいかないんですね。余計にね、830名の方の無念を思いますとね、やっぱりやるべきことは、我々生き残った者、町民の方も含めて使命として、必然的に与えられた役割。それをやっていかなくちゃいけない。子供や孫につなげていく、それより先にもつなげていくだけだと思います。
東日本大震災による、南三陸町の死者は620人。そして212人が、未だ行方不明のままとなっています。
ホテル観洋 震災を風化させないための「語り部バス」
あしたも、高野会館の保存を巡る南三陸のいまをお伝えします。
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