2016年2月4日
2月4日 1000年先へ伝えたい 南三陸町 「高野会館」4
屋上に避難した327人全員の命を救った、南三陸ホテル観洋の関連施設、結婚式場の「高野会館」。その建物は所有する会社の「自費」で保存され、今後もホテル観洋の語り部バスツアーのコースとして、震災を伝える役割を果たします。
その一方、いま南三陸町はかさ上げ工事の真っ只中です。いたるところに見上げるほど大きな盛り土があり、前回来た時と様子は激変していました。「朝、通った道が、夜には別の迂回路に変わっている」こともあるそう。
語り部バスを運営する、ホテル観洋・支配人の小野寺浩さんの話です。
◆地域全体を10m上げる
ちょうどいま、こういうような姿。土が盛られているような形になっています。平均しますと10.6m、部分的には20mを超えるところはありますけれども、簡単にお話すればこの地域全体を10−10.6mの高さに土を盛ってならして、それから次に建物が作られるという段階に移る。住居としてはもっと高台の方に、大きく三か所に分けられるよう造成中だが、それも来年なのか再来年なのか、相変わらず遅れている。まだまだ時間はかかるばかりという状況ですね。
そして、これから大きく変わる町で、残されることになるのが今回お伝えしている高野会館ともう一つ。最後まで津波のアナウンスを続け、職員43人が命を落とした南三陸町の防災対策庁舎です。
◆100年後、ここから南三陸の街を見る
防災庁舎は長い間、解体するか残すかの議論がされておりましたが、方向性としては今後20年間、2031年まで残して解体はしない。その20年の間に、その先をどうするかを決めましょうということなんですね。今は色んな方の想いがあります。すぐ壊してほしい、残すべきだという方々。いろんな思いがありますから一概には決められない。ただ時間が立てば色んな状況が変わります。人の心も気持ちも変わる。そういった中で、みんなでもう一回、一番良い形で話し合いながら結論を出していきましょうと。それがこれからの20年ですね。それと合わせて高野会館は民間ベースですから、どういった形で残すかは問われるところですが、我々が現在やっている語り部バスの巡行と合わせて、やはり語り継ぐしかないです。それを使命としてやらせて頂いていますので、一人でも多くの方、大勢の方に話していく。
来て頂いて実際の場所を観て頂くであるのが高野会館。そしてここから50年後、100年後に出来上がっている南三陸町を、この場所から見て頂く。2011年の場所から50年後、100年後の南三陸町を見て頂く。もしかするとそれが必要なことだと思うし、それが一番分かりやすいことなのかなと思いますね。そう考えると、50年、100年、200年が繋がってしまうんですね。
昔の話だからとか、そういった話ではないです。そういうことが、風化させない・次に繋いでいくということになると思う。未来の子どもたちに。来年や再来年ではなく100年後を見据えて。
ましてや今回は1000年に1度の震災と言われていますから。まさに1000年後まで同じことが繰り返されないようにしないといけないわけですよね。正直申し上げて非常に、現実問題として高野会館を維持するのは厳しいです。でもそれはやらなければいけないんだなと。我々ができることとしてやるんだなと考えていますね。
今日は、津波から300人以上の命を救った、宮城県南三陸町の「高野会館」についてお伝えしました。
報道でもよく伝えられる、骨組みだけとなった南三陸の防災庁舎。いまも訪れる人が花を手向ける様子が後を絶ちません。こちらは国の復興予算がつくことで、20年間の保存が決まっています。ただ、震災遺構に予算がつくのは一か所だけ。そのため高野会館は、所有する会社がお金を出すことで保存されることになります。
ホテル観洋 震災を風化させないための「語り部バス」