2016年3月2日

3月2日 宮城県女川町 梅丸新聞店3


女川町の新聞販売所、梅丸新聞店の阿部喜英さんは津波の数週間後には新聞配達を再開。被災直後の女川で、大切なライフラインとしての「情報」を町の人たちに、届け続けました。

現在、阿部さんは 女川の町民主体の町づくりのメンバーとして町のために、力を注いでいます。

◆町づくりに関わる理由
去年の12月23日に「町びらき・冬」ということで、駅前商業エリアに関しては第二段階の町びらきを迎えたんですけど、あの花火は感動でしたね。花火も感動でしたけど、ここに再び人が集うという場をどう作るかというのに汗をかいてきた5年だったので、たくさんの町民の方が花火を見に集まってきてくれた姿を見て、たくさん人がいるのを見て、もう泣けましたね。やっとここまで来たって。みなさん本当に笑顔で嬉しそうに花火を観ていましたからね。亡くなったみなさんだって、次の世代にどう繋いでいくかをお考えになっていた方もたくさんいらっしゃるはずですから、そういう町が作られつつあるんだよっていう。みんながまた戻ってこれる場所ができているんだよっていうのを見て頂けるようにしていかなきゃなって思っていますね。私自身がいま役職王(笑)自分で言うのも変ですけど。商工会の理事をやっていて観光協会の副会長もやっているんです。さらに須田町長就任後には女川町の教育委員会の教育委員にもなっておりますし、こういった役職って震災がなければ私はやっていないんですよ。なぜかといえば全てやっていらっしゃる人がいますから。それが震災で亡くなられたんですよね。欠員になったところに全部入った形ですから、そういった立場でやっていた方々がどういう役割をしていたかを、私が引き受けた以上は、その想いも引き受けなきゃいけないと思ってやっていますので。


阿部さんが経営する「梅丸新聞店」。この「梅丸」は元々、船の名前。漁師の屋号なんです。阿部さんのおじいさんは、元々遠洋漁業の漁師さん。大漁旗をはためかせ、海へ出ていくおじいさんの船を、幼い頃の阿部さんは、よく見送っていたのだそうです。それが、漁師町・女川の人々が想う、町の原風景だと言います。

◆大漁旗、獅子舞、太鼓の音が帰ってくる日
震災前は毎年7月の最終土日に女川みなとまつりというお祭りが。町人にとっては心の拠り所になるようなお祭りで。各浜にある舟に大漁旗を装飾して、浜ごとに太鼓や獅子舞があって、それぞれ太鼓のリズムも獅子舞も違う文化なんですよ。それが船の上で太鼓を叩きながら獅子を待って、そして一斉に沖合から船で女川湾の岸壁までぐーっとやってくる。みなとまつりの復活というのはまだ先になってしまうんですよね。女川の開眼の前のエリアは一番最後に整備が終わるので、みなとまつりで花火を上げるのはもう少し先になってしまいます。その間は町としては、花火は女川のシンボルでも有りますから去年はクリスマス・イブに上げたと。みなさんご覧になられて喜んでいたので、もしかすると今年のクリスマスイブもやるのかなと思っています。


阿部喜英さんの体験をモデルにした、「失われた命」と「生きている命」を描き出すラジオドラマ、Date fm(エフエム仙台)・TOKYO FM共同制作
『ライターのつぶやき〜河北新報の5年〜』

3月6日(日) 19:00〜19:55 TOKYO FMをはじめとするJFN38局ネットでお送りします。(※FM沖縄のみ、同日21:00〜21:55放送)
★『ライターのつぶやき〜河北新報の5年』サイト


2016年3月1日

3月1日 宮城県女川町 梅丸新聞店2

今朝も、震災直後の宮城県女川町で、命をつなぐ情報源「新聞」を配り続けた一軒の新聞店について、お伝えしています。

女川町の梅丸新聞店・阿部喜英さん。おじいさんの代からおよそ80年、女川の人々に新聞を配り続けている方です。
町を襲った17mとも言われる津波は、阿部さんの新聞販売店を飲み込みました。それでも阿部さんは、数日後には配達を再開したと言います。そのきっかけは、震災直後の避難所で思いがけず目にした「壁新聞」でした。

◆俺が持ってこなかったら誰も新聞を持ってこれない
女川町の総合体育館。3000名近くの方が避難されていた場所ですね。2日後に長男を女川第一中学校に迎えに行ったんですね。その足でこちらの総合体育館の方にも様子を見に来たんです。たくさんの方が避難されていると聞いていたので。そしたら体育館の入り口のところに新聞が貼ってありまして。俺、届けたわけじゃないのにどうしたのかなと思ったら、どうやら自衛隊か警察の方が持ってきたものを入り口のところに壁新聞のように河北新報がだーっと貼ってあったんです。それを避難者の方が食い入るように見ていまして。それを観た時に、情報は食料や水道や電気と同じインフラだというのを痛感しまして。女川町の河北新報を家は扱っていましたので、俺が持ってこなかったら誰も新聞を持ってこれないわけですよね。それでやらなきゃいけないなという思いになったのは確かです。そして隣の石巻市の鹿又の新聞屋さんまで新聞を取りに行って、3月12日、13日、14日の3日間の朝刊を頂いて、それを災害対策本部や避難所に数部ずつ配ることから始めました。やはり食い入るように一文字一文字みなさん確認するようにご覧になられていた記憶はありますね。


阿部さんはこの時、電気も通じない状況で、情報源としての「紙の新聞」の強さを痛感したと言います。そして情報を求めている女川の人たちのため、行動に移ったんです。

◆生まれて初めての「ありがとう」
戸別配達分の再開をどのタイミングでやるか。2週間ほどかけて家の残ったエリア、ほぼすべて1軒ずつ訪問して購読の意思を確認して、意思の確認ができたところから徐々に配達を再開しました。本当にその時は読者の皆様から感謝の言葉しか頂かなかった。「届けてくれてありがとう」と。生まれ始めて、小学校の頃から新聞配達をしていますけど、ありがとうと言われたのは本当に初めての経験でした。私からすれば2週間届けられなかったわけですから、逆に家が残ったエリアほどそういう情報から外れていたわけなんですよ。新聞読みたい、細かい情報を知りたいと思っても避難所の築は遠いんですよね。だからこそ申し訳なかったかなと言う想いでいっぱいでした。ありがとうと言われるのがおこがましいというか、申し訳なかったです。嬉しかったですけど。この選択は間違っていなかった、やってよかったと本当に思いましたね。


女川は町の8割が壊滅した地域。阿部さんは女川で新聞店を再開するか、お店を諦めほかの地域へ移るか、選択に迫られたそう。ただ、残りの2割の人が新聞を求めているなら新聞店の経営は成り立つと考え、また、お子さんの「女川に残りたい」という気持ちを受けて新聞店の再開を決意したということです。この続きは、明日のこの時間にお伝えします。

阿部喜英さんの体験をモデルにした、「失われた命」と「生きている命」を描き出すラジオドラマ、Date fm(エフエム仙台)・TOKYO FM共同制作
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3月6日(日) 19:00〜19:55 TOKYO FMをはじめとするJFN38局ネットでお送りします。(※FM沖縄のみ、同日21:00〜21:55放送)
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パーソナリティ 鈴村健一

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