2016年3月10日

3月10日 福島県浪江町 請戸の田植え踊り2

まもなく震災からまる5年。LOVE&HOPEは被災地の今を改めてお伝えする特別番組『LOVE&HOPEスペシャル』を3月11日に放送します。まる5年という時間の経過は貴方にとってどんな意味を持つものだったのでしょう。そして被災地で生きる人々にとっては・・・。「節目」のこの日に、改めてあの震災を振り返り、5年が経過した「いま」を被災地と共有する特別番組です。
LOVE&HOPEスペシャル特設サイトはこちら
*****

高橋 請戸地区に300年前から伝わる『田植え踊り』。毎年2月末に、豊作を神様に祈り、家々を回るこの踊りは、請戸の人々にとって、春の訪れを知る大切な営みの一つです。ただ現在、請戸地区は原発事故による避難指示が継続中です。田植え踊りも年に1度、十数人の有志メンバーが集まり、住民の多くが避難する仮設住宅で披露する形になっています。

お話を聞いた横山和佳奈さんは、伝統を失いたくない、という想いから田植え踊りを続けていますが、彼女が高校に通い、日常生活を送っているのは、請戸から遠く離れた郡山市です。

◆自分はどっちの人間なんだろう
郡山に請戸の子がいないので、本当に会えなかった。中学校の時に一番つらかったのが、現在の生活と過去の生活があって、自分はどっちの人間なんだろうという揺らいだり。いっそ過去が断ち切れればいいのにという気持ちはありました。いっそ切ってしまえばと思った時期も。中学2年の時に、周りは小学校の想い出話ができる。「なになに小学校には誰々がいたよね」とか。でも私はそこに入れない。何を言っているのかなって。お店の名前を言われても「え、どこそれ」って。親しくない子に実は浪江の子なんだと言う必要もないし、自分の過去を気軽に話せない。どうせ言っても分からないし。ひかれることはないだろうけど距離が開いちゃうんじゃないかと言う不安もあったりして、未だ高校生で私が浪江出身だと知っている子はあまりいないと思います。だから田植え踊りをやっていなければ、請戸を考えることもないし、踊りなんかやめちゃえば楽なのに、それさえなければ郡山人としてやっていけるのに・・・って。守っていかなきゃとか伝統を意識し始めたのは、そういう葛藤をする前で、私は「伝統が途切れないために師匠になりたい」とぽろっと言っちゃって、それが中学生の私には重くて。でもやめられないし、ということでつぶされかけたことはあります。


「つぶされかけるほど、悩んだ」という和佳奈さんは、その後、高校2年生の授業で『伝えるということ』という作文を書いています。田植え踊りの担い手として、悩みぬいた今の気持ちを書いたもの。その中では…『もう一度踊らないか』と声をかけてくれた田植え踊りの保存会の方、そして支援してくれた様々な人への感謝の言葉が綴られ、「この踊りを、いまいる数少ない後輩に伝え、自分も関わっていきたい…」という決意も、書かれています。

◆請戸で踊れる日
請戸で踊りたいというのは私だけじゃなく、保存会全員の願いでもあるので、一番躍り出目指すべきは底かな、地元で踊れるようにする。できれば神社が良いけど、とりあえず請戸で踊れればいいかなと言うのが最終目標という感じですね。あそこに住めることは無いと思います。帰りたいかと問われると、でも自分の家だったところ帰れないしなというのはありますね。請戸はどうなるの、せめて神社は建ててほしい学校はつぶさないでほしいとか。瓦礫が一か所にまとめられているので減ったというか、そのへんにはないけど、船は全部壊しちゃってない。前に行った時にっちょうど船を壊していて、それが心が痛かった。もちろん邪魔だから壊すのは仕方ないけど、船の下の部分をクレーンで切ってバラバラにするんですけど、それをみて悲しくなっちゃいましたね。それは津波のまんまになっているのはおかしな話だけど、そのまんまの請戸が好きだったのでちょっと心がついていかない。新しくなってきているのが受け入れられない自分がいますね。


和佳奈さんのように、福島から原発事故で県内外に避難した福島県から、県内外に避難した18歳未満の子供の数はおよそ2万人。住民票をすでに移したケースも多く、数はもっと多いと考えられています。子どもたちが「帰らない」「帰ることができない」。郷土芸能だけでなく、将来の町そのものの担い手がいなくなることが、懸念されています。

2016年3月9日

3月9日 福島県浪江町 請戸の田植え踊り1

今朝は、福島県浪江町の沿岸部、請戸地区に伝わる、郷土芸能の「担い手」の声をお伝えします。

取材したのは、請戸地区に300年前から伝わる『田植え踊り』です。毎年2月末に、豊作を神様に祈って行われる恒例行事。花笠に昔の着物衣装を来た小さな女の子が踊る愛らしい姿は、請戸の人々にとって、春の到来を告げる大切な営みの一つでした。

ただ、請戸地区は、福島第一原発から直線距離で6キロにあり、住民はいまも生まれ育った土地を離れ、避難生活を続けています。そんな状況の中、地域のつながりを消さないために、毎年2月末に、請戸の人々が暮らす福島市の仮設住宅で踊りが披露されています。

◆請戸の人々に笑顔になってほしい
〜今日のお祭で田植え踊りを奉納されていましたが、どんな気持ちで踊りましたか。
横山「一番はみんなに笑顔になってもらいたい。以前は踊って下さる方から、歌って下さる方からいっぱいいて、でも5年経つと仮設の中の人もどんどん減っていってしまうのでそれが嬉しい反面、悲しいとも思います。
〜でも踊りをすると請戸の人たちが集まる機会になるんですか。
横山「踊りに来ないと逢えないおじいちゃんおばあちゃんもいるので良い機会だと思います。嬉しいです。」
(※聞き手:高橋万里恵)


お話を聞いたのは、この踊りの担い手の一人、横山和佳奈さん。いま17歳の彼女も、故郷を離れ郡山市でご家族と暮らしています。郡山のご自宅でお話伺いました。

◆祖父母を失った実感がないんです
(写真を見ながら)この辺は堤防があったところ・・・本当にベランダからパッと見てすぐの風景なので本当にどれほど海に近かったかが本当に分かる写真です。これが請戸漁港。港があってすぐ海で、夕方にはこの辺に綺麗に夕日が沈むのですごくきれいでした。家の敷地内に仕事場があって、そこで祖父が仕事をしていて、小さな船みたいのがあって、そこに自転車が入っていたり黒板があったので落書きしたりとか(笑)。祖父の仕事場は頻繁に行っていました。あとは鮭をもらうとそれを捌いて中のイクラを取り出したり、台所で刺身も捌いていたし。本当に海の男みたいな感じでしたね。でも祖父母が死んだという実感が無いんですよ。なんでだろう。たぶん請戸の家に住んでいればそこの空間に二人がいなくて、「ああ・・・」と思うんだけど、こっち(郡山)にきて四人で住んでいるので。祖父祖母は別の家に住んでいるみたいな感覚が勝って、どうしても死を受け入れていない。遺体も見ていない。私が最後に自分の家を観たのが11日の朝。震災があって12日の朝に両親と弟があって、ちょっとほっとしたのがつかの間浪江町から出なさいと言われて、そこから避難所を何度か転々として12日の夜中に、もうダメだということで郡山へ。でも私は年齢的に浪江町に入れないので、実際に震災後の我が家を観たのが中三の春休み。未だに許可証が無いと入れないのでおかしな話だなと思います。


和佳奈さんが震災を経験したのは小学校の卒業式を迎えた3月のこと。祖父母を津波で失い、自宅は津波で流され、避難先を転々としたのち、中学の時に、郡山の新しい自宅で生活再建をしています。

田植え踊りを始めたのは小学4年の時。震災と原発事故で、田植え踊りの衣装も神社も失ったあとも、大好きだった踊りのことが忘れられなかったといいます。そして、保存会などの呼びかけて、田植え踊りを再開する機会を得てその後は、毎年2月に踊りを披露しています。  

そんな和佳奈さん、故郷を離れての生活と、踊りの担い手としての想いの「はざま」で悩んだこともあると言います。その辛い想いについては明日お伝えします。

*****
まもなく震災からまる5年。LOVE&HOPEはこうした被災地の今を改めてお伝えする特別番組『LOVE&HOPEスペシャル』を3月11日に放送します。まる5年という時間の経過は貴方にとってどんな意味を持つものだったのでしょう。そして被災地で生きる人々にとっては・・・。「節目」のこの日に、改めてあの震災を振り返り、5年が経過した「いま」を被災地と共有する特別番組です。
LOVE&HOPEスペシャル特設サイトはこちら
«前の記事へ || 1 | 2 | 3 |...| 503 | 504 | 505 |...| 1066 | 1067 | 1068 || 次の記事へ»

パーソナリティ 鈴村健一

メッセージ、ご意見、プレゼントご応募はこちら

特別番組 LOVE & HOPE ~10年目の春だより

TOKYO FM 特別番組 HANABI

「LOVE&HOPE~防災ハンドブック2015」PDF版ダウンロード配信中

アーカイブ

  • いのちの森
  • Support Our Kid's
  • TOKYO FM
  • JFN