2016年3月17日

3月17日 釜石高校エースピッチャー、岩間大さん1

今朝は、20日に開幕する春のセンバツ高校野球に、21位世紀枠で出場する、岩手県立釜石高校のエースピッチャー、岩間大さんへのインタビューをお届けします。岩間くんは、釜石市の隣、大槌町の出身。震災による津波で岩間くんのお母さん、成子さんはいまだ行方不明のままです。

釜石高校は今回、釜石南校時代以来20年ぶりの甲子園出場を決めました。釜石市そして大槌町の皆さんにとって嬉しいニュースとなったのではないでしょうか。その原動力となったのが、去年の県大会、そして東北大会を一人で投げぬいたエースの岩間くん。まずはそんな岩間くんの、野球との出会いについて聴いてみました。

◆甲子園に対する憧れ
小学校一年の最初からです。兄が野球をやっていたので自分もそこに行ってみようという気持ちで入っていきました。最初は遊んでみるみたいな感じだったんですけど、高学年になって試合に出るにつれて、負けると悔しくて、それは今もあるんですけど、そういう部分で技術も上がったんですけど、気持ちも強くなってきたと思います。小学校5年の時に、菊池雄星さんの花巻東が甲子園で活躍して、それを見てすごいなと思いましたし、甲子園に対する憧れだったり、高校野球で活躍する憧れを持ちましたので、今でも尊敬しています。中学校1年の時は負けてばっかりだったんですけど、2年からは徐々に成果が出始めて、中2の後半と中3は県大会上位のチームと接戦だったり延長戦まで行ったりするっていうのが結構あったので、成長を感じました。中学校の頃はスライダーでバンバン三振を狙ってたんですけど、高校になって三振を取ることが難しくなってきたので、自分は打たせて獲ることと、あと私立と比べて変化も急速もぜんぜんたいしたことないので、気持ちだけは負けないように、っていうことで投げています。


岩間くんに影響を与えた2つ上のお兄さんも、小・中・高と野球部一筋で、小学生頃はエース、高校でもキャプテンを務めていたそうで、岩間くんはその背中を追いかけてここまで来ました。兄弟が過ごしたのは、大槌町の赤浜(あかはま)地区。どんな町だったのでしょうか?

◆大槌・赤浜の気質
僕の住んでた赤浜は、海も山も、自然豊かで、そして何より地域どうしというか人とのつながりがとてもあって、住んでて心が温まる町です。全員が一体となって行事だったり、スポーツに関しても熱が強くて、子供がスポーツを頑張るのは当たり前だと思うんですけど、それに親たちも本気で応援してくれるというか一体となって取り組む姿がいちばんいいと思います。赤浜っていうのは気が強いし、そういう血があるので、やっぱ応援もすごかったです。赤浜の人たちは何にしても自分たちでなんとかしようっていうのが強くて、震災直後もそうですし、あと自分が鮮明に覚えているのは、野球もそうなんですけど、水泳記録会だったり陸上記録会だったりが釜石大槌地区であるんですけど、その時ほかの学校の親たちはただ見てるだけなんですけど、赤浜の親だけは応援歌作ったり全員で旗を作ったり、立ち上がって応援してたのが印象的で、すごいなって思います。


そんな赤浜を襲った東日本大震災。当時岩間くんは小学6年生でした。

◆赤浜の全部が海になってる
卒業式を間近に控えていたので、体育館で練習をしていた時に大きな揺れが来たので校庭に避難したんですけど、なんか避難所ってなってる割には海からすぐ近くて、で一瞬にして波が来たので。水門を波が越えたのが見えたんですけど、その波が見えたのとほぼ同時に学校の柵を壊しながら波が来たので、全員で山に逃げました。大きな地震が来たら津波が来るってのは有りましたし、毎年3月3日には避難訓練をしてましたし、そういう教訓は有りました。自分は正直、津波なんて見たことないですし、じっさい来るって誰も思ってなかったと思うんで自分もそうでしたし、まさかあんなに大きなのが来るとは思ってなかったんで逃げるのに夢中でした。山に登って、赤浜の全部が海になってるっていうか、全部が海と化しているっていう感じでした。その山のところにおばあさんが一人住んでたんですけど、そのおばあさんがすごいいい人で泊めてくれました。次の日、朝になって降りてみたんですけど、すごい光景が広がってて、今まで住んでた町が無くなってるというか、何も無くなって瓦礫だけが残ってるというか。家は水門のすぐ前にあったので全壊です。水門も飛ばされて、いつも見てた大きな門が転がってたりとか、そういうのがありました。


避難場所に指定されていた岩間くんの通う赤浜小学校も津波に呑まれ、町民が命を落としています。岩間くんの自宅も全壊。お母さんはいまも行方不明のままとなっています。

明日は、津波で行方不明となったお母さん、そして甲子園への思いについて、伺います。

2016年3月16日

3月16日 福島県出身の音大生が奏でる「奇跡のピアノ」2

福島県出身の音大生が奏でる「奇跡のピアノ」です。

東日本大震災の津波被害に遭いながら、調律師、遠藤洋さんの懸命な修復作業によってよみがえった、福島県いわき市の「奇跡のピアノ」。今回東京の百貨店で、この「奇跡のピアノ」によるミニコンサートが行われました。

演奏したのは、福島県出身の現役音大生、フルートの遠藤優衣さんとピアノの篠原聖華さんの二人です。
ピアノの篠原さんは福島県浪江町の出身。震災翌日から避難先を転々とし、現在は埼玉県内で避難生活を送っています。慣れ親しんだ自宅のピアノも浪江町に置き去りにしたままです。

◆同級生からの声を後押しに
地震当時は卒業式で、先輩たちの卒業式が終わったあと、わたしは初めてのピアノの全国大会が控えていたので、ピアノの先生のところで練習をしていました。自宅はライフラインはしっかりしていたので生活はできたが、震災翌日福島第一原発の爆発のニュースを見て、家族で避難しようということになり、避難しました。地震の後は避難所などではピアノを弾くことはできなくて、埼玉県に避難してきたときに全国大会も控えていたので、母がもともと習っていたところにピアノの練習をさせてくださいとお願いし、練習をさせてもらいました。震災後だいたい1週間ピアノの触ることができなくて、1週間ぶりに弾いたときに、自分では指が動かなくてすごく悔しかったけど、自分の指が音を出している喜びがすごくあって。その後進路も考えなければいけなくて、音楽を続けるかずっと考えていたが、被災した自分だからこそ伝えらえることもあると思って。同じ世代で夢をあきらめてしまった子もたくさんいる中で、自分だけが夢を追いかけていいのかという気持ちもあったが、想いを伝えらえるような演奏家になれたらいいなと思って(音楽大学への進学を)決めました。
浪江中学校で合唱の伴奏をしたときに、同級生などから、わたしのピアノ伴奏だと歌いやすいと言ってもらったのが支えになったので、彼らにも恩返しがしたい。わたしが頑張っているのを見て「負けてられないや」と思ってくれて、頑張るきっかけになったらと思います。


震災後、一時はピアニストの夢をあきらめた篠原さんですが、支援団体によるピアノの寄贈を受けて、昨年の春都内の音楽大学に進学。いまは演奏家になる夢を叶えるため、ピアノ漬けの毎日を送っています。そんな篠原さんが今回ミニコンサートで演奏したのが福島県いわき市豊間中学校の「奇跡のピアノ」です。

◆生き抜いた力強さを感じられる
津波で流されたピアノで、(調律師の)遠藤さんの力を借りてよみがえったピアノなので、その分生き抜いてきたというか、力強さがあるし、いろんな人の思いが詰まったピアノなんだなと、音色の柔らかさも感じたピアノだった。これからもこういう機会があったら参加させていただきたいし、震災を経験した中でちょっとでも前向きに進んでいる一人として活動していけたらと思う。


浪江町ではいまも全町民避難が続き、帰還の目途は立っていません。
篠原さんは、いつか故郷で演奏会ができる日を夢見て、ピアニストの道を目指しています。

「奇跡のピアノ」は今後も、震災復興を目的としたイベントやコンサートなどで使用される予定です。
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パーソナリティ 鈴村健一

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