2016年3月30日

3月29日 小さな命の意味を考える会・佐藤敏郎さん2

今週は、宮城県石巻市出身、「小さな命の意味を考える会」の代表、佐藤敏郎さんのインタビューです。

佐藤さんは、宮城県内の中学校で長年国語の教師として教鞭をとり、東日本大震災当日は勤務先の女川第一中学校で被災。俳句づくりの授業などを通して、震災を経験した子どもたちの姿を見守ってきました。

大災害の記憶を自分なりに受け止め、行動を始めた子どもたち。その一つが「いのちの石碑」です。

◆いのちの石碑「ありがとう、声が聞こえる空の上」
俳句の取り組みもそうだが、女川の子たちは現実と向き合って、「いま私たちはこういう状態なのか」と受け止め、次に進み始めた。当時の中学1年生を中心として、「もう二度とこの悲しみを繰り返さない」「津波に負けないまちづくりをしよう」と、本当に自然発生的に始めた。特に大きく動いたのが、石碑をつくろうという動き。女川は海の町だから、津波を伝える大昔の石碑があった。でも、達筆すぎて読めなかったり、移動させられていたりしていることを子どもたちがすべて調べてきた。そこで、自分たちでつくりなおすことにした。女川には塚浜・横浦浜・浦宿浜など、津波が到達した浜が21箇所ある。だから、21個の石碑をつくろうという、子どもならではのプロジェクトが生まれたた。彼らは本気で、あるときその話し合いに石屋さんを呼んできて、「こういう計画を立てたのですけれど、いくらかかりますか?」と聞いたす。すると石屋さんは感激して、「制作費は1,000万円かかりますが、石は無料にします」といってくれた。おそらく大人でしたら諦めるだろうが、子どもたちは「では、募金を始めます」と宣言して修学旅行でもずっと募金をし、プレゼンをして、地元でも発信をして半年で1,000万円を集めた。
俳句づくりは半年に1回、ずっと行われていたが、そのときの俳句が「ありがとう、声が聞こえる空の上」。「きっと空に逝った人たちは、『がんばったな、ありがとう』といっているよね」と、町民の方々と話していたのを思い出す。
いまその石碑は21個のうち10個が建っている。お金は集まっているので、場所が決まり次第、成人式までには全部建てるのだと話している。いまは高校生だが、他にも「いのちの教科書」をつくろうと活動したり、本当に子どもたちだけでいろいろなことを続けている。
この前、県外に呼ばれ、そちらの子どもたちと交流したときに彼らは、「3・11は私たちの足かせにならなかった。生きる指針になった」と言った。あの津波がきたせいで「これができなかった」「あれができなかった」と嘆くのではなく、それを力強さに変えていった。そして取材に来た方々に「女川の誇りはなんですか?」と聞かれ、「美しい海です」と即答していた。そういい切る姿はまぶしいくらいだった。「このつらさや悲しみを繰り返さない。いまは震災後ではない、次の震災前なのだ」というのが彼らの言葉だが、下手な大人よりも純粋に、そういう考え方に向かっていった気がする。

2016年3月28日

3月28日 小さな命の意味を考える会・佐藤敏郎さん1

今週は、宮城県石巻市出身「小さな命の意味を考える会」の代表、佐藤敏郎さんのインタビューです。
佐藤さんは、宮城県内の中学校で長年国語の教師として教鞭をとり、東日本大震災当日は、勤務先の女川第一中学校で被災しました。壊滅的な被害を受けた女川で、子どもたちとどう向き合うか。模索を続ける中、震災の年の5月、女川第一中学校では、子どもたちの思いを575に込める「俳句づくり」を、授業に取り入れました。

◆「見たことない女川町を受け止める」
3月11日は卒業式の前日でした。私は職員室にいたが、すぐに火花が散って停電になった。避難訓練のときは、校内放送で「担任の先生の指示に従って逃げなさい」というが、校内放送は使えず、まったく想定外だった。あまりにも甘い想定だった。
女川一中は高台にあり避難場所になっていて、町の人もどんどん逃げてきたが、「大津波だ!」といわれて下を見たら、家や船、電車が紙切れのように流れていた。5階建ての公民館の屋根もすっぽり津波に隠れていて、街中壊滅状態でした。人口の約1割が犠牲に、建物も8割が住めなくなり、子どもたちも家族、近所の人など身近な人をなくしていて、行方不明の方もいっぱいいました。ほとんどの子たちが着の身着のままで、段ボールで仕切られた避難所暮らしをしていた。そんななかで新学期が始まったので、その現実にどう向き合わせたらいいのかということに、私たちは悩んでいました。
そんなときに「俳句をつくらせましょう」というプロジェクトが来た。そしてうちの学校は「現実と向き合わせるいい機会です。国語の先生、やってください」と、これを引き受けた。私は国語の教員なので、「校長先生、待ってください。いまのこの状態を言葉にさせていいのですか?」とすごく反対した。でも校長先生は、向き合わせる機会なのだと。結局私がやることになったが、子どもたちに「なにを書いてもいいぞ」「必ずしも震災の言葉じゃなくていい」「書かなくてもいいぞ」とまで行った。「では、始め」といった瞬間、子どもたちの様子はいまでも鮮明におぼえている。みんなすぐに鉛筆を持ち、指折り数えて5・7・5の言葉をひねり出し始めたの。私の授業で、かつてそれほど生徒たちが集中したことはなかったどの生徒も、みんな一生懸命書いていた。

どんな俳句を書いているのかと机をのぞいたら、目に飛び込んできたのは・・
「ふるさとを奪わないでと手を伸ばす」
「ただいまと聞きたい声が聞こえない」
「見たことない女川町を受け止める」
などの俳句。「悔しいな」「負けないぞ」「がんばるぞ」「受け入れない」もあるのに、彼女は「受け止める」にたどり着いた。さすがに私も授業中に泣いてしまった。とにかく目をつぶっても、背を向けても、この悲しみは現実。まず受け止める、受け止めてから休んでもいい、逃げてもいい、向き合ってもいいのだなと授業中に私は悟ったというか教えらた。窓からはがれきしか見えないのに、「窓際で見えてくるのは未来のまち」と書いた子がいて、すごいなと思った。
「夢だけは壊せなかった大震災」と書いた男の子がいて、それはずっとみんなの合言葉になった。


この他、当時女川の小学生が描いた詩がいまも町の高台に横断幕で張り出されてあります。それが「女川は流されたのではない、新しい女川に生まれ変わるんだ」という詩。子供たちの言葉が今なお町民の「支え」や「希望」になっています。
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パーソナリティ 鈴村健一

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