2016年3月31日

3月31日 小さな命の意味を考える会・佐藤敏郎さん4

宮城県石巻市出身、佐藤敏郎さんは、宮城県内の中学校で長年教鞭をとってきましたが、東日本大震災で被災。石巻の大川小学校に通っていた次女が、津波の犠牲になりました。

◆高校生、大学生が声を上げ始めている
この3・11にまつわるいろいろな出来事をどう伝えていくか、どう学びにするかだと思う。あれだけのことがあったので無駄にしないで、意味づけをしたい。いま、大川小学校の校舎をどうするかが議論になっている。地元はもちろん、地元以外の方々も関心を持ってくださっている。そのなかで、高校生、大学生の若い世代が声を上げ始めている。やはりあそこは思い出の場所で、「兄弟たちや先輩、後輩が楽しく学び遊んだ思い出の場所だから残してほしい」「あの津波を伝える貴重な証しとして残してほしい」という声を上げ始めている。もちろん、あの場所を見るのはつらいし、観光地になるのはどうかという気持ちもある。しかし、それを踏まえて、悲しいことがあった場所だけれど、なにかが始まる場所、なにかのきっかけになる場所になればいいなと思っている。悲しいことだから、触れてはいけないのではないか? たしかに、そういう部分もあるかもしれないがそれでも、関心を持つのは大事なこと。「悲しいことだから触れてはいけないのではないか」「どうやってアプローチをしようか」と悩むこと自体、もうすでに我が事になりつつあるということだと思う。


佐藤さんは、2015年3月に教職を離れ、現在は全国の防災イベントで講演やワークショップを行っています。
佐藤さんを突き動かしているのは、「震災の記憶と経験を一人でも多くの人に伝えたい」という強い想いです。

◆あの日「ただいま」を言えなかった命が2万近くある
いま、私は大川小学校のことに関心を持ってくださる方々と「小さな命の意味を考える会」というものをつくって、いろいろ活動している。「命というのは小さいのですか?」と、よく高校生に聞かれる。命は小さく、弱い。あの震災でつくづく思った。簡単に紙切れをクシャクシャッとするような感じで、地球がちょっと身震いしただけで簡単に亡くなるのだなと思った。しかも、リセットがきかない。でも、その小さな弱い命の持つ意味や大切さはすごく重いなと思う。こんなに悲しみや苦しみ、あるいは影響を与えるものだし、命は一つしかないし。あの日「ただいま」を言えなかった、聞けなかった命が2万近くあるということ。そのことを、よく子どもたちに話す。


佐藤さんは、NPO法人キッズナウジャパンの活動にも参加。 高校生が同世代の若者に震災の経験を語り継ぐワークショップ『311を学びに変える〜あの日を語ろう、未来を語ろう』もサポートしています。また昨年行われたワークショップの様子は、「16歳の語り部」というタイトルで書籍化され、現在ポプラ社から発売中。彼らの朗読とインタビューは、アマゾンの「記憶の継承プロジェクト」として、無料公開されています。

2016年3月30日

3月30日 小さな命の意味を考える会・佐藤敏郎さん3

今週は、宮城県石巻市出身「小さな命の意味を考える会」の代表、佐藤敏郎さんのインタビューです。

佐藤さんは、1987年から宮城県内の中学校で国語の教師として教鞭をとり、震災当日は勤務先の女川第一中学校で被災。また、石巻の大川小学校に通っていた次女のみずほさんを津波で亡くしました。当時学校にいた84人の児童のうち、74人が死亡し4人が行方不明となった大川小学校の悲劇。十分な検証と原因究明は、いまだなされないままです。

◆あの日の校庭にしっかり目をこらし、耳を澄ませて
私の家の話をすると、3月11〜12日の晩、私は女川で生徒と一緒に泊まってた。そして3月13日の午後に、うちのかみさんと高校生の息子が、うちの学校に来てくれた。私は佐藤家でいちばんつらい思いをしているのは自分だと思っていたので、「お母さん、わざわざ来なくてもいいのに」と笑って迎えたが、そのとき、みずほといういちばん下の子の遺体が揚がったという話を聞いた。「遺体」とか、「揚がる」などというのは、まったく想像していなかった言葉だった。
その日の夜に家にたどり着き、翌3月14日に、娘が通っていた石巻の大川小学校へ行った。途中から堤防が切れていて、橋もなくなっていたので船で向かった。土手の上に泥だらけの子どもたちが何十人も寝かされていて、そのうちのひとりがうちの娘だった。知っている子たちが泥だらけになって並べられ、ガムテープで名前をつけられていて。自分の子も知っている子も、トラックに積むしかない。いまでもあの場所に行くと、その光景を思い出す。どんなに想定外の災害があろうが、どんな判断ミスがあろうが関係ありません。もう絶対あってはいけない光景。学校に先生と一緒にいて、先生も子どももほとんど亡くなってしまったのだから。地震が起きてから津波がくるまでには51分間かかったといわれていて、学校のまわりは山だらけ。シイタケ栽培の体験学習で登っていた山がすぐ脇にあって、1〜2分で駆け上れる。だから子どもたちも「先生、逃げよう、山に登ろう」と訴えたというし、迎えにきたお母さんたちもラジオを聴いてきているものだから、「先生、津波がきますよ。逃げましょう」といったという。私は同業者なので、これだけはいえる。先生たちが一生懸命だったということはわかる。一生懸命だったけれども助けられなかったというのもまた事実なわけで、そこに向き合わなければいけないと思っている。あの黒い波を見たときに、先生たちはどんなに悔しかっただろうか。どんなに後悔しただろう。目撃の証言によると、子どもたちの前で手を広げて津波をかぶったという先生の姿を見た人もいるが、どんなに悔しかったか、どんなに守りたかったかと思う。そうやって波にのまれていった。
なによりも一番つらかったのは、きっと子どもたちだったろう。すごく寒い日だったし、津波警報が鳴り響いて、どんなに怖かっただろう、どんなに寒かっただろう、どんなに生きていたかっただろうと思う。それを思えば、あの日の校庭にしっかり目をこらし、耳を澄ませて、「いま私たちはなにをしなければならないのか」ということをみんなで考えていく必要があると思う。


大川小学校の解体と保存については、街を二分する議論が続いてきましたが、先日3月26日、石巻市は「大川小学校を保存する方針を発表しました。周辺を樹木で囲むなど、保存に反対する遺族の心情にも配慮。校舎全体を遺し、周辺を公園化する見通しです。

あすも引き続き、佐藤敏郎さんのインタビューをお送りします。
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パーソナリティ 鈴村健一

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