2017年1月23日

1月23日 APF通信社・山路徹が見た東日本大震災1

東日本大震災からまる6年。今朝は、この災害を取材し続けるジャーナリストの声、お伝えします。

お話を伺ったのは、APF通信社・代表、山路徹さん。東日本大震災発生直後から、福島県南相馬市を中心に取材を続け、現在も継続的に被災地へ足を運び、その現状を伝えています。



山路さんが取材班とともに被災地の取材を始めたのは震災発生直後の3月13日。そして3月16日には、南相馬市に入っています。そのレポートは、各メディアの中で最初に、原発事故直後の町の様子を伝えたものとして世界に発信されました。当時を山路さんに振り返っていただきました。

◆あの日、報道は敗北した。
僕らは東海村の臨界事故の取材もしていましてね、そこには原子力災害によって取り残された人たちがやっぱりいたんですね。そのことを福島第一原発の事故で思い出して、これは大変なことになると。つまり避難をする人も当然いるだろうけれども、屋内退避支持が出て身動きが取れなくなっている人たちも多く発生するなとその時に直感的に分かって、我々報道陣としては現場に行ってそれを伝えなければいけない。だけれど先ほどの東海村の例のように原子力災害というのは当然取材に入る側の人間のリスクもあるわけで。各メディアはコンプライアンスの問題もあってね、記者を中に入れなかったんですね。大手新聞社なんかは50kmくらい離れたところから様子を伝えていたわけです。それはその時に何が起きたのかも去ることながら記録としてきちっと残さなきゃいけないという思いが我々にもありますから、僕たちはスタッフを再編成して、もう一度南相馬をめがけて現場に向けて走っていく中で、ここから30km圏内というところに立て看板がしてあって、「屋内退避指示が出ている」と。誰もいない南相馬の商店街、人っ子一人いないわけですよ。ところが東海村のときと同じようにみんな屋内にいてどうして良いか分からない状況になっていて。いわば南相馬市民というのはそこに取り残されたわけですよね。どんどん食料がなくなっていく。生きていくための、例えば医療機関もそうですよね、病院も震災のけが人がいっぱいいるのに稼働させるための燃料が底をつき始めたり、入院患者のための酸素も搬入できなくなって。当時病院の委員長にも話を聞きましたけど、「危機的状態だ」と。だけどそれを伝えるマスコミもそこにはいなかった。結局、伝えられないということは存在しないこととイコールでね、屋内退避指示が出されている現場で取材をする行為が、大手メディアにするとコンプライアンス違反になるということで、僕らが撮影した映像は日本のメディアでは放送できなかったんですね。結局はBBCですとかアメリカの三大ネットワークのABCですとか、そういう海外に取材したレポートを衛星で配信して、それをむしろ、CSで日本人の人達に届けていた。そういうのが実情だったんですね。ですから本当に見せたい日本人に、日本のメディアを通じて直接伝えられなかったことが、ものすごく僕らとしては悔しかったし、報道機関にとっても大変重要な問題で、報道の敗北だと思うんですね。原子力災害が起こると結局こういうことになって報道すらできなくなるんだ、ということがやっぱり今振り返っても非常に残念ですし、逆に今後同じような事故、災害を想定した時にメディアに何が出来るのかということも非常に大きなテーマとして我々に見せた大災害ですよね。


この、山路さんはじめ取材クルーの動きが、みなさんも記憶している、南相馬市・桜井市長がYouTubeで南相馬の現状を世界に訴えた、あの映像に繋がります。

原子力災害があった時、報道はどう動くことが出来るのか。あの事故から6年が経過するいま、対策はできているのか。原発の再稼働をめぐり、メディアは「対策ができていないのに再稼働するのはおかしい」と批判をしていますが、では、メディア自身の対策はどうなっているのでしょうか。避難対策同様、災害や事故を報道する側の対策の重要性も改めて考える必要があります。

2017年1月19日

1月19日 夢だった小学校先生へ!小野寺真礼くん

震災からまもなく丸6年。
この番組では、復興を担う子どもたちの自立を支援する「サポートアワーキッズ」を継続して取材してきましたが、その取り組みで海外留学を体験した子どもたちがそれぞれ未来へ羽ばたきはじめています。

その一人が宮城県仙台市出身、小野寺真礼さん。高校1年生で被災。沿岸部の親戚の家などが津波の被害にあいました。小学校の先生になることが夢だった真礼さん。サポートアワーキッズで語学留学のチャンスをつかみ、母親の後押しもありイギリス・ロンドンへ。
当時の様子、振り返って頂きました。

『高3でイギリスのロンドンへ。伝える難しさを実感しました。ホームステイ先の人だったり、語学学校にも行かせていただいたんですが、英語力がなかったので全然何も伝えられなかったんですけど、そこで言葉の使い方、表情、ジェスチャーとか、私は教員を志していたので、先生になった時には海外の方だけじゃなくて、子供たちにどう伝えたらいいのか再認識するきっかけにもなりました。』

もともと恥ずかしがり屋で、人前で話せなかった真礼さんが、このロンドンでの経験で、人種が違う人にも一歩引かずに会話ができるようになったそうです。

小学校の先生になることが夢だった真礼さん。その夢をいちばんに支えてくれたのは、お母さんでした。

◆「情熱」だけは負けたくない
身近でいえば母ですね。私は母子家庭で母が一番近くにいたんですけど、「あなたは教員に向いているんじゃない?」とか、「絶対大丈夫だと思うよ」とずっと言って夢を後押ししてくれたので母は自分を一番応援してくれたのかなと感じています。宮城県仙台市内の小学校に4月から勤務することが決まっています。私は早く働きたい気持ちが大きいのでワクワクしている。被災した県でも市でもありますし、自分が生まれ育ったところでもあるのでそこの為に何か貢献できたらな、というのも当然あるけれど、一番は、私は小・中あまり勉強ができない、スポーツでしか成り上がれないような子供だったので、今は学力重視と言われてますけども、自分は小学生の時に野球を見つけられたので、私も4月から働いた際には子供たち一人ひとりが、これ楽しい!これやりたい!と思えるものを探してほしいし、その助けになりたいというのが一番大きい。何かしら好きなものを持っていればそこが自分の武器になるので、4月からは子供たちの支えるになるような教員になれたらと思っています。
私としては「情熱」というところは負けたくないところで、子供たちが困った時に相談にのってあげるとか、逆にこれ僕できるよ、といった長所や出来るとこを伸ばすために何かサポートする時に手を抜かない。体力には自信があるので自分の体力が許す限りその子のため、クラスのために全力を注げるというところでは、その情熱が自分の武器になってくるのではないかと思ってます。


「人のつながり」「支えあい」を震災のおかげで教えてもらうことができたと語る真礼さん。4月から受け持つ生徒は、震災の時小さかったり、もしかしたら生まれる前の子かもしれないので、今後、地震や災害など、非常時だけじゃなくても、人とのつながりを大切にしていくような子に育てていけたら。と話してくれました。


『LOVE&HOPE』、明日は、福島県相馬市の、美味しい美味しいいちご農園のお話しです!

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パーソナリティ 鈴村健一

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