2017年1月25日

1月25日 APF通信社・山路徹が見た東日本大震災3

引き続き、震災後の福島・南相馬を継続的に取材しているジャーナリスト・山路徹さんのインタビューです。

APF通信社・代表の山路さんは、震災直後から福島県・南相馬市に通い続け、町の状況の取材や、市長へのインタビューを続けています。また山路さんは、取材をしながら別の活動にも力を注いできました。それが、震災で置き去りになった犬や猫などを助ける活動です。

◆置き去りになった「いのち」
実際は20キロ圏内がどうなっているのかっていうのは、みんなが避難したあとで瓦礫の荒野のような世界が広がっていて、浪江町というところに行くと沿岸部の福島第一原発の煙突が数キロ先に見えるんですけど、そのあたりは非常に多くの方が犠牲になった。祖の時点においても行方不明者がいて、その中でひときわ僕らの目を引いたのは犬や猫なんです。当時犬や猫達に関して言えば、浪江の人たちも最初は避難先に犬や猫を連れて行った方たちも多かったらしいんですよ。ところが一時避難の場所からさらに県外避難に繋がる時に、ここから先はペットは連れていけないので置いてきてくださいと行政に言われて、一時的な避難場所に連れてきたペットを、いわば置き去りにして避難したんです。そうした人の1人の話を聞くと、「切ないのは、自分たちが離れていくバスの窓から、置き去りにした犬たちがみんなで群れになって自分たちが住んでいた地域に戻る姿を涙流らに見ながら避難した」ということを聴きましてね。僕らも取材に行くと、そういう犬たちが、人間がやってきた!と駆け寄ってくるわけですよ。犬ですから言葉はしゃべれませんけれども、みんなどうしちゃったんだよ、みんなどこ行っちゃったんだよ、俺たち腹ペコなんだよこれからどうしたらいいんだよ、ということを本当に訴えるような目で見つめるんです、僕らをね。僕はその荒野の中で生きているもの、動いているもの、一つ一つが犬にしても猫にしてもやっぱり命なんですよね。その命というものが現場ではすごく際立って、その瞬間僕らはやっぱり、この生命だって助けなきゃいけないんじゃないかと思いましてね。自分たちが取材で出会った犬たちは保護して汚染地域から外に出してやろうと思うようになって、誰か協力してくれないかとTwitterでつぶやいたら色んな人が手を上げて、みんなで犬猫の保護活動を初めて、里親さんを探したりもともとの飼い主さんを探して引き渡していったんですね。中には批判する声もあってね、「人間が大変な時に犬猫どころじゃないだろう」とおしかりのTwitterもいただきましたけれども、我々の社会の安全や安心って何なのかということですよね。つまり、人間だけ助かればいいのか、それまで家族同様に暮らしてきた犬や猫はそこで見殺しにしていいのか。そうじゃないと。小さな命が守られるからこそ人間にとっても安心に暮らせる生活環境なわけですよね。だからあの災害は人間にとってももちろん大きな事件でしたけど、被災したのは人間だけじゃないんですよね。そこに生きている命がみんなその被害にあったんですよね。


山路さんご自身も、取材をする中で出会った猫の里親になっています。また現在もSNSを通じて、被災地のペットなどの情報発信を続けています。


2017年1月24日

1月24日 APF通信社・山路徹が見た東日本大震災2

引き続き、震災後の福島・南相馬を継続的に取材しているジャーナリスト・山路徹さんのインタビューです。


山路さんが代表を務める、戦争・紛争地帯の取材を中心とした通信社、APF通信社は、東日本大震災の直後から取材を始め、3月16日に南相馬市に入りました。原発事故の影響で、支援物資や情報はおろか、マスコミすら入らない当時の南相馬でAPF通信社は取材を続け、インターネットで南相馬市・桜井市長の訴えを配信。
世界が、南相馬の当時の状況を知ることになったんです。

◆ネット配信が世界に伝えた南相馬
僕は最初まず、南相馬の市役所に行ったんですね。そこで市長の桜井勝延さんにお会いして実情などのお話を聞くところから取材を始めたんですけど、当時、桜井市長とインターネットを通じた番組というか情報発信サイトを作ろうということでYouTubeをつかって南相馬の市役所から生放送を始めたんです。何を訴えたかというと、桜井さんは「我々は食料もない、燃料も入ってこない。ただただ屋内退避指示で家の中にいろと言われているけれども、我々はどうしたらいいんだ。生きていけないです。これじゃ棄民じゃないですか」と。その訴えに応えるように援助物資なんかが搬入されるようになったり、個人のボランディアで入ってくる人が出てきたり、災害が起きた場所で何が起きたかを知ることが出来て。それをずっと続けていくうちに桜井さんも評価を受けてあの年の世界の100人に選ばれたりもしたんですけど。世界的な関心は高かったけれども、それを伝えてくれるメディアがなかった。僕らは20キロから30キロ圏内の屋内退避指示が出されている現場の取材をして、でも実際は20キロ圏内がどうなっているかはまだ我々もわからなくて。だからそこから先は中に入っていかないと何が起きているのかを記録に残せないので、僕たちは当時まだ警戒区域に設定される前の、取材がある程度認められる、法令違反ではない形の入域ができて。そこでは人々がみんな避難したあとでしたから、瓦礫の荒野のような世界が広がっていて、浪江町というところに行くと、沿岸部の福島第一原発の煙突が数キロ先に見える。そのあたりは非常に多くの方が犠牲になった。その時点でも行方不明の方がいて、その救助活動は一切行われていませんでしたから。なぜなら放射能による被爆を恐れて活動ができなかったという現実があって。そういう意味で僕らが取材した現場の中でも、まだまだ津波に飲まれた地域に、瓦礫に埋まっておそらく人が大勢亡くなっていたんだなという風に思いますけれども。


APF通信社のアーカイブには、今も当時 配信した映像が残っていて、当時どういう状況だったかを知る、貴重な記録となっています。


明日も山路さんのインタビュー、お伝えします。

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パーソナリティ 鈴村健一

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