2017年3月7日
3月7日 南三陸町 佐藤仁町長(2)
今日から3日間は、宮城県南三陸町、佐藤仁町長のインタビューをお届けします。
先日3月3日、宮城県南三陸町には町の新しいにぎわいの拠点、「南三陸さんさん商店街」が開業しました。自らも防災対策庁舎で津波に遭い、奇跡的に助かったあの日から間もなく6年。町の復興をけん引し続けてきた佐藤町長に、その防災庁舎の目の前に立つ新しい「さんさん商店街」でお話を伺いました。聞き手は、速水健郎さんです。
![](/cms/thumbnails/b1/b1a7e36f1e257c49be0797c7982d3619.jpg)
![](/cms/thumbnails/dd/dd76d65893641a90f1eb9f0d6b7e1ead.jpg)
◆あの日、生き残った10名で誓い合った
速水:防災庁舎の目の前でお話しを伺ってるわけですけど、まさに2011年3月11日、町長自ら被災された時の事、明確に覚えてますか?
佐藤:それはもう忘れられないですよ。目の前にある防災庁舎、屋上でだいたい12メートルの高さです。津波、屋上まで来たんですよ。屋上はるかに越しましたから、43人犠牲になって、職員二人がアンテナに登ってたのが助かって、それから我々8人は階段に流されて助かった。ただそこからがまた大変で、みな頭から水かぶってあそこの屋上に居たら、雪が降ってくる風は吹いてくる、ずぶ濡れだし寒くて寒くてしょうがなくて、どこにも逃げようがない、避難しようがないのであそこに居るしかない、で我々津波っていうのは、小さい頃教えられていたのは、2回目3回目っていうのは1回目よりも大きいのがやってくるって教えられてた。だからあの屋上で津波かぶって、あとどこに逃げるっていうと、あのアンテナしかないんですよ。とにかく上に逃げると。あのアンテナ、太いのと細いのが有るんですけど、太いアンテナに7人登って、細い方に3人登るんですよ。いま登れって言われたって登れない。あそこ登るように出来てないんで、それに足かけて登ってくんだけど、もうみんな血だらけ。それでもとにかく上がって、あそこに4回登りました。朝まで津波来てました。で、助かるっていうのはいろんな偶然が重なるもんで、最初アンテナに登っていた職員の一人がタバコ吸うんで、胸のポケットにタバコとライターが有ったんです。それが活きたんです。朝まであそこで過ごせたっていうのは、そのライターで流れ着いた木材などに火をつけたから助かった・・・
速水:そのライターの火が唯一の・・・
佐藤:そうそうライターが無かったら我々はもう低体温症で・・・
速水:そこからの状態で、“町をつくるんだ”というのは、ちょっと想像がつかないですね
佐藤:それは私も同じ。あの防災庁舎にひと晩居て、あの潰れた町どうやって立て直すの?っていうのは正直言って自信もないし、ただ、ただね、あそこに43人亡くなって、そのうち役場職員30名、その時33名居ましたけど。彼らにね、我々生き残ってあそこの夜火を焚いて皆で黙ってあたってた時に、その時に言ってたのは、“おれたちがこうやって生き残ったのは、町をつくれっていう彼らの思いだぞ、それがおれたちの使命だかんな”っていう話はずっと言ってましたね。そういう「思い」だけでここまでやってきました。
震災遺構として残すかどうかの判断を先送りした防災庁舎。今は宮城県の預かりで20年間保存されることになりました。
明日も佐藤町長のインタビューお送りします。
先日3月3日、宮城県南三陸町には町の新しいにぎわいの拠点、「南三陸さんさん商店街」が開業しました。自らも防災対策庁舎で津波に遭い、奇跡的に助かったあの日から間もなく6年。町の復興をけん引し続けてきた佐藤町長に、その防災庁舎の目の前に立つ新しい「さんさん商店街」でお話を伺いました。聞き手は、速水健郎さんです。
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◆あの日、生き残った10名で誓い合った
速水:防災庁舎の目の前でお話しを伺ってるわけですけど、まさに2011年3月11日、町長自ら被災された時の事、明確に覚えてますか?
佐藤:それはもう忘れられないですよ。目の前にある防災庁舎、屋上でだいたい12メートルの高さです。津波、屋上まで来たんですよ。屋上はるかに越しましたから、43人犠牲になって、職員二人がアンテナに登ってたのが助かって、それから我々8人は階段に流されて助かった。ただそこからがまた大変で、みな頭から水かぶってあそこの屋上に居たら、雪が降ってくる風は吹いてくる、ずぶ濡れだし寒くて寒くてしょうがなくて、どこにも逃げようがない、避難しようがないのであそこに居るしかない、で我々津波っていうのは、小さい頃教えられていたのは、2回目3回目っていうのは1回目よりも大きいのがやってくるって教えられてた。だからあの屋上で津波かぶって、あとどこに逃げるっていうと、あのアンテナしかないんですよ。とにかく上に逃げると。あのアンテナ、太いのと細いのが有るんですけど、太いアンテナに7人登って、細い方に3人登るんですよ。いま登れって言われたって登れない。あそこ登るように出来てないんで、それに足かけて登ってくんだけど、もうみんな血だらけ。それでもとにかく上がって、あそこに4回登りました。朝まで津波来てました。で、助かるっていうのはいろんな偶然が重なるもんで、最初アンテナに登っていた職員の一人がタバコ吸うんで、胸のポケットにタバコとライターが有ったんです。それが活きたんです。朝まであそこで過ごせたっていうのは、そのライターで流れ着いた木材などに火をつけたから助かった・・・
速水:そのライターの火が唯一の・・・
佐藤:そうそうライターが無かったら我々はもう低体温症で・・・
速水:そこからの状態で、“町をつくるんだ”というのは、ちょっと想像がつかないですね
佐藤:それは私も同じ。あの防災庁舎にひと晩居て、あの潰れた町どうやって立て直すの?っていうのは正直言って自信もないし、ただ、ただね、あそこに43人亡くなって、そのうち役場職員30名、その時33名居ましたけど。彼らにね、我々生き残ってあそこの夜火を焚いて皆で黙ってあたってた時に、その時に言ってたのは、“おれたちがこうやって生き残ったのは、町をつくれっていう彼らの思いだぞ、それがおれたちの使命だかんな”っていう話はずっと言ってましたね。そういう「思い」だけでここまでやってきました。
震災遺構として残すかどうかの判断を先送りした防災庁舎。今は宮城県の預かりで20年間保存されることになりました。
明日も佐藤町長のインタビューお送りします。