2017年3月13日
3月13日 女川・いのちの教科書(1)
今週は、宮城県女川町の子どもたちが主役。
「いのちの石碑」そして「いのちの教科書」のレポートです。
![](/cms/thumbnails/ce/cea8d5febede41b0ec9986094b9e03b3.jpg)
◆「女川いのちの石碑」
「ここは津波が到達した地点なので、絶対に移動させないでください。もし大きな地震がきたらこの石碑よりも上に逃げてください。逃げない人がいても無理やりにでも連れ出ししてください。家に戻ろうとしている人がいたら、絶対に引き留めてください。いま女川町はどうなっていますか。悲しみで涙を流す人が一人でも減り、笑顔溢れるあふれる街になっていることを祈り、そして信じています。2014年3月。女川中卒業生一同。
女川の「いのちの石碑」、女川中学校の卒業生が町内の津波到達地点に、避難をよびかける「石碑」を建てるプロジェクトです。
「自分たちの経験を次の災害に生かしたい」「1000年後の災害でひとりでも多くの命を救いたい」そんな想いで活動を続けてきました。
今年2月の上旬。石碑の一つを案内しれたのは、プロジェクトのメンバー、鈴木元哉君です。
![](/cms/thumbnails/f9/f997e7b9d6be428878823dfc3909b167.jpg)
◆経験した当人でも記憶は薄くなっていく
(いま高台にきていますが、目の前に海が見渡せます。元哉君、ここは?)
元哉君:竹乃浦というところです。千年後のいのちを守るために自分たちになにができるかを中学校の同級生たちと話すうちに、「いのちの石碑」というのを各浜21か所に建てていこうと。(この高台はだいぶ高いところにある、この石碑がないとここまで津波が来たってこと、わからないですね)震災の記憶は経験した当人でも薄くなっています。なので記憶に残すという意味で「いのちの石碑」があって、また「いのちの教科書」にすることで、もっと多くの子どもに、このことを伝えられたらということで、僕たちは教科書の活動をしています。
石碑は高さ2メートルほど。現在12基、完成しています。石碑の裏側には英語/フランス語/中国語でも、先ほどの内容が刻まれています。
そしてこの活動で子どもたちの指導にあたったのが、震災当時女川第一中学校で教鞭をとり、現在は東松島の中学校で教頭を務める阿部一彦先生です。
![](/cms/thumbnails/5d/5d920a500a102333287da5a8d0a5b88c.jpg)
◆かつて教え子だったこの子たちは今は私の先生。
孫娘が「おじいさん土地をくれ」とずっと中学校から言っていた。あんまり言うので「なにするのか」と聞いてたまげた。100年後でなく1000年後のために「いのちの石碑」をつくるという。翌日俺の土地のどこでもいいから石碑を立てろと言ってくれた。町の人はみんなおじいさんの言葉に代表されるように、そんな思いだったのかなと。
わたしは教え子を守ってやれなかった。教え子を何人も殺している。わたしは殺したと思っている。命を守るすべを伝えきれなかった。でもこの子たちはこういうことをしている。この子達を見ていると「自分は教員として未熟だなあ」と。この子たちはわたしの生徒だが、この子たちはいまはわたしの先生。わたしが救えなかった命をこの子たちはたぶん救ってくれる。この子たちから教えてもらいたいと思って今日も来ました。
震災当時小学6年生だった生徒たちは、この春高校を卒業。中学時代は学校で、そして高校進学後は放課後や休みの日に集まって活動を続けてきました。石碑の次に取り取り掛かったのが、鈴木君の話にも出てきた「いのちの教科書」づくりです。
![](/cms/thumbnails/d7/d7dbb05cabb52f18db6944eb3984718b.jpg)
★『女川いのちの教科書』の印刷や活動を支援するサイト
「いのちの石碑」そして「いのちの教科書」のレポートです。
![](/cms/thumbnails/ce/cea8d5febede41b0ec9986094b9e03b3.jpg)
◆「女川いのちの石碑」
「ここは津波が到達した地点なので、絶対に移動させないでください。もし大きな地震がきたらこの石碑よりも上に逃げてください。逃げない人がいても無理やりにでも連れ出ししてください。家に戻ろうとしている人がいたら、絶対に引き留めてください。いま女川町はどうなっていますか。悲しみで涙を流す人が一人でも減り、笑顔溢れるあふれる街になっていることを祈り、そして信じています。2014年3月。女川中卒業生一同。
女川の「いのちの石碑」、女川中学校の卒業生が町内の津波到達地点に、避難をよびかける「石碑」を建てるプロジェクトです。
「自分たちの経験を次の災害に生かしたい」「1000年後の災害でひとりでも多くの命を救いたい」そんな想いで活動を続けてきました。
今年2月の上旬。石碑の一つを案内しれたのは、プロジェクトのメンバー、鈴木元哉君です。
![](/cms/thumbnails/f9/f997e7b9d6be428878823dfc3909b167.jpg)
◆経験した当人でも記憶は薄くなっていく
(いま高台にきていますが、目の前に海が見渡せます。元哉君、ここは?)
元哉君:竹乃浦というところです。千年後のいのちを守るために自分たちになにができるかを中学校の同級生たちと話すうちに、「いのちの石碑」というのを各浜21か所に建てていこうと。(この高台はだいぶ高いところにある、この石碑がないとここまで津波が来たってこと、わからないですね)震災の記憶は経験した当人でも薄くなっています。なので記憶に残すという意味で「いのちの石碑」があって、また「いのちの教科書」にすることで、もっと多くの子どもに、このことを伝えられたらということで、僕たちは教科書の活動をしています。
石碑は高さ2メートルほど。現在12基、完成しています。石碑の裏側には英語/フランス語/中国語でも、先ほどの内容が刻まれています。
そしてこの活動で子どもたちの指導にあたったのが、震災当時女川第一中学校で教鞭をとり、現在は東松島の中学校で教頭を務める阿部一彦先生です。
![](/cms/thumbnails/5d/5d920a500a102333287da5a8d0a5b88c.jpg)
◆かつて教え子だったこの子たちは今は私の先生。
孫娘が「おじいさん土地をくれ」とずっと中学校から言っていた。あんまり言うので「なにするのか」と聞いてたまげた。100年後でなく1000年後のために「いのちの石碑」をつくるという。翌日俺の土地のどこでもいいから石碑を立てろと言ってくれた。町の人はみんなおじいさんの言葉に代表されるように、そんな思いだったのかなと。
わたしは教え子を守ってやれなかった。教え子を何人も殺している。わたしは殺したと思っている。命を守るすべを伝えきれなかった。でもこの子たちはこういうことをしている。この子達を見ていると「自分は教員として未熟だなあ」と。この子たちはわたしの生徒だが、この子たちはいまはわたしの先生。わたしが救えなかった命をこの子たちはたぶん救ってくれる。この子たちから教えてもらいたいと思って今日も来ました。
震災当時小学6年生だった生徒たちは、この春高校を卒業。中学時代は学校で、そして高校進学後は放課後や休みの日に集まって活動を続けてきました。石碑の次に取り取り掛かったのが、鈴木君の話にも出てきた「いのちの教科書」づくりです。
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