2017年3月24日

3月24日 南三陸町・戸倉 阿部富士夫さん

水曜と木曜のこの時間は、故郷から巣立つ南三陸町の若者の声をお届けしましたが、今朝はそんな若者を送り出す大人の声をお届けします。

ご紹介するのは、宮城県漁協 志津川支所の戸倉事務所長、阿部富士夫さん。震災後、戸倉地区の主産業でもある漁業の復活をけん引してきた方です。津波で戸倉の海も壊滅的な被害を受けたんだそうですが、当時の様子とそこからの歩みについてお話を伺いました。

◆96名が一緒になって漁業の再開へ
海は養殖施設も無くなったし牡蠣処理場など共同処理場も津波でなくなり何もない状況。あるのは転覆した船、がれき。(そんな中仕事を続けられると思いました?)GW過ぎて東大の教授が志津川湾の海底の様子を見ようとロボットを入れてくれたんです。志津川湾のイメージはもう瓦礫だらけなのかと思ったら、え、こんなもんなのか?これなら漁業を再開できるんじゃないかというのがロボットの映像を見た時の第一印象で、みんな大歓声。うれしかったですね。(それが大きな活力になって漁業の再開へ?)今回震災後に96名が1つのグループになって、96人のグループが一緒に作業するというのは震災前は考えられなかった。漁師は3人集まればトラブルになるのに96人が一緒にできるなんて無理だと言われた。でもうちは多くの船が津波で流され残った船は1割。それをみんなで共有して復旧していこうという思いになったのは、戸倉地区の絆やつながりの強さではないかと思います。今回の震災で漁協の職員で唯一亡くなったのは支所長だけだった。自分としては、もし支所長が生きていたらどう取り組んだか、常に仕事をする時に支所長はどう考えているかを想いながら取り組んだのを覚えています。


そうして気の荒い漁師が力を合わせた結果、何が起きたかというと、去年の3月、戸倉の牡蠣養殖が日本では初めて国際認証であるASC(水産養殖管理協議会)の漁業認証を取得したんです。このことについても、阿部さんに聞いてみました。

◆持続可能な環境に配慮した養殖の証「ASC認証」取得!
今回ASC認証を取得しました。今回のASC認証も養殖施設の間隔を広くとって、台数的には震災前の3分の1に減らしたんです。過密養殖をやめたことで2年から3年で収穫だったのが1年で収穫できるようになりました。1年で収穫できるというのは宮城県内でもなかなかない。減らしたことは今の自分達が生きていくためにも大切だが、これからの次の世代、子どもたち孫達に漁場環境をバトンタッチすることが、震災で大きなものを失った中での大きな役割ではないかと、牡蠣部会を中心にみんなでまとまって取り組んだ成果が認証に繋がったのかと思います。戸倉地区の牡蠣の後継者は比較的他の地区より多いんですね、高校卒業してすぐ漁業に携わる子もいれば、都会で勉強して戻ってくるのもあり、私たちにすると本当にこんな嬉しいことはない。でもそこはカキ養殖が魅力がないと、それなりの収入がないとサラリーマンになった方がいいとなるので、これは本当に有り難いこと。ヒトが少なくなるということは漁業自体も衰退する。今頑張っているおじいさんもいずれ引退する。その時に若い人たちが戻ってくる海にしたいです。

今朝は、宮城県漁協 志津川支所の戸倉事務所長、阿部富士夫さんのお話しでした。

ASC認証 = 養殖漁業に関する国際的な認証。環境に配慮した持続可能な養殖業に対する国際的な「お墨付き」。子供たちへいい漁場環境を受け継ぎたい思いが認証につながったというお話でした。この国際的に認められた戸倉の牡蠣は、「南三陸戸倉っ子かき」として、大手スーパーなどで流通。「戸倉」の名前が付いたものが全国に流通するようになったことについて、阿部さんもじつに感慨深そうでした。

2017年3月24日

3月23日 南三陸町・戸倉 未須藤帆さんの旅立ち

今朝は昨日に続いて、東北の若者から届いたメッセージです。

ご紹介するのは、この春、故郷を離れて仙台の大学に進学する、宮城県南三陸町・戸倉地区の須藤未帆さん。昨日お届けした、佐藤貴大くんとは、幼稚園から高校まで一緒でした。

震災当時は小学校6年生。津波で自宅は全壊し、無事だった親戚の家で生活。そして進学するはずだった戸倉中学校は被災して校舎がつかえず、登米市の廃校を間借りして送迎バスで通学をつづけました。そのあとは同じ南三陸町の志津川中学校の一部を借りて3年生までを過ごし、この年に閉校となった戸倉中学校の最後の卒業生となりました。

そして今年、志津川高校を卒業し、大学進学のために町を離れます。そんな須藤未帆さんに、あらためて6年前の震災当日のことを伺いました。

◆喘息の薬が全て流され・・・
私は小学校6年生で小学校に居て、地震が来たので五十鈴神社に逃げたんですけど、低学年の子とかもいて自分たちが支えなきゃって思いながらやっぱり怖くて、同級生の人に背中撫でて貰って「大丈夫だよ大丈夫だよ」って言われてる方で、自分本当に頼りないなって思いながら過ごしてたんです。(お母さんお父さんと会えるのは?)会えたのは次の次の日。父が先輩のお父さんと迎えに来てくれて一緒に帰ったんですけど、瓦礫でいっぱいの道路を歩いて避難所になってるところまで帰って、そこで初めて両親と祖父母と会えて、母が泣きながら「よかったよかった」って抱きしめてくれて、会えてよかったなというのと無事でよかったってすごい安心して忘れられないなって思います。で、まず津の宮荘が無事だったのでそこに避難して家族と2週間くらい一緒に居て。私は昔から喘息を持ってて薬がぜんぶ流されてしまっていつ発作が起きるか分からないので仙台の親せきにどうにか車とか用意してもらって迎えに来てもらって、私一人だけ仙台に移ったので、こっちの人たちがずっと大変な、電気もないし水もないしっていう苦労をしてた中で自分だけ少し違う生活をしてしまったっていうのが心に残ってたりしています。


体が弱かった未帆さん。そのために大変な時期を家族と過ごせなかったことが、未帆さんのそれからに大きな影響を与えることになります。

◆震災の経験がきっかけ「薬剤師になって医療の面で復興を支えたい」
(ミポリンも大学に進学)そうですね。自分は小さい頃から体が弱くてとにかく勉強が出来るようになってそれを武器にしないとほかの人と同じには生活できないんだろうなって思ってたので、とにかく勉強したいって考えてはいました、で、私元々小学生の時は、高校生になったらこの町を出て仙台行って早く勉強したいってずっと思ってたんですけど、震災があっていろんな人たちと出会って、地域の良さも知れて、そしたらまだこの町に居たいって思いがすごく強くなって、それで高校も志津川高校にして、大学も行ったらぜったい帰ってきてこっちで仕事しようって決めて、これからもいきたいってずっと思ってて、やっぱりいろんな人に支えられて、震災のおかげで皆さんとも出会えてほかにもたくさんいろんな人に出会えて、そういうことが自分を変えてくれて、だから震災をマイナスに考えないで、自分がどうしたいのか夢が明確に決まったのでやっぱり、うまく言えないんですけど・・・(大学はどういう学部?)薬学部で薬剤師になる勉強をしたいです。(なぜ薬剤師?)やっぱり震災の時にやっと家族に会えたのに、自分は薬が無くて仙台に行かなきゃいけなくなったので、私みたいに薬がないことで家族とバラバラになったり、人と一緒に生活できないっていう人はたくさん居たと思いますし、そういうことがあったから薬の大切さ、震災の時に医療がしっかりしていれば、家族と過ごせた人もいたんじゃないかって思ってたので、自分が薬について学んで、こっちに戻ってきて、復興を医療の面で支えられるようになりたいと思って、薬科大に行くことを決めました。


この春、故郷を離れて仙台の大学に進学する宮城県南三陸町・戸倉地区の須藤美帆さんの声をお届けしました。

医療の面で町に復興を支える人になりたい、と薬剤師を目指して仙台の大学に進学する須藤未帆さん。中学生の頃から何度も顔を合わせていますが、これほど強い思いを持っていたのは始めて知りました。昨日お届けした貴大くんもそうですが「震災の経験をしっかり受け止めて、町の未来のために何かできる大人になりたい」と言っている姿はほんとうに大きく見えました。また戸倉はそういった希望の光、子供たちを大人たちが優しい目で見守っている、そういった地域だなと今回の取材で改めて知りました。薬科大という事で卒業までは6年。戸倉の町で24歳になった美帆さんに会うのが本当に楽しみです。
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パーソナリティ 鈴村健一

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