2018年3月8日

3月8日 大川伝承の会 語り部ガイド(4)

今日は、3月4日に行われた、宮城県石巻市、旧・大川小学校での語り部ガイドのレポートです。

東日本大震災の津波で、児童・教職員84名が犠牲となった、旧・大川小学校。被災当時のままの姿を遺す校舎では、悲劇と教訓を後世に伝える「大川伝承の会〜語り部ガイド」が継続的に行われています。

会を主催する一人、佐藤敏郎さんは、女川町で中学校の先生をしていましたが、当時、大川小学校6年生だった次女のみずほさんを津波で亡くし、その後教職を離れて「小さな命の意味を考える会」を設立、ほかの遺族とともに全国各地で講演やワークショップを行っています。

あの日から間もなく7年を迎えますが、今の思いを、あらためて伺いました。

◆自分の中に大川小学校がまだあるし、娘も胸の中にいる
自分としては3.11は“溶け込んでる”感じがして、7年目だから、とかでもなく、娘のことに関しては、何かこう一体化してる感じがしますね。この場所で話し始めるとスイッチが入るところがあります。それはきっとスイッチを押してくれてるんだろうなってすごく感じます。それから今日は卒業生も来てくれて話しましたけれども、ここで走り回った思い出があって、ここには子供たちが笑顔で毎日通っていた学校があったということ、やはりこの場で感じてほしいですよね。幸いなことにこの校舎は残ることになったので、今はこの通り廃墟になってますけれど、このくらい残っていればイメージできますよね。せっかく来てただ可哀そうだねって、悲惨だねって帰ってもらうだけではなくて、それが今こうなってるっていうことで考えてもらえるのがいいのかなと思います。

(でも私もそのみちゃんに案内してもらうまではこの景色しか見たことがなかったので、すごく悲しい場所っていうのが第一印象だったんです。でもそのみちゃんは、“ここ凄かったんですよ!桜が、とかこんなふうに遊んだんです!って言ってくれて、それを聴くと景色が変わるというか少し色がつくというか、みんなすごく楽しい生活をここで送ってたっていうのが多分皆さんに伝わってる気がします。)

私はよくそのみに案内してもらうんですけれど、あいつは本当にそういうのをねニコニコ話しますよね。“ここはかくれんぼで見つかった場所”とか、“ここは○○先生の秘密の部屋なんだ”とか、“1年生のトイレには必ずうんちが残ってるとか”そういう話をします。そうなんだなと思うんですよね。それと一緒にここには町があったということ。地元の人たちはそれを言いますよね、大川小だけしかも悲劇の場所としてクローズアップされて、多分訪れる人はそれを目的で来ると思うんですけれども、ここには俺たちの暮らしがあったんだ町があったんだってこと、そういうことも、知ってもらいたいってよりも、自分で確認したいんだなと思ってます。言葉にしたり発信することによって、自分の中に大川小学校がまだあるし、娘も胸の中にいるということ、それを確認してるんだと思います。でこの震災遺構も、未来の人のためですよね。今日も訪れている人は地元以外の人が99%です。その方たちにとってどういう価値を持つか、どういう意味を持つかっていうのを、みんなで考えたいと思っていて、やっぱり50年後60年後の未来の人は、きっと思うんですよ、“なんで昔の人はここを残したのか?”って。簡単に遺したわけじゃないですよ、と。それも伝えたいなと思っています。


佐藤さんたちが継続している、大川小学校の「語り部ガイドと勉強会」、あの場所で起きたことを自分に置き換え、考える機会にして頂けたらと思います。
大川伝承の会 facebook
小さな命の意味を考える会

『LOVE&HOPE』、明日は津波にのまれながら奇跡的に助かった生徒の一人、当時小学5年生だった只野哲也さんのお話しです。



2018年3月7日

3月7日 大川伝承の会 語り部ガイド(3)

今日は、3月4日に行われた、宮城県石巻市、旧・大川小学校での語り部ガイドのレポートです。

東日本大震災の津波で、児童・教職員84名が犠牲となった、旧・大川小学校。被災当時のままの姿を遺す校舎では、悲劇と教訓を後世に伝える「大川伝承の会〜語り部ガイド」が継続的に行われています。

校舎の裏に反り立っていている山は、一見子供が上れる角度ではありませんが、じつは一部緩やかな登り口があり、子供たちはシイタケ栽培などの実習でよくそこから山へ登っていたといいます。上級生たちは先生に、“山へ逃げよう”と訴えますが、聞き入れては貰えず、その安全な場所は生かされることがありませんでした。

語り部の会・主催者で、娘を亡くされた遺族でもある佐藤敏郎さんが、その山から校舎を見ながら語った言葉です。

◆「仕方がない」ではない。考えなければならない
もし津波が来てもここがあるから大丈夫だろう、ここに逃げてるだろう、と多くの人が、私も思っていました。その山です。ここは毎年3月に椎茸栽培の体験学習をしていました。それからこちらの方は低学年の授業が行われています。ここまで登っていれば助かっています。ここを案内して、“ここは登りにくい山だね”、という人はいません。逆に、“こんな近いところにこんなに登れる山があったんだ”、っていうことにびっくりする人が多いです。でもね、立派な救命ボートがあっても、それに乗らなかったら助からないっていうのと同じです。それは救わなければならなかった命です。学校の先生ってのは・・・じつは私も教員なんですけれども・・・学校の先生というのは、たまたまそこに居合わせた大人じゃないです。子供の命を預かり守る、そういう仕事の大人なわけです。それはあの時の先生はみんな知っています。“果たせなかった”ということ、そこに向き合わなければダメです。“仕方がなかった”なんて言っちゃだめだと思います。やっぱりここに来るたびに、7年前のあの日の風景とかぶせて、私たち考えなければならないと思っています。あの日の命の代わりに、皆さんに焼き付けてほしいと思います。この景色が見えてればよかったんです・・・

(大川小学校の裏にある山に登ってきたんですけれど、登り始めて緩やかな坂を、走ったら10秒程度で登れるところだと思います。およそ高さが7〜8メートル。津波の高さがきたっていう大川小学校の 2階部分くらいの高さということなんですよね。この景色が見えてれば助かったっていう話がありましたが、なんでこっちじゃなかったのかなっていうのは純粋に思ってしまいます。悔しいですよね。)

・・・最後にですけれども大川小学校は閉校になっても名前もなくなります。ですがこの学校が震災遺構として防災教育を勉強する場として残ります。皆様また機会がございましたら是非来て頂いて、そして持ち帰っていただいて、ここでの教訓、皆さんの住むところへ持ち帰って頂いて、話をしていただければ、我々もありがたいなという風に思います。


佐藤さんは14日の朝、娘を探しに船で大川小学校へ。橋のたもとに子供たちの遺体が並べられていた光景が、いまも忘れられないといいます。

大川小学校の校歌は「未来をひらく」というタイトル。ここで起きた悲劇を、自分のことに置き換えて考え、何かを持ち帰って欲しいと会を結んでいました。明日は佐藤敏郎さんのインタビューをお伝えします。


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パーソナリティ 鈴村健一

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