2018年4月11日

4月11日 岩手県宮古市 7年前の郵便局員さん

今日お伝えするのは、7年前に出会った岩手県宮古市のある郵便局員のお話し。

「オモトさんいらっしゃいますか?・・・(配達風景)・・・
(配達はいつから始められた?)配達は、自分も被災して詳しいことは分かりませんけど次の日くらいに避難所がだいたい分かってきて、そこから避難所の方と協力して、それで自分たちで調査して持って行ってるような感じでしたね。(配達される皆さんも被災されている?)自分もそうなんですけど家が流されたりしてる人もいます。(それでもこうして配達されている)自分だけじゃないっていう言い方は変かもしれないですけど、自分よりつらい人もいるので、そういう感じでやってないと自分もまいりそうなんで。」


このやりとりは、2011年4月9日、震災から1か月足らず、避難所となっていた宮古市の鍬ケ崎(くわがさき)小学校でのやりとりです。多くの家が津波で流された鍬ケ崎地区。避難所にスタッフが取材で訪れた時、身を寄せていた住民の多くは、まだ被災のショックで口数も少なく、沈んだ空気が流れていました。そこへ現れたのがこちらの郵便局員さん。私服のまま、郵便物を届けに来ていました。その瞬間、避難所の沈んだ空気が和らぎました。彼の名前は林崎広大さん。宮古郵便局の郵便局員です。林崎さんも住んでいたアパートを流されましたが、すぐに住む部屋を見つけ、瓦礫だらけの町を走って郵便物を届けていました。

この時の出会いから7年が経ちましたが、林崎さんはいまも宮古で配達業務を続けています。今回、久しぶりに再会してお話しを伺いました。

◆市民のために声を出し続けた警察の人が亡くなった
今でも自分の頭に残っているのは、地震があって、浜に降りて行ったんですけど、みんなが避難してる時に降りていって、警察の人が“早く逃げろ、郵便屋さん早く逃げろ”ってマイク越しに言ってくれたんですけど、その人が亡くなったんです。鍬ケ崎に交番があって、配達で顔を合わせてた人なんですけど。自分はそこに、同じ時間同じ場所に居たのに、市民のために声を出して、早く逃げろ早く逃げろって言ってくれたんで、自分は助かったのかなって思いますね。その言葉だけは今でも覚えてますね。


岩手県の沿岸部中部にある宮古市。東日本大震災では、死者行方不明者合わせて568名の方が犠牲になり、家屋の倒壊は4098棟に上りました。そんな中、いち早く業務を再開した宮古郵便局。当時は安否確認の便りも多かったことから、林崎さんも先輩たちと一緒になって、懸命に配達業務に尽力していました。郵便局員として、おもに鍬ケ崎地区の復興を見つめ続けてきた林崎さんに、7年経っての思いを伺ってみました。

◆いい景色になってきた
こういうことがあって毎日毎日がむしゃらにやって来たら、7年経ってたような感じですかね。でもいま、宮古は本当にほかの山田、大船渡、宮城の方にくらべれば復興が早い方だと思うんで、それこそ先ほど行った小学校の近辺もかさ上げ工事が終わって、仮設住宅からやっと家を建てて戻ってこれる人たちも居るんで、やっぱそういう人たちと、“ああ戻ってきましたね”とかって話が出来るんで、“長かったね〜、やっとだよ〜”って言ってくれるんで、ふだんから顔なじみの人はやっぱり、“お兄さん久しぶりだね〜”とか言ってくれるんで、やっぱそういうのがあると、“良かったな”と思わず笑顔にもなるんで、なかには“休んでいけ”とか言ってくれるんですけど、“仕事です”って冗談を言いながら。やっぱそういうのをじかに感じられるんで嬉しいですよね。やっぱり少しずつですけど、元に戻ってきたっていうか、いい景色になってきたとは思いますね。


かさ上げが終わって、家が少しずつ建ち始めている鍬ケ崎地区に、林崎さんが配達するバイクの音が響いています。

『LOVE&HOPE』、明日は、福島県桑折町から「献上桃の郷BBQフェス」の話題をお届けします。

2018年4月11日

4月10日 福島県富岡町で小中学校再開(2)


原発事故による避難指示が昨年4月に解除された福島県富岡町で先日7年ぶりに小中学校が再開しました。入学、進学した小中学生は17人です。一方、町では避難先の「三春校」も存続します。こちらは児童・生徒、併せて22人。今回は、富岡校と三春校の合同入学式となりました。


富岡小学校の校長に就任した、岩崎秀一さんに話を聞きました。

◆三春の少人数による教育のノウハウを、富岡校へ
三春と富岡は60キロ離れているから合同の入学式、セレモニーをやるといったときに、「この距離の壁はきついな」と思いましたが、実際にやってみて子どもたちは短い時間だったけど会うことで打ち解けて、同じ富岡の仲間なんだという気持ちが芽生えたみたいですね。だから最後あんなになかよく手を振りながらお別れができたのかなと思います。
少人数学級による教育のノウハウは三春校にあります。実績がある。その結果が三春の子どもたちの姿にあるんです。これからは三春校でやってきたことを富岡校でも継承してやっていきたい。授業はもちろん、まずは4月13日の合同遠足。夜ノ森に三春校の子どもたちを呼んで、桜を見て、天神岬に行って、その後合同バーベキュー会。みんなでご飯を作って、みんなで食べて片づけをする。絶対意義のあることだと思っています。それをまず一番最初にやる。運動会もやりたい。学習発表会も一緒にやりたい。富岡校単独で授業もやりますが、どうしたら三春校と一緒に合同授業ができるかなと知恵を絞っています。できる限り、三春と富岡の距離を縮めていきたいと思っています。

お父さん、お母さんが富岡に関わりがありますが、富岡の子どもたちは全然ここに住んだことがないんです。この子どもたちのスタートは富岡町を知ることから始まります。せっかく住んでいるんだから、自分たちから町へ出かけていこう。また、いろんな方がいるんだから学校に来ていただこう。人から学ぶということを富岡の子どもはやっていきます。富岡の人、モノ、コトについてゼロから知ることから始める。これは小学校も中学校も同じ。なので1Fはふれあいの場としようと考えていて、町民の皆さんがいつでも集まることができる場にしたい。2Fが学びの場。2Fから1Fに降りてくると、地域のおじいちゃん、おばあちゃんがいる、というような。やっぱり復興の拠点は学校なんです。いろんな老人クラブの方と授業をやりましたが、わたしがお礼を言うと、逆にお礼を言われました。「わたしたちは子どもたちから元気をもらったわ」と。たぶん、この町に戻ってきた方、ご高齢の方がほとんどですが、震災さえなければ二世帯三世帯同居でずっと一緒に生活をしていたはずなんです。でも震災でなかなかお孫さんとも会えない。そういう生活をこの7年間してきたのではないか。だからなおさら子どもに対しては強い思いがあるんじゃないかなと思っています。


原発事故後、7年ぶりに富岡で学校が再開しましたが、小・中学生あわせて17人とまだまだ人数は少ない。でも岩崎校長先生は、「ここからがスタート。2年3年のスパンではなく、10年、20年後に子供たちがこの学校に入りたい!と思えるような学校を作りたい」と話してくれました。
また、お子さんを三春校に通わせている保護者の一人は「富岡町はまだ暮らすには不十分。環境が整ったら戻ってきてもいいと思っている。まだスタートしたばかり。子どものことを第一に、先のことはゆっくり考えていきたい。」と話してくれました。

富岡町の子どもたちの様子、これからも引き続きお伝えしてきます。
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パーソナリティ 鈴村健一

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