2020年3月31日

つなぐ〜10年目の春だより:女川町 佐藤柚希さん

2011年から9年にわたりお届けしてきました『LOVE & HOPE 〜ヒューマン・ケア・プロジェクト』は今日で最後となります。

最終回の今日は、東北の若い世代の声を届ける、「つなぐ〜10年目の春だより」。宮城県女川町の役場につとめる、二十歳の佐藤柚希さんです。

佐藤さんが震災後、小学6年生の時につづった「詩」が女川の高台に“横断幕”としてかかげられ、震災で落ち込む町民を励まし続けてきました。

『女川は流されたのではない。新しい女川に 生まれ変わるんだ。
人々は負けず 待ち続ける。新しい女川に住む喜びを 感じるために。』


あれから9年。佐藤さんは女川町の職員になり、町の観光PRや震災を語り継ぐ活動を行っています。

◆未来の女川を支えていく。不安半分、期待や楽しさも半分
高校入るまで卒業後のこと全然考えていなくて、いざ就職について考えたときに、もちろん詩の存在も、地元で働きたいなという決め手にはなったんですけど、やはり周りが宮城県外に出てしまうとか県内にいても女川でない場所で就職するという友達がどうしても多くて、なんか面白くないというか。一人二人ぐらいは地元で活躍する人間がいてもいいんじゃないかなと。高校2年ぐらいから地元の役場で仕事したいなとチャレンジして今に至ります。
まだ社会人になってから年月経ってないので、今はどちらかというとプレッシャーの方が強いですね。いざ自分が30代40代になった時に今後の街の状況を支える能力があるのかなと不安ではあります。ただ一緒に仕事をしている上司の方やいろんな先輩方の姿を見て、自分もそうだけど町の若い世代の人たちが今後を支えていかなきゃいけないんだろうなというのは如実に感じます。それも踏まえて今の業務を積極的に頑張って、いろんな知識を身につけなきゃいけないというのはすごく感じています。不安も半分ですけどそれに対しての期待、楽しいのかなというのも半分。


LOVE&HOPE「つなぐ〜10年目の春だより」。
最終日は宮城県女川町、二十歳の佐藤柚希さんの声でした。

◆◆◆
2011年から9年にわたり、東北はじめ被災地の今をお伝えしてきた『LOVE & HOPE〜ヒューマン・ケア・プロジェクト〜』。これまで取材にご協力いただいた方々に心から感謝申し上げます。皆さんからいただいた数々の声は、これからの「防災・減災」の学びとして次の世代へ伝えるべくこのブログに残させていただきます。また今後も「JFNパーク」の配信番組として被災地からの声をお届けしていきます。これまでのアーカイブもアップしていく予定ですのでぜひこちらもお聴きください。またいつの日かお会いできる日を楽しみにしています。
2020年3月31日 LOVE&HOPEスタッフ一同

2020年3月30日

つなぐ〜10年目の春だより:浪江町 木村郁也さん

東日本大震災の起きた2011年から9年にわたりお届けしてきました『LOVE & HOPE〜ヒューマン・ケア・プロジェクト』は、この3月末をもって放送を終了。ラストは番組が取材を続けてきた東北の若い世代の声を届ける、シリーズ、「つなぐ〜10年目の春だより」をお届けしています。今日は福島県浪江町役場に勤める、木村郁也さん。



木村さんは今年23歳。中学1年の期末頃に被災し、以降、二本松市で避難生活を送りましたが、その避難生活のなかで、町役場の職員として、町民に寄り添い、支える仕事をしたいと思うようになり、現在はその夢を叶え、浪江町役場職員として教育委員会の仕事を担っています。

陸上競技が得意なスポーツ少年だったという木村さん。先日“思い出の場所”という、浪江小学校脇の公園で、お話を伺いました。



◆「震災が無ければ役場で働くことは無かった」

「私自身が浪江小学校の出身で、よくこの公園でも遊んでいた記憶が・・・今ちょっと寂しいんですけど、まわりに前はずっともっと桜の木がいっぱいあって、よく昆虫を、クワガタとかを友達と探すっていう、まあありきたりではあるんですけど、そういう思い出がありますね。でまあ震災以降、人に与えてもらったというか手助けしてもらった部分がかなり多くて、そういう感謝というか、ちゃんと言葉で伝えようとかっていうことは意識するようになって、まあ震災が無くてそのまま年を重ねてたらどういう人生になってたのかな?っていうのはすごい不思議に思ったりもするんですけど。震災が無かったら浪江町役場にも勤務することはもしかしたら無かったかもしれないなとは思います。ひとつ中学校のときに、避難してたぶん1週間くらい経った時に、学校を決めるとかにあたって、二本松の東和支所を借りてやってたんですけど、その時にやっぱりかなり皆さん疲弊されている、けれども住民の方が不安にならないように誠実な対応をされていたというのがすごく印象に残ってて、あとはずっと「駅伝」をやっていたので、その「駅伝」でも役場の方がサポートしてくださるんですね。「福島駅伝」というのがあって。で震災直後の開催の年も浪江町は出場しまして、そこでもはやはり選手側が不安にならないようなサポートをしっかりして頂いて、それも一つの働きたいなっていう考え、最初に思ったのは中学1年の終わりで、高校卒業・・・高校2年生の時には浪江町の役場を受けてみたいなっていう思いではいました。」




写真は以前番組で取材した時のオフショット。町の成人式で職員として働きながら、自身も成人を迎えた木村さんとお母さんです。

毎年秋に行われる「福島駅伝」は、県内の市町村がそれぞれチームを組んで競う駅伝大会です。スポーツ少年だった木村さんにとっても大切な大会で、それを支える町の職員の姿も、木村さんの進路に影響を与えたことの理由の一つということでした。そして2016年、高校卒業と同時に浪江町職員となった木村さん。2017年の一部避難指示解除とともに浪江町へ戻り、
じつは・・・今年1月に結婚もされて、秋にはパパになる予定なのだそうです!

一部地域の避難指示解除後、住民の帰還がまだ1割に満たない浪江町にあって、まさにこれは春だよりではないでしょうか。木村さん、おめでとうございます!

『LOVE&HOPE』、「つなぐ〜10年目の春だより」、最終回の明日は、宮城県女川町からの春だよりです。明日もぜひ聴いてください。

2020年3月27日

つなぐ〜10年目の春だより:石巻市 佐藤そのみ

今週は「つなぐ〜10年目の春だより」。
東北の若者たちの声をお伝えしています。

宮城県石巻市出身の佐藤そのみさんは、市内の旧大川小学校の卒業生です。当時小学校6年生だった妹のみずほさんを津波で亡くし、大川小を震災遺構として保存する活動にも参加しました。

高校卒業後は映像の勉強をするために東京の大学に進学。卒業制作として大川小を描いたドキュメンタリー映画を制作し、先日、卒業を迎えました。
震災からまる9年の、3月11日に伺いました。

◆今は幸せになる途中。これからは自分のために生きる。
9年間ほんとうに長くて、いろんなことがあって。特に大学生になってから大川の映画が作りたくても作れない、全然自分の思うようなシナリオが書けないという挫折があって。それで一旦映画作りから離れてみて。何でつくりたいのか、誰のために見せたいかがはっきり思い浮かぶので、それを思い返して、もう一回スタートを切るということを何度も繰り返しました。それをみずほたちも見てくれているのかなと思って、今日(3月11日)黙とうをしながらそのことをずっと考えていました。
(そのみちゃん自身は幸せになっている?)いまですか、いまは幸せになる途中なんじゃないかと思います。幸せになれるはず。やっと自分がどうありたいか、自分らしく生きるペースをつかみ始めているかな。いままでそれがなかったので。自分のために生きるということをこれから学んでいける気がします。卒業をしたらテレビ番組の制作をする仕事をするんですけど、大学生活を通して、ものを伝える力が全然足りないし、それを身に付けたいと思ったので、それを勉強するならメディアの仕事かなと思って。これからはテレビ番組を作るんでしょうね、頑張ります。


震災で家族を亡くし、故郷の風景も一変。卒業制作に向き合うことで、少しずつ前に進んできたそのみさん。卒業制作のタイトルは「あなたの瞳に話せたら」。映画は今後石巻などで自主上映する予定。映画祭などにも出品したい、と語ってくれました。

★★★LOVE&HOPE特別番組のお知らせ★★★

旧大川小卒業生、佐藤そのみさんの3月11日を描いた特別番組が今度の日曜日に放送されます。
TOKYO FM特別番組
『大川に、桜咲く。〜LOVE&HOPE 10年目の春だより〜』
2020年3月29日(日)18:00-18:55 放送
出演:佐藤そのみ
ナレーション:高橋万里恵
企画/演出/構成:TOKYO FM LOVE&HOPE取材チーム

2020年3月26日

つなぐ〜10年目の春だより:女川町 木村圭さん

今週は「つなぐ〜10年目の春だより」。
東北の若者たちの声をお伝えしています。

今日は、宮城県女川町出身の木村圭さん。町内の津波到達地点よりも高い場所に石碑を立てる「女川いのちの石碑」のメンバーでもあります。

震災時は小学6年生でした。現在は建築や街づくりを勉強するため京都の大学に進学しています。
圭さんには女川の復興に関わる、大きな夢があります。

◆女川の街づくりに建築士として貢献できれば
京都で建築や環境デザインの勉強をしています。もともと建築士になりたいと小学生の時からあって、小6で震災を経験して震災後9年経っていますけど、女川がどんどん変わっていくのに対して私たちの気持ちが着いていかない。町の復興が進んでも心の復興が進まないとよく言われていますけど、心と街というのが繋がっているのではないかと私は感じていたので、そういう街づくりを勉強したいなと思って今の大学に進みました。でも女川に限らず例えば熊本や岡山だったり、日本だけでも災害が相次いでいるのでそういう“被災地の心の復興と街の復興”というのを自分の中で課題として考えていけたらと思っています。
女川のこの震災からの街づくりに何か貢献できるのであればもちろん取り組みつつ、私たちが中学生小学生の時に私たちの意見を町の人たちが聞いて支えてくれたようにそういう社会を私たちが作っていく番になっていくと思うので「いのちの石碑」をはじめとするこの津波対策案という命を守るための活動で経験した教訓をもとに、中学生小学生の考えることの実現を支えるような社会を作っていけたらうれしいなと思います。



『いのちの石碑』の活動について圭さんは「1000年後まで、私達が死んでも次の代、次の代と受け継いでいきたい」と強い思いを語ってくれました。

LOVE&HOPE「つなぐ〜10年目の春だより」。明日も東北発「若者たちの声」をお届けします。

2020年3月25日

つなぐ〜10年目の春だより:女川町 伊藤唯さん

「つなぐ〜10年目の春だより」。東北の若者たちの声をお伝えしています。

今日は宮城県女川町出身、伊藤唯さん。町内の津波到達地点より高い場所に石碑を立てる「女川いのちの石碑」のメンバーでもあります。

震災のときは小学6年生でした。黒い津波が大好きな町を飲み込んでいく様子を目撃してしまい、震災後もその記憶に長い間悩まされたといいます。
その後東京の大学に進学。国際コミュニケーションを学ぶかたわら、力を入れているのは、大好きなダンスです。

◆自分がやりたい夢は何かを犠牲にしてでもやっていかなきゃいけない
ダンサーになりたいと思ったきっかけは東日本大震災。女川には「さんま収穫祭」というお祭りがあるんだけど、高校1年生のときに「さんま収穫祭」のステージに立たせてもらって、そのときにこんなにたくさんの人がわたしのダンスを観て笑顔になってくれるんだと思って。そう考えたら、自分の役目はこれだなと思って。ダンスで人を笑顔にしたい、夢を与えたいなという想いから、いまもダンサーになる夢は諦めてないです。
つらいことや苦しいことは生きているうえでは誰しもあると思うけど、震災を経験したら、どんな苦しいことも乗り越えられるんじゃないかと思って。いま自分が生きていられる以上、自分がやりたいこととか夢とか、そういうのはなにかを犠牲にしてでも一生懸命やっていかなきゃいけないんじゃないかなと、震災に気づかせてもらったので、だからそこは自分の視野を曲げずに行きたいと思っています。
女川町は街自体が復興に向けて前向きに取り組んでいて、わたしたちの(女川いのちの石碑の)活動もそうだけど、今回で18基目の石碑を立てましいたが、夢を実現させてくれる町だなと思うので、人の温かさ、街の取り組み、そういうところも含めて女川町を見てくれたらなと思います。一か月に一度、わたしたちが立てた石碑を回って、語らせてもらう機会があるので、そこにぜひ足を運んでもらえたらたくさん話をさせてもらいます。お待ちしています!


LOVE&HOPE「つなぐ〜10年目の春だより」。明日も東北発「若者たちの声」をお届けします。

2020年3月24日

つなぐ〜10年目の春だより:南三陸町 小野寺翔さん

今週は「つなぐ〜10年目の春だより」。震災を経て、成長した東北の若者たちの声をお伝えしています。

今日は、昨日と同じく宮城県南三陸町の、小野寺翔さんです。
きのう紹介した三浦たかひろさんと、同じ戸倉地区出身の同級生。2人とも中学生時代に被災し高校時代は、震災の語り部として同じツアーで活動していました。


(右が小野寺さん)

小野寺さんはその後、関東の大学に進学するも中退。なんと「林業」の専門学校に入り直し、現在は地元に戻ってきています。あれからまる9年。もうすぐ24歳になる小野寺さんの声です。

◆津波に流されず「残ったもの」
高校まで県内の地元のほうにいて、僕もたかひろと同じように自分のやりたい事というのがあって、人のためにできることをしたいなと考えていたのがあったと思うんですけど、一度外に出て、同じツアーを、外にいる若い世代を南三陸につなぐというような活動をしてきたときに、改めて故郷ってやっぱり良いなということに気づいたというのがあって、春休みか何かの帰省の時だったんですけど家で山の話になって、自分の家にも山があったという話になりまして、そこで改めて何もかも流されてしまってなくなってしまったんですけど、山ってそういえば財産として残ったんだなということに気づいて、それを守っていけるのって私たちの今の世代だなと思いましたので、そこだというところで勉強したいと思って、林業に関する勉強をして帰ってきたという感じですね。去年の春に戻ってきまして、林業の関係のお仕事をしていたんですけど、10年目、この春からは自分で家の山を管理する自伐型林業という形なんですけど、準備をしてやっているところです。山って、森林組合だったり企業に委託をして管理してもらうのが一般的なんですけどそうではなくて自分で自分の山を切って完了するという、昔から当たり前だった手法をもう一回やろうと。不安もありますけど自信もあるので、まずは1年頑張ってみたいなと思います。

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自伐型林業・・・いま注目されている林業のスタイル。森を守り、育てつつ、一定の収入も得られるということで「持続可能な林業」として注目されています。
小野寺さんはこれに取り組みながら、地元の鹿踊り(ししおどり)という郷土芸能の担い手としても活動。地元の文化を、次世代へつなぐ役割を果たしているそうです。
ちなみに。鹿踊りに使う太鼓などの道具も、もともと地元の山から切り出した木材を使ったもの。小野寺さんは地元の里山が生活といかにつながっているか・・・ということも伝えていきたいと考えています。



インタビューをしたのは3月11日。現在は公民館となっている戸倉中学校だったのですが、この日ここへは、戸倉中の卒業生や先生たちが、申し合わせたわけでもなく集まり、午後2時46分を迎えました。

「LOVE & HOPE」、あしたも、2011年から継続的に取材してきた若者たちの声を届ける 「つなぐ〜10年目の春だより」お送りします。

2020年3月23日

つなぐ〜10年目の春だより:南三陸町 三浦貴裕さん

今日からお届けするのは、震災を経験しながら、大人へと成長した、東北の若者たちの声、「つなぐ〜10年目の春だより」。初回の今日は、宮城県南三陸町の三浦貴裕さんです。

番組が2011年から取材と交流を重ねてきた、南三陸町、戸倉中学校。その2012年の卒業生でもある三浦さんは、当時の取材で、住民の命を守る“消防士”になりたい、と答えていました。あれから9年、24歳になる三浦さんの現在の「声」です。


◆「町の魅力、震災から立ち直ったことを伝える」

「私は南三陸町に震災後できた宿泊研修施設の方で4月から働いて、ちょうどもう少しで一年経ちます。大学の時から学生ツアーというような活動してきて、その延長線に自分のやりたいことがその施設にあったのでお世話になっているんですけども。そうですね中学卒業する時は消防士になるという夢を持って高校も3年間消防士になるという夢を追いかけて、途中で大学に進学に切り替えたりとか、やっぱり自分の中で大きかったのは人の出会いと、大学の生活の中で始めた語り部活動と、大学生を対象にした学生ツアーというのが自分の中では大きかったなっていうのがあります。この町の魅力、震災から立ち直ったことを伝えるって言うことを今後も継続していきたいなという思いでやっています。9年経ちはしましたけど、復興と言われるのは多分これからなのかなと思って、もしかしたら毎年私言ってるのかもしれないですけど、そのハード面、道路とか公共施設の復旧復興ってのはもうほとんど終わってるので、てなるとやっぱりこれからその地域課題地方課題と言われるようなものにどうこの南三陸町だったり私たちを含め町の人たちが取り込んでいくのかというのが課題なのかなという風には思っています。で、今コロナのことがあるのでなかなか人が南三陸町に来てないということもあるんですけども、落ち着いた時に、とくに大学生とか高校生にここの町の取り組みだったり魅力を知ってもらって、自分たちの生活とかその進路に行かしてもらいたいなって思いがあるので、本当にたくさんの人に来て頂きたいですね。」



震災後の中学高校時代は、消防士を目指していた三浦さん。大学生の時、語り部活動や、各地の大学生を募って、南三陸町を案内するツアーを実施したその経験から、現在は、町に震災後できた研修宿泊施設、「いりやど」のスタッフとして、全国から訪れる宿泊客や研修生を迎え、震災の経験や、復興の歩み、学びを伝えています。


(左が三浦さん。右は明日お届けする小野寺翔さん)

さて2011年からお送りしてきました『LOVE & HOPE〜ヒューマン・ケア・プロジェクト』は、この3月いっぱいをもって、放送終了ということになりました。

フィナーレを飾る、シリーズ、「つなぐ〜10年目の春だより」。明日もぜひ聴いてください。

2020年3月20日

「復興五輪の背後に横たわる“福島の課題”」?

引き続き、「復興五輪の背後に横たわる“福島の課題”」。福島大学「うつくしまふくしま未来支援センター」特任教授、
天野和彦さんのお話しです。

26日に2020東京オリンピックの聖火リレーが福島からスタート。夏の復興五輪開幕へ向けて、避難指示の解除や、鉄道の開通など、福島では「復興」につながる動きが加速しています。

一方で、今月末には4つの町村で、仮設住宅の無償提供が終わるなど、避難者支援打ち切りの動きも加速しています。

そして溜まる一方の「汚染水」をどうするか?という問題。「海洋放出」ということになれば、福島の漁業、風評被害は避けられません。豊かな海が自慢という福島県民の一人である天野さんの思いとは。


◆「海洋放出への合意形成を作ってきた丸9年だったのでは」

「潮目の海っていいまして、親潮と黒潮がぶつかる海でプランクトンもたくさん発生してそれを餌にして魚がたくさん集まってくる、そういう豊かな漁場だった。それが原子力発電所の事故のせいで汚されてしまったっていうのは多くの方々がご存知のところですよね。私は一県民として、この状況について非常に悔しいわけですよね。それが試験操業が始まった。いよいよまたこれで本格的に漁が始まるのかと思ったら、汚染水が、あるいは計測したら地魚から検知されたんで駄目ですと、それを何度繰り返してきたんですか、今まで。それでもへこたれないで今までやってきたわけでしょ?そしてさらに今度は何ですかトリチウム水。いよいよタンクいっぱいになったんで流すしかないんですって言ってきた。これようは、溶け出してしまった燃料に地下水が触れているので、ある意味“安定して汚染水が出続けてる”んです。だからタンクがいっぱいになったってこれも当初からわかっていたはずですよ。そして時期を見て流すしかないでしょうといういわゆる専門家の意見も借りながら、合意形成というんでしょうかね、それを作ってきた丸9年であったのではないかという風に私は思っています。トリチウム水は数字的に見ればエビデンスもはっきりしてますと。これは雑菌さえなければ飲むことさえできますという風に言うわけです専門家たちは。でもそれを実際にそれが流れたらばどういう反応しますか?多くの方々はいわゆる風評被害に繋がるということは明白ですから。この点について単に「トリチウム水は大丈夫です」という風に言うだけでなくて、そのための対策を今以上にやってくべきだし、いちばん大事にしなきゃならないのは、生産者の方々、そして消費者の方というふうに思っています。」




いまも試験操業が続く福島の漁業。ただ今年2月に、唯一続いていた「コモンカスベ」の出荷制限が解除になって、これで出荷を制限していた44魚種すべてが解除となりました。漁業関係者がこれまで、少しずつ検査をクリアして、本操業へ向けての懸命な努力を重ねてきた中、いまこの「トリチウム水」をどう処理するのか?に注目が集まっています。

『LOVE & HOPE』、今週は、福島大学「うつくしまふくしま未来支援センター」特任教授、天野和彦さんのお話でした。

2020年3月19日

「復興五輪の背後に横たわる“福島の課題”」?

引き続き、「復興五輪の背後に横たわる“福島の課題”」。福島大学「うつくしまふくしま未来支援センター」特任教授、天野和彦さんのお話しです。

夏にやってくる2020東京オリンピックへ向けてか、避難指示の解除や、鉄道の開通、避難者の住宅支援の打ち切りなど、「復興」につながる動きが加速している福島。

いま避難住民が直面していることを、全国の人たちが“自分ごと”として考えることが重要と、天野さんは言います。


◆「被災地はのこってますけど避難者誰もいませんよという構図」

「オリンピックとからめて考えると、避難者減っているとお話をしましたけど、“いついつまでに戻れば引っ越しの費用も含めて支援しますよ”という風にやってくわけですね。で、それまでに戻らないんであれば“それぞれ自己責任のもとで判断してくださいね”っていう風にやるわけですね。そうするとどうでしょう、オリンピックが開会になる2020年夏までにはどんどん全体の避難者のパイというのが小さくなっていって“ほら見て下さい、被災地はのこってますけど避難者誰もいませんよ”というこの構図ですよね。私はそれが本当に恐ろしいです。いわゆる同調圧力でしょ?そう思いませんか?っていう風に言われた時に、声の大きい人、声の強い人の声が、あたかも真理であるかのように伝えられていく。どうかそのリスナーの方々、日々の生活があっていちいち被災地の問題をとらえていくっていうのは難しいかもしれませんが、でも被災地で起こってる課題ってのは、他の地域でも起こりうる課題なんだっていう風なことですね。災害が起きたからその問題が顕在化したけど、じつはそうした「芽」というのは平時のうちからじつは地域の中にあって、それが災害が起きたことによって顕在化するってのは言われてきたわけですよね。さらに被災地の問題っていうふうに考えてしまうことで思考が停止してしまうわけですから、そうせずにそれがじつは平時と裏表なんだっていうふうに考えていくことで、より自分たちの問題に引き寄せて考えることができるのではないかという風に思います。それからこれをお聞きになっている被災者の方々、どうか訴えていって欲しいのは、被災をされていないその方々へ向けて、どうかその自分ごととして、当事者として考えて頂くような問題の投げ方投げかけ方をして頂きたいなという風に思います。」




“被災地はのこってますけど避難者誰もいませんよ”という建前を鵜呑みにしてはなりません。今でもつらい避難生活を続けている方は多く、支援の手は次々と打ち切られているのです。

一方、天野さんの周辺にも、26日に福島をスタートする聖火リレーに参加する人たちがいて、それぞれ、復興を発信したい思いや、感謝を伝えたい思いなど、この9年の間の様々な思いを胸に走るといいます。そんな「思い」を、ぜひ多くの方に感じて欲しい、ともお話されていました。遠くの出来事ではなく、福島でいまなお続いていることを、自分や自分の家族に置き換えて。

『LOVE & HOPE』、明日も、福島大学「うつくしまふくしま未来支援センター」特任教授、天野和彦さんのお話です。

2020年3月18日

「復興五輪の背後に横たわる“福島の課題”」?

引き続き、「復興五輪の背後に横たわる“福島の課題”」。福島大学「うつくしまふくしま未来支援センター」特任教授、天野和彦さんのお話しです。

「オリンピックの陰で“置き去り”にされてしまっている方々も少なくない」という天野さん。

じっさい、今月末に4つの町村で仮設住宅の無償提供が終わるなど、避難者支援打ち切りの動きが加速する一方、一時期より激減したとはいえ、今なお4万人あまりの方が、故郷を離れて避難生活を余儀なくされています。

9年が経っての今の状況について、天野さんのお話です。


◆「課題は格差」

「いつまでそういうことを引きずってるの?っていうふうに、実態をよくわからない、目にすることが少なくなってますから。風化が進んでですね。そんな風に思われている方々も少なくないんだと思うんですけれども、でも実態としては、引きずっているというのではなくて、本当に“置き去り”にされてしまってるので、課題がそのまま放置されている・・・丸9年経ってもじつはいまだに仮設にお住まいの方がいらっしゃる。結局たとえば復興公営住宅に入居するにもお金がかかっていく。つまり生活困窮の方々がワインの澱のように下の方に沈んでいくっていう状況がまだあるわけです。でも一方でいつまでもいつまでもこうしてはいられないよねっていうふうに思われて立ち上がっている方々も少なくないんです。私が今これは何を問題にしているかというと、その「格差」なんです。立ち上がろうとしてる方々もいるもう一方で、3月11のあの日のまま一歩も動けずにうずくまってる方々がいる。この国はいわゆるこの少数の方々、マイノリティを切り捨てる国ではなかったはずですよね。そういう時だからこそ、みんなで隙間を埋めあっていく繋がりあっていくっていうのは、ますます求められているという風に思いますね。これは何も災害だけではなくて、日本の社会が抱えている課題が顕在化するということですね。先取りして。これもどんどんそういう日本のあまねく地域が抱えていく課題が、被災地全体ではもうすでに常態化してきている。逆にいうとその課題に対して先進的な取り組みを行っていけば、福島県が一つのモデルになっていくのではないかという風に私は考えています。」




たとえば若い世代は、この9年の間に、避難先や、新しい場所に住処や仕事を得て人生をリスタートしたり、あるいは避難指示が解除になった故郷に戻って、故郷再生に力を注ぐことも出来ます。そうしている方も多いです。高齢者をはじめ、そうじゃない人との「格差」を、どうめていくのかが課題なのです。

そしてこの課題の解決は、少子高齢化が進む日本の根深い問題の解決にも通じます。

『LOVE & HOPE』、明日も、福島大学「うつくしまふくしま未来支援センター」特任教授、天野和彦さんのお話です。

2020年3月17日

「復興五輪の背後に横たわる“福島の課題”」?

今日からお届けするのは「復興五輪の背後に横たわる“福島の課題”」について。

今月、全町避難が続いていた双葉町の一部が避難指示解除になったほか、富岡町や大熊町でも避難指示解除のエリアが広がり、そして不通となっていた常磐線の一部も運行を再開、全線が開通しました。

避難者の数も現在4万人あまり。最も多かった時に比べて、4分の1の数にまで減少しました。復興が進んでいる印象を受ける反面、今月末には4つの町村で、仮設住宅の無償提供が終わるなど、避難者支援打ち切りの動きも加速しています。

こうした福島県、とくに双葉郡の住民の現状について、福島大学「うつくしまふくしま未来支援センター」特任教授、天野和彦さんにお話しを伺いました。


◆「置き去りにされてしまっている人も少なくない」

「福島大学で双葉郡の方々に調査をしたことがあって、これがいちばん直近の調査になるんだと思うんですけど、「あなたは将来の自分の仕事とか生活の希望についてどう考えてますか?」「大いに希望がある」とか「希望がある」と答えた方は16.1%だったんですね。それに対して「あまり希望がない」とか「まったく希望がない」とお答えになった方は半分を超えてるんです。50.4%ということで。これどう考えるかってことですね。丸9年ですよ。もういま10年目に入ってるわけで。一方で4万人弱というふうな言われ方をしてますよね、避難者の方々が。あれも実は数字のトリックというのがあって、たとえば仮設住宅にお入りになっていた、あるいはみなし仮設・・借り上げ住宅ですよね、そこにお入りになっていたその方々が、たとえば生活を今までもずっと送ってるわけですから、お子さんなんかを抱えてると、ちょっと手狭なので引っ越しをしたいっていって避難先の東京都で引っ越しをしました。あるいは福島県内に来て復興公営住宅に入居しました。これ住民の方々、避難者の意識っていうのは、避難をしてるという意識とはズレがないだと思うんですけど、でもそれはじつは避難者からカウントを外されてるんです。それこそ2年半ほど前は10万人近くいたのに、なんでこんなに急激に減るんだろう?故郷に戻ってきたのかな?というと、じつはそんなことはなくて、カウントから外されていた。つまり、オリンピックはオリンピックで大事な行事でそれを楽しみにしてらっしゃる方々がいるのはもちろんよくよくわかっていますし、その意義も承知しているところですけれども、一方でそうやって、情緒的な言葉ですけど、“置き去り”にされてしまってる方々も、少なくないんだっていう風なこと、ですよね。」





「復興五輪」と位置付けられる2020東京オリンピック。その聖火は、今月26日、福島県のJヴィレッジをスタートします。その陰で“置き去り”にされる人がいてはなりません。

明日も、福島大学「うつくしまふくしま未来支援センター」特任教授、天野和彦さんのお話です。

2020年3月16日

女川の生活の拠点、スーパー「おんまえや」9年ぶりに再開


3月12日、宮城県女川町で唯一のスーパーマーケット「おんまえや」が震災から9年ぶり再開。社長の佐藤広樹さんは店舗の入り口でお客さんを出迎え、
一人一人に買い物かごを手渡しました。

津波で社長の母と、専務の姉、従業員が犠牲となった「おんまえや」。佐藤さんは「同じ場所で再建するのが夢だった」と開店を待ちわびた大勢のお客さんを前にその思いを伝えました。


◆天国の母が一番喜んでいると思う
本当に長かったです。これまで9年間、本当に大変な思いをしました。みなさんもそうですけどうちの会社も本当に悔しい想いをしました。自分が生きてしまって、家族も従業員も会社も家もみんな流されて。唯一の救いが嫁と子どもと親父が残ったのが本当にありがたかったです。そして今日、たぶんうちの母親が天国で喜んでいると思います。私も死ぬときに女川で良かったなと思える街にしたいし、このおんまえやも私がやって良かったなと思えるような店にしたいと思っています。本当にありがとうございました。


店内には、お母さんの名前を付けた「かよちゃんの手作り惣菜」のコーナーも設けられています。また震災前からイートインコーナーが充実していたというおんまえや。こんなお楽しみ企画も予定しているそうです!

◆お刺身詰め放題と、食後にバケツパフェ!?
じつは日曜日「お刺身バイキングランチ」をする予定なんです。どんぶりにご飯が盛られ、それにお刺身詰め放題のランチをやる企画があり、そして今度暖かくなったら「バケツパフェ」というのも始めますので、こういった企画も毎月毎月いろんなことにチャレンジして、まぁ失敗もあるでしょうけど、こけてもこけてもまた起き上がる、あとは少々の事ではもうめげないので、とにかく前を向いて歩いていきます!


2020年3月13日

東京2020オリンピック競技大会 聖火ランナー 鈴木典行さん?

今週は、いよいよ3月26日にスタート、「東京2020オリンピック競技大会」の「聖火リレー」に参加する、ふたりの聖火ランナーの声をお届けしています。

今日ご紹介したのは、6月20日に石巻市を走る、鈴木典行さん。



東日本大震災による津波で、74人の児童と、10人の教職員が犠牲になった、石巻市大川小学校。鈴木さんは、当時6年生だった次女の真衣ちゃんを亡くし、現在は、児童の遺族らでつくる「大川伝承の会」共同代表をつとめています。

大川小学校を巡っては、去年の秋、学校の事前防災の不備など、行政の法的責任を問う大川小訴訟の高裁判決が、最高裁で確定。遺族の訴えが認められました。子供たちを預かる学校の防災体制に対する行政の責任、これが判決の確定によって明確になったわけですが、これについての鈴木さんの思い、聞いてみました。


◆「これを学校防災に役立てて欲しい」

「私は原告にはなっていないんですけど、裁判の結果とすれば、画期的な判断だったかなって思います。これからの学校防災、防災教育には欠かせないことですので。それがもし裁判で敗訴になった場合は、学校防災への目の向け方が変わってくると思うんですね。甘くなってくる。そういったことですごいいい判決だったと思います。追い風というよりも大川小学校であったことが今後起きないように。それは「事故」っていうだけではなくて、事故になる前の組織的な事であったり、そういったことが見直されて、学校防災に役立って頂ければなと思います。そして子供たちを守るんだという意識も高まっていくんじゃないかって思います。」



鈴木さんは、震災遺構として保存される大川小学校で、定期的に「大川伝承の会」を開催。自らの体験を通じて、学校防災や防災教育、命を守る行動の大切さを、伝え続けています。

地元バスケチームの選手とコーチという関係でもあった、娘の真衣ちゃん。いつも一緒にランニングをしていたということで、6月20日は鈴木さん、真衣ちゃんの名札を胸に着けて走る予定です。


「走ることによって大川から伝えたいこと、石巻から伝えたいことが、少しでも広まればいいなと思います。それは私だけではなくて、ほかの石巻で走る人、宮城県内で走る人、被災地で走る人、たぶん皆さん同じ気持ちなのかなと思います、ここから発信したい。災害大国の日本ですから、どこでどんなことが起きるか分からない。予想してたところ以外のところで発生してるっていうのが今の日本の災害なので。だけどどういった備えを持たないといけないのか、非常に難しいことですよね。だからいろんなところで災害あったと理解して頂いて、自分のところで起きたらどうなるんだろう、そういったことをシミュレーションしてもらうといいなって思います。そしていろんなところの語り部さんの話も聞くと胸に届くものがあると思うので、ぜひ災害に関して興味を持って頂きたいと思います。」



自分が味わった悲しみを誰にもして欲しくない。そして何より子供たちの命を絶対に守るために、鈴木さんたち「大川伝承の会」の取り組みは続きます。

どこを走っても、最後はトーチを持って大川小に戻ってくるという鈴木さん。応援しています!

2020年3月12日

東京2020オリンピック競技大会 聖火ランナー 鈴木典行さん?

今週は、いよいよ3月26日にスタート、「東京2020オリンピック競技大会」の「聖火リレー」に参加する、ふたりの聖火ランナーの声をお届けしています。

今日ご紹介したのは、6月20日に石巻市を走る、鈴木典行さん。



東日本大震災による津波で、74人の児童と10人の教職員が犠牲になった石巻市大川小学校。鈴木さんは、当時6年生だった次女の真衣ちゃんを亡くし、現在、児童の遺族らでつくる「大川伝承の会」共同代表をつとめています。

その「大川伝承の会」、鈴木さんは、震災当時のままの姿を遺す大川小を訪れる人たちに向けて、本当は思い出すのが辛いはずの自らの体験を語り、“二度と子供たちが犠牲になることはあってはならない”という思いを伝え続けています。

「何回目でしょ。もう3年なので、まあ年9回。何度も来てくれる方もいますし、そこからのお声かけで、たくさんの方、来てくれてますね。「大川伝承の会」としても発信はFacebookでしかやってないので、それでもこれだけの方が来てくださるというのは、やっぱりここには“学びに行く”。そういった場でもあると思うので、そういった目的で来てくれるんだなと思います。」



年に9回ほど開催される「大川伝承の会」には、一般の方はもちろん、教職に就く人や、地域の防災に携わる人などが、全国から訪れます。

その大川小の校舎の、“遺構としての保存”を巡っても、賛成と反対の意見が分かれるなど、揺れていた時期がありましたが、現在はどうなっているんでしょうか?


◆「存置保存」

「震災遺構としては学校はこのまま遺ります。石巻市の市長は「存置保存」という手段を選んだんですね。ですからこのまま手をかけないで遺ります。周辺いま工事始まってますけど、周辺、学校を囲むように公園になるんですね。その公園のための準備ですね。でも残念ながら“手をつけない”ということは、人が入れるように整備が出来ないので、中にいろんなものを展示して、たくさんの方が中に入るということは出来ないんですね。このまま「存置保存」として遺します。何十年経ってもこのまま遺るとは思うんですけど、やっぱり壊れていく、そういった姿も見ていかなくてはいけないのかなと思うとちょっと悲しいところがありますね。この花はボランティアの方が・・・今日も高校生の方がたくさん来てもらって、茨城から来てくれているんですね。そういった方が花を植えてくださって、ここをいつもきれいにしてくださってるんです。やっぱりたくさんの桜が咲いて・・・ちょうどこういう角度ですね、桜が咲いて、桜の下で子供たちが「お花見給食」をする・・・やっぱこう目を閉じるとそういう光景が思い浮かべられますね。」




思い出深い学び舎の保存。じつは集落があった学校の周辺は、いま更地だけが広がり、遺っているのはこの校舎だけなんです。教訓を記憶に留めて、悲劇を繰り返さない、鈴木さんたち「伝承の会」の取り組みは続きます。

2020年3月11日

東京2020オリンピック競技大会 聖火ランナー 鈴木典行さん?

今週は、いよいよ3月26日にスタート、「東京2020オリンピック競技大会」の「聖火リレー」に参加する、ふたりの聖火ランナーの声をお届けしています。

今日ご紹介したのは、6月20日に石巻市を走る、鈴木典行さんです。



東日本大震災による津波で、74人の児童と10人の教職員が犠牲になった石巻市大川小学校。鈴木さんはその児童の遺族らでつくる「大川伝承の会」共同代表をつとめています。

鈴木さんも当時大川小の6年生だった次女の真衣ちゃんを亡くしました。

どんな思いで、聖火リレーに参加しようと思ったんでしょうか。


◆「また娘と一緒に走れる」

「まず聖火ランナーがこちらに来るということで、大川小学校の前を・・・ここを走って欲しかったなというふうに思うんですけど、そういったスケジュールになってないので、ここに来ないんだったら、自分が行って、聖火を持って走ろうかと。真衣もバスケットをしていまして・・・ミニバスですね。で私がバスケットのコーチをしていたもので、一緒にいつも走ってたんですね。ですからまた真衣と走りたいなって、そういった強い思いから応募しました。最初は「内定通知」がメールできまして、12月の初旬でしたね。ああ良かった、ホッとしましたね。まあこれで娘と一緒に走れるんだなという気持ちで、まずホッとしたなと。写真はたぶん持てないですね。決まった格好で走らないといけないので。ただ「名札」。「大川小学校・鈴木真衣」の名札をここ(胸)に着けて走りたいなって思います。だから当日は、走ったらここに来ようかなって思いますね。トーチを持って。」




鈴木さんにお話しを伺ったのは、震災遺構としての保存が決まっている大川小学校。6月20日は市内のどこを走ろうとも、鈴木さんはトーチをかかげてここへ戻ってくるといいます。地元のバスケットボールチームに所属していた真衣ちゃんと、コーチをしていた鈴木さん。ふたりはよく一緒にランニングをしていたという仲良し親子でした。

真衣ちゃんは避難が遅れて命を落とした大川小の74人の児童のうちの一人。震災の2日後、学校の裏山の斜面に積もる泥の中から、捜索をしていた鈴木さんが自ら掘り起こしたといいます。

いまも震災当時のままの姿を遺す大川小には各地から見学者が絶えません。鈴木さんはここで「大川伝承の会」という語り部活動を定期的に実施。十分な時間があったにも関わらず、校庭に留まりつづけた当時の状況や学校側の対応、また教育現場における行政の事前防災の不備などを伝え続けています。

“二度と子供たちが犠牲になることはあってはならない”。そんな思いも、走ることを通じて伝えたいという鈴木さんのお話し、明日もお伝えします。

2020年3月10日

東京2020オリンピック 聖火ランナー上野敬幸さん(2)

今週は、3月26日からスタートする東京2020オリンピック競技大会の「聖火リレー」を走る、ふたりの聖火ランナーに注目します。

聖火リレー初日の3月26日、福島県南相馬市を走るのは、東日本大震災の津波で二人のお子さんと両親を亡くした上野敬幸さんです。「自分と同じ思いは二度としてほしくない」と、避難の大切さを訴え続けています。しかし、去年は台風の被害が東北の広い範囲にも及びました。各地の惨状を目の当たりにして、上野さんの胸には「悔しい」という思いが浮かんだといいます。

◆全て救える命なので。悔しい。
台風19号では福島が一番犠牲者が多かった。犠牲者がゼロじゃなきゃいけないのに。福島全体が津波の教訓というのを何も活かしてなかった結果でしかないかなと思っていて。犠牲者が出てしまったのは、「福島の復興は原発の復興」と言ってしまっている県知事なので、やはり津波から命が奪われてしまったこと、もう二度と命が失われないようにと、もっと県民にその教訓を耳にする機会があればこのような結果にならなかった気がして。残念というか悔しい。全て救える命なので。避難すれば亡くならないのに毎年避難しないで亡くなっている。どうしてこんなに繰り返すのか。その時に「まさか」という言葉がまた聞かれるわけで、その「まさか」は本当に聞きたくないし、命は失われてしまったらもう戻ってこないので。自分だってわかっている。どうやったって永吏可、倖太郎が「パパ」って言ってくれることはもう二度とないので。そうみんながならない為にどう行動するべきか。大雨、水害、地震の時に自分がどう行動するのかっていうのをみんなが考えれば亡くなる人はでないはずじゃないですか。後悔するのはもう僕じゃないので。みんなが後悔する。もう僕は泣かない。今の家族は何が何でも守るので。どうやって守っていくのかというのを本当にみんなに考えてもらいたいと思っています。


長男、倖太郎くんは未だ行方不明で、上野さんのもとに帰ってきていません。「この悔しい想いは、自分だけでいいんだ。二度と繰り返してほしくない」と語る上野敬幸さん。3月26日、聖火リレースタートの日に、南相馬市を走ります。

2020年3月9日

東京2020オリンピック 聖火ランナー上野敬幸さん(1)

今週は、3月26日からスタートする東京2020オリンピック競技大会の「聖火リレー」を走る、ふたりの聖火ランナーに注目します。

聖火リレー初日の3月26日、福島県南相馬市を走るのは東日本大震災の津波で二人のお子さんと両親を亡くした上野敬幸さんです。大切な家族を失いながらも、震災の教訓を伝えようと懸命に力を注がれています。

先日、上野さんのお宅にお邪魔して聖火ランナーの「認定証」を見せて頂きました。

◆亡くなったみんなに届くよう「笑顔」で走りたい
(認定書を見ながら一読)
『上野敬幸様。その一歩を福島から。あなたは地元をよりよくするチャレンジャーとして東京2020オリンピック聖火ランナーに選ばれました。』
Jヴィレッジをスタートして最後が南相馬市なので、聖火ランナーがスタートした26日、南相馬の区間を走ることが決まっています。こういう機会は一生に一度なのでそういうチャンスに恵まれたというのは正直本当に嬉しいし、選手の人たちはこれを目指して血のにじむような想いをして頑張っているのでそういう人達を応援したいという気持ちもありますから、そういうことに携われるのはうれしいです。復興五輪というくくりでスタートしているわけですから、被災3県と言われる宮城・岩手・福島県ではいろんな環境におかれた人たちが多く走ると思う。その中で亡くなった人が上から見てくれていると思うので、やはり安心してほしい、という想いが亡くなった人には大きいので、みんなに届くように笑って「笑顔」で走りたいと思っています。
また世界の人が福島を目にする機会が多くなると思うので、教訓として伝えられることがもし聖火ランナーとして自分が走ることがあるのならば、命という教訓、原発の事故を含め発信していかなきゃいけないと思っています。


上野さんは「生きている僕らが悲しい顔をしていたら、上で心配するから」と「笑顔」にこだわり活動を続けています。代表をつとめるボランティア団体「福(ふっ)興(こう)浜団(はまだん)」では毎年「菜の花畑迷路」や「追悼福興花火大会」を開催。会場がたくさんの笑顔に包まれます。
聖火リレーの当日も、「笑顔で走りたい」と意気込みを語ってくれました。

また「自分と同じ思いは二度としてほしくない」と「避難の大切さ」を訴え続けています。
そんな上野さんの想い、明日もお伝えします。

2020年3月6日

女川いのちの石碑 18基目の石碑が完成

今朝は、東日本大震災の教訓を後世に伝えようと活動を続けているプロジェクト「女川いのちの石碑」の最新レポ―トです。

宮城県女川町「女川いのちの石碑」。震災当時、女川第一中学校の1年生が町内にある21の全ての浜に、津波到達地点より高い場所に石碑をたてて、避難の大切さを伝えようという取り組み。先日18基目の石碑が完成し、その披露式が行われました。
プロジェクトメンバーの阿部由季さんと、女川中時代の担任教師・阿部一彦先生に話を聞きました。

◆「1000年後の命を守るため」
(阿部由季さん)宮城県女川町大石原浜に18基の石碑が立ちました。最後の21基目の石碑が女川小中一貫校に11月22日に立つ予定です。まず1000万円集まったということがすごすぎて、周りの方々が支援していただいたおかげ。この石碑が3月11日のことを思い出すきっかけにもなると思うし、地域の方々はもちろん、小中学生も目にすると思うので、まだ生まれていなかった子もいると思うので、これを見て「あ、地震が来たら逃げなきゃいけないんだ!」と思う人もいると思います。「1000年後の命を守る」というのは遠い話だけど、わたしたちも自分の子どもや孫に語り継いでいって、同じ思いをしないでほしいと思っているので、これが少しでも役にたてたらいいなと思います。

◆「21基立てて、そこからがスタート」
(阿部一彦先生)子どもたちが先日言っていたことは。「21基立てて終わりと思っている人もいるが、わたしたちにとっては違う。21基を立てて、そこからがスタートなんです」と。本当にそうおもっているんだろうなあということをひしひしと感じる9年目。この子たちはたぶん死ぬまで活動を続けるんだろうな、おじいちゃん、おばあちゃんの姿を見て、次の子どもたちも活動を続けるんだと思う。


「1000年後の命を守る」というのが、子どもたちの旗印です。これまで建立した石碑のうち15基がすでに「自然災害伝承碑」として国土地理院のウェブ地図に掲載されています。

またこの石碑を案内する「語り部」の活動もしています。毎月第3日曜日、10時に女川駅前集合とのことです。

女川いのちの石碑 サイト

2020年3月5日

大熊町・木村紀夫さんの「いま」?

引き続き、福島県大熊町、木村紀夫さんの「いま」をお伝えします。

東日本大震災による津波で行方不明となった次女・汐凪(ゆうな)ちゃんの遺骨の一部が発見されてから、この春で3年と3か月。いまも木村さんは「汐凪のすべてを見つけたい」と捜索を続けています。

実は木村さん、長女・舞雪(まゆ)ちゃんが東京に進学し独り立ちしたことで、避難生活をしていた長野県から、大熊に通いやすい福島県いわき市に転居。汐凪ちゃんの捜索を続けながら、一緒に過ごした土地を見守ろうと考えています。

◆ソーラーパネル1枚で生活
かわりの住まいは、いわき市の末続というところです。おそらく俺が生きている間にこっち(大熊)に戻ってくることは考えられない。いまの状況ではね。なので末続をベースにしてここにずっと通うと思っているので、中古の住宅、一軒家を買いました。ただ、8年ぐらい誰も住んでいなかったので電気はそのまま購入せず。電気はないです。ソーラーパネル1枚。必要のないものをどんどん省いていけば別に何の問題もないですよね。生きていく上では。今の自然エネルギー自体、この辺もそうだけれどもソーラーパネルがいっぱい並べられていて、山をわざわざ崩してそこに並べているところが結構あって、それが本当に良いのか? パネルが将来、30年後ぐらいに全部ゴミになったときにそれを処分できるのか、再利用できるのかというと、それはまだできない状況だという人もいる中で、なんかそれも原発の最後と一緒みたいな感じがして。それは違うなって。最初に考えなきゃならないのは、いまそれは本当に必要なんですかというところから考えなきゃならないなと思い始めて、今の末続があります。それはある意味、汐凪が準備してくれたものだと思うし、お膳立てしてもらっているような気がするね。これから何をやっていこうかなというような中で、やらなきゃいけないことをいろいろ(汐凪に)用意してもらっているような気がする。余計なことしやがって(笑)と思う反面、やらなきゃなとも思うし。それがある意味、いま生きている意味になっているんだよね。



木村さんはさらに、「震災後はみんな節電してたけど、結局もとに戻ってしまった。この土地は原発事故と津波、両方を受け、犠牲者が出た象徴的な場所。ここを復興公園にできれば、そういうことを改めて考える場所になるのではないかと考えている」ということも話しています。そしてそれが、自分に与えられた役割だと考えています。震災の年45歳だった木村さんは、もうすぐ54歳の春を迎えます。

2020年3月4日

大熊町・木村紀夫さんの「いま」?

引き続き、福島県大熊町(おおくままち)、木村紀夫さんの、「いま」をお伝えします。

東日本大震災による津波で行方不明となった次女・汐凪(ゆうな)ちゃんの遺骨の一部が発見されてから、この春で3年と3か月。いまも木村さんは「汐凪のすべてを見つけたい」と捜索を続けています。

まだ汐凪ちゃんを発見できる可能性がある自宅周辺の土地。そこは、「汐凪のお墓みたいなもの」。だから、そこが中間貯蔵施設の予定地だとしても、「土地を造成する状況には、できれば持っていきたくない」。高台に作った慰霊碑の前で、木村さんはそう話します。

◆「戻ってきてね」と言われている気がする
これから次につなげていくとかっていう意味では、なんかね、ここにまだ汐凪が残っている方が、「ここに戻ってきてね」と言われているような気がして。だから最終的には本当にここ(の土地)全体が、うちの土地だけじゃなくて、慰霊の場所みたいな感じで公園とかにできれば良いなと思っています。だからね、ある意味1000年先にここに津波があるときに、(自宅そばの高台に作った)あの慰霊碑が役に立つ時が来るかもしれないし。箱物を作るのじゃなくて、そこで何をするのかが俺は重要だと思っているんですよ。特に帰還困難区域とか中間貯蔵施設のエリアの中って表に伝わりづらいじゃないですか。もうすぐ聖火ランナーが走るんだけれども、おそらくその中で世界に配信されるのって「大熊町が復興しています」みたいな、そういう部分だけだと思うんですね。だけど、その裏に実はこういうところがあって、こういう思いでいる住民がいるというのは全く伝わらないと思うんですよ。だけど本当はそこに、教訓として残しておくものっていっぱいあると思うんですね。もちろん津波もそうだし、ここが特殊であるのは原発事故があったということですよね。それもちゃんと伝えなきゃならないし、慰霊もそうだし、伝承という意味ではここであったことを伝えることで次につなげていくというのが大事になってくると思うので。中間所蔵施設が順調に稼働して、原発も廃炉に向かって順調ですというのじゃなくて、その中でいろんなことがあったわけで、まあね、原発が良いか悪いかじゃなくて、ここであったことをちゃんと伝えて、あとは判断するのは皆さんなので。ただね、その考える機会を与えられる場所にしたい。



木村さんの土地は中間貯蔵施設の「緑地緩衝地帯」になるという話だそうですが木村さんによれば「なにを作るか全く決まっていない」とのこと。そこで木村さんは環境省などに、「復興公園にする」という案をこれから提案して、訴えていきたいと考えているということです。ただこれはあくまで、木村さんが個人として構想しているもの。実現するかはわかりません。

明日も木村紀夫さんのお話です。


2020年3月3日

大熊町・木村紀夫さんの「いま」?

引き続き、福島県大熊町、木村紀夫さんの、「いま」をお伝えします。

東日本大震災による津波で、行方不明となった次女・汐凪(ゆうな)ちゃん・当時7歳を探すため、立ち入り制限が続く大熊町へ一時帰宅して、捜索を続けてきた木村さん。

汐凪ちゃんの遺骨の一部が見つかったのは、震災から5年9か月が過ぎた2016年の年末。このとき、汐凪(ゆうな)ちゃんは、大熊町で唯一の行方不明者となっていました。

そして木村さんは、いまも捜索を続けています。今回、その胸の内を語ってくださいました。

◆ここを汐凪のお墓に
大熊町民としては死亡届けを出したので、行方不明者は「0」です。ただね、汐凪は全部は見つかっていないので。(捜索は具体的には)このへんの田んぼの捜索ですね。耕うんしながらずっと見て歩く、みたいな感じです。海岸沿いは歩くくらいしか、目視ぐらいしかできないですね。いまはもう防潮堤を作るためにもともとあった壊れた防潮堤を撤去しているんですね。そこで。ただ、やっぱりもしかするとその体の一部がそっちにある可能性もあるし、その可能性があるテトラポットを、そのまま残してその上に防潮堤を作るとか、そこに遺体がないって限らないじゃないですか。それ(防潮堤の建設)をやりますということに対して、いまのこの状況の中で異を唱えられるのは俺しかいないような気がするんですよ。9年経つんだから、そういうこともぜひ考えて欲しいなと思って。「やってもらえないですか」っつって頭を下げつつ。(どこまでゆうなちゃんが見つかると木村さんの気持ちが整理されるのか)たぶん見つかっても変わらないと思います。それは。起きた事は変わらないし、ほっとするとは思うんですが、だけどそれで元気になるとか気持ちが変わっていくというのはないと思います。俺の中では、ここをある意味、汐凪のお墓と考れば全部、それで整理がつくような感じです。だから余計にここを、いじらなくちゃ、造成しなくちゃならないという状況にはできれば持っていきたくない。うん。




※木村さんの自宅があった場所。ここを捜索の拠点にしている。

木村さんの自宅周辺は、除染廃棄物の中間貯蔵施設の予定地ということで、土地の明け渡しをめぐる問題はいまも続いているといいます。その一方、木村さんは長野県の避難先から去年、いわき市に引っ越しました。長女・舞雪(まゆ)ちゃんが東京に進学、独り立ちしたことで、より大熊町に近い場所から、通い続けるつもりだと話しています。

明日も木村紀夫さんのお話です。

2020年3月2日

大熊町・木村紀夫さんの「いま」?

今朝は福島県大熊町、木村紀夫さんの「いま」をお伝えします。

2011年3月11日。当時45歳だった木村さんは津波で妻と父、そして次女・汐凪(ゆうな)ちゃんを失いました。特に当時7歳だった汐凪ちゃんは行方がわからず木村さんは避難先の長野県から大熊の自宅に通い、捜索を続けました。

自宅は福島第一原発から3キロあまりの帰還困難区域。捜索できる日も限られます。それでも木村さんは捜索を続け、2016年の年末に発見された遺骨の一部が汐凪ちゃんのものと判明。木村さんは、51歳になっていました。

そして東日本大震災からまる9年を迎える今年2月。番組は、発見現場を木村さんに案内していただきました。

◆「戻ってきてね」と言われている気がする
そうですね、この土手の下あたりから見つかったんです。震災の年の5月下旬から2週間ぐらい、ここで自衛隊が片付けと捜索をやったんですよ。片付けといっても、瓦礫を持ち出して処分するのではなくて、何か所かに山にして置いておいたんですね。ここがその1カ所で、当日履いていた靴を俺、見つけていて、まさにその靴があった場所。そこから遺骨の一部が見つかったという。自宅から200〜300メートルくらいですかね。だから想像するしかないんだけど、うちの親父がやっぱりそのへんの田んぼの中から見つかっているんですね。おそらく一緒にいた可能性が高いんだとすれば、その周辺にいて、自衛隊に気づかれずに瓦礫と一緒に運ばれて、そのあいだにバラバラになっちゃったのかなといまは思っているんですけど。(そして遺体の2割が発見されたが)残りがどうなっちゃったのか、ただね、見つからなかったのは残念な反面、これからどうしていくとか、次につなげていくとかっていう意味では、なんかね、ここにまだ汐凪が残っているほうが、「ここに戻ってきてね」と言われているような気がして。それがあるので捜索もそうなんですが、ほかのこともやっているんですよ。ここをきれいに残していって、汐凪が人が好きだったのでたくさん人が来てくれるような場所にしていければ、そのほうが汐凪にとってはいいのかなと思っているので。だから最終的にはここ全体が、うちの土地だけじゃなくて、慰霊の場所みたいな感じで公園とかにできればいいなと思っています。



※発見場所は木村さんの自宅から数百メートル。捜索を手伝っていた作業員が汐凪ちゃんのマフラーを発見し、そこから遺骨の一部が見つかったという。

震災の年、45歳だった木村さんはこの春で54歳に。これまでに見つかった遺骨は「2割」。木村さんは「全部見つけるまで」と捜索を続けています。一方、木村さんの土地は中間貯蔵施設の建設予定地にあり、木村さんは捜索を続けられるよう行政に訴えているといいます。

明日も木村紀夫さんのお話です。

パーソナリティ 鈴村健一

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