2017年3月30日

3月30日 福島県楢葉町「ならはみらい」西芽衣さん2

今日も、福島県楢葉町で活動する西芽衣さんのインタビューです。

楢葉町は原発事故の影響で震災後避難指示が出されましたが、2015年9月に解除。いまは震災前の1割ほどの町民が町に戻って生活しています。
西さんは被災地支援ボランティアをきっかけに楢葉町で活動するようになり、2015年4月から1年間は、大学を休学して復興町づくり団体「ならはみらい」の臨時職員としても働きました。その後も月に数回、楢葉に足を運んで町民との交流を続けています。そんな西さんの目に映る、楢葉町の現状と課題とは。

◆助けあいの中で暮らしてきた生活が戻らない
目に見える部分、お店や銀行や病院など、当たり前に暮らしにあるはずのものが町に戻ってきたというのが一つ、進んでいると感じるところ。あとは自分の関わりのある楢葉の方が「震災から初めて自分の自宅に泊まるんだよね」とお話されたりすると、あの人が帰ってくるんだなあと、一歩一歩状況が変わりつつあるのを感じる。やっぱり不便さというものを感じている町民の方もいるし、それを理由になかなか帰れないと感じている町民もいる。そこの部分をどうするか。わたしが話を聞いている限りでは、もともと商店がそんなにたくさんあったわけではないが、やはり息子さん家族が避難先や別の町村に住むことになって、お年寄り夫婦だけで帰ってきたり、隣の方や親せきが帰ってこないと、いままでお使いをお願いしていたり、病院に送ってもらったり、助け合いの中で暮らしていた生活スタイルが戻らないので、そういう部分で不便になっているというのがある。なので、新しいコミュニティを構築する必要があると感じる。なかなか戻ると決められないという方の意見の中で、「除染の廃棄物のフレコンバッグを見るだけでも不安がある」という話ももちろんある。


除染による廃棄物を覆う黒い袋「フレコンバッグ」が、視覚的に住民に不安を与えている、という指摘。この「除染廃棄物の処理や廃棄」は、他人事ではなく、わたしたちが自分のこととして取り組んでいかなければいけない問題でもあります。

そして西さんはこの春、立命館大学を卒業しました。彼女が選んだ「進路」とは?

◆楢葉で暮らして「自分が住みたい町にする」
4月からは休学して臨時職員として働いていた「ならはみらい」の正規職員になります。楢葉に住んで楢葉で働く。一人の町民として生きていくということになる。休学を終えたときは、東京の実家に戻ってこいと言われていたのでそこで就職活動をして内定ももらっていましたが、「このまま東京に就職していいのだろうか」と思って。いずれは楢葉に住めるようにこの就職は修業だと思っていたのですが、その時間こそが大事なんじゃないかと思い直して。現地で暮らして、力はないけれど町民の方たちと一緒にもがこうと決断しました。両親には申し訳ないなと思っていますが、「自分が住みたい町にする」ことが目標であり償いだと思っています。これからの夢。期限がないので一歩一歩だと思っています。楢葉の良さってどこですか?と町民に聞くと、普通は「観光地」というと思うが、楢葉の人は「人と自然」と答える。自分の故郷のよさを「人」と認識できるって素晴らしいなと。大事な人たちと離れたからこそ、楢葉の人とののつながりを大事だと気付いたのかなと。震災前と同じではないかもしれませんが、新しいコミュニティを作っていくこと。町民同士だけでなく、町外から震災をきっかけに関わる人とのつながりを作っていきたいです。


楢葉町では、この4月から幼稚園、小学校、中学校が再開する予定です。またJR常磐線「竜田―富岡」間も今年中に運転再開する見通し。ただ一方で、町へ戻る若い世代は一割に満たず、町の復興、住民の心の面で難しさがいまだ多いのも現実です。

そんな中、この週末から飯舘村、浪江町、富岡町、川俣町の山木屋地区が楢葉町に次いで順次、避難指示解除となります。

2017年3月30日

3月29日 福島県楢葉町「ならはみらい」西芽衣さん1

今日は、福島県楢葉町で活動する西芽衣さんのインタビューです。

西さんは京都にある立命館大学をこの春卒業したばかり。実家は東京で、福島とは縁もゆかりもありませんでしたが大学の被災地支援のボランティア活動をきっかけに、楢葉町で活動するようになりました。2015年4月から1年間は大学を休学して楢葉町の復興と町づくりを支援する「ならはみらい」の臨時職員を経験。その後も、月に数回楢葉町に通って町民の方たちとの交流を続けています。

◆大学を休学して楢葉町へ
いちばん初めに休学して現地に行くという選択肢をもらえたのが、一年間休学していわき市のNPOで働いていた先輩がいて、「あ、休学して学んだり経験したりすることもできるなだな」と。楢葉町のことをもっと知りたいし京都からの支援では限界があると感じていて、一年間休学しようと決めました。それを後押ししてくれた機会がいくちかある。一つは楢葉での活動で知り合って文通をしていたおばあちゃん。町のことが大好きだが、町には戻らずに息子さんとご家族といわき市に家を建てて住むことを決めたと聞いた。楢葉は比較的放射性物質の線量も低く、避難指示の解除もいずれされるだろうとされていたので、おばあちゃんもいつから楢葉に戻るんだろうと思っていたが、あんなに町のことが大好きでいっぱい町のことを話してくれたおばあちゃんが別の町で暮らすことを決めたと聞いたときに、複雑さがたくさんあるなと思って、やっぱり京都からでは理解できていない部分がたくさんあるな、より現地で学びたいと感じました。あとは現地でお世話になっている役場の職員の方や他の方たちに、仲間として来てくれないかと言ってくださる方がいて、少し安心していくことができたかなと思います。


楢葉町は、2015年9月に避難指示が解除され、帰町して町で暮らすことが可能になりました。
けれども、避難解除から1年半経過した現時点でも戻った方は震災前のおよそ1割程度。「ならはみらい」の活動を通して見えてきたのは、町民一人ひとりが抱える「悩みや不安」でした。

◆戻る、戻らない、その選択の難しさ
避難指示が解除になって初めて「戻る」という選択ができるようになったときに、やはり「戻る」という選択ができるようになったからこその「立場の違い」が生まれたということが、わたしの中で想定ができていなくて。「あの人は町には戻らない」と耳にしてその方々が別の場所に住むという選択をなかなか人に言えなかったり、そういう話を聞いたときに、選択することの難しさとか、避難指示が解除されることによって複雑になっていくのを感じた。
2015年9月からは「ならは未来」の事務所も楢葉町に戻ったので、町に戻られた方とお会いする機会のほうが多くなっていったが、戻られた方たちは震災前のように集まって趣味の会をしたり、野菜を作ったりと生き生きと暮らす姿を見る一方で、「戻ってきてよかったのか」という不安を聴くこともあって。戻った方もいろんな思いをしながら暮らしているのを感じました。


今日は福島県楢葉町で復興支援と町づくりに携わる、西芽衣さんの声をお届けしました。

西さん、大学を休学して「ならはみらい」の臨時職員になる時は両親の反対もあったそう。それを懸命に説得し最後は納得してもらったとか。そして1年間「ならはみらい」で活動した後、大学に戻り就職活動をして、一旦は一般企業への就職が決まっていたのですが、その内定を辞退。この4月から「ならはみらい」の正規職員としての採用が決まり、楢葉町に移り住んで、本格的に町づくりに関わることになりました。

西さんが考える楢葉町の課題、そしてこれからの夢、明日の『LOVE&HOPE』でお伝えします。

2017年3月28日

3月28日 飯舘村 綿津見神社

引き続き、福島県南相馬市小高区「相馬小高神社」の神主・多田仁彦さんの
インタビューです。

多田さんは、相馬小高神社の神主ですが、ご実家は南相馬市のお隣・福島県飯舘村で、こちらにある「綿津見(わたつみ)神社」の神職も務められており、その飯舘村から避難して現在に至ります。そして飯舘は、この3月いっぱいで、福島第一原発の事故による避難指示が「一部を除いて」、解除されます。

◆苦難を乗り越えた先祖のためにも
(※聞き手:中西哲生)
(綿津見神社に行くことはなかなか無いんですか)そんなことはなくて、両親がおりますし70才を越えてますので様子も見に行かないということで。(ご両親は飯舘村のほうに?)うちの宮司はずっと避難しないで居たんですけど、母のほうは梁川から通って、私は南相馬からということでみんなばらばらになってしまいました。(飯舘村も3月末には避難指示が解除されるという話がありますが)それに向けて動いています。神社にはお正月の参拝の方も変わらずに来ておりまして、やっぱりいなければならないなと思っています。父親の跡を継いで戻るために神主になりましたので。(何年続いているんですか)1200年ですね。(実際、飯舘村の除染の具合は)ほとんど終わってフォローアップ除染をやっている状況じゃないですかね。私も行政の人間ではないので詳しくないんですが・・・。線量の話をするとなかなかね・・・事故当時よりはかなり低くなりましたね。(でも家族で飯舘村に帰還するのはためらわれる)そうですね。やっぱり私の意思だけじゃなくて相手の意思もありますし。なんというか難しいな・・・。(ご夫婦で戻られることは考えたいけれども難しい)将来的には夫婦でも戻りたいとは思っています。(夫婦の間でもデリケートな問題ですよね)これは私や家族だけじゃなくて、みなさん色んな問題を抱えているんじゃないかと思います。(自分が生まれ育って、1200年続く神社、思い入れのある場所がそうなってしまったことについては)本当に残念の一言ですね。ただこの前にも天明の飢饉や苦難がたくさんあったと思うんです。その時に私のご先祖や神主は乗り越えてきたわけで。なんとか一筋の光でもいいから突破口を見つけてやっていきたいと今は思っていますね。(前に進んでいる印象はありますか)それはありますね。事故当初は着の身着のままで避難したわけですから。(将来はどうなっているといいですか)農業を再開できたらいいなと思いますけど、これはなかなかね。でも水耕栽培とか色々考えている方はいらっしゃるみたいで、そういうんだといいなと思いますね。(逆に我々ラジオの前の人間が出来ることは)忘れないで、教訓として、見守っていただければと思います。


3月31日から4月1日にかけて、飯舘村、浪江町、富岡町、川俣町山木屋地区が避難指示解除となります。復興庁の調査によれば、飯舘村は比較的「戻りたい」と考えている住民が多いようですが、とはいえ3割ほどです。一方、浪江や富岡は、「戻らないと決めている」という方が5割を越えています。

2017年3月27日

3月27日 南相馬市 相馬小高神社

今朝は、福島県南相馬市小高区「相馬小高神社」からのレポートです。

相馬小高神社。国の無形文化財でもある「相馬野馬追」という甲冑姿の武者と馬による神事は番組で何度も紹介してますが。その野馬追の舞台の一つとしても知られています。鎌倉から江戸時代にかけてこの地域を治めていた大名のお城のあとに、鎮座した神社です。

そんな小高神社の神主が、多田仁彦さん。


神社のある南相馬市小高区は、福島第一原発の事故による避難指示が解除され、8ヶ月が経過していますが、いま、神社は、そして地域はどんな状況なのでしょうか。

◆避難解除から8ヶ月
7月に小高地区は避難解除になったんですが、やっぱり新しい建物が立ったり人の行き来が少し活発になってきたなという印象はあります。ただ帰還した住民はまだ少ないので夜になると真っ暗で寂しさを感じるところはある。(お店などは?)魚屋、食堂のラーメン店や寿司店はあるしコンビニも徐々に開いてきている。ただ夜になるといないので、そのあたりはもうちょっと時間をかけてだと思うんですけど。(夜になると人がいないというのは、昼間はこちらに戻ってくるが夜はまた避難先に戻るということですか)そうです。夜は避難先の原町や鹿島に帰って、昼間は家の手入れをされたりとか。あとは除染作業や復興作業をしている方々が昼間はたくさんいらっしゃっているので。(実際、線量などで不安な部分は)最初はかなり気にしていたんですけど、最近はあまり気にならなくなったというか慣れちゃったんでね。まずは居住空間が先だということで住宅などは除染は終わっていまして、農地ももうそろそろ終わりに近づいています。課題は森なんですね。森はかなり線量が高いと言われていますので、その点に関しては国や自治体がやることなので。(ただずっとこの場所にいることに意味があると思ってらっしゃるんですよね)よく言われるんですが神社はこころのよりどころと言われますが、本当に戻ってきた方がみなさん参拝に来られて、ここは桜の名所なので一面に桜が咲きますが、その桜にも手を合わせてくれるんですね。そういう(神社としての)使命感が震災後に強くなりましたね。(実際このあたりに住んでらっしゃる若い方々は戻ってきている印象はありますか)子どもさんや学校の問題があるのでなかなか難しい面があるんじゃないかと思いますね。戻ってきたという話はあまり聞かないですね。(復興庁の調べだと15%くらいしか戻らないんじゃないかという話もありますが)それをこれからどうしていくか。神社としても地域の人と協力して交流人口を増やしたり、人の出入りを増やして活性化させて補うしかないんじゃないかと思いますね。そのあとおいおい、人が住んでいくような形になればいいと思います。


この相馬小高神社、桜の名所としても知られているということです。(福島の桜の開花は4月上旬だそうです)

また、多田神主は、同じく福島県飯舘村にある神社の神職も務めています。明日は、まさにこの春に避難指示が解除されることになる飯舘村の「いま」についてお伝えします。

2017年3月24日

3月24日 南三陸町・戸倉 阿部富士夫さん

水曜と木曜のこの時間は、故郷から巣立つ南三陸町の若者の声をお届けしましたが、今朝はそんな若者を送り出す大人の声をお届けします。

ご紹介するのは、宮城県漁協 志津川支所の戸倉事務所長、阿部富士夫さん。震災後、戸倉地区の主産業でもある漁業の復活をけん引してきた方です。津波で戸倉の海も壊滅的な被害を受けたんだそうですが、当時の様子とそこからの歩みについてお話を伺いました。

◆96名が一緒になって漁業の再開へ
海は養殖施設も無くなったし牡蠣処理場など共同処理場も津波でなくなり何もない状況。あるのは転覆した船、がれき。(そんな中仕事を続けられると思いました?)GW過ぎて東大の教授が志津川湾の海底の様子を見ようとロボットを入れてくれたんです。志津川湾のイメージはもう瓦礫だらけなのかと思ったら、え、こんなもんなのか?これなら漁業を再開できるんじゃないかというのがロボットの映像を見た時の第一印象で、みんな大歓声。うれしかったですね。(それが大きな活力になって漁業の再開へ?)今回震災後に96名が1つのグループになって、96人のグループが一緒に作業するというのは震災前は考えられなかった。漁師は3人集まればトラブルになるのに96人が一緒にできるなんて無理だと言われた。でもうちは多くの船が津波で流され残った船は1割。それをみんなで共有して復旧していこうという思いになったのは、戸倉地区の絆やつながりの強さではないかと思います。今回の震災で漁協の職員で唯一亡くなったのは支所長だけだった。自分としては、もし支所長が生きていたらどう取り組んだか、常に仕事をする時に支所長はどう考えているかを想いながら取り組んだのを覚えています。


そうして気の荒い漁師が力を合わせた結果、何が起きたかというと、去年の3月、戸倉の牡蠣養殖が日本では初めて国際認証であるASC(水産養殖管理協議会)の漁業認証を取得したんです。このことについても、阿部さんに聞いてみました。

◆持続可能な環境に配慮した養殖の証「ASC認証」取得!
今回ASC認証を取得しました。今回のASC認証も養殖施設の間隔を広くとって、台数的には震災前の3分の1に減らしたんです。過密養殖をやめたことで2年から3年で収穫だったのが1年で収穫できるようになりました。1年で収穫できるというのは宮城県内でもなかなかない。減らしたことは今の自分達が生きていくためにも大切だが、これからの次の世代、子どもたち孫達に漁場環境をバトンタッチすることが、震災で大きなものを失った中での大きな役割ではないかと、牡蠣部会を中心にみんなでまとまって取り組んだ成果が認証に繋がったのかと思います。戸倉地区の牡蠣の後継者は比較的他の地区より多いんですね、高校卒業してすぐ漁業に携わる子もいれば、都会で勉強して戻ってくるのもあり、私たちにすると本当にこんな嬉しいことはない。でもそこはカキ養殖が魅力がないと、それなりの収入がないとサラリーマンになった方がいいとなるので、これは本当に有り難いこと。ヒトが少なくなるということは漁業自体も衰退する。今頑張っているおじいさんもいずれ引退する。その時に若い人たちが戻ってくる海にしたいです。

今朝は、宮城県漁協 志津川支所の戸倉事務所長、阿部富士夫さんのお話しでした。

ASC認証 = 養殖漁業に関する国際的な認証。環境に配慮した持続可能な養殖業に対する国際的な「お墨付き」。子供たちへいい漁場環境を受け継ぎたい思いが認証につながったというお話でした。この国際的に認められた戸倉の牡蠣は、「南三陸戸倉っ子かき」として、大手スーパーなどで流通。「戸倉」の名前が付いたものが全国に流通するようになったことについて、阿部さんもじつに感慨深そうでした。

2017年3月24日

3月23日 南三陸町・戸倉 未須藤帆さんの旅立ち

今朝は昨日に続いて、東北の若者から届いたメッセージです。

ご紹介するのは、この春、故郷を離れて仙台の大学に進学する、宮城県南三陸町・戸倉地区の須藤未帆さん。昨日お届けした、佐藤貴大くんとは、幼稚園から高校まで一緒でした。

震災当時は小学校6年生。津波で自宅は全壊し、無事だった親戚の家で生活。そして進学するはずだった戸倉中学校は被災して校舎がつかえず、登米市の廃校を間借りして送迎バスで通学をつづけました。そのあとは同じ南三陸町の志津川中学校の一部を借りて3年生までを過ごし、この年に閉校となった戸倉中学校の最後の卒業生となりました。

そして今年、志津川高校を卒業し、大学進学のために町を離れます。そんな須藤未帆さんに、あらためて6年前の震災当日のことを伺いました。

◆喘息の薬が全て流され・・・
私は小学校6年生で小学校に居て、地震が来たので五十鈴神社に逃げたんですけど、低学年の子とかもいて自分たちが支えなきゃって思いながらやっぱり怖くて、同級生の人に背中撫でて貰って「大丈夫だよ大丈夫だよ」って言われてる方で、自分本当に頼りないなって思いながら過ごしてたんです。(お母さんお父さんと会えるのは?)会えたのは次の次の日。父が先輩のお父さんと迎えに来てくれて一緒に帰ったんですけど、瓦礫でいっぱいの道路を歩いて避難所になってるところまで帰って、そこで初めて両親と祖父母と会えて、母が泣きながら「よかったよかった」って抱きしめてくれて、会えてよかったなというのと無事でよかったってすごい安心して忘れられないなって思います。で、まず津の宮荘が無事だったのでそこに避難して家族と2週間くらい一緒に居て。私は昔から喘息を持ってて薬がぜんぶ流されてしまっていつ発作が起きるか分からないので仙台の親せきにどうにか車とか用意してもらって迎えに来てもらって、私一人だけ仙台に移ったので、こっちの人たちがずっと大変な、電気もないし水もないしっていう苦労をしてた中で自分だけ少し違う生活をしてしまったっていうのが心に残ってたりしています。


体が弱かった未帆さん。そのために大変な時期を家族と過ごせなかったことが、未帆さんのそれからに大きな影響を与えることになります。

◆震災の経験がきっかけ「薬剤師になって医療の面で復興を支えたい」
(ミポリンも大学に進学)そうですね。自分は小さい頃から体が弱くてとにかく勉強が出来るようになってそれを武器にしないとほかの人と同じには生活できないんだろうなって思ってたので、とにかく勉強したいって考えてはいました、で、私元々小学生の時は、高校生になったらこの町を出て仙台行って早く勉強したいってずっと思ってたんですけど、震災があっていろんな人たちと出会って、地域の良さも知れて、そしたらまだこの町に居たいって思いがすごく強くなって、それで高校も志津川高校にして、大学も行ったらぜったい帰ってきてこっちで仕事しようって決めて、これからもいきたいってずっと思ってて、やっぱりいろんな人に支えられて、震災のおかげで皆さんとも出会えてほかにもたくさんいろんな人に出会えて、そういうことが自分を変えてくれて、だから震災をマイナスに考えないで、自分がどうしたいのか夢が明確に決まったのでやっぱり、うまく言えないんですけど・・・(大学はどういう学部?)薬学部で薬剤師になる勉強をしたいです。(なぜ薬剤師?)やっぱり震災の時にやっと家族に会えたのに、自分は薬が無くて仙台に行かなきゃいけなくなったので、私みたいに薬がないことで家族とバラバラになったり、人と一緒に生活できないっていう人はたくさん居たと思いますし、そういうことがあったから薬の大切さ、震災の時に医療がしっかりしていれば、家族と過ごせた人もいたんじゃないかって思ってたので、自分が薬について学んで、こっちに戻ってきて、復興を医療の面で支えられるようになりたいと思って、薬科大に行くことを決めました。


この春、故郷を離れて仙台の大学に進学する宮城県南三陸町・戸倉地区の須藤美帆さんの声をお届けしました。

医療の面で町に復興を支える人になりたい、と薬剤師を目指して仙台の大学に進学する須藤未帆さん。中学生の頃から何度も顔を合わせていますが、これほど強い思いを持っていたのは始めて知りました。昨日お届けした貴大くんもそうですが「震災の経験をしっかり受け止めて、町の未来のために何かできる大人になりたい」と言っている姿はほんとうに大きく見えました。また戸倉はそういった希望の光、子供たちを大人たちが優しい目で見守っている、そういった地域だなと今回の取材で改めて知りました。薬科大という事で卒業までは6年。戸倉の町で24歳になった美帆さんに会うのが本当に楽しみです。

2017年3月22日

3月22日 南三陸町・戸倉 佐藤貴大くんの旅立ち

今朝は昨日に続いて、東北の若者から届いたメッセージです。

ご紹介するのは、この春、故郷を離れて仙台の大学に進学する宮城県南三陸町・戸倉地区の佐藤貴大くん。戸倉地区は南三陸町の中でも被害の大きかった、小さな港町です。震災当時貴大くんは、戸倉小学校の6年生でした。

◆長くあけない夜
あの時は校庭から高台に避難して待機している時に津波が来て、堤防を越えてきたときの真っ黒い濁流とその勢いは今でも忘れられない。あの時が人生でいちばん一日が長く感じて、ぜんぜん夜が明けなくて、皆で「まだこんな時間なのか」と話しながら過ごしたんですけど、雪が降っていて、自分たちは外で一つのたき火を6年生皆で囲むっていう形だったんですけど、皆怖かったので、円になって気を紛らわすようなくだらない話をしたり、なかなか進まない時間をどうにか過ごしていた感じでした。


貴大くんとその家族は、避難所生活、隣町での「みなし仮設住宅」での生活が5年以上続きました。多感な中学・高校時代を、不自由な中過ごした貴大くんにとって、この月日はどのようなものだったのでしょうか。

◆反抗期を経て高校生へ
自分たちこどもを助けてくれたのは周りの大人たちだったんですけど、避難所生活が続くとみんな心にも余裕がなくなってきて、大人のつらそうな顔が一瞬でも見えたりして、自分たちでできることは自分でやって、周りを助けられるようになることが今は大切なのかなと思って過ごしていました。(まだ甘えたい時期だったのでは?)思春期で親とかに迷惑をかけたことはたくさんあって、中学生の時に反抗期であまり一緒に居たくなくて、布団から出なかったり、ご飯を一緒に食べなかったりしたんですけど、そこから高校生になって、考え方も少しずつ大人になってきて、あまり迷惑をかけないようにしよう、という訳ではないんですけど、もう少し周りのことを考えて、周りの人のために動けるように生活しようと高校生の時に思いました。


この春、貴大くんは大学へ進学します。でもじつは彼がまだ中学3年の時に話を聞いているのですが、その時はお父さんの跡を継いで銀鮭の漁師になりたい、と話してくれました。あれから3年、どんな心境の変化があったのでしょうか。

◆英語を学んで東北の魅力を世界に発信したい
その時、自分の同じ仕事に就きたいと思っていたんですけど、海での仕事なので、使っていたものとかほとんど無くなって、海も大変な状態だったんですけど、それでも何とか、自分たち家族のため、やらなきゃいけないと感じて、やってたのが分かるので、その時はそう思ってました。(でも貴大くんは大学進学を選んだ)これから英語の勉強をしていく予定なんですけど、きっかけは中1からOECD東北スクールの活動に参加して、高1でフランスのパリに行って、1週間くらい東北の魅力を世界に発信しようというイベントに参加したんですけど、その時に自分たちのところに来てくれた人たちに魅力を伝えようと思ったら英語は絶対に必要なものだったし、震災のことをこれから伝えていくためには、英語を話すとか海外の文化を理解することは必ず必要だと思ったので、英語の勉強をしたいなと思いました。


いつかはお父さんの跡を継ぎたいと思いながらも、仙台の大学に進んで語学を学び、自身が体験した震災のこと、そして南三陸町の魅力を世界に発信できる人間になりたいという貴大くん。一人の少年が震災を通じて大きく成長したのを感じました。

明日は、同じ戸倉からこの春旅立つ、須藤美帆さんのメッセージをお伝えします。

2017年3月21日

3月21日 釜石出身、小笠原舞さんのあの日

今日からの3日間は、東北の若者から届いたメッセージです。

◆「津波てんでんこ」
岩手県釜石市出身、群馬大学2年の小笠原舞です。
津波てんでんこを始めて聞いたのは、小学校高学年のとき片田先生の津波に関する講演のときだったと思う。最初は肉親にもかまわず一人で逃げろと聞いて、実際に津波がきたら家族とかおいていけないから絶対に無理だと思っていたが、小学校中学校と防災について活動する中で、自分が率先して逃げることで周りの人の命も救えると思てって、津波てんでんこはいい言葉だと思った。


岩手県釜石市は、防災教育のスペシャリスト、片田敏孝さんが東日本大震災の前から「津波てんでんこ」を熱心に広めた街です。これにより、釜石で多くの命が救われたことはよく知られています。
小笠原舞さんもそんな片田先生の教えを受けた生徒の一人です。

2011年3月11日。舞さんは、あの日の出来事をこう振り返ります。

◆津波てんでんこを実践したあの日
わたしはそのとき中学2年生で地震のときは学校の渡り廊下の天井が落ちたり、グラウンドの地面が割れて水が吹き出してきました。絶対津波がくるから危ないと思って、先生の指示もありましたがそれよりも生徒たちが率先して第一避難場所まで一目散に避難しました。地域の方は中学生が避難しているのを道路で見ていたりして、地域の方にも「津波が来るから逃げろ」と避難を促しました。第一避難場所についたら近くの山が崩れているのを見つけて、さらに急な坂を上って第二避難場所に避難しました。第二避難場所についたら「ごー」というものすごい大きな音が鳴り響いたので振り返ると津波が見え「これは死ぬな」と思って、自分の意志でさらに高いところに逃げなきゃと、なにも考えず逃げることに集中して必死に逃げました。絶対逃げてないと思ったから家族の安否も心配で。
片田先生の3つの教えが「率先避難者たれ」「想定にとらわれるな」「その状況下において最善を尽くせ」。釜石東中学校(海抜3メートル)はもともと浸水区域外だったのですが、想定に取らわれず逃げることで生き延びることができました。


震災を経て「自分にできることはなにか」と考えた舞さんは、高校卒業後、片田先生が教える「群馬大学理工学部」に進学しました。

◆防災教育を学んで、将来は岩手県の防災活動に取り組みたい
地震があって防災教育の大切さを身に染みて感じた。自分がなにをしたいかと思ったときに、防災教育を岩手県に広めたいと思った。それで防災教育が学べる群馬大学に進学した。片田先生の研究室に所属してどうしたらみんなの意識が高められるか、多くの命を救うにはどうしたらいいかを学びたい。卒業後は岩手県庁に入って岩手県全体の防災活動に取り組みたいです。


舞さんは来月から群馬大学の3年生に。さらに専門的な知識を身に付けて、将来故郷のために力を尽くしたいと話してくれました。
LOVE&HOPE、明日は宮城県南三陸の若者から届いたメッセージです。 

2017年3月20日

3月20日 女川・いのちの教科書 完成!

先週お伝えしていた、震災の経験を次の世代に伝える『女川いのちの教科書』中学生版が先日完成し、18日土曜日、その披露式が行われました。

「この活動を始めて6年になりますが、自費出版という形で教科書を出版することができました。文章を形にして世の中に出す、人に読んでもらうというのが初めてなので、伝わるかな、変じゃないかな、大丈夫かなというのがすごくあります。何回も修正して、自分たちで納得いくものをこれからも話し合って語り継いでいきたいです。」
「この教科書ができたから満足、というメンバーは一人もいないと思う。災害が起きたときに犠牲者がゼロにできたというニュースが聞けたら、自分たちがやってきたことが正解だったというか、その日がゴールじゃないですけど、もっともっとよりよいものにしていきたいです。」


子どもたちから完成した教科書を受け取ったのは、女川町の須田善明町長。
そして、保護者の代表「子どもたちを支える会」会長 山下由希子さんです。

◆「来年は震災を知らない子たちが小学校へ入学してくる」須田町長
大人になったね。高校ご卒業おめでとうございます。皆さんが中学に入学する直前に震災があって。今日は小学校の卒業式がありました。彼らはあの直後に小学校に入学した子どもたち。そして来年小学校に入学する子どもたちは2011年4月以降に生まれた子どもたち。もちろんあんな経験はしたくないが、もうあれを体験していない子どもたちが学びの段階に入ってくる。こうして月日の流れはいろんなものを変えていく。でもその中でも伝え続けなければいけないものを、皆さんはあのときからずっと時間をかけて、自分たちの手で、こういうふうに一つの形を作ってくれました。これからの世代や震災のことを知らない方たちにずっとつなげていくことを大人の責任として約束させていただいて、わたしから感謝の言葉とさせていただきます。


◆「この子たちの思いが形になるのは、次の震災でいのちが救われた時」山下由希子
わたしはいま初めてこれを手にとって、言葉になりません。今年の6年目はいままでとも違って、とても苦しい6年目でした。そんなときにぶれないで前を向いている子どもたちに力をもらっています。ここまでの子供たちに育ててくれたのは女川町。保育園、小学校、中学校。女川の土と海と空気と空がこの子たちを育ててくれたと思っています。この教科書も子どもたちだけでは作れませんでした。たくさんの人たちに支えられて一冊になりました。この子たちの思いが形になるのは、教科書と石碑でいのちが救われた時だと思います。苦しいけどまた明日もきっとこの震災を背負って、抱きしめて、生きてきたものが伝えていくのが使命。支える会ですが、子どもたちに支えられて、ちょっぴり希望のある明日をみんなと生きていこうと思います。そして最後に、今日まで6年間頑張ってきた子どもたちに感謝したいと思います。ありがとうございました。




この日、塚浜と石浜で「女川いのちの石碑」の披露式が行われました。これで目標の21基中、14基が完成。


この春メンバーは高校を卒業。それぞれの進路に進みますが教科書の作成は続きます。今後は小学生版、大人用の作成にとりかかるということです。支援サイトもぜひチェックを。   
「いのちの教科書」クラウドファンディングサイト

2017年3月16日

3月16日 女川・いのちの教科書(4)

今週は、宮城県女川町から「1000年後の命を守るプロジェクト」のレポートです。

女川第一中学校の卒業生が取り組む「1000年後の命を守るプロジェクト」。「いのちの石碑」は目標21基のうち、現在12基が完成しました。また「いのちの教科書」は今回中学生版の作成が完了しました。

高校3年間だけでも、集まった回数は100回以上。その数字からも彼らの熱意が伝わってきます。

震災当時小学校6年生だったプロジェクトのメンバーは、この春高校を卒業。それぞれの思いを胸に、新たな一歩を踏み出します。

◆海上保安官になって人の役に立ちたい
山下脩です。年上だけど一緒にサッカーとかしてくれてた人が、おばあちゃんを助けに行って流されてしまって。悲しいという気持ちと、一回高台に上がったのになんで下がってしまったんだろうと。一回逃げたのにまた助けにいって亡くなってしまうと、逃げないで流されるよりさらに悲しみが増える。そういうことがこれから起きないようにいまこの活動を続けています。
進路は京都にある海上保安学校に進み海上保安官になりたいと思っています。震災のとき海上保安官ががれきの海に潜ったりしたのを見て、自分も人の役に立ちたいなと思いました。自分はいままで海に育ててもらったので、小6までずっと女川で海からの恵をもらってきたので、震災で亡くしたものもいっぱいありますが、これからも海と一緒に生きていきたいです。やっぱり海が大好きなんです。


◆お風呂に入るように「当たり前」になればいい
渡邊滉大です。1000年先なんでいつ途切れてしまうかわからないが、自分たちは生きている限りはこの活動を続けて、いまのうちに教科書を完成させて、地域、日本、世界とどんどん広げていって、当たり前になっていけば、忘れないと思う。普段の生活で風呂に入るとかは考えなくてもやろうと思う。防災に対する意識も小さいときから教科書などで学んで知識を植え付けておけば、例えば地震が起きたら高台に逃げることが一番。あとは自分だけの身を守るのではなく高齢者や障害のある方も共助していくのが当たり前になればいいと思う。
将来は建築のほうに進みたいと思っています。女川町もコンクリートの建物が倒れてしまったので、いろいろな地域で人々が災害から安心して暮らせる街づくりに貢献したいです。


海上保安官を目指すという山下脩くん。建築の勉強をして災害に強い街づくりに貢献したい という渡邊滉大君。それぞれの進路に進みながらも、この活動は“死ぬまで継続したい”と話してくれました。


「女川いのちの教科書」は今回中学生版が完成しました。今後は小学生版、大人用の作成を続け、ゆくゆくは全国の学校に届けたいということ。現在、この活動資金、制作資金を募るためクラウドファンディングでの呼びかけを始めています。
「いのちの教科書」クラウドファンディングサイト

2017年3月15日

3月15日 女川・いのちの教科書(3)

今週は、宮城県女川町から「1000年後の命を守るプロジェクト」のレポートです。


女川第一中学校の卒業生が取り組む「1000年後の命を守るプロジェクト」。具体的な活動内容は2つです。一つは、津波到達地点に避難を呼びかける「いのちの石碑」を建てること。そしてもう一つが、震災の経験を次の世代に伝える「いのちの教科書」の作成です。

メンバーの一人、伊藤唯さんは「あの日の光景」をいまも忘れることができないと言います。

◆みんなの成長が羨ましかった
学校から逃げる途中に津波を見てしまって、黒い波が家を飲み込んでいきました。ずっとそれが未だに離れないんですけど、毎日震災のことを思い出しては眠れず、頭痛がひどく、親にあたったり泣いてぶつかったり、ずっと長い間続きました。でも一彦先生が授業で震災のことを取り上げてそれから活動する中で、わたしはやりたいと思わなくて、どんどん活動が大きくなる中で自分は石碑とか教科書とか絶対無理だとマイナスに考えていて。それが実際に石碑が建ったりしていったのを見て感動して。一緒にやってきたみんなも成長してて、みんなすごいなと思って。それで一生けん命やってみようかなと思いはじめました。わたしは東京の大学への進学が決まっているのでみんなで集まる機会は減ってしまうけど、活動をやめるつもりは全くなくて。今まではみんなでやってきたことだけど、わたし個人としても東京で広げていけたらこの活動のことや、命の尊さを伝えることができるんじゃないかと。春から東京に出ますけど、自分個人として行動していけたらと思っています。


伊藤さんは通信制の高校に通いながら、東京のダンススクールに通っていました。そして、この春上京して大学に進学。ダンスと勉強。そして震災の経験を伝えること。夢は広がります。

◆ダンサーになるのが夢 私のダンスで笑顔になってほしい
わたしはダンサーになるのが夢。震災のときにその思いが強くなった。震災のとき笑顔が消えてしまった。人の笑顔が好きなので、笑顔がなくなるのがすごく悲しくて。わたしのダンスを見て笑顔になってほしいし、自分みたいに先が見えなくなってなにもやらずにあきらめようとしている人たちもきっといると思うので、夢を与えたいと思っている。



「女川いのちの教科書」は今回中学生版が完成。3月18日には女川フューチャーセンターで披露式も行われます。
今後は小学生版、大人用の作成にとりかかります。その活動資金、制作資金を募るため、クラウドファンディングでの呼びかけも始まりました。
「いのちの教科書」クラウドファンディングサイト

2017年3月14日

3月14日 女川・いのちの教科書(2)

今週は、宮城県女川町から「1000年後の命を守るプロジェクト」のレポートです。

女川第一中学校の卒業生が取り組む、このプロジェクト。津波到達地点に避難を呼びかける「いのちの石碑」を建てる一方、彼らが次に取り組んだのが「いのちの教科書」をつくることでした。

「1000年後の命を守る会」会長の阿部由季さんが教科書の内容を説明してくれました。

◆小学生から大人まで 段階を踏んで自然災害のことを伝える
第一章は3月11日に起こったこと、第二章はわたしたちが活動するきっかけになった社会科の授業のこと、第三章は地震と津波のしくみを説明、第四章は体験談、第五章は中学校でそれぞれが読んだ俳句、第六章がこれからについて。
最初は友達が言ったことがきっかけで教科書をつくることになりました。小学一年生で足し算とか引き算を習うから2年生で掛け算、そして割り算ができるようになる。それと同じで、段階を踏んで自然災害のことを伝えていかなきゃいけないんじゃないかと思って「いのちの教科書」も小学生版、中学生版、大人用というふうに作ろうとなりました。一応これは中学生版。記録に残して、それを自分で次の世代に語り継いでいくことが大切だと思っています。


メンバーは教科書をつくるために、女川の災害の歴史を調べたり、町の人に防災意識に関するアンケートを実施したりと大人顔負けの行動力を発揮しました。

神田七海さんもメンバーの一人です。
神田さんは震災の津波で祖父を失くしました。

◆おじいちゃんみたいに未来のために尽くしたい
震災から1週間後ぐらいにおじいちゃんの遺体がみつかりました。自宅付近の低い場所に見回りをしていて津波にのまれたと聞いています。当初は全然実感がわかなくて。でも小6でしたが、子どもながらに「おじいちゃんは人のために命を犠牲にできる人だ」と思っていたから、聞いたときはやっぱりなと。悲しかったけど、誇らしいほうが大きかったですね。
震災の後2,3年後にすごくつらくなったときがあって。自分と同じ年頃の人がたくさんなくなっているのに、自分はここにいてこんなことしていていいのかなって。一時期学校にいけなくなったり。なんでこんなことになっているの?と考えたら、震災があったからじゃん、って。でも、そこでおじいちゃんの存在は大きかったですね。人のためになにかをする心を自分の背中で見せてくれた。わたしもおじいちゃんみたいにちゃんと未来のために尽くしたいと思って。それからは自分らしくいること、未来のことを考えることができるようになりました。この活動もすごく大きい存在だったと思います。


先日高校を卒業した神田さん。この春上京して4月からは首都圏の大学に通います。そんな神田さんの「将来の夢」は?

◆自分の言葉で伝えたい
記者さんになりたい。自分の目でちゃんとものごとを見て、自分の言葉で書いて、素敵なお仕事だなと。自分が発信することでまたなにか動くかもしれないという可能性を、この会を通して知ったから。日本だけでなく海外にも伝えて言葉で伝えて、少しでも未来に伝えることに貢献していけたら。



「女川いのちの教科書」は今回中学生版が完成しました。今後は小学生版、大人用の作成を続け、ゆくゆくは全国の学校に届けたいということ。現在、この活動資金、制作資金を募るためクラウドファンディングでの呼びかけを始めています。
「いのちの教科書」クラウドファンディングサイト

2017年3月13日

3月13日 女川・いのちの教科書(1)

今週は、宮城県女川町の子どもたちが主役。
「いのちの石碑」そして「いのちの教科書」のレポートです。


◆「女川いのちの石碑」
「ここは津波が到達した地点なので、絶対に移動させないでください。もし大きな地震がきたらこの石碑よりも上に逃げてください。逃げない人がいても無理やりにでも連れ出ししてください。家に戻ろうとしている人がいたら、絶対に引き留めてください。いま女川町はどうなっていますか。悲しみで涙を流す人が一人でも減り、笑顔溢れるあふれる街になっていることを祈り、そして信じています。2014年3月。女川中卒業生一同。


女川の「いのちの石碑」、女川中学校の卒業生が町内の津波到達地点に、避難をよびかける「石碑」を建てるプロジェクトです。
「自分たちの経験を次の災害に生かしたい」「1000年後の災害でひとりでも多くの命を救いたい」そんな想いで活動を続けてきました。

今年2月の上旬。石碑の一つを案内しれたのは、プロジェクトのメンバー、鈴木元哉君です。

◆経験した当人でも記憶は薄くなっていく
(いま高台にきていますが、目の前に海が見渡せます。元哉君、ここは?)
元哉君:竹乃浦というところです。千年後のいのちを守るために自分たちになにができるかを中学校の同級生たちと話すうちに、「いのちの石碑」というのを各浜21か所に建てていこうと。(この高台はだいぶ高いところにある、この石碑がないとここまで津波が来たってこと、わからないですね)震災の記憶は経験した当人でも薄くなっています。なので記憶に残すという意味で「いのちの石碑」があって、また「いのちの教科書」にすることで、もっと多くの子どもに、このことを伝えられたらということで、僕たちは教科書の活動をしています。


石碑は高さ2メートルほど。現在12基、完成しています。石碑の裏側には英語/フランス語/中国語でも、先ほどの内容が刻まれています。

そしてこの活動で子どもたちの指導にあたったのが、震災当時女川第一中学校で教鞭をとり、現在は東松島の中学校で教頭を務める阿部一彦先生です。

◆かつて教え子だったこの子たちは今は私の先生。
孫娘が「おじいさん土地をくれ」とずっと中学校から言っていた。あんまり言うので「なにするのか」と聞いてたまげた。100年後でなく1000年後のために「いのちの石碑」をつくるという。翌日俺の土地のどこでもいいから石碑を立てろと言ってくれた。町の人はみんなおじいさんの言葉に代表されるように、そんな思いだったのかなと。
わたしは教え子を守ってやれなかった。教え子を何人も殺している。わたしは殺したと思っている。命を守るすべを伝えきれなかった。でもこの子たちはこういうことをしている。この子達を見ていると「自分は教員として未熟だなあ」と。この子たちはわたしの生徒だが、この子たちはいまはわたしの先生。わたしが救えなかった命をこの子たちはたぶん救ってくれる。この子たちから教えてもらいたいと思って今日も来ました。


震災当時小学6年生だった生徒たちは、この春高校を卒業。中学時代は学校で、そして高校進学後は放課後や休みの日に集まって活動を続けてきました。石碑の次に取り取り掛かったのが、鈴木君の話にも出てきた「いのちの教科書」づくりです。


『女川いのちの教科書』の印刷や活動を支援するサイト

2017年3月10日

3月10日 南三陸町のグランドデザイン 建築家・隈研吾さん

今朝は建築家・隈研吾さんのインタビューお送りします。

新国立競技場の設計でもおなじみ、隈研吾さんは先週、宮城県南三陸町にオープンした「さんさん商店街」もデザインされています。オープン当日、、商店街を楽しくハシゴする隈さんの姿をキャッチしました!

『いま「たこプリン」食べて美味しかったし、すごく美味しい刺身があったし、短い時間にいろいろ試してみました。(笑)今日はこれから歌津という工事している現場を見て、それから帰ります。』

隈さんは「さんさん商店街」と一緒に4月オープンの南三陸町歌津地区の商店街「ハマーレ歌津」も設計されていています。

そんな隈研吾さん。商店街だけでなく、南三陸町志津川地区の復興まちづくり、グランドデザインにも広く関わっていらっしゃいます。志津川地区の未来図、どんな絵を描いているのでしょうか。 

◆2重のアーチ、人が集える橋
志津川にかかる橋が何本かあるので、橋のコンペをやったんです。そしたら全国から面白い提案がいっぱい寄せられて、いいものを選んで今実現に向かってやっているところです。(橋って町にとって重要な存在なんですか?)志津川にかかる橋って単なる交通のための橋じゃなくて地域のコミュニケーションの中心になるような場所だなって思ったんですよね。例えば昔の江戸の町をみても、橋のたもとに一番人が集まってきて、橋のデザインも可愛らしくて、そういう感じでちょっと座りこんで話せちゃうような橋ができたらいいなと思ってコンペでもそういう案を選んでいるし、僕らも1つ橋を計画中だけどその木の橋もコミュニケーションの橋みたいになると思う。(以前地元の方に取材したときに、川では夏にお祭りが行われて、秋には家から鮭の遡上するバシャバシャって音が聞こえるって。川って東京に住んでいると近い存在じゃないけど、コミュニケーションをとる場所になるんですね。)水の上を歩けるってある意味特別な体験になるわけで、人間と自然とが会話するいちばん重要なホットスポットだと思う。それを今まで橋のデザインておろそかにされ過ぎたような気がするな。(ちなみに隈さんがデザインした橋も木を使っているんでしょうか?)木がメインですね。今回のは2重のアーチ、2重の橋になってて、水に近い下の橋は上に屋根がかかっているから雨の日は下の橋通ると濡れないで歩ける。上の橋ももちろん歩ける。だから高いところからバーッと遠くを見たい時は上を歩いて、水を感じたい時は下を歩いて、その日の気分でどっちも選べる橋。下の橋はちょっと影になっててしっぽりした感じのデートには最高ですね。(木を使った話がありましたが、南三陸の「美人杉」、私も取材で山に行った時に「ね、美人でしょ?」って言われたけどわからなかったのですが、やっぱり美人って思いました?)それは山へ行ってもわからないよね、木の肌を見ないと(笑)切った時に杉の木肌って人の肌みたいな感じなんだよね。実はぼくはいろんなところの杉見てて、新国立競技場にもいろんな日本各地の杉使うからいろんな杉見てるわけ。その中でもかなり南三陸の美人度は高い!(笑)
(ということは新国立競技場の中に美人杉使われる可能性が?)あ、もちろん!各地の杉は使われるけどこの美人杉は日本を代表する杉だなと思って、使いたいと思ってます。(この杉は国際認証もとってるんですよね?)FSC認証といって、木の育て方から伐採からすべてにわたって環境に対する配慮がされているものにFSC認証という国際認証を南三陸杉はとってるんですよね。そんな美人杉も使われている新しいさんさん商店街、これからいろんな人が触れていく機会も増えていくと思います。(町はやっぱり発展して使っていって、10年20年してやっと町になっていく部分て大きいですよね?)これからさんさん商店街を中心にしてどんどん街広がっていくから、広がる毛ところを僕もどれだけ生きられるかわからないけど、見守っていけたらと思いますね。
〜今日は建築家の隈研吾さんに伺いました。ありがとうございました。


隈研吾さんがデザインしている橋は、さんさん商店街のすぐ目の前にかかる予定です、その橋を渡りながら見えてくるのが、津波の記憶を後世に伝える 防災庁舎です。

来週は、女川の高校生たちがつくった、「いのちの教科書」についてお伝えします。

2017年3月9日

3月9日 南三陸町 佐藤仁町長(4)

今朝も昨日に引き続き、宮城県南三陸町、佐藤仁町長のインタビューをお届けします。

自らも防災庁舎で津波に遭い、奇跡的に助かったあの日から間もなく6年。町の復興をけん引し続けてきた佐藤町長に、その防災庁舎の目の前に立つ、新しい「さんさん商店街」でお話を伺いました。

南三陸町の町の「核」となる「さんさん商店街」が開業しましたが、じつはまだ周辺は造成が続いていて、建物もほとんど無い状態です。現状とこれからの街づくりとは・・・聞き手は、速水健郎さんです。


◆鮭がのぼってくる母なる川のある風景を取り戻したい
佐藤:まだまだご覧のとおり、護岸工事なんかぜんぜん進んでないところありますからね。
速水:川はもともと鮭が上ってくるんですよね?
佐藤:珍しいんですよ、町の中に鮭が上ってくる川って無いですからね。北海道とか岩手だと山の人の住んでないところの川に上ってくる、ここは商店街の前ですから、これも観光資源の一つ。以前は役場の前に川があって、役場で見てるとダーッと鮭が上ってくる、そういうところだったんで、またそういうところを復活しなきゃならないし、確かに今は変わった町になりました、昔の面影とまったく違うじゃないですか。でも自然というのは変わってない。そこは我々がむかし遊んだ川に戻したいという気持ちはあります。
速水:隈研吾さんもここに、この川に架ける橋、面白いことが出来るんじゃないか?っていうふうに言ってました。
佐藤:もう設計というかデザインは出来ていますので、それがあれです。中橋の橋脚。記念公園と商店街を結ぶ橋が隈さんの橋「隈橋」。両側、端を歩くと橋の上を歩く。真ん中いくと橋の下を歩くという。アーチになっていて、下は逆アーチになっている(川に近づくんですね?)それが隈さんの言う「親水性」、水に近いところにという。もともとここで灯篭流しとかやってましたので、極力水に近いところでというので、そういう橋にしたと。そして階段もあるんです。階段で水辺に降りられるようにしてるんです。でここでもう一回、いつの日か、灯篭流しをしたいよねと。
速水:もともと町の生活に川が馴染んでいた?
佐藤:川も海もきれいにするかどうかは町民の意識。そういう意味で山の奥の方に木を植えたりだとかいろんな様々なことをして、そしてこの川はさっき言ったように、鮭が帰ってくる母なる川。でここみんな鮭が帰ってくるのを見ながら、今年も鮭が帰ってきたね〜とか言いながら見てる川なんで、皆できれいにしましょうという気持ちはみんな持っていたので。これがまた工事が終わって、
また下に降りていけるようになれば、むかし水辺で親しんだというあの思いが帰ってくるよねっていう。
速水:護岸工事はいつ完成する予定なんですか?
佐藤:これがなかなか進まないんだ(笑)。ほんとは予定ではもうとっくに終わってるはずなんだけど、国道・県道・町道って、いろんなとこが絡み合っている工事なので、一か所遅れると全部遅れちゃう。そういうジレンマを抱えながらの6年間だね。


復興工事の状況はそれぞれの町によってさまざまですが、まだまだ続いているところが多いのが現状です。足を運んで観光をすることが支援につながるのは今も同じ。ぜひ東北に足を運んでいただきたい。

2017年3月9日

3月8日 南三陸町 佐藤仁町長(3)


今朝も昨日に引き続き、宮城県南三陸町、佐藤仁町長のインタビューです。

先日3月3日、宮城県南三陸町には町の新しいにぎわいの拠点「南三陸さんさん商店街」が開業しました。その「さんさん商店街」の目の前。ゆがんだ骨組みのままそこに遺されているのが、震災遺構として遺すかどうかの判断を先送りにした防災対策庁舎です。

自らも防災庁舎で津波に遭い、奇跡的に助かった「あの日」から、間もなく6年。町の復興をけん引し続けてきた佐藤町長に伺いました。聞き手は、速水健郎さんです。

◆6年かかったけど、安心安全な町を手に入れた
佐藤:防災庁舎の話しが出来るようになったのは県有化が決まってから。それまでは解体か保存か遺族の方々の意見が真っ二つに分かれてましたから。防災庁舎っていう言葉そのもの言えなかったですからね、ずっと。ただ明確に県が20年間県有化しますということを決定して、それを受けて町でパブリックコメントをして、で町民の皆さんから意見をもらって、6割超の方がこれは県有化すべき、保存すべきという結論が出ましたけど、いずれこれは20年後、いまから14年後になりますけど、その時に町としてこれをどうするか結論は出さなきゃならない。ただ私はこれ、震災が終わって、記者会見、毎日やってましたけど、その時から記者の皆さんに、防災庁舎どうするんですか?って聞かれて、その時に言ったのは、個人の意見と断って、“たぶん震災は風化する。みんな忘れてしまう。いつの日か震災を経験してない子たちが大人になって、震災ってあったよねって、そういう時代が来た時に、なにか、想定外の津波っていうのは本当にあるんだっていうのを見せないと、たぶん風化がどんどん進んでいくと。この東日本大震災で南三陸町は800名を超える人が犠牲・行方不明になって、その方々の教訓っていうのを、あれだけの大災害を受けた教訓を、どこに残ったんですかっていうのを伝える役割って我々にあるよね”という事はずっと言っていました。ただ残念ながらいろいろなものがありますから、そこは紆余曲折がありました。
ただウチでいちばん最初に街づくりしようって決めた時に、もう120年で4回、津波、大きなのにやられててその度に犠牲出てる。財産も失ってる。そうすると何するって言ったら、もう二度と津波で命を失わない町をつくると、いう事に決めた。それがうちの町の復興計画の基本中の基本、高台移転です。ですからここに「さんさん商店街」出来ましたけど、基本的には、生業はさまざま。どこでもいい、生業は。しかし住むところは「寝ていても安心なところ」と。いうのがうちの町の計画でしたので、それが6年かかりましたけど、今月ですべて終了と。宅地造成で約830戸、災害公営住宅で730戸が完成して、皆さんに次の住処にやっとお入り頂けるという事になりました。で、ちょっと余計なこと言うんだけど、昨年の11月22日に福島県沖に地震があって、津波警報が出たんです。その時に一応、避難指示は出した。避難指示出しましたけど、自分の腹の中では、あ、自分の家に居ればもう安心と。自分の家に居れば東日本大震災クラスの津波来ても助かる。命失うことは無い。だからその時にあらためて、安全安心な町を手に入れることが出来たという事を痛感しました。ただ油断してはだめですよ、油断してはダメですけど、安全安心は手に入れたなという思いはありました。そこは自負心だな、ここまでやってきたという。



住宅環境が整っても、町の復興はまだ道半ば。明日も南三陸町、佐藤町長のお話しをお届けします。

2017年3月7日

3月7日 南三陸町 佐藤仁町長(2)

今日から3日間は、宮城県南三陸町、佐藤仁町長のインタビューをお届けします。

先日3月3日、宮城県南三陸町には町の新しいにぎわいの拠点、「南三陸さんさん商店街」が開業しました。自らも防災対策庁舎で津波に遭い、奇跡的に助かったあの日から間もなく6年。町の復興をけん引し続けてきた佐藤町長に、その防災庁舎の目の前に立つ新しい「さんさん商店街」でお話を伺いました。聞き手は、速水健郎さんです。


◆あの日、生き残った10名で誓い合った
速水:防災庁舎の目の前でお話しを伺ってるわけですけど、まさに2011年3月11日、町長自ら被災された時の事、明確に覚えてますか?
佐藤:それはもう忘れられないですよ。目の前にある防災庁舎、屋上でだいたい12メートルの高さです。津波、屋上まで来たんですよ。屋上はるかに越しましたから、43人犠牲になって、職員二人がアンテナに登ってたのが助かって、それから我々8人は階段に流されて助かった。ただそこからがまた大変で、みな頭から水かぶってあそこの屋上に居たら、雪が降ってくる風は吹いてくる、ずぶ濡れだし寒くて寒くてしょうがなくて、どこにも逃げようがない、避難しようがないのであそこに居るしかない、で我々津波っていうのは、小さい頃教えられていたのは、2回目3回目っていうのは1回目よりも大きいのがやってくるって教えられてた。だからあの屋上で津波かぶって、あとどこに逃げるっていうと、あのアンテナしかないんですよ。とにかく上に逃げると。あのアンテナ、太いのと細いのが有るんですけど、太いアンテナに7人登って、細い方に3人登るんですよ。いま登れって言われたって登れない。あそこ登るように出来てないんで、それに足かけて登ってくんだけど、もうみんな血だらけ。それでもとにかく上がって、あそこに4回登りました。朝まで津波来てました。で、助かるっていうのはいろんな偶然が重なるもんで、最初アンテナに登っていた職員の一人がタバコ吸うんで、胸のポケットにタバコとライターが有ったんです。それが活きたんです。朝まであそこで過ごせたっていうのは、そのライターで流れ着いた木材などに火をつけたから助かった・・・
速水:そのライターの火が唯一の・・・
佐藤:そうそうライターが無かったら我々はもう低体温症で・・・
速水:そこからの状態で、“町をつくるんだ”というのは、ちょっと想像がつかないですね
佐藤:それは私も同じ。あの防災庁舎にひと晩居て、あの潰れた町どうやって立て直すの?っていうのは正直言って自信もないし、ただ、ただね、あそこに43人亡くなって、そのうち役場職員30名、その時33名居ましたけど。彼らにね、我々生き残ってあそこの夜火を焚いて皆で黙ってあたってた時に、その時に言ってたのは、“おれたちがこうやって生き残ったのは、町をつくれっていう彼らの思いだぞ、それがおれたちの使命だかんな”っていう話はずっと言ってましたね。そういう「思い」だけでここまでやってきました。


震災遺構として残すかどうかの判断を先送りした防災庁舎。今は宮城県の預かりで20年間保存されることになりました。
明日も佐藤町長のインタビューお送りします。

2017年3月6日

3月6日 南三陸さんさん商店街2


3月3日、宮城県南三陸町に新たにオープンした「さんさん商店街」、木造平屋建て6棟に28店舗が入り、地元の方や観光客の新たな交流の場として誕生しました。場所は、志津川湾を望める10mかさ上げした高台、震災前はもともと商店が並んでいた場所ということもあり、もとあった場所での本設の店舗再開に、商店の方からも喜びの声があがりました。


◆山内鮮魚店
ちょうどこの場所、川を背中に建ってたお店なんで、10mというかさ上げなんだけど同じ場所にやっと本業の魚屋が出来たのでうれしく思います。新鮮なお魚を、ヒラメとかタラ、マグロのお刺身とか自分で好きなお刺身を選んで、ご飯とみそ汁を用意しているので一緒に食べてもらえたら最高にいいと思います!



◆フレッシュミート佐利
お肉は量り売りで店売りと同じ値段なので、それを買って店内で焼いてもいいですし、みなさん魚介類を買って焼いて食べれたらいいねって声は聴いていたので、それができてお客間にも喜んでいただけるのかなと。自信があっておススメしているのは、うちオリジナルの「志津川ホルモン」。辛みそや塩など何種類かありまして、めちゃ売れているんですね。



◆しお彩
食べ方は小さいたこ壺に入っているたこのつみれをそのまま食べてもいいし、タコ壺らーめんに入れて食べてもらっても。
(健朗)口いっぱいにタコが広がるくらいのでかいタコが浮いております。おいひぃ!
名前を聞いた時点でタコとラーメンの相性いいに違いないと思っていたんですけど、めちゃめちゃいいです!
壺壺セットになるとこれに更にタコ飯が付くんですよね。誰が考えたんだろう?って、店長の後藤さんが考えたんですけどね(笑) ズルズルズル・・・・



金曜パーソナリティ、速水健朗さんも食した「しお彩」さんの「たこ壺ラーメン」。まりえさんは「壺壺セット」をおいしくいただきました!津波で自宅もお店も流された「しお彩」の後藤一美さん。震災から4か月後にはキッチンカーでの移動販売を始め、仮設住宅などに暖かい料理を届け続けました。去年の年末まで移動販売にこだわり、震災から6年目、こうして本設のさんさん商店街でお店を再開し、厨房に立てることに感謝の気持ちを話してくださいました。オープン初日、後藤さんの料理を待ち望むお客さんで、お店の前には長蛇の列ができていました。

「南三陸さんさん商店街」の運営を担う「南三陸まちづくり未来」代表で鮮魚店マルセン食品の代表 三浦洋昭さんに再出発にかける想いをうかがいました。

◆これからが本番
ようやくですね、ひじょうにホッとしているというのが正直な感想です。ただこれからが本番。被災地の風化はさらに進んでいくと思いますので、本当に我々の力が試されるのはこれからだと思います。そういった意味ではかなりの覚悟をもって入った各店舗の方々なので、それだけタッグ、チームワークは強いと思います。さらに世界に名をとどろかせる、そういった商店街になっていければと、目標高くもっていきたいと思っています。
(マルセンさんの宣伝を)南三陸の鮮魚と川向こう、大変地域の方にはご指示をいただいているお店です。今は身体にいいミネラルたっぷりのワカメとめかぶが旬になっているますので、お店いっぱい並んでいるのでどうぞお立ち寄りください!


この日は、さんさん商店街をデザインされた、建築家の隈研吾さんもいらして美味しい物を堪能していた模様。その声や、南三陸佐藤仁町長のインタビュー、明日以降もお伝えしていきます。

2017年3月3日

3月3日オープン! 南三陸さんさん商店街

今日3月3日、宮城県南三陸町には町の新しいにぎわいの拠点「南三陸さんさん商店街」が開業します。今朝はそんな真新しい「さんさん商店街」から、速水健朗さんのレポートです。

まず向かったのは、1月に万里恵さんがインタビューした「しお彩」さん。オープンに合わせて考案された新メニュー「たこ壺ラーメン」をいただきました!

◆「たこ壺ラーメン」、南三陸きらきら丼に匹敵するライバル誕生の予感!
日高昆布の旨みが広がる口当たりすっきりな和風スープに、厚めに切った志津川のタコが2切れ、横には蛸壺風の器に入った「タコのつみれ」が添えられていて、どちらも噛めば噛むほどジュワっとタコの味わいが広がって、とっても美味しいです!


そんな真新しい「さんさん商店街」で、先頭に立って町の復興の旗を振り続けている南三陸町の佐藤仁町長にお話しを伺いました。

◆このさんさん商店街が街の「核」になるように
速水 ここは「さんさん商店街」、出来たばかりの高台にある訳ですが、この商店街って住む人たちからするとどういう場所になる?
佐藤 じつはここかさ上げして、ここにどういう商店や店が張り付くの?というのが悩みの種だった。それで紹介してもらったのが建築家の隈研吾さんでした。隈さんがいちばん最初に来たときはここはもう瓦礫だらけですよ。なんにもない。そしたら隈さん、「町長、ここ人住まないんだよな」と。「はいここは住みません。災害危険区域に指定したので商店とか工場しかできませんと」言ったら「人が住まないところに賑わいつくるの難しいんだよな」とポツンとひとこと言って、“これは無理かなあ〜”と思っていたら、「グランドデザイン、俺に手掛けさせてくれ」と言ってくれたんです。隈さんのグランドデザインを発表したときにベイサイドアリーナという体育館でやったんです。そのとき来てもまあ200人かな〜と思っていたんですが、そしたら満杯でね。資料が足りなくなっちゃって。そのとき隈さんが説明した時に皆喜んでました。ようするに自分たちの思いをすごく受け入れてくれて、それに、隈さん流の親水性、回遊性を取り入れていこうねと。その時に「ここ、さんさん商店街に核を作ろう」と。核を作ってそこが賑わってくれば間違いなく周辺に店は張り付いてくると、だからそんな慌てる必要ないじゃない。そのかわり核を皆の力で盛り立ててにぎわう場所にしようよ、という話で、だからここ「さんさん商店街」出来ましたけど、その横の民有地にもう商店がだんだん埋まってきました。
速水 仮設商店街もひじょうに人気があった。新しいところ、徐々に時間をかけて?ということになるんでしょうか?
佐藤 ここさんさんはスタートから爆発すると思う。今まで6年間の実績ですよ。彼らは仮設でやってきて、4年10カ月で200万人が訪れる商店街なんてないですよ。土日は行列のできる商店街でしたら。それを考えた時に、あそこを閉める時に「早くつぎ作ってね!」っていうお話しいっぱい頂いていましたから、たぶんこっちに移るというのを心待ちにしているたくさんいらっしゃると思う。
速水 根付いてるファンがいる?
佐藤 そうそう、たくさんいらっしゃると思います。


この場所は、かつて商店が並んでいた町の中心部だった場所。そこにまた商店が戻る。皆が集える賑わいの場所が生まることが感慨深い・・・という事もお話しもされていました。

南三陸さんさん商店街は、今日午前10時から式典が行われて、午後12時から一般入場がスタートします。

町の復興への大きな一歩を記した南三陸町。来週も佐藤町長のお話しお届けします。

パーソナリティ 鈴村健一

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