2017年1月31日

1月31日 福島県川俣町の「田んぼのスケートリンク」3

引き続き、福島県川俣町の大内秀一さんのインタビューです。

福島第一原発から40キロにある川俣町の山間の、小さな集落・山木屋地区。この地区では、原発事故の影響で休止していた冬の名物「田んぼのスケートリンク」が去年復活。この冬も一般開放されています。

稲刈りを終えた田んぼと、川の澄んだ水、氷点下を下回る冬の厳しい寒さで作る天然のスケートリンク。大内さんはその復活に力を尽くし、昭和59年からずっと守り続けてきました。そして、ずっとこの土地とともに生きてきました。

◆ここでしかできない暮らし
今まで葉たばことか牧畜とか、日中と夜間の温度差を利用した花とかそういう農業主体です。私はここでしかできない、ここだからできる暮らしがしたいんです。そういうつもりで、本当だったら震災の年の4月から自然塾を立ち上げる予定だったんです。塾の名前は「自然塾 山木屋村」。それをやるつもりでおりました。そういうことができる山木屋なんです。


「自然塾」ができるほど、豊かな自然のある地域なんですね。そして、今年3月をもって、山木屋地区は避難指示が解除されます。大内さんは、準備宿泊を延長しながら、山木屋のご自宅で生活。この春以降も、この土地のために、この土地で暮らしていくと話します。

◆新しい山木屋を作る
農地と住宅周辺の除染は全て終わりました。里山の除染ということで新年度から始まるようですけど、山木屋の小学校に自然観察園が1002ヘクタールほどのものがあって、そこをモデル除染ということで新年度から始まります。ただし子どもを持つ家庭はほとんど100%いまのところは戻れません。我々のように高齢者で山木屋に戻る人、あとは山木屋を必要とする人。山木屋のトルコキキョウは日本一と言われています。気候風土がもたらすものなんです。あとは山木屋の良さを認めて戻ってくる人。それでも1300人が避難して、100人戻ってくるでしょうか。そんなもんだと思いますよ。あとは逆にですね、何人いて何人戻るかっていうのは問題じゃないんですよ。本当にここに住む人間がこの地区を必要として、この地区を大切にして生きるような地域であればいいんじゃないですか。昔も享保の大飢饉などで離れざるを得なかった人がいるんですから。これから新しい山木屋を作ればいいんです。良さを見つけて必要とする人間がいる限り、山木屋は何年かかるか分かりませんけど、必ずできると思っています。私は今現在68才になっていますからエネルギーはそこまでありませんけど、少しでもここの地区のためになればとやっていくつもりであります。

2017年1月30日

1月30日 福島県川俣町の「田んぼのスケートリンク」2

先週金曜日に引き続き、今朝は、福島県川俣町(かわまたまち)にある「田んぼのスケート場」についてお伝えします。

川俣町の山間の小さな集落・山木屋地区の、「絹の里 やまきや スケートリンク」。収穫を終えた田んぼに水を張り、凍らせて作る手作りのスケートリンクです。福島第一原発の事故によって休止状態が続いてたのですが、去年1月、地元のボランティアの方によって復活。今年も、22日(日)から一般開放がスタートしています。

昭和56年の立ち上げから、ずっとリンクを守ってきたボランティアの大内秀一さんに、今年も田んぼリンクをオープンした想いを伺いました。

◆再開に込めた願い
私は実際、あの時は福島県は終わりだと思いましたから。まさかね、5年後に田んぼリンクを復活させるなんて想像もできませんでした。結局、放射線に対する考えっていうのは個人によってすごく温度差があるんです。これは毎日わたしらは実感していますけど、嫌う人は極端に嫌うしアバウトな人はアバウトに捉える。その温度差はすごい。ただし今現在の放射線量は世界中にどこにもあるものだし許容できると思っているんです。私のうちには世界中の人が集まっているんです。世界的に有名な生物学者の人達も私のうちに宿泊して、ここから浪江町津島という地区に行って小動物の放射線量の影響調査をしているんです。あとはアメリカのジャーナリストの方も5年間通ってドキュメンタリー番組の取材をしてくれています。そういう人たちの見解を聞くと「山木屋地区の線量は大丈夫だ」と。でもまわりはそう見てくれない。水も飲まないし食べ物も食べない。これじゃまるっきりやまきはゴーストタウンになってしまうんじゃないかと。そんな思いがしたものですから私はまだ避難指示が解除になっていない時に、「スケートをやるなんてけしからん」という自治会からPTAから山木屋のすべての人達の反対の声があるなか始まりました。なぜかというと果たして科学的な根拠ってどうなるんだろう、今の線量が有害っていうのは何年後に出るんだろう。危険だという根拠はなんだろう。そしたらスケートをやってみなさんどうぞ遊びに来て下さい、自分の責任においてですよ。そして来れば自然と山木屋と、個々に来てくれた人たちの距離が縮まってくるんですよ。もう風評被害を払拭するにはそういう体感してもらう手段しか無いのかなと、私はそう考えたんですよ。それで去年復活を考えました。


元々、このリンクは、地元スケートチームや、小中学校の体育の授業、さらに県外のお客さんで賑わっていたといいます。大内さんは、そんな賑わいが、このリンクに戻ってくることを願っています。

◆川俣町へおいで!
今年は新たな試みとして、リンクの情報を川俣町のホームページに、毎朝7時に載せるようにしたんですよ。と申しますのは、よそから11時ー12時頃に来ても氷が溶けちゃって柔らかくなって滑れなくて素戻りする人が結構いたんです。そういう気の毒なことは避けたいと思って町のホームページを利用しています。それをご覧になってきていただければいいなと思います。町は昨年から協力してくれていますから。川俣町にはシャモや山木屋太鼓もありますけど、その中で川俣町を代表するイベントに田んぼリンクがあるわけです。町は全面的に協力してくれています。


スケート場は、気候によりますが、2月上旬くらいまで。午前8時から午前10時オープン。
リンク整備協力費:大人500円、高校生以下:無料 (貸靴も無料)
利用については、川俣町のホームページでチェックできます。

明日も大内さんのお話、お届けします。

2017年1月26日

1月26日 APF通信社・山路徹が見た東日本大震災4

引き続き、震災後の福島・南相馬を継続的に取材しているジャーナリストで、APF通信代表・山路徹さんのインタビューです。

震災直後から福島県・南相馬市に通い続け、今回のインタビューの数週前にも南相馬を取材していたという山路さん。最後は、南相馬市の「いま」について伺いました。

◆南相馬の本当の復興とは
あれからまもなく6年を迎えようとしていますけど、今日まで定期的に南相馬には通っていて、桜井市長ともずっとお付き合いさせていただいていますけれども、なかなか人口が戻らなかったりとか、一度警戒区域になっちゃった小高区なんかはこないだ完全に帰ることが出来るようになったんですけど、なかなか人が帰れる状況が整わない。それはなぜかというと、当然若い世代の人達は子どももいて原発周辺に戻るのが不安だというのがありますし、戻ったところで生活を支えるインフラがまだ不十分なんですよね。ガス水道電気は通るようになりましたけど、まだ交通機関がだめだったり開いている商店が少なかったり、まだまだ時間がかかるなと思いますよね。南相馬に残った人たちの地域における結婚率も当然下がっているわけですよ。結婚率が下がると当然人口も減少していくわけで、それをどうしたらいいんだということで桜井市長はこないだ、まさに、南相馬で合コン・婚活イベントを市が主催して、少しでも出会いの場を増やして少しでも多くの家族が誕生して人口が増えることを願ったイベントをやっていたりしますが、今ひとつ前に進みきれていないことが否めないですよね。桜井市長なんかが言っている復興ってなんなのかというと、もとの南相馬に戻ることではなくて新しく生まれ変わることなんだと言っていて、その一つとしてクリーンエネルギーの導入をして原子力に頼っていた地域から、クリーンエネルギーを使った野菜の生産なんかも始まっています。あそこはやっぱり農産物が主要な産業でしたから、子どもの頃からやっぱり畑や田んぼを見て育ってきた若者たちが、あの時の景色を取り戻したいと頑張っていて。例えば畑の上に立体的に太陽光パネルを設置して、それによる売電収入と、その下では畑という。取り組みとしてはもとに戻るというより新しい技術をそこに盛り込みながら現場の雇用のために頑張っていますよね。ぼくの通っている南相馬のラーメン屋さんで、「らーめんすず」という店がありますけど、そこの店主の鈴木さんなんかも震災直後にいち早くお店をオープンさせて温かいラーメンを食べてほしいと頑張っていた一人ですけど、南相馬の未来に一番大事なのは何かというと、やっぱりそこの人の心が未来に向いて力強くもう一度歩いていけるかどうか。そのためには自分たちが今いる南相馬の自分たちが元気な姿を見せていかなきゃ、なかなか避難している人たちも戻ってこられない。そのためにはまず頑張る、よし、ここでもう一度やっていけるという自信を取り戻せるか。頑張ってやっていますよね。

2017年1月25日

1月25日 APF通信社・山路徹が見た東日本大震災3

引き続き、震災後の福島・南相馬を継続的に取材しているジャーナリスト・山路徹さんのインタビューです。

APF通信社・代表の山路さんは、震災直後から福島県・南相馬市に通い続け、町の状況の取材や、市長へのインタビューを続けています。また山路さんは、取材をしながら別の活動にも力を注いできました。それが、震災で置き去りになった犬や猫などを助ける活動です。

◆置き去りになった「いのち」
実際は20キロ圏内がどうなっているのかっていうのは、みんなが避難したあとで瓦礫の荒野のような世界が広がっていて、浪江町というところに行くと沿岸部の福島第一原発の煙突が数キロ先に見えるんですけど、そのあたりは非常に多くの方が犠牲になった。祖の時点においても行方不明者がいて、その中でひときわ僕らの目を引いたのは犬や猫なんです。当時犬や猫達に関して言えば、浪江の人たちも最初は避難先に犬や猫を連れて行った方たちも多かったらしいんですよ。ところが一時避難の場所からさらに県外避難に繋がる時に、ここから先はペットは連れていけないので置いてきてくださいと行政に言われて、一時的な避難場所に連れてきたペットを、いわば置き去りにして避難したんです。そうした人の1人の話を聞くと、「切ないのは、自分たちが離れていくバスの窓から、置き去りにした犬たちがみんなで群れになって自分たちが住んでいた地域に戻る姿を涙流らに見ながら避難した」ということを聴きましてね。僕らも取材に行くと、そういう犬たちが、人間がやってきた!と駆け寄ってくるわけですよ。犬ですから言葉はしゃべれませんけれども、みんなどうしちゃったんだよ、みんなどこ行っちゃったんだよ、俺たち腹ペコなんだよこれからどうしたらいいんだよ、ということを本当に訴えるような目で見つめるんです、僕らをね。僕はその荒野の中で生きているもの、動いているもの、一つ一つが犬にしても猫にしてもやっぱり命なんですよね。その命というものが現場ではすごく際立って、その瞬間僕らはやっぱり、この生命だって助けなきゃいけないんじゃないかと思いましてね。自分たちが取材で出会った犬たちは保護して汚染地域から外に出してやろうと思うようになって、誰か協力してくれないかとTwitterでつぶやいたら色んな人が手を上げて、みんなで犬猫の保護活動を初めて、里親さんを探したりもともとの飼い主さんを探して引き渡していったんですね。中には批判する声もあってね、「人間が大変な時に犬猫どころじゃないだろう」とおしかりのTwitterもいただきましたけれども、我々の社会の安全や安心って何なのかということですよね。つまり、人間だけ助かればいいのか、それまで家族同様に暮らしてきた犬や猫はそこで見殺しにしていいのか。そうじゃないと。小さな命が守られるからこそ人間にとっても安心に暮らせる生活環境なわけですよね。だからあの災害は人間にとってももちろん大きな事件でしたけど、被災したのは人間だけじゃないんですよね。そこに生きている命がみんなその被害にあったんですよね。


山路さんご自身も、取材をする中で出会った猫の里親になっています。また現在もSNSを通じて、被災地のペットなどの情報発信を続けています。


2017年1月24日

1月24日 APF通信社・山路徹が見た東日本大震災2

引き続き、震災後の福島・南相馬を継続的に取材しているジャーナリスト・山路徹さんのインタビューです。


山路さんが代表を務める、戦争・紛争地帯の取材を中心とした通信社、APF通信社は、東日本大震災の直後から取材を始め、3月16日に南相馬市に入りました。原発事故の影響で、支援物資や情報はおろか、マスコミすら入らない当時の南相馬でAPF通信社は取材を続け、インターネットで南相馬市・桜井市長の訴えを配信。
世界が、南相馬の当時の状況を知ることになったんです。

◆ネット配信が世界に伝えた南相馬
僕は最初まず、南相馬の市役所に行ったんですね。そこで市長の桜井勝延さんにお会いして実情などのお話を聞くところから取材を始めたんですけど、当時、桜井市長とインターネットを通じた番組というか情報発信サイトを作ろうということでYouTubeをつかって南相馬の市役所から生放送を始めたんです。何を訴えたかというと、桜井さんは「我々は食料もない、燃料も入ってこない。ただただ屋内退避指示で家の中にいろと言われているけれども、我々はどうしたらいいんだ。生きていけないです。これじゃ棄民じゃないですか」と。その訴えに応えるように援助物資なんかが搬入されるようになったり、個人のボランディアで入ってくる人が出てきたり、災害が起きた場所で何が起きたかを知ることが出来て。それをずっと続けていくうちに桜井さんも評価を受けてあの年の世界の100人に選ばれたりもしたんですけど。世界的な関心は高かったけれども、それを伝えてくれるメディアがなかった。僕らは20キロから30キロ圏内の屋内退避指示が出されている現場の取材をして、でも実際は20キロ圏内がどうなっているかはまだ我々もわからなくて。だからそこから先は中に入っていかないと何が起きているのかを記録に残せないので、僕たちは当時まだ警戒区域に設定される前の、取材がある程度認められる、法令違反ではない形の入域ができて。そこでは人々がみんな避難したあとでしたから、瓦礫の荒野のような世界が広がっていて、浪江町というところに行くと、沿岸部の福島第一原発の煙突が数キロ先に見える。そのあたりは非常に多くの方が犠牲になった。その時点でも行方不明の方がいて、その救助活動は一切行われていませんでしたから。なぜなら放射能による被爆を恐れて活動ができなかったという現実があって。そういう意味で僕らが取材した現場の中でも、まだまだ津波に飲まれた地域に、瓦礫に埋まっておそらく人が大勢亡くなっていたんだなという風に思いますけれども。


APF通信社のアーカイブには、今も当時 配信した映像が残っていて、当時どういう状況だったかを知る、貴重な記録となっています。


明日も山路さんのインタビュー、お伝えします。

2017年1月23日

1月23日 APF通信社・山路徹が見た東日本大震災1

東日本大震災からまる6年。今朝は、この災害を取材し続けるジャーナリストの声、お伝えします。

お話を伺ったのは、APF通信社・代表、山路徹さん。東日本大震災発生直後から、福島県南相馬市を中心に取材を続け、現在も継続的に被災地へ足を運び、その現状を伝えています。



山路さんが取材班とともに被災地の取材を始めたのは震災発生直後の3月13日。そして3月16日には、南相馬市に入っています。そのレポートは、各メディアの中で最初に、原発事故直後の町の様子を伝えたものとして世界に発信されました。当時を山路さんに振り返っていただきました。

◆あの日、報道は敗北した。
僕らは東海村の臨界事故の取材もしていましてね、そこには原子力災害によって取り残された人たちがやっぱりいたんですね。そのことを福島第一原発の事故で思い出して、これは大変なことになると。つまり避難をする人も当然いるだろうけれども、屋内退避支持が出て身動きが取れなくなっている人たちも多く発生するなとその時に直感的に分かって、我々報道陣としては現場に行ってそれを伝えなければいけない。だけれど先ほどの東海村の例のように原子力災害というのは当然取材に入る側の人間のリスクもあるわけで。各メディアはコンプライアンスの問題もあってね、記者を中に入れなかったんですね。大手新聞社なんかは50kmくらい離れたところから様子を伝えていたわけです。それはその時に何が起きたのかも去ることながら記録としてきちっと残さなきゃいけないという思いが我々にもありますから、僕たちはスタッフを再編成して、もう一度南相馬をめがけて現場に向けて走っていく中で、ここから30km圏内というところに立て看板がしてあって、「屋内退避指示が出ている」と。誰もいない南相馬の商店街、人っ子一人いないわけですよ。ところが東海村のときと同じようにみんな屋内にいてどうして良いか分からない状況になっていて。いわば南相馬市民というのはそこに取り残されたわけですよね。どんどん食料がなくなっていく。生きていくための、例えば医療機関もそうですよね、病院も震災のけが人がいっぱいいるのに稼働させるための燃料が底をつき始めたり、入院患者のための酸素も搬入できなくなって。当時病院の委員長にも話を聞きましたけど、「危機的状態だ」と。だけどそれを伝えるマスコミもそこにはいなかった。結局、伝えられないということは存在しないこととイコールでね、屋内退避指示が出されている現場で取材をする行為が、大手メディアにするとコンプライアンス違反になるということで、僕らが撮影した映像は日本のメディアでは放送できなかったんですね。結局はBBCですとかアメリカの三大ネットワークのABCですとか、そういう海外に取材したレポートを衛星で配信して、それをむしろ、CSで日本人の人達に届けていた。そういうのが実情だったんですね。ですから本当に見せたい日本人に、日本のメディアを通じて直接伝えられなかったことが、ものすごく僕らとしては悔しかったし、報道機関にとっても大変重要な問題で、報道の敗北だと思うんですね。原子力災害が起こると結局こういうことになって報道すらできなくなるんだ、ということがやっぱり今振り返っても非常に残念ですし、逆に今後同じような事故、災害を想定した時にメディアに何が出来るのかということも非常に大きなテーマとして我々に見せた大災害ですよね。


この、山路さんはじめ取材クルーの動きが、みなさんも記憶している、南相馬市・桜井市長がYouTubeで南相馬の現状を世界に訴えた、あの映像に繋がります。

原子力災害があった時、報道はどう動くことが出来るのか。あの事故から6年が経過するいま、対策はできているのか。原発の再稼働をめぐり、メディアは「対策ができていないのに再稼働するのはおかしい」と批判をしていますが、では、メディア自身の対策はどうなっているのでしょうか。避難対策同様、災害や事故を報道する側の対策の重要性も改めて考える必要があります。

2017年1月19日

1月19日 夢だった小学校先生へ!小野寺真礼くん

震災からまもなく丸6年。
この番組では、復興を担う子どもたちの自立を支援する「サポートアワーキッズ」を継続して取材してきましたが、その取り組みで海外留学を体験した子どもたちがそれぞれ未来へ羽ばたきはじめています。

その一人が宮城県仙台市出身、小野寺真礼さん。高校1年生で被災。沿岸部の親戚の家などが津波の被害にあいました。小学校の先生になることが夢だった真礼さん。サポートアワーキッズで語学留学のチャンスをつかみ、母親の後押しもありイギリス・ロンドンへ。
当時の様子、振り返って頂きました。

『高3でイギリスのロンドンへ。伝える難しさを実感しました。ホームステイ先の人だったり、語学学校にも行かせていただいたんですが、英語力がなかったので全然何も伝えられなかったんですけど、そこで言葉の使い方、表情、ジェスチャーとか、私は教員を志していたので、先生になった時には海外の方だけじゃなくて、子供たちにどう伝えたらいいのか再認識するきっかけにもなりました。』

もともと恥ずかしがり屋で、人前で話せなかった真礼さんが、このロンドンでの経験で、人種が違う人にも一歩引かずに会話ができるようになったそうです。

小学校の先生になることが夢だった真礼さん。その夢をいちばんに支えてくれたのは、お母さんでした。

◆「情熱」だけは負けたくない
身近でいえば母ですね。私は母子家庭で母が一番近くにいたんですけど、「あなたは教員に向いているんじゃない?」とか、「絶対大丈夫だと思うよ」とずっと言って夢を後押ししてくれたので母は自分を一番応援してくれたのかなと感じています。宮城県仙台市内の小学校に4月から勤務することが決まっています。私は早く働きたい気持ちが大きいのでワクワクしている。被災した県でも市でもありますし、自分が生まれ育ったところでもあるのでそこの為に何か貢献できたらな、というのも当然あるけれど、一番は、私は小・中あまり勉強ができない、スポーツでしか成り上がれないような子供だったので、今は学力重視と言われてますけども、自分は小学生の時に野球を見つけられたので、私も4月から働いた際には子供たち一人ひとりが、これ楽しい!これやりたい!と思えるものを探してほしいし、その助けになりたいというのが一番大きい。何かしら好きなものを持っていればそこが自分の武器になるので、4月からは子供たちの支えるになるような教員になれたらと思っています。
私としては「情熱」というところは負けたくないところで、子供たちが困った時に相談にのってあげるとか、逆にこれ僕できるよ、といった長所や出来るとこを伸ばすために何かサポートする時に手を抜かない。体力には自信があるので自分の体力が許す限りその子のため、クラスのために全力を注げるというところでは、その情熱が自分の武器になってくるのではないかと思ってます。


「人のつながり」「支えあい」を震災のおかげで教えてもらうことができたと語る真礼さん。4月から受け持つ生徒は、震災の時小さかったり、もしかしたら生まれる前の子かもしれないので、今後、地震や災害など、非常時だけじゃなくても、人とのつながりを大切にしていくような子に育てていけたら。と話してくれました。


『LOVE&HOPE』、明日は、福島県相馬市の、美味しい美味しいいちご農園のお話しです!

2017年1月19日

1月18日 いざ夢のホテルマンへ!中津留裕人くん

今朝は、お休み中の中西哲生さんに代わって、白石康次郎さんとお届します。

震災からまもなく丸6年。この番組では、復興を担う子どもたちの自立を支援する「サポートアワーキッズ」を6年間継続取材してきましたが、その取り組みで海外留学を体験した子どもたちも、それぞれ未来へ羽ばたきはじめています。

その一人が、宮城県亘理町出身、中津留裕人君。高校1年で被災。ご両親は経営していた養豚場を津波で流され、転居と転職を余儀なくされました。そんな中、中津留くんは語学留学のチャンスをつかみ、両親の後押しもありイギリスへ。海外での経験をきっかけに夢を切り開くことを決意。大学で観光学を学び、そしてこの春、夢の実現に大きな一歩を踏み出します。


『今の夢はホテルマン。優しさや、他人を喜ばせることが実感できる仕事だと思ってて。人とのコミュニケーションは得意ではないが、何かしてあげるのが好き。相手の喜んだ顔をみると嬉しくなっちゃう(笑)』(2013年12月)

*****

▼電話がつながっています。愛称で呼びましょう。つるくーん。ホテルへの就職が決まったということで本当におめでとうございます。

「ありがとうございます。」

▼相変わらず優しい声で安心しました(笑)どこのホテルに就職が決まったんですか。

「第一志望だった京都の外資系ホテルのリッツカールトン京都ってところです。」

▼すごいですね。リッツカールトンは本当に人気のホテルですしトップを争う一流のホテルですが、合格の発表が来た時はどうでしたか。

「発表を受けたのが面接を受けた当日だったんですよ。それでもう京都から仙台に帰る途中で、電話が来た時は夢を見た感じでした。本当に1〜2か月は実感がない感じで(笑)」

▼私の予想ですけど面接官の方はつるくんのスマイルにやられたんだと思いますよ〜!

「いやいや〜!」

▼夢のスタートです。どんなホテルマンになりたいですか?

「お客さんに対して素晴らしいサービスをするというのはもちろんなんですが、のちのちは経営者になりたいという夢もあるので、そこに向けてどうやったら従業員たちが素晴らしいサービスをできるようにあるのかという環境づくりも含めた考え方が働きながら身についていったらいいかなという風に今は想っています。」

ちゃんと先まで見据えていて・・・経営者ということはいずれはホテルを経営したいということですか?

「ゆくゆくは、そう考えています。」

▼暖かいホテルになりそうですけど、以前インタビューしたときに国内の有名ホテルに就職して親を詠んで素敵な時間を過ごしてほしい、末っ子で最後まで迷惑をかける子供なので、その分恩返しと親孝行をしたいと言っていました。ご両親は何と言っていましたか。

「直接会って合格を伝えた時はただただ喜んでいたんですが、自分がいないところで実は泣いていたというのを後から聞いて嬉しかったです。父親が鳴いていたらしいんですけど、母親からそれを後で聞きました。」

▼夢をかなえたのが自分のためだけじゃなくて、両親のためになって嬉しかったんじゃないですか。

「やっぱり震災を受けてお金が厳しくなった状態で大学進学をしたというのが、授業料もギリギリ払えるくらいだったし、自分が大学進学して親が苦労しているのを見ると大学を辞めたいと思ったり、申し訳なさもあったんですけどすごく応援してくれたので。良い報告ができてうれしいですし、安心してねという想いです。もう社会人になるので安心して見送ってもらえればうれしいです。」

▼ご両親も楽しみだと思いますし、私たちスタッフもつるくんが接客してくれるホテルに行くのをすごく楽しみにしていますので、春から頑張ってくださいね。つるくんありがとうございました!

*****
今朝は、宮城県亘理町出身、この春、リッツカールトン京都でホテルマンとして夢への第一歩を踏み出す、中津留裕人君の声をお届けしました。

海洋冒険家の白石康次郎さんからもメッセージいただきました!
「中津留くんおめでとう!これからが本当の人生の荒波に出るからね。どんなことがあっても自分の心のコンパス見失わないで、しっかり走ってもらいたいと思います。やっぱり海外の経験て大きいんです。旅は男を磨くんですよ。
お父さんお母さん、旅させてあげてね」


あしたは、仙台市出身、小野寺真礼くんの未来へ向けた一歩、お伝えします。

2017年1月19日

1月17日 マツダのエンジニアへ!半澤悠音さん

東日本大震災の被災地の子どもたちに語学留学を体験してもらう取り組み「サポートアワーキッズ」。2013年、フランス留学を体験した福島市出身の半澤悠音さん、当時高校2年生は、世界三大自動車レースの一つ、「ル・マン24時間耐久レース」を観戦して「車のエンジニアになりたい!」と将来の夢を語ってくれました。

★「夢はピットに立つことです!私もエンジニアの一人として。できればルマンに戻って、100周年にぜひとも参加したい。私が行った時は90周年だったのであと10年後の100周年にはチームに入ってエンジニアになって、走らせたいですねクルマを。24時間完走させたいです。」

あれから3年。半澤悠音さんは現在二十歳になり、この春仙台高等専門学校を卒業し「車のエンジニア」に一歩近づくため、なんと念願の「マツダ」に就職が決まりました!その喜びの声をご本人に伺いましょう!! はるかさん、おはようございます!


▼マツダに就職内定、おめでとうございます! フランスで「ル・マン」の耐久レースを観戦したことで、将来の夢がはっきりされたわけですが、「車のエンジニア」の中でも半澤さんは「マツダ」にこだわったのはなぜですか?

「私がフランスのホームステイに参加させていただいた時、1991年にマツダの「787B」という車が日本車で初めてルマンで優勝した。その車がパレードするということで私たちも見ることができたんですが、その時私は787Bに感動しまして、そういうようにみんなが感動して夢や希望を与えられる車を、マツダさんで今度は自分で作りたいな!という気持ちでマツダに就職を決めました。」

▼面接ではもう1つ、地元福島への想いも語られたそうですね?

「ピットに立つ夢って車のこと全てをわかってないとレースのエンジニアとして活躍できないので、まずは技術を身に着けるということと、広島は過去に被爆してその中でもマツダは世界で活躍している企業なので、私の地元の福島も被爆した地域なので、地元の福島にも工場を作ることで復興の拠点となって自分も地元の工場で活躍できたらなと思います。」

2017年1月18日

1月16日 福島県沖の魚介類、放射線セシウム検査で基準値以下

1月16日はお休み中の中西哲生さんに代わって首都大学教授で法学者の木村草太さんとお送りしました。

先週、新たなデータが発表されました。福島県が沿岸海域で実施している魚介類の放射性セシウム濃度検査で、平成28年に採取した全ての魚介類が、国の基準値(1キログラム当たり100ベクレル)を下回ったことがわかった、というもの。これは、原発事故後初めてです。

そこで、福島県いわき市の小松理虔さんに電話でお話を伺いました。小松さんは「いわき海洋調べ隊・うみラボ」の中心メンバー。福島近海の魚を自分たちの手で釣りあげて、自分たちで調べる民間の取り組みを2013年から行っています。

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木村)福島沿岸でとれた魚介類のセシウム検査で、すべての魚が国の基準値を下回ったというニュース、小松さんはどう受け止めらえましたが?

小松)これまで自分たちが自主的に調査してきた数値と重なることも確認でしたし、何よりも僕自身福島の魚の消費者ですので、福島の魚が安全であることを裏付けるデータが出たというのは、とても喜ばしいことですね。ただ「数値で安全が示される」のと「一般の方が安全だと思う」のは別の話。まだまだ福島沿岸の魚介類に対するアレルギーは大きい。それは市場の価格に直結する。漁業関係者もそこを心配しています。

木村)福島第一原発からは、いまだに放射性廃棄物が垂れ流されているのでは?といった懸念を持つ方もういると思いますが、そうした方にはどのようにお話しされたいですか?

小松)汚染水が垂れ流しであると誤解されている方も多いと思うが、実際に僕たちが計っている魚にサメがあるが、サメは比較的セシウムを貯めやすい魚だということがわかっている。その内、産まれたばかりのような若いサメからも微量にセシウムが検出されているので、今現在、完全に汚染水が食い止められているわけではない状態だと推測される。とはいえ、セシウムを貯めにくい魚種や一般的にわたしたちが食用として口にしている魚に関しては検出されるレベルではなく、基準値を下回っている。汚染水が食い止められているわけではないんだけども、流通するような魚には問題ないという現状。汚染水の現状と魚に出てくるデータをきちんと分けて考えなければいけないので、そういったところをどう伝えていくかが課題だと考えています。

木村)「うみラボ」では福島近海で魚を釣り、放射線量を測る調査を続けているそうですが、どんなことを感じますか?

小松)今まで試験操業をしてきたことで、つまり禁漁してきたことで福島近海は漁業資源がかなり回復してきている。そうすると今一番厳しい状況におかれている福島の漁業ですが、資源を管理する、資源を回復するという分野では裏をかえせば日本で一番豊かな海と言える。ですので今までの「汚染された海」というイメージではなくて、これから私たちの漁業資源をどう守るかという視点で福島の海を語っていけると、また1つ違った見え方ができるのかなと考えています。
だからこそ安全なデータを安心なデータだと受け取ってもらえるような情報発信の在り方に僕たちは注力していきたいなと思います。


「うみラボ」の活動や調査の結果は、オフィシャルサイトで詳しく見ることができます。

2017年1月13日

1月13日 新・さんさん商店街「しお彩」の「タコ壺ラーメン!」

今朝は、昨日に続き宮城県南三陸町の“未来の担い手”、新しく誕生する「さんさん商店街」に出店を決めた、ある若手料理人のお話です。

その方は、津波でお店を流されながらも、仮設住宅で不自由な暮らしをしている皆さんのために「移動販売車」で暖かい料理を届けつづけた「しお彩」の後藤一美さん。後藤さんは、3月3日「さんさんの日」にオープンする南三陸町の本設商店街「さんさん商店街」で念願のお店を構えることを決めています。

南三陸町といえば、年に4種類提供される「キラキラ丼」が有名で、後藤さんも震災前からお店で提供していましたが、新たにオープンするお店ではさらに新しく、目玉のメニューを考えているといいます。

まだどこにも公表したことがないそうなんですが、しつこく聞いて、教えて頂きました。

◆南三陸名物のタコを使った「タコ壺ラーメン」「壺壺セット」も!
(2017年3月に本設の「さんさん商店街」がオープンして、そこに「しお彩」が入る。新しいお店の目玉メニューは?)〜まだ皆さんには公表していないんですが、震災以前にも南三陸町は“西の明石、東の志津川のタコ”って全国的に有名だったんです。それでタコ飯とかタコ料理をずいぶん出していましたので、商店街のオープンの時には私の店ではタコ料理をまた復活させようと思いまして、昨年まで商店街に入っていたそば屋さんとかラーメン屋さん、そういったところが無くなってしまうんですね。そこで何か麺類出せないかと私も考えてまして、今度新しい商店街ではタコ料理を使った「蛸壺ラーメン」というのをですね、やろうと思ってます。〜(思わずのけぞっちゃいましたけどスタッフ一同、蛸壺ラーメン??ゼッタイ美味しそうなんですけど!)〜そうですね 、ま北海道の昆布を使ってダシをとってですね、塩味系の蛸壺のラーメンにしようかと思ってるんですが、壺も蛸壺を見立てたものにして、タコの切り身とかタコのつみれを、お客さんにこの中にタコのつみれをポトポトって入れていただくってカタチで、参加型の蛸壺ラーメンで、それがプカプカって浮かべてですね、(それゼッタイみんなインスタにアップしたくなる)〜たぶんタコ飯は全国にあるんですが、蛸壺ラーメンってのは無いと思うんです。(私♯蛸壺ラーメンでつぶやきます。美味しそう)〜美味しいですよ。自信100%。あとちなみにこれにですね、「壺壺セット」というのをつけてですね、蛸壺ラーメンと一緒にタコ飯も食べられるっていうですね、(うわゼッタイ壺壺セットにします。以前からそれは作って・・・)〜作ってなかったです。いろいろ考えて、この「キラキラ丼」だけに頼ってはいけないなと思いましてですね、そこで何か名物料理を作るとまた目玉というか、ぜんぜん違ってくるかと思うので、蛸壺ラーメンというのを考えました。移動販売をずっとしてたので、またこう、新しい商店街に入って自分の店が持てるっていう気持ちがですね、本当にすごく嬉しくて、また店の前でお客さんと話して、いろんな料理を出せるっていうのは本当に夢のようですね。


3月3日、新しい「さんさん商店街」の街びらきが本当に待ち遠しいですが、じつはこの仮設から本設へ移る過程の中には“若い世代へのバトンリレー”という事も大きなテーマになっているんだそうです。

◆組合長からバトンを渡され
今度新しい商店街に入る飲食店の中では私がいちばん年上になるんですが、私が40代半ばぐらいで、あとみんな40前半とか30後半の若い世代になってくるんですね。(このあと街づくりを進めていくのは後藤さんたちの世代になる)〜出来ればやっぱりこの私たちの年上の年代の方々がずっと築き上げてきてくれましたのでそれを私たちの年代でアドバイスを頂いたものを練り込みながらみんなで頑張っていきたいと思います。私自身「志のや」さんっていう料理屋さん、いまは飲食店組合の組長さんをやられてるんですね。その組合長からですね、「お前が今度頑張っていかなきゃないんだからな」って後押しされたので、自分自身も心を引き締めてやっていきたいと思ってます。



顔は怖いけど心は優しい南三陸町の名士「志のや」の高橋修さんから、「次はおまえだ!」と使命を受けた後藤さん。失敗は許されません(笑)。本設の「南三陸さんさん商店街」は3月3日開業。隈研悟さん設計の建物に28のお店が開店。新しい南三陸町のシンボルとなる。なかでも「しお彩」の「壺壺セット」はゼッタイ食べるべし。


2017年1月12日

1月12日 移動販売車から新しい「さんさん商店街」へ

今朝は、宮城県南三陸町の“未来の担い手”。新しく誕生する「さんさん商店街」に出店を決めた、ある若手料理人のお話です。

3月3日「さんさんの日」にオープンする、本設の「さんさん商店街」。このオープンを一番待ち望んでいるのが、この方かもしれません。震災直後から、暖かい料理を届けるため移動販売車で走り続けた「しお彩」の後藤一美さんです。後藤さんは震災前、南三陸町志津川地区の中心地で飲食店を営み、海鮮を中心に地元の食材で「どんぶり」を提供する、地元の方に人気のお店でした。津波ですべてを流されてまもなく、後藤さんはお総菜の移動販売を始め、コロッケや唐揚げなどの揚げ物から、卵焼き、ひじきの煮物、ポテトサラダなどの手料理を町の人たちに食べてもらおうと、町内を移動販売車で走り続けました。

そして震災からまる6年。今年3月にオープンする新しい「さんさん商店街」で飲食店「しお彩」は再スタートを切ります。

◆「新しいさんさん商店街の旗頭となるようなお店を持ちたい」
お店は「お魚通り」という町の中心部で、地元の食材を使った海鮮どんぶりがメインでした。南三陸町で9年前に立ち上がった「キラキラ丼」という、観光客を呼ぶため飲食店組合の有志が集まり、当時は5店舗でキラキラ丼を出していました。(ご自宅は?)自宅も店舗も別々だったんですが、どちらも津波で流出しまして、丁度妻のお腹に赤ちゃんがいて、3月11日から1か月半後の5月1日に無事に次女が生まれました。それで避難所生活をしていた時に町民の皆さんから「しお彩さん早くがんばって〜。待ってるよ〜」という声を随分いただいて、町に何もなくなって食べるものもないから早く復活してって声をうけて、それじゃ何かをしなきゃいけないって時に移動販売の車を見つけて、これから高台で仮設住宅が出来た時に買い物が不便ということで、まずは移動販売を始めました。(どうでした?町の皆さんの声というのは)仮設住宅に住むというのが私を含めて初めてだったので、狭い台所で料理を作るのが大変だと。私の車が行ってその場で目の前で揚げ物を揚げるなど暖かいものを提供していましたので、皆さん車に寄ってくれて久しぶりに再会する人とか、皆さんと心打ち解けあったというのが印象的ですね。(後藤さんご自身も仮設生活で大変な中、周りの仮設暮らしの方を気づかうのは大変だったのでは?)子供が産まれてまだ落ち着かない状態だったのでやはり自分の家族も大切だったのですが、震災以前に店を3年半やってこれたのも住民の皆さんに支えられたおかげなので、やっぱり恩返しというか、何かで皆さんを元気づけようと思ったんですね。(その移動販売は今まで続けてこれられた?)3月にオープンするさんさん商店街に新しく店舗を構えるので、その準備を考えて2016年12月に終了する形をとりました。(3月から本設のさんさん商店街でいよいよお店をスタートさせるということなんですね)私も前は飲食店やっていたんですが、震災後に移動販売をやって5年半のブランクがあるんですね。それを感じさせないように新しい商店街で「食」を求めて来る方がたくさんいると思うのでそのために商店街の旗頭が出るようにやっていきたいと思っています。今でも商店街に向けて励ましの言葉や「期待しているよ」という言葉をたくさんいただくので、それに恥じないようなお店を持ちたいと思っています。


後藤さん、仮設の「さんさん商店街」で仮設店舗出さないか? と声もかけられたそうですが、買い物に困っている仮設住宅の方、とくにお年寄りに直接暖かい料理を届けたいと仮設店舗は断り、移動販売を去年の12月まで続けていたそうです。

いよいよこの春オープンする新さんさん商店街内の「しお彩」。新しいお店ではどんなメニューで勝負するのか、この続きは明日のLOVE&HOPEでお伝えします!

2017年1月12日

1月11日 南三陸まちづくり未来(2)

今朝は昨日に引き続き、宮城県南三陸町のにぎわいを再生させるための組織「株式会社 南三陸まちづくり未来」代表、三浦洋昭さんのインタビューです。

この春、新たなスタートを切る志津川の「さんさん商店街」と、歌津の「伊里前福幸商店街」。その両方の運営を担うのが、入居する店主たち36人が株主となって設立された株式会社 南三陸まちづくり未来です。

大きな変化を迎える南三陸町。三浦さんはそんな南三陸町のこれからをどのように描いているのでしょうか。

◆三陸道でつながる2つの商店街
(南三陸まちづくり未来でかかわっていく中で、南三陸の町の未来をどんなふうに描いているか?)いま目前に見ているのは「さんさん商店街」が三陸道でつながり、「伊里前商店街」にもつながる。仙台圏と近くなりますので、ファンづくりをしていく。歌津地区は「海の駅」構想ということで進んでます。あっちは海にいちばん近い商店街なんです。50メートルくらいで海なので見晴らしがいい。その海を背景にした商店街にしたらいいんじゃないかと。それで「さんさん商店街」と歌津の商店街の色分けをきちっとして、両方の魅力がわかるように進めております。「さんさん商店街」の完成したのちは、近隣に防災庁舎があるということで、1つの核になるだろうと。世界に震災の発信、そういう惨劇を発信する大きな場所になる。それが大きな地域の力になって行くのかなと思うので、この南三陸町に、町民はもとより町外の方、外国人の方、一年中往来するような地域になればいいんじゃないかなというふうな将来像です。

仙台から南三陸へのアクセス、いますでに三陸道が「志津川」までつながっていますが2017年度に「歌津」まで開通。仙台圏からアクセスしやすくなります。震災の惨劇を伝える中核地域としての「志津川」。海辺の風景と美味しい海の幸が集う「海の駅」の「歌津」。それぞれの個性で、人を呼び込みたいということです。


昭和8年創業の老舗食品販売会社「マルセン食品」の代表でもある三浦さん。町の復興を担う「株式会社 南三陸まちづくり未来」の代表以外にもいろんな顔をお持ちでした。町の未来を描くうえで、どうしてもやりたいことがあるそうです!

◆町民運動会で地域のコミュニティづくり
いろんなことやってるんです。今日芸能発表会委員長、あと体育協会の副会長もやっていて、第一回町民運動会というのも提案している。高台移転してコミュニティが真新しい状態になるので、それを集合して心を一つにするには行事をすることがいちばんなんですよね。集まって飲む回数が増えれば、否応なしに友達になりますから。それが積み重なって絆が深くなっていくと思うので、それを目的として、町民運動会。車押し大会とかで、子供が老人の車いすを押してパン食い競争とか(笑)例えば何月何日と日にちを決めたらその行政区でそれに向けて会合が開かれてですね、責任者がでたりして地域のコミュニティっていうのは自然に構築されていくんじゃないかと思うんです。仮設住宅が小学校とか学校から取れれば校庭が開放されるので、仮設からみんな高台に移転しますよね。落ち着いたらそん時を見計らって一回目を。あと2年くらいかかるんじゃないかと思うんですけど。次なる復興のステップの足掛かりを作っていくというのを、いいんじゃないかと思ってるんですけど。ま、いま言えるのはそんなとこですね。未来像といえば。私は押されてるかもしれないけど。(パン食べてたり・笑)


「株式会社南三陸まちづくり未来」が運営を手掛ける、志津川の「さんさん商店街」は、
28店舗が出店し3月3日開業。一方、歌津の商店街は、8店舗が参加して、3月から4月の開業を目指している。いずれも隈研吾さん設計。

明日は、そんな新しく誕生する「さんさん商店街」に出店を決めた、ある若手料理人に注目します。

2017年1月12日

1月10日 南三陸まちづくり未来(1)


今朝は、宮城県南三陸町のにぎわいを再生させるための中核組織「株式会社 南三陸まちづくり未来」についてご紹介します。

去年の大晦日で幕を下ろした南三陸町・志津川の仮設商店街「南三陸さんさん商店街」は今年3月3日に、本設商店街として新しいスタートを切ります。そして歌津の「伊里前福幸商店街」も少し遅れて春には本設の商店街がオープン。この両方の運営を担うのが「南三陸まちづくり未来」です。

今回お話しを伺った代表の三浦洋昭さんは、昭和8年創業の老舗食品販売会社「マルセン食品」の代表でもあります。東日本大震災による津波で、工場、店舗、倉庫、自宅や車のすべてが流失しましたがその年の夏にはトラックでの移動販売で業務を再開。仮設のさんさん商店街の立ち上げから、これまで休むことなく町の復興のためにご尽力されている方です。

町のこれからを担う「株式会社 南三陸まちづくり未来」。まずはその立ち上がりの経緯を伺いました。

◆10年は運命共同体で、決意を一緒に。
(株式会社南三陸まちづくり未来、どんな団体?)新しい商店街が南三陸町は2カ所出来ます。志津川地区には「さんさん商店街」。歌津地区の「伊里前(福幸)商店街」。ふたつの出店する方々から出資を頂いて資本金を集めまして総括して運営していくと。「さんさん商店街」28店舗、「伊里前」8店舗、計36店舗の方が全員出資者、株主になってます。その方から集めた資金で建物を両地区に建てました。2億ちょっとが自己資金で、これからみんなでそれを返済していくということになります。(それは何か年計画?)10年間で返済しようと。10年は運命共同体というふうになります。(出店された方は生半可な気持ちではない?)大きなハードルがありました。だから皆さん1年半くらいかけて悩んで最後決意されたんでしょうけども、並大抵の決意では一緒に進めない。そういった意味では覚悟を決めた方々なので、とにかく前に進んでいかにして早く借金を返すかと、どうやったら南三陸町にお客さんにお越し頂けるかということで決意を一緒にしたというふうに思います。
(10年は長い。若い世代が中心になってる?)だいぶ世代交代しました。7割、8割前後が40代前後の方で占められています。いずれ年を取りますし、環境もまだ変化の途中です。いちばん懸念されるのはいま復興工事でこの地域には数千人の方が毎日入ってるわけで、その需要でだいぶ皆さん助かってると思いますが、2年後に復興工事が終わりますと、一気にその方たちがこの地域から撤退しますので、まして人口が5〜6千人分減ってるわけなので、震災前の方々で成り立ってた商売も有るんですが、そういったことはアテに出来なくなりますので、そこで本気になってかからなければ我々もジリ貧になるだろうということで、ここからエンジンをかけて地域の魅力を内外に伝えるということを皆で考えてます。


◇3月3日開業の南三陸「さんさん商店街」は28店舗が出店。仮設商店街から24店舗が移るほか4店舗が新たに参加。一方、歌津の「伊里前福幸商店街」は、現在の仮設商店街から8店舗が参加、3月から4月の開業を目指している。いずれも隈研吾さん設計。

◇三浦さんたちはこれまでも、仮設商店街でのさまざまなイベントの企画や運営を通じて、後継者の育成を進めたきたそう。
町の復興と活性化、世代交代、そして借金返済。すべてがこの二つの本設商店街の成功にかかっているといえる。

2017年1月12日

1月9日 新成人の声 小野寺翔さん

今日は、東北の被災地で成人式を迎える「新成人の声」、宮城県南三陸町の小野寺翔さんの声をお届けします。

小野寺翔さんは震災時は戸倉中学校の2年生被災。翌年の3月、被災し使われていなかった戸倉中の校舎で卒業式が行われ答辞をつとめる姿を番組ではご紹介しました。現在は神奈川大学で学ぶ傍ら、南三陸町の復興途上の姿を多くの人に知ってもらうために、自ら語り部となってツアーを主催するなど地域のために出来ることを実践しています。

震災からまもなく6年。新成人となった小野寺さんは8日に行われた南三陸町の成人式式典で新成人代表としてあいさつし、「必ずや古里に戻ってくる」と決意表明しました。

今朝はまだ戸倉の実家にいる小野寺翔さんに、電話でお話伺いました。

ラジコでは放送後1週間、タイムフリーで聴くことができます。
http://radiko.jp/#!/ts/FMT/20170109063000

2017年1月6日

1月6日 新成人の声 遠藤裕也さん

今日は、東北の被災地で成人式を迎える「新成人の声」、福島県富岡町出身、遠藤裕也さんの声をお届けします。

地震と津波、そして原発事故の影響で、福島第一原発周辺の町や村では今なお全町・全村避難が続いています。慣れない土地での避難生活を余儀なくされている中、それぞれの住民は、避難先での6回目の成人式を迎えます。

ほとんどの住民が郡山市やいわき市、三春町で避難生活をしている、福島県富岡町もその一つ。今年、成人式を迎える遠藤裕也さんは、そんな富岡町の出身で一家で2015年まで借り上げ住宅に住み、現在は郡山市に建てた家で暮らしながら、福島市内の大学に通っています。

震災時14歳・中学2年生だった裕也さんが暮らしていた富岡は、どんな町だったんでしょうか。

◆あったかい町民
山も有り海も有り、春には桜が咲いて、夏には海水浴が出来て、町に流れてる川の上流の水深10メートル以上あるところに皆でパンツ一丁で飛びこんだのがいちばんの思い出です。他にも松明を担いで山を駆け上っていくお祭りも毎年登っていたので印象深いです。あと「近所付き合い」が富岡町は一番じゃないかっていうくらい、子供たちが帰ってきたときは近所のおじいちゃんおばあちゃん、「お帰り」って言ってくれるし、学校行くときは「行ってらっしゃい」って言ってくれるし、俺からしたらけっこうあったかい町民が多くて、四季折々の様々な遊びを楽しめる場所だったなって思います。

そんな親しんだ富岡町を追われて間もなく6年。それは中学生だった遠藤裕也さんが成人になるほどの月日の経過をあらわしています。町への思い、将来の夢、いろんなことを考えながら、ハタチを迎えるまでに裕也さんが導き出した答えとは。

◆将来は富岡で消防士になりたい。
まあこっちに来ても昔から釣りが好きだったんで釣りやってたんですけど、釣りをやりながらも、富岡で釣りをしてた池のことを思い出したりしながら、「帰りたいな」という気持ちが湧いてきてるんだけど、やりながらもどかしさを感じたり、友達でも「戻りたい」って言ってる人が(まあ聞いてないからだけど)いないと思っているんで、だからその思い出にある「火祭り」とかをやるようになったら、「祭の時だけでもいいから帰ってきて」って言って皆で登れたりしたら、町を盛り上げられるんじゃないかなと思います。避難指示解除されて学校も卒業したら、富岡町の仕事に就こうと思っています。仕事は富岡町の消防署。で高齢者を助けていきたいなという考えです。


そして遠藤裕也さんは、あさって8日の日曜日、郡山市内で開催される富岡町の成人式式典に出席します。しかも実行委員長という大役も担うことになっています。生まれ育った富岡町のために、いま出来ることをしていきたいと語る遠藤裕也さん。ただし不安がないわけではありません。

◆二十歳の想い
二十歳になったんで責任を持って行動しつつ、昔のように夏には海水浴場を開いて、砂浜に人がにぎわうような町になっていって欲しいなと思いますし、その手助けが出来たらなと思います。自分も子供とか出来たらさすがに不安なんで子供たちを住ませるのは。郡山市から1時間半くらいかかりますけど、単身赴任であっても通ってもいいから、自分だけは町、あと週イチで一時帰宅の人たちが休憩できる休憩所で日直の仕事をバイトでしてるんですけど、お年寄りの方が一時帰宅で帰ってきたときに覚えててくれたりするんで、その人たちへの恩返しも含めて町にたずさわる仕事をしたいなと思っています。


福島第一原発周辺の町のうち、飯舘村と川俣町は3月31日の避難指示解除が決まり、富岡町と浪江町もその後、避難指示が解除になる予定。ただし帰還する住民がどれくらいいるのかは不明。裕也さんのような若い世代が、安心して町に戻れる日は、まったく見通せていません。

2017年1月5日

1月5日 新成人の声 佐藤そのみさん

今日は、東北の被災地で成人式を迎える「新成人の声」、宮城県石巻市出身、佐藤そのみさんの声をお届けします。

東日本大震災の地震と津波で大きな被害を受けた石巻市。市内の大川小学校では、全校児童108名のうち74名が死亡・行方不明となり、教職員も10名が津波の犠牲となりました。今回新成人となる「佐藤そのみさん」は、そんな大川小学校の卒業生です。震災当時中学2年生だったそのみさんは、妹のみずほさんを大川小で亡くしました。

映像作家になる夢をかなえるために首都圏の大学に進学したそのみさん。いまは、年末年始のお休みで実家の石巻に帰省中ということで、電話でお話し伺いました。

◆妹のみずほが面白がるような、面白い映画、明るい映画を撮りたい!
高橋)そのみちゃん、お久しぶりです。そのみちゃんと会ったのは一年ぐらい前で、そのときはそのみちゃんが通っていた大川小学校を保存するか、解体するか、町を二分する議論が続いていたが、震災遺構として保存が決まったことを聞いて、わたしでもいろいろな思いがあったので、そのみちゃんもいろいろな気持ちがあったと思うけど・・
佐藤)そうですね、去年はやっと自分のやりたいことに向き合えるきっかけになったと思います。
高橋)そういう意味では昨年は一つ区切りの年になったのかもしれないですね。
そのみちゃんはいま大学2年生で映像作家になる夢をかなえるために、日々勉強していると思うんですが、去年はどんな作品を作ったの?
佐藤)学校から「ある男」という作品をつくる課題が出されて。わたしのお父さんが中学校の教員だったんだけど、それをやめて、大川小学校に来た人に語り部をしたり、全国各地でいろんな被災地の状況を伝える活動をしているので、その様子を撮ったドキュメンタリーを作ったりした。
高橋)反響はどうでした?
佐藤)妹が震災の津波で亡くなったということも、そこで初めて取り扱ったんだけど、それを知らなかった先生や友達もいたみたいで。重いテーマを扱っているんだけど、お父さんは明るい人なので、それをできるだけ出そうと思って、作品自体も明るい感じに終わらせたので、重いテーマを軽やかに扱っているギャップがすごくよかったと言われた。
高橋)それで思い出したのが、一緒に大川小学校に行ったときに、わたしそのみちゃんと行ったのが大川小2回目の訪問だったんだけど、1回目に行ったときは、本当に悲惨なことがあった場所で、いると胸が締め付けられてしまう場所だったんだけど、そのみちゃんが「ここ桜すごくきれいなんです」とか「ここで隠れんぼしたり、ここで怒られて・・」という話をして、すごく大川小の昔を思い描けて、すごく明るい場所だったときの大川小を思い出せたのが、すごくいま思い出した。そういうそのみちゃんの部分が(映像作品にも)出たのかも。
佐藤)そうですね。たぶん東日本大震災のその日だけを伝えたくないなっていうのが、大川小のこともお父さんのことも、すごく思っていて、それが作品に出せてよかったなと思いました。
高橋)そんな中でそのみちゃん、20歳になって、まもなく成人式を迎える。いま大川に帰っている?以前この番組で、妹のみずほちゃんにあてた手紙を書いてくれて、みずほちゃんも大好きだった大川のためにできることを考えて行動したいという言葉が印象的だったが、そのみちゃん20歳になって、大川について、自分について、改めてどういうことを考えていますか?
佐藤)そうだなあ、ずっと大川と関わっていきたいと思っているんだけど、いまは妹が面白いと思ってくれる映画を作りたい。大川で撮りたいというのが一つの夢だけど、大川に限らず、面白い映画、明るい映画が撮りたい。

高橋)以前番組で妹のみずほちゃんにあてて書いてくれた手紙の中で、みずほちゃんが大好きだったバンドが解散しちゃうからと書いていたと思うけど、あのバンドは誰だった?
佐藤)ガリレオガリレイというバンド。
高橋)解散ライブのチケットをみずほちゃんの分も合わせて2枚買ったと書いていたけど、ライブには行けたの?
佐藤)行きました。新潟の公演しか取れなかったんで、新潟の公演に行きました。みずほがいないかライブハウスできょろきょろしていました。
高橋)みずほちゃん、喜んだのではないかな。では最後にそのみちゃんのリクエスト曲聞かせてください。
佐藤)ガリレオガリレイの「明日へ」をお願いします。


宮城県石巻市出身、佐藤そのみさんが参加する成人式は、今月8日に石巻市で行われます。
佐藤そのみさんはじめ、今年成人するみなさん、おめでとうございます!

2017年1月4日

1月4日 女川の獅子振り2

昨日に引き続き、宮城県女川町からのレポートです。

お正月3が日、神社の「春祈祷」で獅子振り(獅子舞)が行われ、新しい年を迎えた女川町。この番組でも何度も女川は取材、町がどんどん新しくなっていく様子をお伝えしています。

そんな女川町・鷲神(わしのかみ)地区の獅子振りの担い手が、岡裕彦さん。

震災前は町で唯一のライブハウスのオーナーだったそう。現在は町の高台で仮設の飲食店を経営しています。そんな岡さんに、女川のこれからについて伺いました。

◆町作りとともに、人作りも
いま地域医療センターの門で「お茶っ子クラブ」というお店をやっているんですけど、鷲神地区そのものが嵩上げやなんやかんやで2、3年かかるので、そのあとにお店をやろうと思っています。またちょっとしたカフェだったりライブハウスだったり、とにかくみんながニコニコできるスペースを作るのが夢だったので。それを一旦作って。津波で流されたものですから。前も同じようなお店をやっていたんですけど、また作ろうと思います。2年半くらいかかるかな。自宅はまだ仮設であと1年半くらいはいなくちゃいけないですよね。もう6年、7年住んでいると隙間風がすごいですよ。狭いのは嫌がる人はいますけど、狭い中で家族5人が御飯食べるのもいいもんですよ。四畳半で家族集まって狭いところで囲んでお話しながらご飯を食べるっていうのはね。仮設住宅の醍醐味じゃないですけど、辛いことばかりじゃないんですよ。あと隣近所も優しいおじいちゃんおばあちゃんがいて、子供らが遊びに行ったり、ご飯食べたり。回覧板を回して隣組のおつきあいがあるようなコミュニティもいまできているので。そこでまた今度災害公営住宅に移るから、そこで新しいコミュニティを形成しなきゃいけないというのはあるが、神社があるとある御札が入っているのである意味そこで同じになれる。打ち解けやすい。だからさっきもいいましたが神社の御札とか同じものを入れているのですごく大事なんです。いま神社が町の公共事業などで移設しなければいけなくなっていて、いまもまた高台の仮設の神社で2年前からやっているんですけども、しかも移転が4回目で神社が移転する度に町が発展していくんです。震災で辛いことがあったんですが、熊野神社が移設するごとに町が進化していく。震災でいろいろあって、神社のあった場所に小学校ができたり町のいろんな施設ができて移転を余儀なくされているので、それが出来上がってまた新しい街になって発展するということで縁起の良い神社なんです。津波の時にも神社にみんな集まって焚き火したりみんなで過ごしましたからね。震災があって神社が移転するということではないんですよね。震災は誰のせいでもないので、やっぱり女川人が持っている魂作り。私は人づくりの方をやります。笑顔で笑えるような人作りをやりたいなと思っています。町のハード面を作るのが得意なやつはそっちで一生懸命やればいいし、色んな役割分担が自ずと決まっているんです。ピシッとした人が多いです。その規律にも神社が寄与しているんです。


岡さんは以前のインタビューでも、「新しい町には、新たに神輿の順路ができる。それが町が新しく生まれるということ」とおっしゃっていた。町が新しくなり、住む場所が変わり、新たに家が立つ。そこにお神輿や獅子振りが来て、人が集まる。これが大昔からの日本のコミュニティの正しい作り方なのかもしれません。

2017年1月3日

1月3日 女川の獅子振り1

今朝は、宮城県女川町から、この町で古くからずっと続く伝統の獅子舞いの「いま」、お伝えします。

東北・沿岸部には、様々な伝統芸能がありますが、女川の場合、各集落の神社にいわゆる「獅子舞の獅子がしら」があって、お正月の「春祈祷」では、町じゅうで獅子舞が行われます。

震災から今年でまる6年。町がどんどん新しくなっていく中、女川では3が日に獅子舞が行われています。女川の鷲神(わしのかみ)地区の獅子振りの担い手、岡裕彦さんに伺いました。

◆女川の「魂」
女川では「獅子振り」という。年が明けて、一軒一軒の家を朝8時くらいから夕方6時くらいまで回って、おめでとうございますと。大黒様・恵比寿様を家にお呼びして楽しいお正月を過ごしましょうというお手伝いをするのが、我々獅子振りの会。震災直後からとにかくやっていて、仮設住宅も回ってきた。賛否両論ありますが女川町の獅子振りというのは魂なもんですから、みなさんの心のなかにも感じるものがものすごい。あとは老健施設や病院などの施設も回ったんですね。高齢者の方の枕元まで行って獅子振りをすると、指が動かなかった人が小指が動いたりする。どこかに子供の頃の獅子舞の記憶があるんですね。太鼓の音を聞くとなんとなくあの頃を思い出すというか、笑顔で涙が出てくるという高齢者の方がずいぶんいらっしゃって、やっていてよかったなと。これからも続けましょうということで5年になります。


東北沿岸部では伝統芸能の衣装や道具が津波で流された地区が多いのですが、女川では獅子がしらなどを新たに作り、1年、また1年と町が復興していく中、その節目節目で獅子振りが披露されています。人口は減りましたが、それでも現在、女川では15の集落でそれぞれの獅子振りが地域の人によって受け継がれています。

◆地域の祭りが地域の"気”になる
いま仮設住宅から自力再建で家を建てたり、災害公営住宅も建っているので、そういう新しい家も一軒一軒まわります。40分くらいかけて一軒の家で獅子振りをします。大黒様・恵比寿様・・・お正月さまを家にお呼びして、新しい家ですから縁起の良いことばっかりでお正月を過ごしましょうということで、いっぱい福の神がくるようにいっぱい新築の家は祝います。ニコニコ笑顔で頂いて。やっぱり一人暮らしの方が多い。これからもどんどん増えていく。祖の人達が孤立しないように、そのために地域の神社があって、そこから広がるコミュニケションはすごく大事。神社が作り出すコミュニケーションは大人から子どもまで全員が交流できる最高のツール。町がこういう風に発展してきて、観光面も力を入れているが寂しいお年寄りがたくさんいるのも事実なので、我々が郷土芸能の力で盛り上げていきたい。あとは町に住んでいる人たちの気。気がいきいきしていないとダメですから。いくら観光事業だなにをやったって住んでいる人たちの気です。それをぐっと奮い立たせるのが地域の祭りだったりする。特に獅子舞は女川では本当に、気がピシャっとなりますから、特に町民全員が。それくらいパワーのあるもの。


女川の、お正月の獅子振りは「たんぶつ唄」という祝いの唄で、家の家長がまず獅子にカプッと噛まれるのがしきたりだそうです。そしてお正月を港町・女川ですから、大漁祈願・健康を祈る意味があるといいます。

あしたも、2017年を迎えた宮城県女川町からのレポートです。

パーソナリティ 鈴村健一

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