2016年9月28日

9月28日 石巻の楽器店サルコヤの「奇跡のピアノ」3

宮城県石巻市の楽器店「サルコヤ」のご主人が、一台、また一台と再生させている、津波を乗り越えたピアノをめぐるレポートです。



「サルコヤ」 代表・井上晃雄さんが再生した6台のピアノ。その一つは、シンディ・ローパーが購入、地元有志との連盟のプレートが付けられて地元の市立病院に寄付され、その他のピアノも被災した東北の小学校はじめ、各地に届けられています。一方、第1号の再生ピアノは、いまもサルコヤのお店の一角に展示されていて、試し弾きをすることも可能です。

そして、サルコヤは、2階で子どもたちのためのピアノ教室も続けています。今回、このピアノ教室で講師を努めているツダ・ケイシさんに、第1号再生ピアノを演奏していただきました。

※ベートーヴェン ピアノソナタ第8番ハ短調「悲愴」を演奏していただきました。

◆津波に負けてられるか!
私が一番ピアノを直す気持ちになったのは、これだけ全部津波でやられていいかげんに頭にきたから。よーし津波になんか負けてられるかと。津波に負けないで直したというのが価値があるんじゃないかと。私は元々そういうのが好きですから(笑)だから復興とピアノの再生と、二兎を追って二兎を捕まえようと。この建物(サルコヤ)は満足な設計もなく私が勝手に立てたんです。ですからうちの母ちゃんと、「30年以内に大きな地震が来る。そうしたら潰れるからいさぎよく商売をやめて老後を楽しもう」と話していたんですが、残っているんです。残っていたらやらざるを得ないでしょ商売(笑) 仕方ないからやりましょうと。音楽教室もやっていたし。こんな大災害を受けたのに、震災の1週間後、10日後には子どもたちが「ピアノ教室はいつから始めるんですか」と言ってきた。子どものそういう声がなければ(やらなかった)。それが大きいですね。結論としては私は直すのが好きなんですね(笑)考えてみればあと4〜5年で(お店が)100年を迎えると。それまではやりたい。


親子三代にわたりこの場所でご商売を続け、お店ももうすぐ創業100年。ご自身も今年87歳となった井上さんですが、まだまだこれからも、復興の象徴・ピアノの再生を続けていくことになりそうです。

★サルコヤのウェブサイトはこちら

2016年9月27日

9月27日 石巻の楽器店サルコヤの「奇跡のピアノ」2

今朝も宮城県石巻市の楽器店「サルコヤ」ご主人が、一台、また一台と再生させている奇跡のピアノをめぐるレポートです。


石巻の中心街にある楽器店「サルコヤ」 代表・井上晃雄さんは、津波で使えなくなったピアノを、コツコツと修理し続け、これまで6台のピアノを再生。再び音色を取り戻したピアノの音色は、たくさんの人々の心を動かしていきました。その中には、このバンドの名前もあったんです。

◆RADWIMPSも動いた!
ラッドウィンプスというグループサウンズご存知ですか。(※スタッフ2人同時に「バンドですね」とツッコみました笑)。彼らから「被災したピアノはあと1台ないですか」と聞かれ、いやうちには何台もあると言ったら、「1台直してくれ」と言われた。そして直してあげたら仙台で大装置のステージを作ってピアノを中心としたコサーとをやった。ラッドウィンプスのファンが2万人集まった。いや〜すごいなと思いましたね。コンサートのために作ったピアノだから「どこかに寄付してくれ」と言われて、ちょうど湊小学校にピアノがないからということで盛っていってプレゼントしました。これまで修理したピアノは1号がうちの店にあって、2号が愛知県弥富、3号は淡路島、4号が湊小学校。そして5号はボランティアで45号線にある被災したピアノを全部修理して学校の校歌を歌うという趣旨の活動だという。でもうちも被災しているしボランティアでやるわけにはいかないよ、と言ったんだけど、「たのむ」と言われて、釜石の手前にとうぎというところへ行ったら学校は影も形もなく全壊で、体育館だけ残っていてピアノがひっくり返っていた。「これを直してもらえませんか」といわれて、そういうのを見ると私は直したくなる性分だから、直しましょうということになった。それが5号。でもよく私もお金の保証もないのにね。お母ちゃんに怒られました。ああいうのを見るとムラムラと直したくなるんですね。馬鹿な性分ですね(笑)


ということで、一番最初に修理したピアノは、いまもサルコヤに展示されています。
そしてRADWIMPSだけでなく、ジャズピアニスト・上原ひろみさんなど、たくさんの音楽家を動かしてきたサルコヤの再生ピアノ。その音色を響かせたいと、ついには、こんな大物の方までお店にやってきました。

◆世界の歌姫も!
これは募金募集で、音楽評論家・湯川れい子さんとクミコさんで記者会見をやったんです。それを湯川れい子さんが覚えていて、シンディ・ローパーが東北見舞いに来る時にお店に連れてきたんです。お店に入るなり「このピアノをくれ」って言うんです。でもこれは売れないといったら、別のピアノはないかと言うので、ちょうど直したばかりのアップライトピアノがあったので、それを提案したら「それでいい」と。シンディ・ローパーさんとの関係はそれから始まったんです。そのピアノは石巻市立病院に収めました。湯川さんがアメリカに電話して祝辞をもらいたいとオファーしたが、どうしても来日できなかったんですが、その後に来年来日するということがわかり、こっちに来るんじゃないかと密かに期待しています(笑) (お会いになるまでシンディ・ローパーさんという存在は?)知らないですよ。純クラシックっですから。有名な歌手にしては小作りだし、店入ってチョロチョロしていて・・・(笑)


シンディ・ローパーは、2011年3月11日、ちょうどコンサートで来日しており、震災を目の当たりにした彼女は帰国せず日本に残り、コンサートと支援活動をしたことは有名です。親日家でもあり、被災地にずっと寄り添ってくれているシンディ・ローパーらしいエピソードですよね。井上さんはシンディ・ローパーを知らなかったそうですけど、心は通い合ったわけです! 近いうちに、サルコヤの再生ピアノで彼女が歌う姿が観られたら…素晴らしいですね!

2016年9月26日

9月26日 石巻の楽器店サルコヤの「奇跡のピアノ」1

宮城県石巻市から、津波の被害を乗り越え、再び音色を響かせるピアノをめぐるレポート、お伝えします。

番組でお聴き頂いたピアノの演奏は、石巻の中心街にある楽器店「サルコヤ」の代表・井上晃雄(てるお)さんが修復したピアノによるものです。



井上さんは、実に先々代からこの土地でご商売をされています。サルコヤの元になったのは、大正11年にお父さんが始めたおもちゃ屋さんだそうです。そこから長年かけて築いたお店を津波が襲ったのは、井上さんが出張中のことだったと言います。

◆店の楽器全てを襲った津波
私、この日は東京にいたんです。震災があったとき、お店は無防備でした。津波がこのままうわぁ〜っと来ましたから。それから1週間後に私は東京から新潟を経由して、山形からバスでやっとたどり着いたんです。ついたときはもうめちゃめちゃでした。水も泥も入りたい放題。こういう管楽器とかバイオリン10丁並んでいたのも1台も残らなかった。全部流されてしまった。ピアノも全部で30台あったのが全部だめになった。仕方ないから泥を出して、いずれは良いのだけでも、どろんこになったものでも将来は必ず直せるという自信があったもんですから、良いものは5〜6台とってあったんです。音楽教室をやっていたもんですから、そのピアノをどうしようかと。じゃあピアノを直そうと、水ぶっかけて見よう見まねで再生が始まったわけです。



こうして、井上さんの、ピアノを直しお店を再生するための奮闘が始まりました。ちなみに井上さん、当時すでに81才、現在87才!本当にパワフル!そんな井上さんは当時、こう思ったそうです。「このまま店を閉めたほうが楽だ。でも、ここで終わってたまるか」そしてこの強い気持ちが、様々な人たちを呼び寄せる力になったんです。

◆諦めない気持ちが人を呼び寄せた
ちょうど一生懸命やっているところに、歌手のクミコさんが来たんですね。クミコさんはリサイタルやっている時に地震と津波から命からがら裏山の採石場に避難したんです。ピアノを直し始めたところに、そんなクミコさんがやってきて「本当に直るんですか、じゃあ直ったらこのピアノを使ってコンサートをしましょう」と約束したんです。そこから頑張って直したんです。ところがコンサートの1週間前になっても鍵盤が4つ5つ鳴らない。「あと1週間で直りますか」って言われて、寝ないでやりますと約束して上手く言ったんですよ。奇跡だなと思いましたね。そしてそのコンサートは全国で放送されて、再生ピアノは津波に負けないたくましいピアノだと放送された。それがきっかけで愛知県弥富のライオンズクラブの方々が、今度新しくできる学校に、「この何者にも負けないピアノを子どもたちの教育のために捧げたい。」とオーダーしてくれた。ちょうど1年半期間があったので、どうやって直すか、塩を出すか。半年は手を付けずに悩んでいた。いろいろ考えた結果、超音波にかけると塩が完全に出るということに気づき、超音波のメーカーを探した。神奈川のベンチャー企業を見つけて、その機械を送ってもらうあいだに本体を洗ったり新しい部品を付けて、超音波の機械を使って直した。そしたら見事に音がでました。塩を抜けばこっちのもんだと思ってね。これなら学校にもっていっても恥ずかしくないと献上した。喜んでもらえましたね。


そして実は、今月も再建したばかりの石巻市立病院で、院内コンサートが企画され、患者さんや市民の方々が、復活したピアノの音色を楽しんだのだそうです。そしていまもコツコツとピアノの修理を続ける井上さんは、その後、ジャズピアノスト上原ひろみさん、そしてあのシンディ・ローパーの心も動かすことになります。このお話はまた明日以降お届けします。

2016年9月23日

9月23日 コバルトーレ女川 創設以来初のリーグ優勝へ2

昨日に引き続き、宮城県女川町のサッカーチーム、「コバルトーレ女川」に
焦点を当ててお届けします。

コバルトーレ女川は、現在 東北社会人リーグ1部で、初の優勝を「ほぼ確実」としています。

今週末、25日(日)のホーム最終戦が、引き分け以上なら優勝が決定。チーム設立10年。震災を乗り越え、町の人々とともに歩んできた「おらほのチーム」。その悲願を前に、女川の人々はすでに祝勝会の準備も万端! なんて情報も来ています。女川、町を挙げて盛り上がっちゃうんでしょうね〜。

しかし、キャプテンでFW・成田星矢選手はじめ、コバルトーレのメンバーたちは、この優勝は「あくまで通過点」だと話します。


◆欲望のままに!
まあ優勝が決まっても昇格はできないので。優勝は絶対条件で、その後の地域決勝リーグに勝たないと。まずは優勝したいですね。何も変わらないです、今までと。優勝は掛かっていますが特に気負うこともなく。僕たちは決して強いチームではないので。全力でやって来たので今回もそのまま自分たちがやれることをやるだけ。それで結果が出ればいいと思います。そこにゴールできれば次のゴールがあるので、結局欲望のままに生きているというか。僕が欲しいものが欲しくて、その結果が町に良い結果をもたらしてくれると僕は思っています。JFLにあるチーム、さらにその上に行くチーム。なんかすごい良い感じですよね(笑)


成田選手、ポジションはFW。18日の試合は「4−0」のうち、2得点が成田選手です。
「欲望のままに」という考え方。まさにFWというポジションにふさわしいのかもしれません。

ただ、本当にここからが厳しい戦いがはじまります。東北はじめ各地域の優勝チームによる「地域大会決勝」が11月に開幕。チームは上のクラスへ昇格するための大変厳しい戦いに臨みます。

コバルトーレ女川はJFLへの昇格、さらに「町の象徴」としての未来を見据えています。選手時代に、社会人チームからJFLに昇格を果たした経験のある、阿部裕二監督に伺いました。


◆100年先の土台を
一番大事なのは、いつもどおりやれるかどうかが問題。奇跡のようなものは一切ない。自然体でいつもどおりやれることをしっかりやれば、結果は出ると思って臨みます。基本的な考え方が、サッカーで町おこしをしたいというところ。結果という意味では大きな意味があるが、まだここもプロセス。理念としてはJリーグにもある「100年続くクラブ」を目指している。僕らはその土台を作っている段階。成し遂げたことがないので町の人も選手もどういう風になるのか・・・というのも分からないところ(笑)自分が選手時代に昇格してやっぱり充実感やうれしさがあった。それを経験させたいし、自分が指導者の立場になって昇格する喜びはどんなものかを感じたい。でも、ただそんなに甘くは無いので・・・。


優勝が決まるコバルトーレ女川のホーム最終戦は、女川総合運動公園で25日(日)午後2時キックオフです。 

2016年9月22日

9月22日 コバルトーレ女川 創設以来初のリーグ優勝へ

今朝は、宮城県女川町のサッカーチーム、「コバルトーレ女川」に焦点を当ててお届けします。

このチームは今年がちょうど設立10年目。東北社会人リーグ1部で戦っております。そして実は、今週末 日曜日の試合で、初のリーグ優勝が「ほぼ確実」となっています。社会人リーグの選手たちの多くは、他の仕事をしながら強い気持ちでプレーを続けています。

今回お話を伺った、キャプテンでFW・成田星矢選手もそんな中の一人。30歳・チーム最年長。女川とともに、東日本大震災を乗り越え、戦ってきた選手です。


◆僕が町に残った理由
仕事をしていた時だったので、ちょうどそこで地震が来て、みんなでとりあえず高台に避難してクルマで一夜を明かして。町を見に行ったのは次の日の朝です。正直なにも思わなかったです、唖然としていたというか。本当に、なにこれというのがその時の感じかな。見たこともない光景だったので何も言えなかったです。その時に選手や関係者はみんななんとか無事だというのは確認できて、じゃあ僕たちは何をするのかと思った時、比較的ぼくたちは若くて体力もあるので(笑) 最初に始めたのは道路の掃除だったと思うんですよね。まだ道路はぐちゃぐちゃだったので避難していた学校から竹ぼうきを持って行って履いたりしているうちに色んなところから「手伝ってくれ」と言われるようになって、じゃあみんなでやろうと。給水活動だったり、僕が働いていた会社でかまぼこを作って避難所に配ったりということを始めましたね。そんな中でチームが活動休止となって、別のチームでサッカーがしたいという人もいたし、僕は青森の家族からは帰って来いと言われたんですけど、ここの人たちともう一回一緒に町を作って、みんなで盛り上げていけたらいいかなと僕は思っていたので。この町はすごくこの町はいいとこだな〜と。みんなはよく「好きだから」っていうけど、僕はそういう表現は違うのかなと。好きなんだろうけど、本当にただ居心地がよかったとかそういう感じなので。なので僕は残りました。


成田選手は青森出身。仕事の出張で女川にやってきて、チームの存在を知り、もう一度真剣にサッカーをやりたい・・・という気持ちが止められず、
セレクションを受け、仕事を辞め、入団したそう。そして気づいたら、大好きなサッカーをさせてくれるこの町が、自分の「生きる場所」になっちゃったんです。

ただ、「震災をきっかけに、町とのきずなが強まったんですか」という質問をしたところ、成田選手の答えは、大変印象的なものでした。

◆震災がきっかけで絆ができたわけじゃない。
うーん、そうですね。それも良く言われるんですよね。震災が大きな分岐点になったのかと。僕はそんなことは無いと思う。元々僕たちもそうだし、その前からいた人たちが作り上げた繋がりは元々あるものであって、積み上げてきたものが続いているだけだと思います。リーグ戦再開というか、復興祈念試合というので震災の都市の12月に女川の陸上競技場が使えるようになって試合をやったんですね。その時に試合に勝って、「ありがとう」と言ってくれる人もいましたね。泣いている人も。それは本当に素直にやってよかったなって思うのと、逆にこっちはサッカーを続けさせてもらってありがとうという感じでした。



コバルトーレ女川のトップチームの選手たちはみな地元企業で働いています。町の行事や清掃活動にも、ずっと協力してきました。そして設立からの10年を経た「おらほのチーム」はいよいよ、25日のホーム最終戦で悲願の初優勝を手にします。

明日は、コバルトーレ女川・成田選手と、阿部監督のインタビューをお伝えします。

2016年9月21日

9月21日 ツール・ド・東北2016 その3 女川〜雄勝

石巻から女川、雄勝、河北という順番で巡る、東北沿岸部・60キロのコース。女川では2年ぶりにお母さんたちが振る舞う女川汁を頂き、再び自転車にまたがり、今度は海沿いに北上したわれらが中西キャプテン。



しかし・・・女川から雄勝へ北上する海沿いの道が、このコース最大の難所。

繰り返しやってくる登り坂。越えても越えてもまたやってくる・・・。ただしその間、右側にはずーっと三陸の海が広がっている。その絶景が救いになるんです。

ということで山を越え谷を越え、ツールド東北アンバサダーの中西と、パラリンピアン・谷真海選手は、次の目的地、雄勝のエイドステーションに到着!


◆雄勝のホタテでまたパワーチャージ!
中西:じゃあ真海ちゃんと雄勝のホタテを・・・もう食べてるし(笑)ホタテうまそう〜。焼いている香りがもうたまらんですね。まじ肉厚! 超美味!
雄勝総合支所の牧野さん:今年はすごく出来がいいので。この肉厚さはほかの産地にも負けません。震災前は宮城県一位の水揚げを誇っていましたから。離れていった方が多いので生産者が減っちゃって、全体の量は減っている。でも一軒当たりががんばって作っているので、なんとかみなさんに提供できるようになっているとは思います。
中西:じゃあこのあとも?
牧野さん:冬一杯は大丈夫。
中西:じゃあこれからの時期も自転車で?
牧野さん:いや、クルマで来て頂いて大丈夫ですよ(笑)
中西:確かに。クルマがいいですね。股間が痛い・・・(笑)。


雄勝でもこんな風に、町ぐるみで参加者をおもてなしをしてくれていました。もちろん沿道でも、雨の中、本当にたくさんの方が応援してくれていて、中には、第1回から毎年同じ場所で応援している親子の姿もありました。

このお2人は佐藤さん親子。第1回からずっと、実家のあったこの場所で参加者に声援を送っています。

◆ありがとうを言うために
私は仙台に嫁いでいて、父親と姉夫婦が住んでいたんですけど、(だから毎年?)町民としてここでね。せっかく来てくださる方にありがとうって言っていました。(最初は何年生だった)2年生からか。4年目だから。今は5年生。走っている方々も「いつもきてますよね」「毎年ありがとう」って言って下さったり。私たちが来てもらってありがとうなんだけどね。この状態を見て頂くだけでもありがたいな、ありがとうって言っていたんだけど、あとは娘を連れてここに毎年立つっていうのはとても大事なことかなと思って。(お名前は)佐藤おりざです。(どんな気持ちで応援している?)最初はお母さんについてきただけだけど、ありがとうありがとうって言われると嬉しいし、ちゃんと町が変わっていく姿を見てもらえるからいいなと思って、楽しみだなって。


雄勝で応援してくれていた佐藤さん親子。毎年、実家のあった場所で、ツールド東北参加者たちを応援しています。第1回のとき2年生だったオリザちゃんは、現在5年生。こういう出会いも、ツールド東北ならではの魅力ではないでしょうか。

※第1回当時、まだ小学校2年生だったオリザさん


このあとは雄勝を離れ、谷選手とともに84人の小学生が犠牲になった旧大川小学校へ立ち寄り、保存が決定した校舎に手を合わせてきました。被災地の今をこの目で見て感じること。これもこのイベントの大きな目的です。

最後に参加した方からの声です。
「おばあちゃん、子連れのお母さんが手を振ってくれてすごい元気が出ました。」
「目に見えてだいぶ復興は進んできているんですけど、沿道の中で一部まだまだの部分も見れたので復興が早く進めばいいなと思います」
「寒かったので温かいつみれ汁が美味しかったしありがたかったです。復興の進んでいる部分とか拝見しながら走らせて頂いて良い機会でした。」
「3回目の参加です。朝も一緒にここに向かってきた方が、東京と神奈川から来たということだったので、全国から集まっているのは嬉しく思うし、自分たちが復興に役立っているかなんて感じることは無いんですけど、こうやって一緒に走ることが繋がるきっかけになるんだなというのを感じることができたなと思います。」

また谷真海選手も「応援してたら、応援されてた・・・まさにそのとおりでした」と話していました。被災した東北沿岸部を応援するために足を運び、自転車で大変なコースを走っているうちに、地元の人たちの温かい声援で逆に力をもらう。地元のグルメと風光明媚な自然を楽しむ。去年と同じ人と再会して成長を喜んだり。魅力は本当に語りつくせません。ぜひあなたも来年、ツールド東北2017年へ!
http://tourdetohoku.yahoo.co.jp/2016/

明日は、いよいよ今週末、大事な試合を控える女川のサッカーチーム「コバルトーレ女川」についてお伝えします。

2016年9月20日

9月20日 ツール・ド・東北2016 その2 女川エイドステーション

今日も引き続き、先週末に行われたツールド東北2016のレポートです。



東北沿岸部を自転車でめぐりながら、被災した地域が復興していく姿を、自分の目で確認する。ツールド東北の大きな目的の一つです。
スタートから19キロ。市街地を抜け、最初の急坂をのぼり、下り、万石浦という静かな湾を超えた先に見えたのが2年ぶりの女川駅。中西哲生を迎えたのは、去年3月に開業した新しい駅舎とそこから伸びるプロムナードの賑わいでした。

そしてこの女川駅前には、参加者が地元のグルメで栄養を補給するための「エイドステーション」が設置されています。そして女川のエイドステーションには中西が心から楽しみにしている、このグルメが待っていました!


※そうです。女川名物さんまのつみれ汁です。フワフワしみウマなつみれが、絶妙のお出汁で煮込まれ、染み渡る旨さ! 中西&谷真海も夢中で食べてました。

参加者を迎える地元の方の中には、全国が注目する女川の町づくりの旗振り役、須田善明町長の姿も。お話伺いました。



◆復興はこれから加速します!
中西:僕は2年ぶりにここにこさせていただいたんですが、復興はかなり進んだように見えます。実際はどうですか。
須田:住宅が女川の場合、どうしても高台造成で時間がかかるという前提条件があります。宮城県全体だと7割が公営住宅や土地を貰っての生活再建をしているが、女川はまだ5割弱というところ。ただ今までやってきたものがこれから仕上がっていくので、ここからどんどん一気に加速するという状況です。

中西:女川駅の前にいるが、この駅の前のプロムナードは本当に素晴らしい雰囲気になりましたね。
須田:おかげさまで外からのお客様も大勢来ていただいている。以前はイベントをやれば人を集まるという感じだったが、今はイベントが無くても新しい街を見に行こうとお客様が来てくれるので本当にありがたい限りですね。

中西:僕も女川汁を頂いて、女川の方々の暖かさに触れて、人が素晴らしくて町が復興していくのを嬉しく思っています。
須田:ありがとうございます。今日もあさ3時ー4時からみなさん準備していてね。温かすぎるほどの思いをぶちこんでね(笑)皆さんにお召し上がりいただいています。そういう私たちの気質というか思いをね、絶望しか無いような状況からここまで来たわけですけど、下を向くよりもとにかく前を向いていこうよというみなさんの思いが、それぞれを支え合ってここまで来たと思います。またそういうところに全国の皆さんからご支援を頂いてきた。ここが本当の剣ヶ峰みたいなところだと思いますのでね、ここを超えて新しい世界を切り開いていきたいなと思います。

中西:そしてサッカーでは、コバルトーレ女川が優勝にあと一歩というところに来ています。
須田:いよいよですね。地域にとってコバルトーレ女川は勇気を与えてくれましたし、てっぺんを取って地域決勝を勝って、Jのつく舞台へというのが、私たち応援するものと、なによりチームの選手のみなさんの願いでもありますので、ぜひまずは地域大会決勝の切符をとってほしいなって。

中西:このあと地域大会決勝も非常に難しいものがありますけども、それを勝ってなんとかJ3に行けると新しいフェーズに移れますもんね。
須田:いま東北1部でずっと、3シーズンですか。震災後に2部から上がって戦い続けてきて、後半のあとちょっとで涙をのんだりということがありましたけど、今年はまず1部優勝、そして地域決勝、そして上がってJのステージへぜひ行ってもらいたいですね。


中西がチャレンジした、60キロのコースは「女川→雄勝→河北」の3つの地域に、エイドステーションが設置されており、それぞれ地元の美味しいもので参加者の疲れを癒やしてくれます。女川汁のあとは雄勝のホタテ焼き、そして河北では平椀が待っています。

というわけで、女川汁を補給?した中西哲生は再びバイクに跨り沿岸部を北上、ホタテ焼きの待つ雄勝へ向かいます。
高低差が最大90m、けして楽ではないコースですが、次はホタテ、次は平椀・・・と思えば頑張れるんです。何より、それぞれの地域でごちそうを振る舞ってくれる地元の方々の声援と笑顔が力になる・・・それが「応援してたら応援されてた」というコンセプトで続く、ツールド東北の魅力です。

この続きは、明日のこの時間にお伝えします。

※おまけ。哲生が喰らう!

2016年9月19日

9月19日 ツール・ド・東北2016 その1

今朝は、9月17日(土)・18日(日)に行われた、ツールド東北2016の模様をお届けします。

2013年に始まり、今回で4回目を数えるツールド東北。宮城県石巻〜気仙沼にまたがる三陸沿岸部を、自転車で巡りながら、 東日本大震災で被災した地域の「いま」を感じ、さらに東北の美味しいもの・雄大な自然をめいっぱい楽しむという復興支援イベントです。


※これまでの大会の様子

クロノス中西は今回、このイベントにアンバサダーとして3度めの参加。

※自転車セッティング中の中西。最先端のモデル!

2日とも、雨がぱらつく中での開催でしたが、それでも参加者は全国・海外からおよそ3800人!回数を重ね、参加したい!という方が増えているのを実感しました。

◆参加者それぞれの想い
・(東京から参加した男性)会社の支店がこっちにあって関係者もいるので昨日の夜から泊まりで(楽しみは?)休憩所の食べ物が楽しみ。
・(仙台の女性)はじめての参加です。地元というのもあり、美味しいものを食べながら楽しく走れるのでいいかなと。石巻に親戚がいて被害は身近だったのでそのへんもしっかり見ていきたいと思います。


「ファンライド」という、タイムを競わず、純粋にサイクリングを楽しむイベント。誰でも気軽に参加できます。なので、何年も連続で参加してる方も多く、評判を聞いて「今年こそ!」と初めて参加した方も大勢いました。

そして、中西哲生と同じく2年ぶりにアンバサダーとして参加したのが、気仙沼出身、女子陸上のパラリンピアン・谷真海選手(旧姓・佐藤)です。


◆2年ぶりの東北ライド!
中西:ツールド東北、やってきましたね。
谷:そうですね、もう2年ぶりですよね。
中西:どうですか、出産後初めてのレースですけど。
谷:東北に来る機会も、子どもを倦んでから無かったので、自分の目で見るすごく良い機会かなと思っています。
中西:4回目ということでかなり盛り上がってきていますよね。
谷:そうですね。抽選落ちした方もたくさんいてすごいなと思って、嬉しく思いますね。
中西:相変わらず坂道を登るのはきついと思いますが。
谷:そうなんですよ〜。あの辛さを思い出してきました(笑)
中西:大変でしたよね。
谷:苦しかったですね(笑)
中西:苦しかった〜(笑)
谷:だんだん言葉が無くなるんですよ。会話がなくなってきてただひたすら進むという。
中西:でも色んな方々と話しながら、声をかけられながら走ったのは良い経験になりましたよね。
谷:それとエイドステーションの地元の皆さんの暖かさに触れて、サンマのつみれ汁とかホタテとか、楽しみですよね明日は。
中西:じゃあ2人でしっかり手を合わせて。
谷:ゴールを目標に
中西:頑張っていきましょう!
谷:がんばりましょう!


谷選手は現役のトップアスリート。しかも出産後はトライアスロンに転向してトレーニングを重ねているということで、コメントにもどこか余裕がありました。

とにかくツールド東北は、リアス式海岸に沿った道路を走るので眺めが最高!その一方、上り坂が半端ないんです!! ということで中西哲生47才、沿道のみなさんの声援を力に、この長く厳しい上り坂に再び挑戦しました!


◆哲生、再びあの「坂道」へ!
おおーいっぱいいる〜! おはようございます、おはようございます・・・・。はあいっぱいいる。仮設の人たちが応援してくれている。うれしいっすね〜。おはようございます!ありがとうございます!ああいう人たちの声かけてもらえると嬉しいね。みんな自分たちがまだ大変なのに・・・来た〜最初の坂。やっぱり。はあはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁはぁ・・・。



ということで2年前と同じく、60キロのコースに挑戦した中西と谷真海選手。

石巻専修大学から、沿岸部・女川を目指し、女川から北上して雄勝、河北とぐるりと回って石巻専修大学に戻る60キロのコース。なんだ60キロかよ。と思うなかれ。その高低差はハンパじゃない。登りきったあとの下り坂の気持ちよさも半端じゃないのです。

そして、一生懸命 走っていると途中にはエイドステーションという地元のみなさんが、地元のグルメを振る舞ってくれるポイントが。これが楽しみなんですね〜。

この続きは、明日のこの時間にお伝えします。

2016年9月14日

9月14日 熊本阿蘇 草千里乗馬クラブ(3)

今朝も引き続き、熊本・阿蘇の観光名所「草千里乗馬クラブ」からのレポートをお届けします。

阿蘇の火口から3キロの場所にある草千里が浜。直径1キロ四方の広々とした草原では、馬が草を食み、乗馬も楽しめる阿蘇を代表する観光スポットとして親しまれてきました。

4月に起きた地震で、草千里に通じる道路は各所で崩れて通行止めとなり孤立。「草千里乗馬クラブ」も休業を余儀なくされていましたが、今週金曜、9月16日 草千里に通じる道の一つ、「阿蘇吉田線」の応急復旧工事が完了し、昼間の片側交互通行が可能となります。これに合わせて、草千里乗馬クラブも営業を再開する方針です。

人のにぎわいが戻るのを心待ちにしている「草千里乗馬クラブ」代表の末藤吉一さんに、あらためて「草千里」という場所について伺いました。

◆野焼きを40年ぶりに復活したばかりだった
草が千里くらい広がっているというイメージで名前付けられたんだと思いますけどね。ここは大昔の火口跡なんですよ。形が火口な感じがするでしょ?何百年も火山の活動がないんで、もう普通の原野みたいになるよね、草が生えてきて。いままで牛と馬でこの環境を維持してきたんです。食べて。昔はここ何百匹も牛とか放牧してたんです。基本的にここは山芝なんです。食べないと雑草がどーっと生えてきて。で牛が口蹄疫の関係で、飼い主が接触を避けたいんで、下の方にしか放牧しなくなったんです。なのでここに放牧してるのは馬だけなんです。うちの馬ぐらいの頭数では食いきらないというか食べる草の量が限られるでしょ?それで原野化してくるんです。ちゅうことで考えたのが、野焼きを復活しようと。40数年ぶりに去年したんです野焼きを。で今年はきれいやね〜って、新芽が生えてね、今年はいいぞおって言う時に地震でしょ。もうそっからまったくの手つかずだから、昔から見てると分かるけど昔のようなきれいさが無いというかね、雑草が無かったですよね昔は。ちょっと牛と馬が足りないよね今は。(来春も焼く?)去年は県が予算をつけてくれたけど、この地震でどうか・・・。申し入れはしてるんですよ。あれやらないときれいな風景は取り戻せないからと。ここは野焼きとかで世界農業遺産に何年か前に指定されて、そういった意味ではやっぱやらんといかんのではないかなって。たぶん2月ごろやると思います。冬じゃないと燃えないから1〜2月の冬場、春前に焼いて、新芽を出す。だいぶ報道陣が来ましたよ。これやっぱ春前の風物詩になるんじゃないの?いいPRになるんじゃいの?って話はしてるんですよ。なのでなるべくそういう行事は続けていきましょうって行政の方にはお願いしてるんですけどね。野焼きは続けていった方がいいと思うんです。


阿蘇の野焼きは、じつは何千年も前から、豊かな緑の草原を守るため人の手によって行われてきたもの。でも草千里は放牧されている牛や馬が草を食べてくれるので、その必要がありませんでした。それが口蹄疫の影響で牛を放牧しなくなったため、去年40年ぶりに野焼きを復活させたばかりだったんです。今年は真っ青な美しい草原になったのに、誰にも見せることが出来ず残念ですよね。ぜひ来年以降も草千里の観光の目玉として、野焼き続けていってほしいものです。

ここ数年、自然災害に度々見舞われている阿蘇地域。それでも末藤さんの想いは1つです。

◆同業者からの応援メッセージを支えに
もうここ4〜5年の間に、九州北部豪雨で4年前にここ阿蘇地域でも20人近くの人が亡くなって、そのくらい凄い雨だったんですよね。それで復旧に2年かかって、やっと通ったかなと思ったら今度、火山の噴火あったでしょ。もうあれで風評被害でね、いちばん稼ぎ時にバアーッといったから去年はもう売り上げ半分以下だったです。もう踏んだり蹴ったりでほんともう今度は何が有るだろって心配になりますよ。おかげさんでいろいろな人が支援してくださるっていうかね、電話もあるし、同じような業者の方も義捐金とか応援のメッセージとかいろいろなんかあったら助けてあげようとか、日本人のいいところかな、そういったつながりを強く感じましたね。まあ何かあったら今度は我々が助けてやらんないかんなって、まあそのためには元の生活に戻らないかんね早くって思いますよね。


今なお通行止めが続く阿蘇の登山道路のうち、阿蘇市側からの県道「阿蘇吉田線」が今週金曜から、片側通行で仮復旧します。それに合わせて「草千里乗馬クラブ」も営業を再開する方針です。秋の黄金色に染まる草原を馬が駆ける姿、もう間もなく見られます!

2016年9月13日

9月13日 熊本阿蘇 草千里乗馬クラブ(2)


今朝は昨日に続き、熊本・阿蘇の観光名所「草千里乗馬クラブ」からのレポートです。
阿蘇の火口から3キロの場所にある草千里が浜。直径1キロ四方の広々とした草原では馬が草を食み、乗馬も楽しめる阿蘇を代表する観光スポットとして親しまれてきました。4月に起きた地震で、草千里に通じる道路は各所で崩れて通行止めとなり孤立。「草千里乗馬クラブ」も休業を余儀なくされています。

代表の末藤吉一さんは、2日に一度、崩落した場所を避けながら草千里へ行き、繋養されている10頭の馬たちに飼料を与えながら、再開の日を待ち続けています。

◆9月中旬再会に向けて
とにかく復活まではみんなで頑張ろうって話になって、来春頃にはっていう話だったんです。そしたら最近、県の方が、仮設道やけど開放しますっていうプレス発表があったんです。一応ここで乗馬は出来ますよ。ただ難しいのは施設が全く手つかずの状態だから、受け入れ状態がまったくないし水が来てないから、安全の確保とか、営業するにしろ水がなければ営業はちょっと難しい状態。だから前の方に仮設のテントでも張って土産物の販売くらいは出来るかもしれないけど、その状況になってみないと分からないんで、仮にちょっとやってみようかなと。いまグループ補助金とかいろいろ国の補助金が出てるんでその申請とかして来春に向けての復旧工事とか計画を各施設が立ててた状態で、いきなり開くと言ったからちょっとどうなんかなあって、だから出来るところと出来ないところ、はっきりするよね。やっぱり全体が揃わないと復興っちゅうのはちょっと難しいと思うんですけどね。ほんとにできるのは来春からじゃないかなと思うんで。ただここ自体の魅力は無くなった訳じゃないから、どうにかこうにか道さえ確保できれば、なんとかして行ってみようっていうお客さん、だいぶいらっしゃるとは思うんですよね。「どこまで登れるんですか?」とか「営業してるんですか?」って声がたくさん来るから、やっぱここに来たいっていうお客さんはたくさんいると思うんです。知らんで手前まで来た客さんもだいぶいると思うんです。そういった意味でここがちゃんと受け入れ態勢さえできれば、なんとか復活できるんじゃないかとは思ってるんです。期待はしてます(笑)。(馬たちってどうなんですか?)どうかな、今年はキツくないなって思ってるかもしれないね、夏だけ忙しいからね。(営業辞めるってことは一切考えず?)考えないです!ここで営業をするのが我々の使命じゃないけど、ここに遊びに来てくれるうちはどうしても続けていかんなっちゅう使命感はみんな持っています。一つの風物詩じゃないけど草千里の一つの風景ですよね。昔からの。馬に乗ってる姿とね。だけん早くやっぱ元の状態の戻って欲しいなと思います。パッと見た目はきれいに見えるかもしれないですけど、草が伸び放題というかね、人がここにいないでしょ、野生動物がね、イノシシとか鹿とかが掘りたくってね、ぐじゃぐじゃになってるんですよね。人がいるから来なかったんが人が来ないから野生動物の遊び場になってるんです。ちょっと見苦しくないように補修はせんないかんなと思うけどね。


今なお通行止めが続く阿蘇の登山道路のうち、阿蘇市側からの県道「阿蘇吉田線」について、熊本県は今月中旬に片側通行で仮復旧させる方針です。通行止めの解除を前に、先週は周辺の草刈りが行われて、草が伸び放題だった草千里、だいぶきれいになったそうです。

明日も「草千里乗馬クラブ」代表、末藤吉一さんのお話しお届けします。

2016年9月12日

9月12日 熊本阿蘇 草千里乗馬クラブ(1)

今朝は、熊本・阿蘇の観光名所「草千里乗馬クラブ」からのレポートです。
阿蘇の火口から3キロの場所にある草千里が浜。直径1キロ四方の広々とした草原では、馬が草を食み、乗馬も楽しめるということで阿蘇を代表する景勝地、観光スポットとして親しまれてきました。去年9月の阿蘇山噴火で周辺は立ち入り禁止となり、今年春、ようやく観光客が戻り始めた矢先に、熊本地震が発生。周囲の道路が崩れ、ふたたび立ち入ることが出来なくなりました。


いま、ひと足の途絶えた「草千里乗馬クラブ」には10頭の馬が繋養されています。代表の末藤吉一さんに同行して、草千里でお話しを伺いました。

◆住み慣れた草千里に戻しました
今ここに離しているのは10頭ですけど、住み慣れたところがいいなって、無理しててでもここに持ってきたんです。水も確保できるようだったから。(1回下に降ろした?)どうしてもここ通れない状態で、いつ通れるかもわからない状態と、目が届かないから、無理やり引いて下の原野に降ろして管理しました。でも馬自体が神経質になってね。何とかここに返したいと思っとったら、意外とそこの道路がはやく通れるようになったし、連れて帰った方がいいよねってことで、5月の頭頃に連れて帰って現在に至ってます。


直径一キロの広大な草原で、馬は自由に放牧されていて草を食んでいますが、足りない栄養分を補うために2日に1回末藤さんは飼料を車につんで草千里へ。道路が寸断されているため、今なお許可を得ている事業者以外は立ち入りできません。4月の地震から現在に至るまでを、あらためて末藤さんに聞きました。

◆草千里=乗馬の風景を守らにゃいかん
4月14日は大したことないというか「ああ揺れたな〜」ってテレビ見ながら益城町の方は大変だね、このくらいで済んで良かったね〜くらいのところが、本震がボンと来て、阿蘇大橋が落ちたと聞いて、翌朝すぐ馬の様子を見に行こうと思って登って来たら、もう途中で登れないんです。ぜんぜん。道路がぐちゃぐちゃでね。だから途中で車を降りて歩いてここまで来て、馬の状態を確認して。馬自体は普通とかわらず落ち着いた状態でした。草千里の中自体は奇跡的に大丈夫でした。山とかは崩れているところがだいぶありますけど草千里の中は亀裂も入って無いし大丈夫でした。で、どうしてもここは孤立してしまうから、無理してでも馬を下の方に持って帰ってから、目の届くところで管理しようってことになって、ぜんぶ途中まで引いて下の牧野の方に放牧したんですけど。でも1週間とかそれくらいは自分たちの生活の方が一生懸命でした。食べるもんが無い、水がない、電気がない、余震もすごかったんで、家の中で生活できない人もいて、車の中とか体育館の中とか各施設の方で避難生活を今もしている方はいますけど、うちの会社の人間も例外なくそういった状態だったですよ。だからもうこういう状態だったから、営業とかそういうのはちょっと1年2年先の話しになるんじゃいかなという行政からの話しだったんですよ。だから会社を休止の状態にして、各個人各個人がアルバイトとかしながらとにかく頑張って復活までみんなで頑張ろうっていう話になってね。草千里=乗馬クラブってのは風物詩というか、我々もそういう風景を守らにゃいかんという使命感もあって、この仕事が好きやし、馬が好きやし、こういった商売が好きで今まで何年もやってきたメンバーですから、だから早くもとの状態に戻りたいというのが本音だと思うんですよ。


地震による被害で通行止めが続く、阿蘇の登山道路のうち、阿蘇市側からの県道「阿蘇吉田線」について、熊本県は路肩の崩落場所を避けるようにして、片側通行での開通を決め今月中旬に仮復旧させる方針です。地元では歓迎の声が上がる一方、予想以上の早期開通に、草千里の観光業者からは「再開準備が間に合わない」と戸惑いも声もあがっています。

続きは、明日の『LOVE&HOPE』でお伝えします。

2016年9月9日

9月9日 震災から5年 子どものPTSDと不登校の問題

今日は、特定非営利活動法人「マザーリンク・ジャパン」代表、寝占理絵さんのインタビューです。
岩手県陸前高田市を中心に活動する「マザーリンク・ジャパン」は、被災地のシングルマザーや不登校の子供たちを支援するプロジェクト。家庭の事情や震災の影響などで、経済的に困窮する「ひとり親家庭」を個別訪問し、およそ200世帯への支援を行ってきました。

◆一日一食
2012年にたまたま陸前高田のほうに入りまして、最初交流会をやったんですけど、一番驚いたのは仮設住宅に入居してから、お子さんが3人いて、3年間ずっと一日一食だったというご家庭があって。それは本当に衝撃だったが、それをほかのお母さんたちにしたら、「寝占さん、うちも一食だったんだよ」というご家庭がいっぱいあった。大変だったご家庭は不登校が多いなということは気が付いていた。お母さんたちが相談してきて、ああ、なんて多いんだろうと思っていた。でもそこに対してわたしたちがなにかをするということはなかった。学校とかがなにかをしているのだと思って。ところが、昨年の秋初めて訪問したお宅があって、お子さん3人いて一番下のお子さんが不登校。小学校1年生で震災が起きて、2年生になって学校が再開して2〜3日行っただけで、あとずーっと学校に行けない状況らしい。5年間行ってなかったということは、いま中学校一年生。同じ年頃の子供の中で育たなければいけない、一番大切な子ども時代を失っていると考えると、なんてことだろうと思って。そこから、これはなんとかしなければいけないのではないかと。そのご家庭は、お子さんがお母さんから離れられないからお母さんが働きにいけないという状況で、ほんとに生活は困窮していた。


政府統計によると、岩手県の小中学校の不登校の子どもの数は、2010年と2014年を比較するとほぼ横ばい。けれども、月に一度、学校の「保健室」へ行くだけでも、登校とみなされたり、数字には見えてこない実態があると寝占さんは言います。 その対策のひとつとして、マザーリンク・ジャパンは今年6月、岩手県陸前高田市に、フリースクール「おひさまの家」を開設しました。

◆震災のトラウマが影響
不登校の子供たちのお母さんたちに話を聴くと、「なんで不登校になったのかわからないけど、とにかく震災のあと学校に行けなくなった」と。震災直後はご遺体も無残な状況でゴロゴロしていたと。なかにはそれがトラウマになってしまって、お母さんから離れられない、家から出られない、学校に入れない、という子どもたちがいるんだろうなと。それから学校にいっていた時間に東日本大震災が起こっているので、校舎に入れないというのは、そういうことも影響しているんじゃないかなと思う。子どもたちの居場所がないというのが一つあったので、陸前高田の場合は6月1日にフリースクールを開設した。「おひさまの家」という名前のフリースクール。その中にフリースクールもあるし、子供食堂もあるし、子育てに悩むお父さんお母さんが相談できる場所にできればいかなと思っている。いまは場所をお借りしているので、すごく狭くて誰かが相談に来ると、全員に聞こえてしまう。フリースクールにふさわしい場所かというと、決してそうではない。なんとか土地が購入できるくらいの資金が集まっているが、全国ほかの地域でもいろいろな災害があるのでピタリと寄付が止まってしまっている。あとは建物を建てる資金をなんとか寄付で募って、来年3月ぐらいまでに本設で建物が建てられればいいなと思っている。


マザーリンク・ジャパンでは、活動を継続するためのサポーターも随時募集。また、明日9月10日(土)東京渋谷で「チャリティ・ディナー」を開催します。寝占さんが被災地の子供たちの心のケアについてトークセッションを行うほか、スペシャルジャズライブも予定されています。会場はベルマーレカフェ。着席のブッフェ形式で、参加費は1万円で、経費を除いた金額が寄付となります。金曜日の申し込みでも受け付け。
詳しくは特定非営利活動法人マザーリンク・ジャパン 電話090-3336-3662
マザーリンクのオフィシャルサイトでご確認ください。

2016年9月7日

9月7日 岩手県岩泉「岩泉乳業」

台風10号により甚大な被害を受けた岩手県岩泉町。地元産の生乳を使った人気商品、「岩泉ヨーグルト」を製造する岩泉乳業も工場のそばを流れる小本川が氾濫し、三つの工場すべてが浸水しました。工場復帰のめどは立っていません。

今朝は岩泉乳業の副社長、下道勉さんにお話しを伺います。

岩泉乳業のホームページでは従業員の皆さんが毎日泥出しや、瓦礫撤去をしている姿、町の様子が伝えられています。それを受けて、全国の皆さんからもたくさんの応援の声が届くそうです。そんな声に応えて、毎日従業員一丸となって復旧作業にあたっていらっしゃいます。

岩泉乳業のホームページはこちらから。

2016年9月6日

9月6日 岩手県岩泉町 道路寸断「SOS」の文字で救護

今朝は台風10号により甚大な被害を受けた、岩手県岩泉町安家地区からのレポートです。

岩手県岩泉町安家地区で畜産業を営む、合砂哲夫さんにお話を伺います。

安家地区は、9人の犠牲者が出たグループホームから北西におよそ20キロ離れた場所で、川沿いに集落が点在しています。台風10号が岩手県に上陸した先週火曜日、合砂さんの自宅の前を流れる川が決壊し、土砂と鉄砲水が自宅の1階を襲います。翌31日、自宅屋根の上に「SOS」の文字を並べ救助を求めましたが、救護ヘリが到着したのはその翌日、9月1日の午後でした。

発災から今日で1週間。今の被災地の様子を伝えてもらいます。

2016年9月4日

9月5日 岩手県岩泉町 台風10号の脅威

5日(月)のLOVE&HOPEは、台風10号により甚大な被害を受けた岩手県岩泉町から、FM岩手岩泉支局の鷲塚由美子さんにレポートしていただきます。

岩泉町では現在、災害ボランティアセンターを開設しています。詳しくはコチラへお問い合わせください。

※岩泉町は現在、台風12号の接近に伴い土砂災害の危険度が高まっているとして「避難指示」が出ています。

また災害義援金も募集しています。詳しくはコチラをご覧ください。

2016年9月1日

9月1日 なすびのエベレスト挑戦4

引き続き、今年5月に世界最高峰・エベレストの登頂に成功したタレント、なすびさんのインタビューをお届けします。



今年5月、4度目の挑戦でエベレストの登頂に成功。山頂から、復興の願いを込めたメッセージを叫び、その後は、福島はじめ各地でこの体験を語りながら、復興支援を続けているなすびさん。

エベレストに登ることに、どんな意味があるのか。そんな疑問を投げかける人もいると言います。それでもなすびさんは、このメッセージが福島の人々に届いていることを少しずつ、実感していると話します。

◆「ありがとう」の声に実感
福島で町を歩いていると、「なすびくん、ありがとう!」って言ってもらえるんですよね。普通に道を歩いていて人からありがとうと急に声をかけられることってまずあり得ないと思うんですけど、実際に福島の方たちがこうしてすごく前向きに捉えてくださっている実感を感じさせてもらえるのは嬉しいし、ありがたい。未だに疑問は持たれているかもしれないですけど、福島に元気と勇気、夢と希望というぼくが抱いていた思いが少しは届いたのかなという手応えというか、実感は少しずつ得られてきていますね。


その一方、震災直後から福島に寄り添ってきたなすびさんは、今もまだ、被災された方の苦しみが続いていることを、痛感しています。

◆震災関連死を食い止めたい
実は福島は、震災で直接亡くなった方・・・津波や地震で亡くなった方は1600名と言われているんですね。岩手や宮城に比べると0がひとつ違う数字なんですね。ただ震災から4年、5年が経過した今は関連死と呼ばれる、震災後に避難先や仮設住宅などで亡くなったり、自ら命を断ってしまった方が福島では2000人を超えてしまったんですね。これって体力やいろんなことを含めてかもしれないんですけど、やはり故郷を奪われた、福島でこれから生きていくのに希望や将来を奪われてしまったという(ことが原因なのではないか) 直接死はこれ以上増えないけど、関連死はまだ増えてしまう可能性があるのでそれをなんとか食い止めたいなという思いが強いです。あとは福島で生まれ育つ子どもたち、これから世の中に出て行く時に残念ながら区別・差別を受けてしまうおそれがあると思う。それはやっぱり広島や長崎で過去にあったようなことが起こりえるかもしれない。そういうのを食い止めるためには、誤解なく福島を理解してもらうための努力は、僕らが世の中を変える努力をしていかなきゃならないし、力になれたらいいなと思いますね。


◆なすびと福島の山へ行こう!
「次はどこの山に登りますか」と聞かれるんですが、ぼくは登山家ではないので山という意味では、福島にも素敵な山々があるし自然もたくさんあるので、じゃあなすびと一緒に福島の山を登りましょうとか、福島に足を運んでもらうきっかけになると思うので、そういうところでお力になることはありえるのかなと思いますね。



ということで、次はマッターホルンに挑戦!みたいなことはないそうですが、なすびさんはこの夏、各地でエベレスト登頂の報告会を開催、その中で、福島の現状も伝え続けています。

パーソナリティ 鈴村健一

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