2016年3月31日

3月31日 小さな命の意味を考える会・佐藤敏郎さん4

宮城県石巻市出身、佐藤敏郎さんは、宮城県内の中学校で長年教鞭をとってきましたが、東日本大震災で被災。石巻の大川小学校に通っていた次女が、津波の犠牲になりました。

◆高校生、大学生が声を上げ始めている
この3・11にまつわるいろいろな出来事をどう伝えていくか、どう学びにするかだと思う。あれだけのことがあったので無駄にしないで、意味づけをしたい。いま、大川小学校の校舎をどうするかが議論になっている。地元はもちろん、地元以外の方々も関心を持ってくださっている。そのなかで、高校生、大学生の若い世代が声を上げ始めている。やはりあそこは思い出の場所で、「兄弟たちや先輩、後輩が楽しく学び遊んだ思い出の場所だから残してほしい」「あの津波を伝える貴重な証しとして残してほしい」という声を上げ始めている。もちろん、あの場所を見るのはつらいし、観光地になるのはどうかという気持ちもある。しかし、それを踏まえて、悲しいことがあった場所だけれど、なにかが始まる場所、なにかのきっかけになる場所になればいいなと思っている。悲しいことだから、触れてはいけないのではないか? たしかに、そういう部分もあるかもしれないがそれでも、関心を持つのは大事なこと。「悲しいことだから触れてはいけないのではないか」「どうやってアプローチをしようか」と悩むこと自体、もうすでに我が事になりつつあるということだと思う。


佐藤さんは、2015年3月に教職を離れ、現在は全国の防災イベントで講演やワークショップを行っています。
佐藤さんを突き動かしているのは、「震災の記憶と経験を一人でも多くの人に伝えたい」という強い想いです。

◆あの日「ただいま」を言えなかった命が2万近くある
いま、私は大川小学校のことに関心を持ってくださる方々と「小さな命の意味を考える会」というものをつくって、いろいろ活動している。「命というのは小さいのですか?」と、よく高校生に聞かれる。命は小さく、弱い。あの震災でつくづく思った。簡単に紙切れをクシャクシャッとするような感じで、地球がちょっと身震いしただけで簡単に亡くなるのだなと思った。しかも、リセットがきかない。でも、その小さな弱い命の持つ意味や大切さはすごく重いなと思う。こんなに悲しみや苦しみ、あるいは影響を与えるものだし、命は一つしかないし。あの日「ただいま」を言えなかった、聞けなかった命が2万近くあるということ。そのことを、よく子どもたちに話す。


佐藤さんは、NPO法人キッズナウジャパンの活動にも参加。 高校生が同世代の若者に震災の経験を語り継ぐワークショップ『311を学びに変える〜あの日を語ろう、未来を語ろう』もサポートしています。また昨年行われたワークショップの様子は、「16歳の語り部」というタイトルで書籍化され、現在ポプラ社から発売中。彼らの朗読とインタビューは、アマゾンの「記憶の継承プロジェクト」として、無料公開されています。

2016年3月30日

3月30日 小さな命の意味を考える会・佐藤敏郎さん3

今週は、宮城県石巻市出身「小さな命の意味を考える会」の代表、佐藤敏郎さんのインタビューです。

佐藤さんは、1987年から宮城県内の中学校で国語の教師として教鞭をとり、震災当日は勤務先の女川第一中学校で被災。また、石巻の大川小学校に通っていた次女のみずほさんを津波で亡くしました。当時学校にいた84人の児童のうち、74人が死亡し4人が行方不明となった大川小学校の悲劇。十分な検証と原因究明は、いまだなされないままです。

◆あの日の校庭にしっかり目をこらし、耳を澄ませて
私の家の話をすると、3月11〜12日の晩、私は女川で生徒と一緒に泊まってた。そして3月13日の午後に、うちのかみさんと高校生の息子が、うちの学校に来てくれた。私は佐藤家でいちばんつらい思いをしているのは自分だと思っていたので、「お母さん、わざわざ来なくてもいいのに」と笑って迎えたが、そのとき、みずほといういちばん下の子の遺体が揚がったという話を聞いた。「遺体」とか、「揚がる」などというのは、まったく想像していなかった言葉だった。
その日の夜に家にたどり着き、翌3月14日に、娘が通っていた石巻の大川小学校へ行った。途中から堤防が切れていて、橋もなくなっていたので船で向かった。土手の上に泥だらけの子どもたちが何十人も寝かされていて、そのうちのひとりがうちの娘だった。知っている子たちが泥だらけになって並べられ、ガムテープで名前をつけられていて。自分の子も知っている子も、トラックに積むしかない。いまでもあの場所に行くと、その光景を思い出す。どんなに想定外の災害があろうが、どんな判断ミスがあろうが関係ありません。もう絶対あってはいけない光景。学校に先生と一緒にいて、先生も子どももほとんど亡くなってしまったのだから。地震が起きてから津波がくるまでには51分間かかったといわれていて、学校のまわりは山だらけ。シイタケ栽培の体験学習で登っていた山がすぐ脇にあって、1〜2分で駆け上れる。だから子どもたちも「先生、逃げよう、山に登ろう」と訴えたというし、迎えにきたお母さんたちもラジオを聴いてきているものだから、「先生、津波がきますよ。逃げましょう」といったという。私は同業者なので、これだけはいえる。先生たちが一生懸命だったということはわかる。一生懸命だったけれども助けられなかったというのもまた事実なわけで、そこに向き合わなければいけないと思っている。あの黒い波を見たときに、先生たちはどんなに悔しかっただろうか。どんなに後悔しただろう。目撃の証言によると、子どもたちの前で手を広げて津波をかぶったという先生の姿を見た人もいるが、どんなに悔しかったか、どんなに守りたかったかと思う。そうやって波にのまれていった。
なによりも一番つらかったのは、きっと子どもたちだったろう。すごく寒い日だったし、津波警報が鳴り響いて、どんなに怖かっただろう、どんなに寒かっただろう、どんなに生きていたかっただろうと思う。それを思えば、あの日の校庭にしっかり目をこらし、耳を澄ませて、「いま私たちはなにをしなければならないのか」ということをみんなで考えていく必要があると思う。


大川小学校の解体と保存については、街を二分する議論が続いてきましたが、先日3月26日、石巻市は「大川小学校を保存する方針を発表しました。周辺を樹木で囲むなど、保存に反対する遺族の心情にも配慮。校舎全体を遺し、周辺を公園化する見通しです。

あすも引き続き、佐藤敏郎さんのインタビューをお送りします。

2016年3月30日

3月29日 小さな命の意味を考える会・佐藤敏郎さん2

今週は、宮城県石巻市出身、「小さな命の意味を考える会」の代表、佐藤敏郎さんのインタビューです。

佐藤さんは、宮城県内の中学校で長年国語の教師として教鞭をとり、東日本大震災当日は勤務先の女川第一中学校で被災。俳句づくりの授業などを通して、震災を経験した子どもたちの姿を見守ってきました。

大災害の記憶を自分なりに受け止め、行動を始めた子どもたち。その一つが「いのちの石碑」です。

◆いのちの石碑「ありがとう、声が聞こえる空の上」
俳句の取り組みもそうだが、女川の子たちは現実と向き合って、「いま私たちはこういう状態なのか」と受け止め、次に進み始めた。当時の中学1年生を中心として、「もう二度とこの悲しみを繰り返さない」「津波に負けないまちづくりをしよう」と、本当に自然発生的に始めた。特に大きく動いたのが、石碑をつくろうという動き。女川は海の町だから、津波を伝える大昔の石碑があった。でも、達筆すぎて読めなかったり、移動させられていたりしていることを子どもたちがすべて調べてきた。そこで、自分たちでつくりなおすことにした。女川には塚浜・横浦浜・浦宿浜など、津波が到達した浜が21箇所ある。だから、21個の石碑をつくろうという、子どもならではのプロジェクトが生まれたた。彼らは本気で、あるときその話し合いに石屋さんを呼んできて、「こういう計画を立てたのですけれど、いくらかかりますか?」と聞いたす。すると石屋さんは感激して、「制作費は1,000万円かかりますが、石は無料にします」といってくれた。おそらく大人でしたら諦めるだろうが、子どもたちは「では、募金を始めます」と宣言して修学旅行でもずっと募金をし、プレゼンをして、地元でも発信をして半年で1,000万円を集めた。
俳句づくりは半年に1回、ずっと行われていたが、そのときの俳句が「ありがとう、声が聞こえる空の上」。「きっと空に逝った人たちは、『がんばったな、ありがとう』といっているよね」と、町民の方々と話していたのを思い出す。
いまその石碑は21個のうち10個が建っている。お金は集まっているので、場所が決まり次第、成人式までには全部建てるのだと話している。いまは高校生だが、他にも「いのちの教科書」をつくろうと活動したり、本当に子どもたちだけでいろいろなことを続けている。
この前、県外に呼ばれ、そちらの子どもたちと交流したときに彼らは、「3・11は私たちの足かせにならなかった。生きる指針になった」と言った。あの津波がきたせいで「これができなかった」「あれができなかった」と嘆くのではなく、それを力強さに変えていった。そして取材に来た方々に「女川の誇りはなんですか?」と聞かれ、「美しい海です」と即答していた。そういい切る姿はまぶしいくらいだった。「このつらさや悲しみを繰り返さない。いまは震災後ではない、次の震災前なのだ」というのが彼らの言葉だが、下手な大人よりも純粋に、そういう考え方に向かっていった気がする。

2016年3月28日

3月28日 小さな命の意味を考える会・佐藤敏郎さん1

今週は、宮城県石巻市出身「小さな命の意味を考える会」の代表、佐藤敏郎さんのインタビューです。
佐藤さんは、宮城県内の中学校で長年国語の教師として教鞭をとり、東日本大震災当日は、勤務先の女川第一中学校で被災しました。壊滅的な被害を受けた女川で、子どもたちとどう向き合うか。模索を続ける中、震災の年の5月、女川第一中学校では、子どもたちの思いを575に込める「俳句づくり」を、授業に取り入れました。

◆「見たことない女川町を受け止める」
3月11日は卒業式の前日でした。私は職員室にいたが、すぐに火花が散って停電になった。避難訓練のときは、校内放送で「担任の先生の指示に従って逃げなさい」というが、校内放送は使えず、まったく想定外だった。あまりにも甘い想定だった。
女川一中は高台にあり避難場所になっていて、町の人もどんどん逃げてきたが、「大津波だ!」といわれて下を見たら、家や船、電車が紙切れのように流れていた。5階建ての公民館の屋根もすっぽり津波に隠れていて、街中壊滅状態でした。人口の約1割が犠牲に、建物も8割が住めなくなり、子どもたちも家族、近所の人など身近な人をなくしていて、行方不明の方もいっぱいいました。ほとんどの子たちが着の身着のままで、段ボールで仕切られた避難所暮らしをしていた。そんななかで新学期が始まったので、その現実にどう向き合わせたらいいのかということに、私たちは悩んでいました。
そんなときに「俳句をつくらせましょう」というプロジェクトが来た。そしてうちの学校は「現実と向き合わせるいい機会です。国語の先生、やってください」と、これを引き受けた。私は国語の教員なので、「校長先生、待ってください。いまのこの状態を言葉にさせていいのですか?」とすごく反対した。でも校長先生は、向き合わせる機会なのだと。結局私がやることになったが、子どもたちに「なにを書いてもいいぞ」「必ずしも震災の言葉じゃなくていい」「書かなくてもいいぞ」とまで行った。「では、始め」といった瞬間、子どもたちの様子はいまでも鮮明におぼえている。みんなすぐに鉛筆を持ち、指折り数えて5・7・5の言葉をひねり出し始めたの。私の授業で、かつてそれほど生徒たちが集中したことはなかったどの生徒も、みんな一生懸命書いていた。

どんな俳句を書いているのかと机をのぞいたら、目に飛び込んできたのは・・
「ふるさとを奪わないでと手を伸ばす」
「ただいまと聞きたい声が聞こえない」
「見たことない女川町を受け止める」
などの俳句。「悔しいな」「負けないぞ」「がんばるぞ」「受け入れない」もあるのに、彼女は「受け止める」にたどり着いた。さすがに私も授業中に泣いてしまった。とにかく目をつぶっても、背を向けても、この悲しみは現実。まず受け止める、受け止めてから休んでもいい、逃げてもいい、向き合ってもいいのだなと授業中に私は悟ったというか教えらた。窓からはがれきしか見えないのに、「窓際で見えてくるのは未来のまち」と書いた子がいて、すごいなと思った。
「夢だけは壊せなかった大震災」と書いた男の子がいて、それはずっとみんなの合言葉になった。


この他、当時女川の小学生が描いた詩がいまも町の高台に横断幕で張り出されてあります。それが「女川は流されたのではない、新しい女川に生まれ変わるんだ」という詩。子供たちの言葉が今なお町民の「支え」や「希望」になっています。

2016年3月24日

3月24日 福島県相馬市出身 大学生のいま

月・火と、福島第一原発の現場レポート。きのうは福島の放射線教育の最前線をお伝えしました。そして今朝は、福島県で生まれ育った、若い世代の「いま」お伝えします。

荒優香さん。以前、県立相馬高校・放送局の部員として紹介しています。震災後、放送部員として様々なドキュメンタリーを制作。原発事故以降のリアルな高校生の声を表現した作品は、全国で反響を呼びました。

そんな荒さん、現在は東京の大学生。自分の体験を世界に伝えるため、国際関係学という分野を学んでいます。荒さんが体験した原発事故、そして「いま」東京で考えていることを伺いました。

◆東京のイルミネーションの輝きに思うこと
中学校2年生の春でしたね。原発も爆発して周りの家の方も「危ない」と逃げてくるんですけど、私のおじいちゃんが区長をやっていまして「ギリギリまでいよう」ということでトラックに荷物を積んでいつでも出られる準備をして、夜はトラックの明かりで生活していましたね。でも最終的にそのままいたんですけど、ある程度時間が経つと、特に私は女性なので家族も気にしてくれて、もしかしたら将来結婚する時に差別があるかも知れないという話を聞いて。えっそんなにひどいことなんだ、みたいな(笑)というのは震災1か月くらいで出た話でした。はあ・・・という感じで。今は全然福島の放射能は解決していなくて、今
汚染水は漏れていますし、(線量が)高い地域はありますし。やっぱり怖いなって。私たちも毎年やっていますが甲状腺検査も子どもたちは毎年やっていて、今は問題なく、大丈夫だと言われても、だったらなんで検査をやるんだよと。だからって検査をやらないと怖いんですけど。やっぱり不安ですね将来が。これが正しい、絶対と言うのは無いので。やっぱり怖いです。何かあったらどうしようと。でも一番変わったのは、東京のイルミネーションがすごくきれいだと思うんですけど、ただこの光ってどこで作られているのかなってちょっと考えちゃうんですよ。自分の家も実際東京電力なんですけど。東京電力さんだけじゃなくて、どこの場所で作られた電気なんだろうっていうのを時々ふっと思っちゃいますね。やはりまだ帰れていない人もいっぱいいますし、全然復興は、私はしていないと思いますね。まずはやはり、私は今大学生なので大学に行けるチャンスをもらったのでまずは自分が学べることをちゃんと学んで、やっぱり身に着けたことを、せっかく国際を学んだので地元をアピールするという方法もあると思いますし。実際福島って原発もあると思いますけどものすごく魅力がいっぱいあると思うんですよね。だからそういうのを震災とともに世界に発信していけるのがいいのかなと思っています。震災以降、やっぱり地元を改めてみて、津波はあったけど海がきれいなところとか、あとはやっぱり地域の人たちが暖かいところとか、原発があっても放射能があったとしても私の故郷なので、無条件で私は相馬が好きですね。(帰ったら何がしたい?)おばあちゃんの野菜のお料理が食べたいです(笑) 
         

毎年冬になると東京はじめ各地の繁華街は、とてもきれいなイルミネーションに彩られます。もちろん最近はLEDなどで電力の消費量は抑えられているところも増えましたが、その電力はどこかの発電所で作られたもの。荒さんの言葉の重み、あなたはどう捉えますか。

2016年3月24日

3月23日 南相馬市 放射線教育の今

今日は、福島の放射線教育の現場からのレポートです。
以前にもご出演いただいた、東京大学医科学研究所の坪倉正治先生。坪倉先生は、震災直後から福島に通い、南相馬市立総合病院の非常勤内科医として地域の皆さんの被ばくと向き合ってきました。

まず伺ったのは、震災から5年となる、南相馬市の放射線被ばくの「現状」です。

◆内部被ばくと外部被ばくの「現状」
被爆というのは内部被ばくと外部被ばくがあって、内部被ばくは汚染された食べものを取り入れることで身体が被ばくすること、外部被ばくは身体の外にある放射性物質から放射線を浴びて被ばくすることをさす。いま現在、この2〜3年は内部被ばくに関しては、ほとんどの方から汚染を検出することはない。ごくまれにきのこや山菜など、汚染されやすい食べ物を選択的に継続的に食べるような方から汚染が見つかることはあるが、通常南相馬市内で日常生活を送っている方から汚染(内部被ばく)を検出する方はいなくなった。
外部被ばくに関しては、山側や避難区域に接する地域にやや高めの区域が残存していることは確かだが、いわゆる街中であれば西日本の平均の線量と変わらない。


そして坪倉先生が力を入れているのが、福島の小、中、高校生を対象にした放射線教育です。南相馬市や、近隣の市町村の学校に赴いて、「放射線」や「被ばく」について語り続けています。

●坪倉先生から生徒へ
僕らは医者としてずっと放射線の検査をここでしてきましたが、この被ばく量で君たちの健康がおかしくなったりするレベルでは全然ないです。それで子どもが産めないというようなことには全くならない。いま現在であれば、自信を持って前向きに生活するための後押しとなるような教育が必要だと思う。もちろん汚染が起こったこと、ある程度被ばくが起こったことは確か。ただ、医学的に言えば、これで健康を害されるという量には全く達していなかったということが、5年間積み重ねてきた検査で言えること。確かに被ばくはあったが、無茶苦茶な量ではなかった。そういうことを子供たちには自分で説明できるようになってほしい。結果的に子どもたちの将来に一番影響してしまうのではないかと思うのは、周りからの偏見だとか、自信がなくて黙ってしまったり、外に出ていくことができなかったりする子供が必ずいる。そういった子供たちが妊娠、出産と進んでいくなかで、放射線の基礎的なことを知ってもらって、いま自分たちはこういう情況だとか、こういった検査をしてきたとか、ちゃんと説明することができるようにすることで、自信を持って生活やっていけるんだ、自分たちは健康を害されているわけじゃないんだということを、正しい知識を身に付け、自分の言葉で言えるようになってほしい。


●授業後の生徒感想
女子生徒「放射線のことはあまり詳しく知らなかったが、今日の授業を通して、放射線は光であるとか、どこにでもあることとか、いろんな話を聴かせていただいたので自信を持って大丈夫なんだなと実感しました」
男子生徒「もっと危険なものだと思っていたが、量がなければ安全なものだとわかったので、よかった。」

2016年3月22日

3月22日 福島第一原発のいま2

昨日に引き続き、福島第一原子力発電所の「いま」、お伝えします。

3月15日に実施された、在京ラジオ局を対象とした福島第一原発の視察・見学会。取材陣は、マイクロバスに乗りこみ、350万平方メートルと言う広大な敷地で、各施設を視察しました。そのルートには、福島第一原発の2号機、3号機建屋から、距離にして数十メートルまで接近するポイントもありました。

◆2号機、3号機に接近
みなさん右手のほうをご覧ください。線量がいま徐々に高くなってきています。いま約200μsv/hございます。みなさんの右手に銀色の太い配管が走っていますが、これが凍土遮水壁を作るための冷媒を流す配管となっています。マイナス30度まで冷却した塩化カルシウム水溶液をこの太い配管に循環させることで水分を含んだ土を凍らせて壁を作って、地下水の流れを遮断する工事を進めました。すでに設備の設置工事は終了しており、関係各社と運用方法を協議している状況。了解が得られ次第凍土の施工を始めたいと思っています。




この時の放射線量は、毎時216マイクロシーベルト。私たちが普段、自然界から受けている放射線量と比較すると およそ2800倍。1時間いた場合、胸のレントゲン検査4−5回分の被ばく線量でした。そして今回の見学会では、今の凍土壁はじめ「汚染水の処理施設」の説明が重点的に行われました。地下水を取り除く井戸などはすでに稼働しており、原子炉建屋に流れ込む地下水は、昨年夏の300トンから半減したと言います。ただ、処理済み汚染水を貯めた「タンク」は、いまも日々増え続けています。

昨年夏にも見学をしたスタッフによれば、
「線量が劇的に下がるなど大きく変わった点もあるが、依然として課題は多い」と言います。案内を担当した東電広報室・岡村祐一さんの話です。

◆事故現場から「事業所」へ
きょうは見学という具体的な作業がありますのでマスクをして頂きましたが、構内の移動目的であればマスクもいらなくなっています。そういう作業環境の変化は一番大きいと思います。あともう一点は温かい食事、今日もお昼お召し上がりになったと思いますが、ああいったものがコンビニも隣にあっていつでも食べられると。そういうことが我々も作業員さんも一番思ってらっしゃることだと思います。(変わらないことは)具体的には溶けた燃料デブリの情報については、人類の前人未到の色んな技術を投入しなければいけないと思っています。まずは燃料デブリがどこにあってどんな色をしているのか、どんな形なのかをしっかり見極めたいと。そこまでに5年かかっています。(原発は色作業員の方が偏見の目や声を受けることはあるか)初期の頃、「お父ちゃんは原発で働いている」と言うとご家族がいわれのない非難を受けたということは聞いたことがある。ただ最近は比較的落ち着いたと理解しているが今後も少なくともオープンな現場であって、色んな情報発信を通じながら1F(※イチエフ・福島第一原発)で働く不利益、後ろ向きな状況を変えていきたい。コンビニもできた、線量も下がって普通の服で歩ける。はつらつとみんなが廃炉へ向けて作業を前向きに考えていける、そういう「事業所」。昔は「事故現場」だったがそれが廃炉事業を進める「事業所」の形態にいよいよ変わりつつあるというところで、偏見や色んなものを払しょくしてまいりたいと考えています。(いま汚染されたものが出続けているという現状はあるのか)一時、3号機の建物のがれきなどを片付ける際、1号機のカバーをした理由はダストが出ていた可能性があるという事案があった。それを防ぐ為に放射線モニターを増やし、ダストが舞わないような工事の見直しを丁寧にやっておりました。その結果周辺に対するダスト、放射性物質の飛散は防止が測られたと考えております。


福島第一原発で働く作業員の数はおよそ7000人。40年かかるという廃炉作業には、今後も多くの「働き手」が必要ですが、その人材確保も大きな課題となっています。その一方、事故から5年が経過した現在、新規制基準に基づく原発再稼働がジワジワと進もうとしています。これについて質問をぶつけました。

◆再稼働の必要性
原発再稼働について。原発のエネルギーは私自身はこの国には必要だと考えている。ただもう1点は福島の事故が原発の停止を余儀なくされた状況を作り出してしまったということにつきましては、非常に大いなる反省と残念な気持ちを非常に持っております。しっかりと廃炉を進める中で、我々が決めることではございませんが原発の安全性をしっかりと審査して頂いた後は、原子力によるエネルギーを再度利用するという風になればありがたいなと思っております。
 
       

実際取材したスタッフは「東電広報室は、どんな質問にもしっかり答えようという姿勢は感じた。ただ、包み隠さず話しているか、どこか疑ってしまう気持ちも強い。放射性デブリの除去は、人類が一度も経験したことのないものなので、今後も大変な技術革新が必要だということを何度も聞かされ、気が遠くなる想いがした。」とのこと。実は、Jヴィレッジそばに原子炉建屋の一部を原寸大で再現した模型が作られています。今後はここで、廃炉のための様々なシミュレーションが行われるという。つまり、まだそういう段階ということです。

2016年3月21日

3月21日 福島第一原発のいま1

今朝は、福島第一原発の「いま」をお伝えします。


30年、40年かかるという廃炉作業の渦中にある福島第一原発。この場所では現在、メディアはじめ様々な団体を対象に、見学会が実施されています。今回番組は在京ラジオ局むけの見学会に参加。3月15日、番組スタッフが原発敷地内へ入りました。

見学はおよそ2時間半。ルートの多くはバス車中からの見学でしたが、一か所だけ、バスを降りて屋外に出るポイントがありました。お聴き頂くのは、原子炉建屋から数百メートル離れた、別の建物の屋上からの様子です。海沿いで、吹きさらしということで大変風が強く、全員が防じんマスクをつけた状態で、東電社員の説明を受けました。



◆1〜4号機を屋外から俯瞰
(東電社員による解説)それではここからですね、1〜4号機の全体をご覧いただきたいと思います。ちょうどこの前方の一番奥に排気筒がありますが、その手前に白と水色のまだらの建物がございます。これが2号機の原子炉建屋です。それから1号機はここからですとよく見えないんですけどその奥に建屋カバーに覆われた1号機がございます。1号機の建屋カバーは昨年の7月から解体工事に着手していていま上部が取り外された状況です。これから1年程度かけて建屋カバーの撤去を勧めますが、外部に放射性物質を飛散させないようにということで、散水設備ですね、要するにウェット状態にして放射性物質を飛び散らさないように散水設備の設置工事を今並行して進めています。2号機の方は外観上は健全な状態でご確認いただけます。ただ中は非常に放射線量が高く簡単に人が近づけないということで、燃料の取り出し方法については建屋の上部を解体して外側からアクセスして移送するということで、今そのためのヤードの整備、建屋の周囲の邪魔なものを撤去したりと言う整備を進めている状況です。さらにその手前にグレーの構台がちょっと覗けると思いますが、あれが3号機の原子炉建屋が設置されている場所になります。あそこは原子炉の周りをグレーの作業用構台を作って取り囲んであります。3号機の上部に散乱していた瓦礫類は、住居を乗せて撤去作業をしました。非常に放射線量が高いので人が近づいて作業することはできません。ですから離れた場所でテレビカメラを設置してモニター画面を確認しながら遠隔操作で作業を進め、すでにがれきは撤去された状況になっています。まもなく燃料の取り出し装置を今後設置して燃料の輸送作業を進めることになりますが、その作業もすべて遠隔操作でやることにしております。それからさらにその手前にある白いタワーのような屋根に覆われた一角の下、この下に4号機の原子炉建屋があります。当時は定期検査中でしたので燃料の溶融事故に至っていません。ですから1−3号機に比べると放射線量が低く人が近づいて作業が可能でした。いま4号機についてはリスクが取り除かれた状況になっています。



この時の参加者の格好なんですが、意外なことに服装の制限は無しでした。それぞれ自前の長そで長ズボンのまま敷地内へ。ただ、服の上には配られたベストを羽織り、頭にビニールの帽子とヘルメット、手には軍手、厚手の靴下の二重履き。そして長靴。さらに長靴の上からビニールをかぶせて靴底に物質が付着しないようにしていました。また、メガネをした方が良いということで、全員がメガネの着用を勧められました。

案内を担当した東電社員によれば、敷地内の除染が進み作業環境は大幅に改善されたと言います。敷地内はすべて、あのものものしい防護服の印象がありますが、実際には、普通の作業服にマスク程度の装備で作業できる場所が増えているそうです。

電気関係の作業に携わっている作業員お2人に、作業環境について伺いました。

◆現場作業員の声
(37歳作業歴5年、26歳作業歴7年、ともに電気関係の現場監督)
Q:作業効率、改善点と問題点
・作業効率は、着替えたりする時間の短縮とかだいぶ変わって来たと思います。あとは特にこういうのって言うのは建屋の中で作業をやってますと暗いところとか段差とか危険な箇所がありますので、それを改善して頂ければと思います。
・装備が楽になりましたので熱中症や体調不良がだいぶ減ったのかなと思います。今後もまだ高線量が続くので除染等を行って頂いて線量を低減して、作業しやすい環境を整えてほしいと思います。

(メルトダウンした燃料の取り出し作業が大変だがその辺の不安について)
・放射線管理の方もしっかり時間管理や装備の管理をやってくれているので特に心配はしていない。
・自分もちゃんと脱着関係をすれば体内に取り込まないし、線量も放射線管理課の方が行っているので安心して働いています。

(高線量の場所に行くとき、その恐怖は慣れてしまったか)
・慣れたというか、アラームを鳴らさないようにしている。時間とか事前に調査して線量の高いところを知ったうえでやっている。アラームがなることは無い。なることもあるかもしれないが基本的にはならないような管理でしているのであまり心配していない。

敷地内の線量が下がったのは、敷地内の雑草などをすべて刈り取り、コンクリートなどを地面に吹き付ける「フェーシング」が、大半の箇所で完了したためで、土から放射性物質が舞い上がるの防いだので線量が下がったと言います。見学した取材陣の被ばく量は積算でおおよそ10マイクロシーベルト。ただ。今回の見学では2号機・3号機の原子炉建屋にかなり近づいたのですが、そこでの線量は毎時200マイクロシーベルト以上。原子炉建屋に近づくほど、高線量であることは変わっていません。

環境が改善されたとはいえ、大変な環境にあることは変わりなく、それが、我々の身近にあります。
明日も、このレポートの続きをお伝えします。

2016年3月17日

3月17日 釜石高校エースピッチャー、岩間大さん1

今朝は、20日に開幕する春のセンバツ高校野球に、21位世紀枠で出場する、岩手県立釜石高校のエースピッチャー、岩間大さんへのインタビューをお届けします。岩間くんは、釜石市の隣、大槌町の出身。震災による津波で岩間くんのお母さん、成子さんはいまだ行方不明のままです。

釜石高校は今回、釜石南校時代以来20年ぶりの甲子園出場を決めました。釜石市そして大槌町の皆さんにとって嬉しいニュースとなったのではないでしょうか。その原動力となったのが、去年の県大会、そして東北大会を一人で投げぬいたエースの岩間くん。まずはそんな岩間くんの、野球との出会いについて聴いてみました。

◆甲子園に対する憧れ
小学校一年の最初からです。兄が野球をやっていたので自分もそこに行ってみようという気持ちで入っていきました。最初は遊んでみるみたいな感じだったんですけど、高学年になって試合に出るにつれて、負けると悔しくて、それは今もあるんですけど、そういう部分で技術も上がったんですけど、気持ちも強くなってきたと思います。小学校5年の時に、菊池雄星さんの花巻東が甲子園で活躍して、それを見てすごいなと思いましたし、甲子園に対する憧れだったり、高校野球で活躍する憧れを持ちましたので、今でも尊敬しています。中学校1年の時は負けてばっかりだったんですけど、2年からは徐々に成果が出始めて、中2の後半と中3は県大会上位のチームと接戦だったり延長戦まで行ったりするっていうのが結構あったので、成長を感じました。中学校の頃はスライダーでバンバン三振を狙ってたんですけど、高校になって三振を取ることが難しくなってきたので、自分は打たせて獲ることと、あと私立と比べて変化も急速もぜんぜんたいしたことないので、気持ちだけは負けないように、っていうことで投げています。


岩間くんに影響を与えた2つ上のお兄さんも、小・中・高と野球部一筋で、小学生頃はエース、高校でもキャプテンを務めていたそうで、岩間くんはその背中を追いかけてここまで来ました。兄弟が過ごしたのは、大槌町の赤浜(あかはま)地区。どんな町だったのでしょうか?

◆大槌・赤浜の気質
僕の住んでた赤浜は、海も山も、自然豊かで、そして何より地域どうしというか人とのつながりがとてもあって、住んでて心が温まる町です。全員が一体となって行事だったり、スポーツに関しても熱が強くて、子供がスポーツを頑張るのは当たり前だと思うんですけど、それに親たちも本気で応援してくれるというか一体となって取り組む姿がいちばんいいと思います。赤浜っていうのは気が強いし、そういう血があるので、やっぱ応援もすごかったです。赤浜の人たちは何にしても自分たちでなんとかしようっていうのが強くて、震災直後もそうですし、あと自分が鮮明に覚えているのは、野球もそうなんですけど、水泳記録会だったり陸上記録会だったりが釜石大槌地区であるんですけど、その時ほかの学校の親たちはただ見てるだけなんですけど、赤浜の親だけは応援歌作ったり全員で旗を作ったり、立ち上がって応援してたのが印象的で、すごいなって思います。


そんな赤浜を襲った東日本大震災。当時岩間くんは小学6年生でした。

◆赤浜の全部が海になってる
卒業式を間近に控えていたので、体育館で練習をしていた時に大きな揺れが来たので校庭に避難したんですけど、なんか避難所ってなってる割には海からすぐ近くて、で一瞬にして波が来たので。水門を波が越えたのが見えたんですけど、その波が見えたのとほぼ同時に学校の柵を壊しながら波が来たので、全員で山に逃げました。大きな地震が来たら津波が来るってのは有りましたし、毎年3月3日には避難訓練をしてましたし、そういう教訓は有りました。自分は正直、津波なんて見たことないですし、じっさい来るって誰も思ってなかったと思うんで自分もそうでしたし、まさかあんなに大きなのが来るとは思ってなかったんで逃げるのに夢中でした。山に登って、赤浜の全部が海になってるっていうか、全部が海と化しているっていう感じでした。その山のところにおばあさんが一人住んでたんですけど、そのおばあさんがすごいいい人で泊めてくれました。次の日、朝になって降りてみたんですけど、すごい光景が広がってて、今まで住んでた町が無くなってるというか、何も無くなって瓦礫だけが残ってるというか。家は水門のすぐ前にあったので全壊です。水門も飛ばされて、いつも見てた大きな門が転がってたりとか、そういうのがありました。


避難場所に指定されていた岩間くんの通う赤浜小学校も津波に呑まれ、町民が命を落としています。岩間くんの自宅も全壊。お母さんはいまも行方不明のままとなっています。

明日は、津波で行方不明となったお母さん、そして甲子園への思いについて、伺います。

2016年3月16日

3月16日 福島県出身の音大生が奏でる「奇跡のピアノ」2

福島県出身の音大生が奏でる「奇跡のピアノ」です。

東日本大震災の津波被害に遭いながら、調律師、遠藤洋さんの懸命な修復作業によってよみがえった、福島県いわき市の「奇跡のピアノ」。今回東京の百貨店で、この「奇跡のピアノ」によるミニコンサートが行われました。

演奏したのは、福島県出身の現役音大生、フルートの遠藤優衣さんとピアノの篠原聖華さんの二人です。
ピアノの篠原さんは福島県浪江町の出身。震災翌日から避難先を転々とし、現在は埼玉県内で避難生活を送っています。慣れ親しんだ自宅のピアノも浪江町に置き去りにしたままです。

◆同級生からの声を後押しに
地震当時は卒業式で、先輩たちの卒業式が終わったあと、わたしは初めてのピアノの全国大会が控えていたので、ピアノの先生のところで練習をしていました。自宅はライフラインはしっかりしていたので生活はできたが、震災翌日福島第一原発の爆発のニュースを見て、家族で避難しようということになり、避難しました。地震の後は避難所などではピアノを弾くことはできなくて、埼玉県に避難してきたときに全国大会も控えていたので、母がもともと習っていたところにピアノの練習をさせてくださいとお願いし、練習をさせてもらいました。震災後だいたい1週間ピアノの触ることができなくて、1週間ぶりに弾いたときに、自分では指が動かなくてすごく悔しかったけど、自分の指が音を出している喜びがすごくあって。その後進路も考えなければいけなくて、音楽を続けるかずっと考えていたが、被災した自分だからこそ伝えらえることもあると思って。同じ世代で夢をあきらめてしまった子もたくさんいる中で、自分だけが夢を追いかけていいのかという気持ちもあったが、想いを伝えらえるような演奏家になれたらいいなと思って(音楽大学への進学を)決めました。
浪江中学校で合唱の伴奏をしたときに、同級生などから、わたしのピアノ伴奏だと歌いやすいと言ってもらったのが支えになったので、彼らにも恩返しがしたい。わたしが頑張っているのを見て「負けてられないや」と思ってくれて、頑張るきっかけになったらと思います。


震災後、一時はピアニストの夢をあきらめた篠原さんですが、支援団体によるピアノの寄贈を受けて、昨年の春都内の音楽大学に進学。いまは演奏家になる夢を叶えるため、ピアノ漬けの毎日を送っています。そんな篠原さんが今回ミニコンサートで演奏したのが福島県いわき市豊間中学校の「奇跡のピアノ」です。

◆生き抜いた力強さを感じられる
津波で流されたピアノで、(調律師の)遠藤さんの力を借りてよみがえったピアノなので、その分生き抜いてきたというか、力強さがあるし、いろんな人の思いが詰まったピアノなんだなと、音色の柔らかさも感じたピアノだった。これからもこういう機会があったら参加させていただきたいし、震災を経験した中でちょっとでも前向きに進んでいる一人として活動していけたらと思う。


浪江町ではいまも全町民避難が続き、帰還の目途は立っていません。
篠原さんは、いつか故郷で演奏会ができる日を夢見て、ピアニストの道を目指しています。

「奇跡のピアノ」は今後も、震災復興を目的としたイベントやコンサートなどで使用される予定です。

2016年3月15日

3月15日 福島県出身の音大生が奏でる「奇跡のピアノ」

今日は「奇跡のピアノ」です。

東日本大震災の津波で潮や泥をかぶり、修復は困難とされた福島県いわき市豊涼羈惺擦離哀薀鵐疋團▲痢このピアノを、懸命な修復作業によってよみがえらせたのが、いわき市のピアノ調律師、遠藤洋さんです。

今回東京の百貨店で、この「奇跡のピアノ」によるミニコンサートが行われました。

演奏したのは、福島県出身の現役音大生、フルートの遠藤優衣さんとピアノの篠原聖華さん。ユイさんは調律師、遠藤さんの次女で、専門はフルートですが、ピアノ歴も15年になります。父のヒロシさんが修復したピアノを真っ先に試弾したのも、娘のユイさんでした。

◆一音一音想いが伝わってくる
ピアノだけでもそのときの悲惨さが伝わってくるし、ピアノ自体ガラクタぐらい、砂も被ったピアノだったので、たぶん直らないんじゃないかなと思うくらい状態もひどかったので、修復が終わり完成して試演したときはいろんな思いを感じながら試演しました。ふつうの音とは違って、音の中にも一音一音思いが伝わってくる音色で、震災の重みを感じました。


ユイさんの自宅は福島第一原発からおよそ30キロのところにあり、震災直後は一時、自主避難を余儀なくされました。また、中学高校時代は、吹奏楽部でフルートを担当。特に高校では、仮設校舎で練習時間も限られるなか、吹奏楽コンクールで3年連続全国大会に出場しています。

◆将来はピアノも弾けるフルーティストになりたい
4歳からピアノをやっていたが、中学1年生の部活動で吹奏楽をやるときに、吹奏楽ではピアノはあまり使わないので、なにか楽器をやるとなったときにフルートの音色を聴いて、きれいだなと思って始めたのがきっかけ。震災後はいままでより練習時間も短くなり、遠い校舎で練習したり、不便でした。音楽は趣味でも続けたいと思っていて、高校3年の(進路を決める)ぎりぎりまで看護師になろうと思っていたんですけど。看護師になろうと思ったのも震災のことがあったから。看護師になって人を助けようと思ったんですが、音楽を聴いていろいろ癒されることもあったので、人生にとって音楽は絶対必要というわけじゃないけれど、音楽があることで心が落ち着いたり、精神が安定したり、伝えられるなにかがあると思ったので、ぎりぎりになって音楽を続けたいと思って音楽大学を受験しました。いま音楽大学に通っています。将来ピアノも弾けるフルーティストになりたいです。


「ピアノも弾けるフルーティストになりたい」と話してくれた優衣さん。現在は神奈川県内の音楽大学に通って、フルート奏者として腕を磨く一方ピアノの練習も続けています。「自分が音楽に支えてもらったので、今度は自分が音楽で人の心を癒したい」とも語ってくれました。

東京・日本橋高島屋では、今日も「奇跡のピアノ」によるミニコンサートが行われ、フルートの遠藤ゆいさんとピアノの篠原きよかさんがステージに立ちます。 
午後2時と午後4時の2回。場所は日本橋高島屋1階の正面ホールです。

明日は福島県浪江町出身、篠原きよかさんのインタビューをお届けします。
  

2016年3月14日

3月14日 女川さいがいFM阿部真奈さんレポート

東日本大震災からちょうど5年を迎えた、3月11日、金曜日。TOKYO FMでは特別番組「LOVE&HOPEスペシャル5年目の春だより」をお届けしました。

その中で、宮城県女川町から町の様子をレポートしてくれたのが、おながわ災害FMのパーソナリティ、阿部真奈さんです。女川のいまとこれからを、町の方へのインタビューも交えながら伝えてくれました。今日はそのレポートの模様をお届けします。

♪おながわ災害FMステーションジングル
おながわ災害FMでは、東日本大震災の後、町民にさまざまな情報を届けて、人と人、町と町をつないできました。
「おながわ災害FM」のパーソナリティ、阿部真奈さんが被災したのは高校1年生のとき。震災の津波で大切な家族を失いました。「自分になにかできることはないか」そんな気持ちから、おながわ災害FMの初代メンバーとして活動し、現在は神奈川県内の大学で「まちづくり」を学んでいます。

阿部)こんにちは阿部真奈です。いま私が立っているのは女川町立病院の前。この周辺は高さ16メートルの津波が襲った地域です。震災当時車で女川町立病院に避難した方も多くいて、ここまで津波が来たので車でなくなった方もたくさんいらっしゃいました。
また女川町は復興のトップランナーのようにいわれていますが、ふと目を山側に向けると、いまもかさ上げの工事が続いています。災害公営住宅に入居できるのも2年後と言われていて複雑な想いを抱えながらの5年になっています。
おながわ災害FMとして町の方に取材をした。その声を聞いてください。

「(83歳 仮設住宅に住むおじいさん)
生活の中で復興したと感じる?「ないな。ここら辺だと店がない。買い物行くんだって駅前だっちゃ?自転車で行くんだって上りは上がれない。ちょこちょこ来る移動販売で買えるので、ほとんど出かけないよ。」

阿部)女川町の仮設に入居している人の声。立派な駅やおしゃれな商店街もできて喜ぶ声もありますが、町民にとって復興が進んでいるかと言うと、そうではない。「身の丈に合った復興じゃない」「女川の素朴な駅前の風景が懐かしい」という声も聴かれました。復興復興と言われるが、復興に対する想いはそれぞれ、温度差があると感じます。

おながわ災害FMもこの3月で終了します。終了というと「女川町はもう大丈夫なんだね」と言われることも。決してそうじゃない。復興したから終わるのではなく、むしろこれから。これからは「被災地女川」ではなく「女川町」として勝負していかなければいけないと感じています。


真奈さんは現在大学3年生で就活の真っ最中。将来はメディアの仕事に携わり、震災の経験や防災について伝える仕事がしたいと夢について語ってくれました。

おながわ災害FMは3月27日で放送を修了しますが、4月以降もコンテンツの制作やインターネットを利用した情報発信を続けていくということです。

2016年3月10日

3月10日 福島県浪江町 請戸の田植え踊り2

まもなく震災からまる5年。LOVE&HOPEは被災地の今を改めてお伝えする特別番組『LOVE&HOPEスペシャル』を3月11日に放送します。まる5年という時間の経過は貴方にとってどんな意味を持つものだったのでしょう。そして被災地で生きる人々にとっては・・・。「節目」のこの日に、改めてあの震災を振り返り、5年が経過した「いま」を被災地と共有する特別番組です。
LOVE&HOPEスペシャル特設サイトはこちら
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高橋 請戸地区に300年前から伝わる『田植え踊り』。毎年2月末に、豊作を神様に祈り、家々を回るこの踊りは、請戸の人々にとって、春の訪れを知る大切な営みの一つです。ただ現在、請戸地区は原発事故による避難指示が継続中です。田植え踊りも年に1度、十数人の有志メンバーが集まり、住民の多くが避難する仮設住宅で披露する形になっています。

お話を聞いた横山和佳奈さんは、伝統を失いたくない、という想いから田植え踊りを続けていますが、彼女が高校に通い、日常生活を送っているのは、請戸から遠く離れた郡山市です。

◆自分はどっちの人間なんだろう
郡山に請戸の子がいないので、本当に会えなかった。中学校の時に一番つらかったのが、現在の生活と過去の生活があって、自分はどっちの人間なんだろうという揺らいだり。いっそ過去が断ち切れればいいのにという気持ちはありました。いっそ切ってしまえばと思った時期も。中学2年の時に、周りは小学校の想い出話ができる。「なになに小学校には誰々がいたよね」とか。でも私はそこに入れない。何を言っているのかなって。お店の名前を言われても「え、どこそれ」って。親しくない子に実は浪江の子なんだと言う必要もないし、自分の過去を気軽に話せない。どうせ言っても分からないし。ひかれることはないだろうけど距離が開いちゃうんじゃないかと言う不安もあったりして、未だ高校生で私が浪江出身だと知っている子はあまりいないと思います。だから田植え踊りをやっていなければ、請戸を考えることもないし、踊りなんかやめちゃえば楽なのに、それさえなければ郡山人としてやっていけるのに・・・って。守っていかなきゃとか伝統を意識し始めたのは、そういう葛藤をする前で、私は「伝統が途切れないために師匠になりたい」とぽろっと言っちゃって、それが中学生の私には重くて。でもやめられないし、ということでつぶされかけたことはあります。


「つぶされかけるほど、悩んだ」という和佳奈さんは、その後、高校2年生の授業で『伝えるということ』という作文を書いています。田植え踊りの担い手として、悩みぬいた今の気持ちを書いたもの。その中では…『もう一度踊らないか』と声をかけてくれた田植え踊りの保存会の方、そして支援してくれた様々な人への感謝の言葉が綴られ、「この踊りを、いまいる数少ない後輩に伝え、自分も関わっていきたい…」という決意も、書かれています。

◆請戸で踊れる日
請戸で踊りたいというのは私だけじゃなく、保存会全員の願いでもあるので、一番躍り出目指すべきは底かな、地元で踊れるようにする。できれば神社が良いけど、とりあえず請戸で踊れればいいかなと言うのが最終目標という感じですね。あそこに住めることは無いと思います。帰りたいかと問われると、でも自分の家だったところ帰れないしなというのはありますね。請戸はどうなるの、せめて神社は建ててほしい学校はつぶさないでほしいとか。瓦礫が一か所にまとめられているので減ったというか、そのへんにはないけど、船は全部壊しちゃってない。前に行った時にっちょうど船を壊していて、それが心が痛かった。もちろん邪魔だから壊すのは仕方ないけど、船の下の部分をクレーンで切ってバラバラにするんですけど、それをみて悲しくなっちゃいましたね。それは津波のまんまになっているのはおかしな話だけど、そのまんまの請戸が好きだったのでちょっと心がついていかない。新しくなってきているのが受け入れられない自分がいますね。


和佳奈さんのように、福島から原発事故で県内外に避難した福島県から、県内外に避難した18歳未満の子供の数はおよそ2万人。住民票をすでに移したケースも多く、数はもっと多いと考えられています。子どもたちが「帰らない」「帰ることができない」。郷土芸能だけでなく、将来の町そのものの担い手がいなくなることが、懸念されています。

2016年3月9日

3月9日 福島県浪江町 請戸の田植え踊り1

今朝は、福島県浪江町の沿岸部、請戸地区に伝わる、郷土芸能の「担い手」の声をお伝えします。

取材したのは、請戸地区に300年前から伝わる『田植え踊り』です。毎年2月末に、豊作を神様に祈って行われる恒例行事。花笠に昔の着物衣装を来た小さな女の子が踊る愛らしい姿は、請戸の人々にとって、春の到来を告げる大切な営みの一つでした。

ただ、請戸地区は、福島第一原発から直線距離で6キロにあり、住民はいまも生まれ育った土地を離れ、避難生活を続けています。そんな状況の中、地域のつながりを消さないために、毎年2月末に、請戸の人々が暮らす福島市の仮設住宅で踊りが披露されています。

◆請戸の人々に笑顔になってほしい
〜今日のお祭で田植え踊りを奉納されていましたが、どんな気持ちで踊りましたか。
横山「一番はみんなに笑顔になってもらいたい。以前は踊って下さる方から、歌って下さる方からいっぱいいて、でも5年経つと仮設の中の人もどんどん減っていってしまうのでそれが嬉しい反面、悲しいとも思います。
〜でも踊りをすると請戸の人たちが集まる機会になるんですか。
横山「踊りに来ないと逢えないおじいちゃんおばあちゃんもいるので良い機会だと思います。嬉しいです。」
(※聞き手:高橋万里恵)


お話を聞いたのは、この踊りの担い手の一人、横山和佳奈さん。いま17歳の彼女も、故郷を離れ郡山市でご家族と暮らしています。郡山のご自宅でお話伺いました。

◆祖父母を失った実感がないんです
(写真を見ながら)この辺は堤防があったところ・・・本当にベランダからパッと見てすぐの風景なので本当にどれほど海に近かったかが本当に分かる写真です。これが請戸漁港。港があってすぐ海で、夕方にはこの辺に綺麗に夕日が沈むのですごくきれいでした。家の敷地内に仕事場があって、そこで祖父が仕事をしていて、小さな船みたいのがあって、そこに自転車が入っていたり黒板があったので落書きしたりとか(笑)。祖父の仕事場は頻繁に行っていました。あとは鮭をもらうとそれを捌いて中のイクラを取り出したり、台所で刺身も捌いていたし。本当に海の男みたいな感じでしたね。でも祖父母が死んだという実感が無いんですよ。なんでだろう。たぶん請戸の家に住んでいればそこの空間に二人がいなくて、「ああ・・・」と思うんだけど、こっち(郡山)にきて四人で住んでいるので。祖父祖母は別の家に住んでいるみたいな感覚が勝って、どうしても死を受け入れていない。遺体も見ていない。私が最後に自分の家を観たのが11日の朝。震災があって12日の朝に両親と弟があって、ちょっとほっとしたのがつかの間浪江町から出なさいと言われて、そこから避難所を何度か転々として12日の夜中に、もうダメだということで郡山へ。でも私は年齢的に浪江町に入れないので、実際に震災後の我が家を観たのが中三の春休み。未だに許可証が無いと入れないのでおかしな話だなと思います。


和佳奈さんが震災を経験したのは小学校の卒業式を迎えた3月のこと。祖父母を津波で失い、自宅は津波で流され、避難先を転々としたのち、中学の時に、郡山の新しい自宅で生活再建をしています。

田植え踊りを始めたのは小学4年の時。震災と原発事故で、田植え踊りの衣装も神社も失ったあとも、大好きだった踊りのことが忘れられなかったといいます。そして、保存会などの呼びかけて、田植え踊りを再開する機会を得てその後は、毎年2月に踊りを披露しています。  

そんな和佳奈さん、故郷を離れての生活と、踊りの担い手としての想いの「はざま」で悩んだこともあると言います。その辛い想いについては明日お伝えします。

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まもなく震災からまる5年。LOVE&HOPEはこうした被災地の今を改めてお伝えする特別番組『LOVE&HOPEスペシャル』を3月11日に放送します。まる5年という時間の経過は貴方にとってどんな意味を持つものだったのでしょう。そして被災地で生きる人々にとっては・・・。「節目」のこの日に、改めてあの震災を振り返り、5年が経過した「いま」を被災地と共有する特別番組です。
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2016年3月8日

3月8日 岩手県大槌町 菅野柚樹くん2

引き続き、岩手県沿岸部の港町・大槌町から未来の漁業を担う高校生の声をお伝えします。菅野柚樹くん(17)。漁師である叔父さんが、震災後の大槌で漁業の再開に取り組む姿を見て見習い漁師に。以来、ずっと毎朝4時に起きて港の仕事を手伝い、学校に通う生活を続けています。

そんな柚樹くんもこの春、高校3年生。卒業後は船舶免許を取り、大槌の漁業の担い手として、いよいよ大きな一歩を踏み出すことになります。



◆迷いもあるし、不安もある。
三者面談で、母親もやらせたくないと思っていた。つらい仕事だと知っているのでその気持ちが強いらしい。でも俺はここまできたんなら、手伝って学んでいるうちに、漁師になろうと。今もその想いはあんまし変わらない感じではあります。叔父も、「やんのか」「やんねえほうがいいぞ」ってあやふやな言葉をかけてくるので迷う。「やるならやってもいいし、お前の選択だよ」と言っていた。楽しみ半分、不安半分もあるんじゃないですかね。この先どんなふうになっていくかっていう。楽しみもあれば、本当にやっていけるかという不安も出てくるんじゃないでしょうかっていう。決めたっていっても迷うじゃないですか。こっからこうなっていくのか、こっちにいくのかどうすんのかっていう不安も奥底にはありますかね。やっぱり考えが甘かったんじゃないですかね。考え方が変わったっていうか。本当に続けていけるかっていう不安とか、この先おじが年も年で、仕事もできなくなってきたら自分に本当にできるのかって言う感じで、そういう不安もよぎったりしますね。


「不安」。 1年前、話を聞いた時には口にしなかった言葉です。これ、柚樹くんが叔父さんの仕事ぶりを見ているうちに感じた素直な気持ちです。 自分は本当に、叔父さんのような立派な漁師になれるのか。 将来を真剣に考えた時に、そんな考えがよぎったのだと言います。

では、その叔父さん、佐々木まさしさんはどう思っているのでしょう。実は、「跡を継ぐ」と言ってくれた大切な見習い漁師が成長していく姿を、本当に嬉しく感じているんです。

◆この子が三代目です!
魚が好きだったんです、魚釣りとか。船に乗って魚釣りもしていたんですけど、見ているうちに「やりたい」という本人がなってきた。この子ならもしかして、でも興味本位かなと思っていたんですよ。でも本人が「やる」って決意が固くて。ホタテもやりたい、わかめの時期になればわかめもやりたい、牡蠣もやると。うちは朝が早いんです。わかめの時は夜中の12時から。そのわかめの作業も来るんです。自分から起きてきて。学校に行くまでの間わかめを手伝ってから登校するんです。やる気があるから、よーしじゃあこの子をちょっと育ててみるかなと。一応は高校終わるまで様子を見て、本当に出来るのであれば柚樹にバトンタッチしてもいいかなと思っています。今は仕事も覚えたので、ああだこうだと言われる前に作業もちゃんとするし。漁師っていうのは頭で覚えるのも大事だが体で覚えろと日頃言っている。あとは毎日同じ仕事をするなと。今日はこのくらいの水揚げだったら、じゃあ次の日は変えてみてもうちょっと揚げてみようと、常に漁師も勉強なんだよと。養殖やっている人は稼げば稼いだ分だけ自分に帰ってくるんです。海から物をあげないとお金にならない。海は銀行。稼いでなんぼだと。というのを本人もわかってきて。頑張ればこの子はずば抜けて行けると思う。とにかく仕事を早く覚えて。俺みたいになりたいと言ってくれているんですけど、その気持だけで涙がでるくらい嬉しいっすよ。どう育つかわからないけど、もう「好き」「俺は浜で生きていく」というエネルギッシュを感じる。周りもわかっている。この子は漁師の三代目だと。右腕って言っちゃアレですけど、そのくらいになってもらいたいと思いますね。


来年の春には、柚樹くんはいよいよ船に乗り、大槌の海へ。まだまだこれからも、叔父さんの背中を追いかけることになりそうです。

『かなわないって感じですね。そういう苦労をしてきて形につながっているので、それに比べればまだ何も出来ない。全然下の方なので頑張ろうって感じですね。』                          

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LOVE&HOPE。明日は福島県浪江町の伝統の「踊り」を受け継ぐ高校生の「いま」をお伝えします。

2016年3月7日

3月7日 岩手県大槌町 菅野柚樹くん1

今朝は、岩手県沿岸部の港町・大槌町から、未来の漁業を担う高校生の「その後」です。
この4月に高校3年生になる菅野柚樹くん。この番組では今からちょうど1年前の春に彼を取材しました。

◆漁師見習い・菅野柚樹くん
菅野:本場のこういうの食ったら、スーパーで売っているのは一切食えないです。
高橋まりえ:そうだね〜。インタビューしながらもカッカカッカ進めて。もうあっと言う間に終わりそうだね。
菅野:まだホタテの数は少ない方なんです。多い日だと朝の7時から昼くらいまでかかる。
高橋:学校がある日はどうしているの?
菅野:水揚げのあさ4時からで6時くらいまで作業して、家に帰ってまた学校に行きます。
高橋:すごい。学校行く前に港に来ているんだ
菅野:ですね。だいたい日課なので。眠くないですね。結構自分ではタフって思っているんで(笑)。


ちょうどこの時、柚樹くんは、漁師である叔父さんの手伝いで、ホタテの貝剥き作業の真っ最中でした。震災の後、叔父の佐々木まさしさんが、漁業を再開するためひとり瓦礫の撤去に取り組む姿を見て、見習い漁師として仕事を手伝い始めた柚樹くん。その時は「仕事が楽しくてしかたない!」と、本当に夢中になって漁師見習いの仕事をしている印象でした。

あれから1年。柚樹くんは変わらず、毎朝、港で仕事を手伝っています。ただ、ちょっと雰囲気に変化があったんです。

◆高校3年生。将来を考えて・・・
最初は手伝いって感じだったがそのうち、将来の進路を考えると自分は本当に何をやったらいいのかと思った。母親には「人当たりがいいからホテルマンでもやったら」と言われて迷ったんですけど、元から海や魚関係好きで、小さい時から沖にも連れて行ってもらって仕事も見ていた。手伝っているうちにやってみたいなという感じになって、いまこうやってやっています。
平日は大体、学校があるけど水揚げがあって4時起きで海に来て、ホタテの周りについたゴミを取っ払ってタンクにいれる。トラックに上げる。きて5時半に終わって家戻って一回寝て、7時に起きて飯食って2度寝して、8時30分ギリギリに学校へ行きます。結構最初は、マジ、4時?って感じだったけど、そういう辛い思いをおじがしているんだなって思えば、朝起きてだるいなという感じじゃなくて、手伝おうという気にはなりますね。


前に話を聞いたときはもっと天真爛漫で、「漁師は楽しい!」って感じだったのですが、柚樹くんもこの春には高校3年生。真剣に自分の「将来」を考え、生きる道を選ぼうとしています。

◆今も漁師への想いは変わらないです。
三者面談で、母親もやらせたくないと思っていた。つらい仕事だと知っているのでその気持ちが強いらしい。でも俺はここまできたんなら、手伝って学んでいるうちに、漁師になろうと。今もその想いはあんまし変わらない感じではあります。


そんな柚樹くんが漁師を志す理由はもう1つあります。津波で失った、おじいさんの存在です。海で仕事をするおじいさんは、「とてもカッコよかった」そう。でも、おじいさんの仕事を手伝うことも、津波から助けることも出来なかった柚樹くんは、だからこそ自分も海の仕事で生きていく…そう考えたと話します。

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まもなく震災からまる5年。LOVE&HOPEはこうした被災地の今を改めてお伝えする特別番組『LOVE&HOPEスペシャル』を3月11日に放送します。まる5年という時間の経過は貴方にとってどんな意味を持つものだったのでしょう。そして被災地で生きる人々にとっては・・・。「節目」のこの日に、改めてあの震災を振り返り、5年が経過した「いま」を被災地と共有する特別番組です。
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2016年3月4日

3/19-22 サポートアワーキッズ チャリティオークション

今朝は、被災児童自立支援プロジェクト「Support Our Kids」の、新しいビッグイベントに注目します。
「Support Our Kids」は、将来、被災地の復興の担い手となる子ども達の自立と復興のリーダーを育成するため、志のある子供たちを対象に、海外留学やシンポジウムなど数多くのイベントを主催しています。

そんな「Support Our Kids」の次なるイベントが、3月19日(土)、21日(月・祝)、22日(火)の3日間に渡って行われる「The Gary Player Invitational presented by MAZDA」。世界のゴルフ界のレジェンドであるゲーリー・プレーヤーを迎え、「セレブリティチャリティゴルフ」、「キッズゴルフクリニック&対抗戦」、「チャリティオークションディナー」など多彩なプログラムを展開します。

先日、このイベントの制作発表記者会見が行われました。実行委員サポーター代表でもある、原辰徳さんのコメントです。

◆原辰徳さん
昨年まで読売巨人軍の監督という立場で、中々社会貢献、チャリティ、そういったものに、携わることが出来なかった。2016年、監督という仕事も卒業し、私の中では一番大きな仕事だという認識で、これに参加させてもらうという事になりました。昨年もヤンキースで活躍した、松井秀喜、デレクジーターをはじめ、元選手たちが集まって、復興支援という形で被災児童を中心に野球というなかで、彼らに可能性というものそして、夢の実現というものを叶えられたかなと思っております。
今年はゲーリー・プレーヤーさんが自らの言葉で「東日本大震災。これを忘れてはいけないんだ」と言うなかで、ゴルフを通じ、
今回の運びとなりました。私はサポーター代表と実行委員の一人として、音楽であったり、文化であったり、色んな形でサポートしたいという風に思っています。この企画も全て、東日本大震災5年経ちますけど、まだまだ我々は力になるところが多々あるという風に考えています。なんせ無限の可能性を持った子供たちに、少しでも力になり、そして各方面で、リーダーとなり、自分たちの経験が周りの方に役立たせる。そういう風に、なってくれる事を願い、今現状、みんなで協力し合おうという形になっております。私はサポーター代表として、全力でこの事業に力を注ぐことを誓いまして、私の挨拶にかえます。有難うございました。


そんな「The Gary Player Invitational」。5つのプログラムをメインコンテンツにしています。

◇3/19 「チャリティコンサート」(サントリーホール)
三枝成彰さんの監修で、15歳の天才ヴァイオリニスト服部百音さんや17歳のチェリスト水野優也さん、それに福島県南相馬市の女子中高生合唱団「MJC アンサンブル」も参加して、素晴らしい演奏を届けます。

◇3/21「セレブリティチャリティゴルフ」(武蔵丘ゴルフコース)
ゲーリー・プレーヤーさんも参加して、チャリティゴルフトーナメントを行ないます。

◇3/21「経営者セミナー ゲーリー・プレーヤーwith清宮克幸」(品川プリンスホテル)
ゲーリー・プレーヤーさんと、日本ラグビー界の名将、ヤマハ発動機ジュビロ監督・清宮克幸さんによる、
「How to Win」をテーマにしたトークセッション。

◇3/22「チャリティキッズゴルフ&対抗戦」(霞ヶ関カンツリー倶楽部)
被災地の児童や、全国から募集した児童を交えて、ゲーリー・プレーヤーさんによる「ゴルフクリニック」と、「ゴルフ対抗戦」を開催。

◇3/22「チャリティオークションディナー」(グランドプリンスホテル新高輪)
「Support Our Kids」を支援する世界のセレブリティのアイテムが出品される「チャリティオークション」やミニライブなども行われる、スペシャルディナーショー。そのライブには、新たにENYAの参加も決定!歌声を聴かせてくれることになりました。

「The Gary Player Invitational」、
3月22日火曜日夜7時から、グランドプリンスホテル新高輪「飛天」で行われる、チャリティオークションディナーに参加します、ENYA、「so i could find my way」、お送りしています。

この日のステージでは、この方も歌声を届けてくれます。
◆森高千里さん
森高千里です。東日本大震災から5年目の今年、サポートアワーキッズのチャリティに参加させて頂くことになりました。この5年間の活動についてお伺いしたところ、今では、ホームステイから帰ってきた子供たちが、自分たちでいろいろな活動を積極的にやっているそうですね。本当に素晴らしいことだと思います。海外にいくことは可能性がとっても広がって、自分には可能性があるということを教えてくれていると思います。私は、3月22日のチャリティイベントで歌を歌わせて頂き、そのあとのチャリティオークションで出品させて頂きます。震災で大変な経験をしたこどもたちが少しでも明るい未来が送れるように、この活動が広がっていくことを祈っています。


森高千里さん、ENYA、ゲーリー・プレーヤー、そして歌舞伎役者の片岡愛之助さんも登場!世界のセレブが出品する「チャリティオークション」も楽しみですが、現在、〔ヤフオク!特設サイト〕では、「サポートアワーキッズ チャリティオークション」も同時開催中です。東北の子供たちが世界に羽ばたく為に、是非ご協力お願い致します。

お問い合わせは、ローソンチケット 電話番号 0570-000-732 
または、公式サイト「The Gary Player Invitational, Support Our Kids Japan」をご覧ください。

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そしてそんな「Support Our Kids」の海外ホームステイで成長した大学生らが、今、ネパール¬大地震で被災した現地の高校生を日本に招こうと、クラウドファンディングでの資金集めを続けています。
プロジェクトに参加している東北大2年の、白井森隆さんは、
「自分も海外の人に受け入れてもらい成長できた。ネパールの高校生を宮城に招いて、復興の状況を伝え、将来はネパールの復興¬を支える人材になってほしい」と活動への思いを語っています。

目標の費用120万円まで、あと20万円ということですので、是非こちらもご協力をお願いします。

2016年3月3日

3月3日 宮城県女川町 梅丸新聞店4


梅丸新聞店の阿部喜英さんは、震災直後の女川でライフラインとしての新聞を、町の人たちに配りつづけました。そして現在は、女川の教育委員や観光協会など、様々な肩書で町の復興に力を注いでいます。

ご自身も、3人のお子さんの父親である阿部さん。女川のこれからを担う子どもたちについてこんな想いを持っています。

◆子どもたちが一番分かっている
子どもたちが一番この町の変化をずーっと見続けているんですよ。大人の場合は用事がなければこなきゃいい、見たくなければ見なきゃいい。でも子どもたちは毎日の通学で見続けているんですよ。あいつらの中に、女川に対する想いや町に対する想いは何かあるんだろうなと思います。それが何かは俺には分からないですけど。通学の最中に見ている景色、学校から見える景色、瓦礫の中を通学するところからスタートして、瓦礫が無くなっていって、土が盛られていって、建物が建設されて・・・全部学校から見えているんです。一番変化をわかっているのが小中学生ですかね。教育委員の立場でもあるもんですから今年の成人式にも出席させて頂いたんですけど、「戻ってきて、女川の復興に何かしらの形で役に立ちたい」という成人の方々が非常に多くいらっしゃって。やっぱりそういうのを見てきたからなんだろうなというのを感じますよね。何かしらの形で関わりたいと。うちの長男なんかもそういうこと言ってますからね。帰ってこなくていいって言ってるんですけど(笑)


阿部さんの話す通り、女川の子どもたちは、実際自分たちで考え、行動を起こしています。震災のあった2011年秋、当時の女川中学の1年生たちは、1000年先の未来のために津波が届かなかった場所に石碑を建てるプロジェクトを自ら企画。募金を募り、すでに各浜に、石碑を建ち始めています。

(※「いのちの石碑プロジェクト」)

そんな「女川の子どもたち」の一人が、当時中学1年で、現在石巻高校2年の木村圭さん。女川のいまの様子を、どんな気持ちで見つめているのでしょうか。

◆1000年後のいのちのために
半分半分の気持ちなんですけど、まず1つは何も無くなっちゃった震災後からこうやって駅を中心に商業エリアとかがどんどん出来上がっていくのは、やっぱり瓦礫になったあとって真っ黒な街の色で色がなくなった感じがしていて、でもこうやって建物が増えていくと色が増えて明るくなっていって、前に進んでいるんだ、復興しているんだっていうのを感じて嬉しい部分もあって。でももう1つは、その反面、昔の女川を忘れてしまう自分がいるから、そこはすごく悲しいというか、そんな自分がイヤなのと、昔の女川を忘れないでいたいな、消したくないというのと複雑な感じです。でもこの震災で得られた教訓を忘れないで後世にも伝えていって、1000年後に起きるであろう地震で、私達のような悲しくて辛い思いをしてもらいたくないので、その想いをしないために私たちは1000年後まで活動を続けて、ひとりでも多くの命ではなく、一人の命も落とさないように活動していきたいと思っています。だから活動は1000年後まで、私達が死んでも次の代、次の代と受け継いで続けたいと思っています。


阿部喜英さんの体験をモデルにした、「失われた命」と「生きている命」を描き出すラジオドラマ、Date fm(エフエム仙台)・TOKYO FM共同制作
『ライターのつぶやき〜河北新報の5年〜』

3月6日(日) 19:00〜19:55 TOKYO FMをはじめとするJFN38局ネットでお送りします。(※FM沖縄のみ、同日21:00〜21:55放送)
★『ライターのつぶやき〜河北新報の5年』サイト

2016年3月2日

3月2日 宮城県女川町 梅丸新聞店3


女川町の新聞販売所、梅丸新聞店の阿部喜英さんは津波の数週間後には新聞配達を再開。被災直後の女川で、大切なライフラインとしての「情報」を町の人たちに、届け続けました。

現在、阿部さんは 女川の町民主体の町づくりのメンバーとして町のために、力を注いでいます。

◆町づくりに関わる理由
去年の12月23日に「町びらき・冬」ということで、駅前商業エリアに関しては第二段階の町びらきを迎えたんですけど、あの花火は感動でしたね。花火も感動でしたけど、ここに再び人が集うという場をどう作るかというのに汗をかいてきた5年だったので、たくさんの町民の方が花火を見に集まってきてくれた姿を見て、たくさん人がいるのを見て、もう泣けましたね。やっとここまで来たって。みなさん本当に笑顔で嬉しそうに花火を観ていましたからね。亡くなったみなさんだって、次の世代にどう繋いでいくかをお考えになっていた方もたくさんいらっしゃるはずですから、そういう町が作られつつあるんだよっていう。みんながまた戻ってこれる場所ができているんだよっていうのを見て頂けるようにしていかなきゃなって思っていますね。私自身がいま役職王(笑)自分で言うのも変ですけど。商工会の理事をやっていて観光協会の副会長もやっているんです。さらに須田町長就任後には女川町の教育委員会の教育委員にもなっておりますし、こういった役職って震災がなければ私はやっていないんですよ。なぜかといえば全てやっていらっしゃる人がいますから。それが震災で亡くなられたんですよね。欠員になったところに全部入った形ですから、そういった立場でやっていた方々がどういう役割をしていたかを、私が引き受けた以上は、その想いも引き受けなきゃいけないと思ってやっていますので。


阿部さんが経営する「梅丸新聞店」。この「梅丸」は元々、船の名前。漁師の屋号なんです。阿部さんのおじいさんは、元々遠洋漁業の漁師さん。大漁旗をはためかせ、海へ出ていくおじいさんの船を、幼い頃の阿部さんは、よく見送っていたのだそうです。それが、漁師町・女川の人々が想う、町の原風景だと言います。

◆大漁旗、獅子舞、太鼓の音が帰ってくる日
震災前は毎年7月の最終土日に女川みなとまつりというお祭りが。町人にとっては心の拠り所になるようなお祭りで。各浜にある舟に大漁旗を装飾して、浜ごとに太鼓や獅子舞があって、それぞれ太鼓のリズムも獅子舞も違う文化なんですよ。それが船の上で太鼓を叩きながら獅子を待って、そして一斉に沖合から船で女川湾の岸壁までぐーっとやってくる。みなとまつりの復活というのはまだ先になってしまうんですよね。女川の開眼の前のエリアは一番最後に整備が終わるので、みなとまつりで花火を上げるのはもう少し先になってしまいます。その間は町としては、花火は女川のシンボルでも有りますから去年はクリスマス・イブに上げたと。みなさんご覧になられて喜んでいたので、もしかすると今年のクリスマスイブもやるのかなと思っています。


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2016年3月1日

3月1日 宮城県女川町 梅丸新聞店2

今朝も、震災直後の宮城県女川町で、命をつなぐ情報源「新聞」を配り続けた一軒の新聞店について、お伝えしています。

女川町の梅丸新聞店・阿部喜英さん。おじいさんの代からおよそ80年、女川の人々に新聞を配り続けている方です。
町を襲った17mとも言われる津波は、阿部さんの新聞販売店を飲み込みました。それでも阿部さんは、数日後には配達を再開したと言います。そのきっかけは、震災直後の避難所で思いがけず目にした「壁新聞」でした。

◆俺が持ってこなかったら誰も新聞を持ってこれない
女川町の総合体育館。3000名近くの方が避難されていた場所ですね。2日後に長男を女川第一中学校に迎えに行ったんですね。その足でこちらの総合体育館の方にも様子を見に来たんです。たくさんの方が避難されていると聞いていたので。そしたら体育館の入り口のところに新聞が貼ってありまして。俺、届けたわけじゃないのにどうしたのかなと思ったら、どうやら自衛隊か警察の方が持ってきたものを入り口のところに壁新聞のように河北新報がだーっと貼ってあったんです。それを避難者の方が食い入るように見ていまして。それを観た時に、情報は食料や水道や電気と同じインフラだというのを痛感しまして。女川町の河北新報を家は扱っていましたので、俺が持ってこなかったら誰も新聞を持ってこれないわけですよね。それでやらなきゃいけないなという思いになったのは確かです。そして隣の石巻市の鹿又の新聞屋さんまで新聞を取りに行って、3月12日、13日、14日の3日間の朝刊を頂いて、それを災害対策本部や避難所に数部ずつ配ることから始めました。やはり食い入るように一文字一文字みなさん確認するようにご覧になられていた記憶はありますね。


阿部さんはこの時、電気も通じない状況で、情報源としての「紙の新聞」の強さを痛感したと言います。そして情報を求めている女川の人たちのため、行動に移ったんです。

◆生まれて初めての「ありがとう」
戸別配達分の再開をどのタイミングでやるか。2週間ほどかけて家の残ったエリア、ほぼすべて1軒ずつ訪問して購読の意思を確認して、意思の確認ができたところから徐々に配達を再開しました。本当にその時は読者の皆様から感謝の言葉しか頂かなかった。「届けてくれてありがとう」と。生まれ始めて、小学校の頃から新聞配達をしていますけど、ありがとうと言われたのは本当に初めての経験でした。私からすれば2週間届けられなかったわけですから、逆に家が残ったエリアほどそういう情報から外れていたわけなんですよ。新聞読みたい、細かい情報を知りたいと思っても避難所の築は遠いんですよね。だからこそ申し訳なかったかなと言う想いでいっぱいでした。ありがとうと言われるのがおこがましいというか、申し訳なかったです。嬉しかったですけど。この選択は間違っていなかった、やってよかったと本当に思いましたね。


女川は町の8割が壊滅した地域。阿部さんは女川で新聞店を再開するか、お店を諦めほかの地域へ移るか、選択に迫られたそう。ただ、残りの2割の人が新聞を求めているなら新聞店の経営は成り立つと考え、また、お子さんの「女川に残りたい」という気持ちを受けて新聞店の再開を決意したということです。この続きは、明日のこの時間にお伝えします。

阿部喜英さんの体験をモデルにした、「失われた命」と「生きている命」を描き出すラジオドラマ、Date fm(エフエム仙台)・TOKYO FM共同制作
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パーソナリティ 鈴村健一

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