2016年2月29日
2月29日 宮城県女川町 梅丸新聞店1
東日本大震災から、まもなく丸5年です。日常、だんだん思い出さなくなってきたあの震災を、改めて考え、次の世代へ語り継ぐための節目の日が、今年もやってきます。
今週は、月曜から4日間にわたり、宮城県女川町にある、一軒の新聞販売店をめぐる東日本大震災です。お話を伺ったのは、梅丸新聞店の阿部喜英さん。おじいさんの代からおよそ80年、女川の人々に新聞を配り続けている方です。
◆振り返らない過去・薄れていく記憶
病院のある高台のちょうど真下だったんですね、あのあたりに新聞店があって、自宅がそこです。どちらも津波ですべて流されて、残っていたのは新聞の折込の機械だけですね。機械自体がものすごく重たいので横倒しになって残っていました。あと残っているものはなかったです。去年からようやくこちらのエリアで工事が始まったのですが、それまでのあいだはほぼそのままの状態で残っていました。自宅にせよ店のあった場所にせよ、割とずっと機械だけは残っていたので、フラッシュバックが起きることはありましたね。5年間、町作りになり自分の商売を続けるためには、いちいち振り返っちゃうと前に進めなくなっちゃうので、忘れていることのほうが多くなっているんですよ。
なので、いまこうやって町や自宅や店舗のあったところが無くなりつつあるのを見ると、ますます記憶が薄れちゃっているなと思うところはありますね。
阿部さんは震災当時、新聞店の事務所で作業をしていたといいます。奥さんと3人のお子さん、そしてご両親は結果として無事だったのですが、まだその時点でそれを知らない阿部さんは、海の近くまで当時小学1年の三男を探しに出かけ、津波と鉢合わせる経験もしています。その高さは15メートル以上。女川町民の多くが避難した、病院のある高台を超える高さでした。
◆たまたま水が止まったから
ちょうど病院の1階まで浸水。ここで海抜16mくらいの高さなので、およそ17〜20mの津波がきた。ほぼ町が全て津波に襲われた形。ここが避難所になっていたので、妻は病院の駐車場に逃げてきて、近所のお母さんたちと一緒に津波が来るのを見ていたそうです。だんだん水位が上がってあふれだす形で水が入ってきて、海岸近くの建物が少しずつ流され始めているのまで見て、そのままでいると高台の病院まで来るだろうと言う危機感で病院の中に逃げたんですよね。ただ人が避難して殺到していたので、2階へ逃げようとしても階段も人で一杯で、逃げられないうちに津波が病院の中に入ってきてしまい、そこで流されてしまったのだが、病院のエレベーターホールに流されたので、袋小路だったのでそれ以上はどこにも流されなかったんです。そして「たまたま」あと天井まで30cmというところで水が止まってくれたので命は無事だった。避難所になっていた場所とはいえ、ここもけして安全ではない場所だったんですね。自分が死にかけた町なので、最初は出たいと思ったし、今もそういう気持ちがある。妻の実家の栃木に行こうという思いもあったが、子どもたちが残りたいというので、最終的にはそれが女川に残る理由になった。
阿部さんも、チリ地震などの話で津波の存在は知っていたそう。ただ、「町が無くなるとは思わなかった」と話しています。震災当日、小学1年生の三男を無事保護した阿部さんは、高台にある高校のグラウンドで、一夜を過ごしたそうです。家族全員の無事が確認できたのは2日後のことでした。そして阿部さんは、ご自身の仕事である新聞を、避難所などに配り始めるのですが、これは明日のこの時間にお伝えします。
*****
阿部喜英さんの体験をモデルにした、「失われた命」と「生きている命」を描き出すラジオドラマ、Date fm(エフエム仙台)・TOKYO FM共同制作『ライターのつぶやき〜河北新報の5年〜』
3月6日(日) 19:00〜19:55 TOKYO FMをはじめとするJFN38局ネットでお送りします。(※FM沖縄のみ、同日21:00〜21:55放送)
★『ライターのつぶやき〜河北新報の5年』サイト
今週は、月曜から4日間にわたり、宮城県女川町にある、一軒の新聞販売店をめぐる東日本大震災です。お話を伺ったのは、梅丸新聞店の阿部喜英さん。おじいさんの代からおよそ80年、女川の人々に新聞を配り続けている方です。
◆振り返らない過去・薄れていく記憶
病院のある高台のちょうど真下だったんですね、あのあたりに新聞店があって、自宅がそこです。どちらも津波ですべて流されて、残っていたのは新聞の折込の機械だけですね。機械自体がものすごく重たいので横倒しになって残っていました。あと残っているものはなかったです。去年からようやくこちらのエリアで工事が始まったのですが、それまでのあいだはほぼそのままの状態で残っていました。自宅にせよ店のあった場所にせよ、割とずっと機械だけは残っていたので、フラッシュバックが起きることはありましたね。5年間、町作りになり自分の商売を続けるためには、いちいち振り返っちゃうと前に進めなくなっちゃうので、忘れていることのほうが多くなっているんですよ。
なので、いまこうやって町や自宅や店舗のあったところが無くなりつつあるのを見ると、ますます記憶が薄れちゃっているなと思うところはありますね。
阿部さんは震災当時、新聞店の事務所で作業をしていたといいます。奥さんと3人のお子さん、そしてご両親は結果として無事だったのですが、まだその時点でそれを知らない阿部さんは、海の近くまで当時小学1年の三男を探しに出かけ、津波と鉢合わせる経験もしています。その高さは15メートル以上。女川町民の多くが避難した、病院のある高台を超える高さでした。
◆たまたま水が止まったから
ちょうど病院の1階まで浸水。ここで海抜16mくらいの高さなので、およそ17〜20mの津波がきた。ほぼ町が全て津波に襲われた形。ここが避難所になっていたので、妻は病院の駐車場に逃げてきて、近所のお母さんたちと一緒に津波が来るのを見ていたそうです。だんだん水位が上がってあふれだす形で水が入ってきて、海岸近くの建物が少しずつ流され始めているのまで見て、そのままでいると高台の病院まで来るだろうと言う危機感で病院の中に逃げたんですよね。ただ人が避難して殺到していたので、2階へ逃げようとしても階段も人で一杯で、逃げられないうちに津波が病院の中に入ってきてしまい、そこで流されてしまったのだが、病院のエレベーターホールに流されたので、袋小路だったのでそれ以上はどこにも流されなかったんです。そして「たまたま」あと天井まで30cmというところで水が止まってくれたので命は無事だった。避難所になっていた場所とはいえ、ここもけして安全ではない場所だったんですね。自分が死にかけた町なので、最初は出たいと思ったし、今もそういう気持ちがある。妻の実家の栃木に行こうという思いもあったが、子どもたちが残りたいというので、最終的にはそれが女川に残る理由になった。
阿部さんも、チリ地震などの話で津波の存在は知っていたそう。ただ、「町が無くなるとは思わなかった」と話しています。震災当日、小学1年生の三男を無事保護した阿部さんは、高台にある高校のグラウンドで、一夜を過ごしたそうです。家族全員の無事が確認できたのは2日後のことでした。そして阿部さんは、ご自身の仕事である新聞を、避難所などに配り始めるのですが、これは明日のこの時間にお伝えします。
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阿部喜英さんの体験をモデルにした、「失われた命」と「生きている命」を描き出すラジオドラマ、Date fm(エフエム仙台)・TOKYO FM共同制作『ライターのつぶやき〜河北新報の5年〜』
3月6日(日) 19:00〜19:55 TOKYO FMをはじめとするJFN38局ネットでお送りします。(※FM沖縄のみ、同日21:00〜21:55放送)
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