2016年1月29日

1月29日 いわて国体 フューチャーアスリート(5)

今週は「LOVE&HOPE いわて国体 フューチャーアスリート supported by TOYOTA」と題して、お送りしています。

いわて国体・冬季大会、まず、フィギュア、スピード、ショートトラック、アイスホッケーのスケート競技が開幕し、フィギュアスケートは明日まで。スピードスケートとアイスホッケーは、31 日まで熱戦が続きます。今週は、東日本大震災を乗り越え、東北各県からこの戦いに臨む若きアスリートにスポットを当ててお届けしています。

今朝は引き続き、岩手県・陸前高田出身。盛岡農業高校の3年生、スピードスケートで国体に出場している三嶋萌選手のインタビューです。

陸前高田・気仙中 1年生の3月に、三嶋さんは東日本大震災を経験。スケートが大好きな三嶋さんのために、盛岡のスケート場まで、毎週送り迎えしてくれたお父さんを、津波で失いました。それでも三嶋さんはスケートを続け、今回で4度目の国体出場となります。そこには、残されたご家族の支えがありました。

◆できないかもしれない
道具もないし、こんな状況でやっていいものなのかなって思ったし、でもやっぱりスケートが好きだったのでお母さんのも1度「できないかもしれない」と言われたんですけど、できないと思うと涙が出てきて、でもやりたいと言いました。「萌がやりたいなら頑張ろう」って言ってくれたので続けられました。一年生の時は送ってもらえて当たり前と言う、スケートができていることが当たり前というところがあったんですけど、震災があって自分がいまスケートができるのは、周りのいろんな人の支えがあるからなんだなと気付けて、じゃあその周りの人に恩返しをできるように頑張らなきゃいけないなと思いましたね。


こうして、お母さんのサポートの元、三嶋さんは中学3年で初めて国体に出場。高校生を相手に、1000mで見事入賞を果たしました。その後は、親元を離れ、スケート部のある盛岡農業高校に入学。毎年順位を上げ、個人では表彰台まであと一歩というところまで来ています。

◆お父さんに見てほしい
今回の国体では表彰台に上ることが目標で、地元開催なので震災のこともあるので、被災した人たちが自分の結果や滑りを見て元気や勇気を持ってくれたらいいなと思います。タイムも大事なんですけどやっぱりどういう風な姿勢で、気持ちで最後まで滑ったかというところも大切だと思うので、お父さんには見てほしいし良い報告ができたらいいなと思います。


そして三嶋さん。県内でも、高い実力を持つ選手として注目されており、この春からは、強豪・大東文化大学のスケート部で、競技を続けることが決まっています!未来へ向けた想いを伺いました。

◆オリンピック目指して
夢は・・・オリンピックとか世界で戦ってみたいなと思うんですけど、目指せる位置にこれたら目指したいなと思います。


そして三嶋選手ですが、きのうの少年女子 500m 予選は・・・第2組の2位に入り、決勝進出!今日14時20分からの決勝で優勝を目指します。さらに午前11時からは1000m予選にも出場。場所は盛岡市・岩手県営スケート場です。

「いわて国体・冬季大会」の公式サイト
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支援してくれた方々への恩返しを
―第71回国民体育大会「希望郷いわて国体」冬季大会
スケート競技会・アイスホッケー競技会開始式に参加したボランティアの方々の声―


1月27日に開幕した第71回国民体育大会冬季大会スケート・アイスホッケー競技会は、たくさんのボランティアの方々に支えられています。

「開幕をずっと楽しみにしていた。」
そう話すのは、盛岡市のスポーツ推進員として活動し、普段からボランティアをしている高屋敷 光男さん。(写真・右)
開始式では、各県の選手団が入場する際に応援で盛り上げた小学生たちを、サポートするボランティアをしていました。
「こういう形でいわて国体に関われることは本当に嬉しいこと。
自分にとっても、岩手にとっても、この経験がこれからの力になっていくと思います。
復興への道のりはまだまだ長いですが、着実に前には進んでいます。
各地から来た選手の皆さんには、岩手県の素晴らしい自然を味わってほしい。」
郷土、岩手への愛とともに、大会を支える思いを聞かせてくれました。

開始式の会場となった岩手県営武道館がある、盛岡市にある岩手県立盛岡第二高等学校に通う村上 玲衣華さん(写真・中)は自らボランティアに応募。
その理由をこう話してくれました。
「大好きな自分の県でこういう大会が開かれることは嬉しいです。
震災の時に全国の皆さんから本当にたくさんの支援をもらったので、少しでもその恩返しができればと思って応募しました。」
村上さんは、秋に行われる本大会にも積極的に関わっていきたいと話していました。

一方、村上さんに誘われて、貴重な経験ができると考え、ボランティアに参加した同級生の佐々木 彩菜さん(写真・左)はこんな思いを聞かせてくれました。
「岩手県は広いので、内陸と沿岸では被災の仕方が違います。
内陸に住んでいる私たちでも津波の被害に遭った地域に行って、まだ仮設住宅で暮らしている方々に触れると、気持ちの面でも復興しきれていない部分があると感じるので、いわて国体が少しでもそういう方々の励みになることを願っています。」

被災地として初めての開催となる「希望郷いわて国体・希望郷いわて大会」
その裏側には、今回お話を伺った3人の他にも、それぞれの思いを胸に参加している、たくさんのボランティアの方々の存在があるのです。

今回の取組を含めたトヨタの様々な社会貢献活動の様子は、トヨタのソーシャルアクション「トヨタマゴ」のサイトから発信されていきます。詳細を知りたい方は、「トヨタマゴ」で検索してみてください。

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2016年1月28日

1月28日 いわて国体 フューチャーアスリート(4)

今週は「LOVE&HOPE いわて国体 フューチャーアスリート supported by TOYOTA」と題してお送りします。
いわて国体・冬季大会がきのう開幕。今週は、東日本大震災を乗り越え、東北各県からこの戦いに臨む、若きアスリートにスポットを当ててお届けしています。

今朝は、岩手県・陸前高田で育ったこの選手です。

「岩手県陸前高田市出身、盛岡農業高校3年 三嶋萌です。元々北海道に住んでいて結構スケートが盛んだったので、中学1年生から陸前高田に来て続けさせてもらいました。」

昨日、フィギュアスケート、ショートトラック、アイスホッケーが開幕し、31 日まで熱戦が繰り広げられます。そして今日行われるスピードスケート女子500m、1000m、リレーでもリンクに立つ、三嶋萌選手。小学2年生でスケートを始めた三嶋さんは、卒業後、ご両親の故郷・陸前高田へ引っ越して気仙中学に入学。スケートを続けたいという彼女のために、お父さんは、盛岡にあるスケートリンクまで毎週末・片道2時間の送り迎えを続けていたと言います。

そして、三嶋さんが中学2年に上がる直前の3月、あの震災と大津波が町を襲いました。

◆感情がない、空っぽになった
その日は自分は体育館で卒業式の歌の練習をしていて、そしたら地震が来た。みんなと一緒に第一避難所に逃げて座っていたんですけど、下の方で見ていた先生たちが「もっと上に上がったほうがいい」と言うので上に上がって最終的に林の中に行った感じですかね。自宅は全壊。土台しか残っていなかった感じです。それを見た時は悲しいという感情みたいなものは無くて、空っぽになったという感じですね・・・。


この津波で、三嶋さんはお父さんと、おじいさんを失い、今も行方不明のままです。当時、三嶋さんはまだ中学1年生。お母さんは彼女にこう説明したと言います。

◆今も、生きているんじゃないか・・
最初はお母さんに「屋根の上に登っていて助かった」と聴いていたので自分としては安心していて、2週間くらい経ってからお母さんに、「屋根の上にいて助かったって言ったけど、本当は流されちゃったんだよ」って言われました。おじいちゃんと一緒に父親は避難者の誘導をしていたみたいなんですけど、その時に津波が来て流されたという風に聞きました。助かったと聞いていたので本当は流されたと言われた瞬間、泣いちゃって、いまだに信じられないんですけど、遺体や遺品が無いので、何もない状態なので、今でも生きているんじゃないかなっていう感じがしますね。


三嶋選手はこのあと、10時から 500m 予選に出場。明日の決勝を目指します。場所は盛岡市・岩手県営スケート場です。

中学時代は陸前高田から盛岡まで片道2時間かけて送り迎えしてくれたお父さん。そんなお父さんを津波で亡くし、スケートをあきらめかけていた萌さんを支えてくれたのは、お母さんでした。萌さんの国体にかける想いについては、明日、お伝えします。

「いわて国体・冬季大会」の公式サイト
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広げよう 感動。 伝えよう 感謝。
―第71回国民体育大会「希望郷いわて国体」冬季大会
スケート競技会・アイスホッケー競技会開始式レポートー


1月27日水曜日。
第71回国民体育大会冬季大会スケート・アイスホッケー競技会開始式が岩手県営武道館で行われました。

東日本大震災から間もなく5年。
「広げよう 感動。伝えよう 感謝。」というスローガンの元、被災地で初めて開催される国体となる「希望郷いわて国体」。
各都道府県を代表する選手団や大会関係者などおよそ2000人が集まった開始式は、岩手県の魅力を伝える映像やプロ野球、日本ハムファイターズの大谷翔平投手や歌手の新沼謙治さん、俳優の村上弘明さんといった、岩手県出身の方々からのメッセージが収められたVTRからスタート。

そして、岩手県立花巻農業高校の鹿踊部や、盛岡さんさ踊り振興協議会の皆さんが、踊りや演奏を通して、復興支援への感謝を表す歓迎アトラクションで、華々しく会場を盛り上げました。

続いて行われた式典では、岩手県の達増拓也知事が開始宣言を行うと、ソウルオリンピックの金メダリストで、現在はスポーツ庁の長官を務める鈴木大地さんや、アルベールビル冬季オリンピックの銅メダリストで日本スケート連盟会長の橋本聖子さんなど豪華な顔ぶれが、大会の成功にむけた思い、そして、スポーツの素晴らしさを語りました。

式典の最後は、スピードスケート成年女子に出場する曽我こなみ選手による選手代表宣誓。
同じくスピードスケートの出場選手で岩手県選手団騎手を務めた池田晋一朗選手とともに壇上に上がった曽我選手は
「最後まで全力で競技することを誓います!」と力強く宣誓しました。

選手たちは、日頃の練習の成果を出し切り、完全燃焼することを誓い合いました。

華々しいスタートを切ったいわて国体の冬季大会「スケート・アイスホッケー」競技は、1月31日まで各地で熱戦が繰り広げられます。

今回の取組を含めたトヨタの様々な社会貢献活動の様子は、トヨタのソーシャルアクション「トヨタマゴ」のサイトから発信されていきます。詳細を知りたい方は、「トヨタマゴ」で検索してみてください。

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2016年1月27日

1月27日 いわて国体 フューチャーアスリート(3)

今週は「LOVE&HOPE いわて国体 フューチャーアスリート supported by TOYOTA」と題してお送りします。

いわて国体・冬季大会がいよいよ今日、開幕します。今週は、東日本大震災を乗り越え、東北各県からこの大舞台に立つ、若きアスリートにスポットを当ててお届けしています。

今朝は、きのうに引き続き、この選手です。

「宮城県石巻市出身、盛岡中央高校1年 野々村光純です。高校でホッケーするか悩んでいて、そしたら岩手国体があるって聞いて、めったにないことだからそういうの経験したらいいんじゃないかと盛岡中央高等学校に入りました。やるからには勝ちに行きたいので、自分はプレーで被災地に貢献できたらいいなと思います。」

28日(木)、アイスホッケー少年男子1回戦「岩手県 対 福岡県」に岩手県代表として出場する野々村光純くん。震災後、一度はあきらめたホッケーを、お父さんのサポートで続けてきて、いよいよ初の国体です!

そしてそのお父さん、お仕事はお寺のご住職です。光純くんは震災後、津波で亡くなった方の供養などを手伝う中で、お父さんの跡を継ぐ決心をしたと話します。

◆自分の代でお寺を作りたい
檀家は600以上いたと言っていましたね。結構減ったと思います。高校を出て大学を出て修行をして、僧侶の修行が終わったら戻ってきて親と2人で、震災で亡くなった方の供養をしていきたいと思っています。自分が働いて、自分の代でお寺を作りたいと思っています。

実家のお寺「天雄寺」は津波で全壊。現在は別の場所に仮の本堂を建てていて、まだ再建のめどはたっていないそうです。石巻市・雄勝は、地元小学校の2階建て校舎を超える津波に襲われた地域。光純くんの実家やお寺も全壊。現在は更地となっています。お父さんは雄勝の仮設住宅で生活しながら、お坊さんとして被災したほかのお寺の檀家さんのためのお仕事もされているそうです。そんなお父さんのサポートを受け、光純くんはいま盛岡中央高校の学生寮で生活。勉強とアイスホッケーに励んでいます。

最後に、たくさんの人の支えで続けることができたアイスホッケーと、初めての国体への想いを聞きました。

◆震災でお世話になった人に国体で恩返ししたい!
本当に激しいスポーツで、氷上の格闘技と言われるくらいスピードがあるし、コンタクトスポーツなので見ていても面白いと思うし迫力があるので、ゴールを決めたりすると本当に嬉しいし、チームワークが試されるスポーツだと思います。自分はディフェンスなので、綺麗なパスが通ったりそのまま打ったり、ゴールを決めたりすると嬉しいですね。
僕の国体の目標は、今まで震災でおせわになった人達のためにも全力でプレーして、チームにもお世話になったのでその恩を国体で返したいと思っています。


そして、野々村選手の出場する試合、アイスホッケー1回戦「岩手県 対 福岡県」は、28日(木)あさ8時30分からスタート。会場は盛岡市アイスリンクです。これに勝つと準々決勝で北海道と対戦します。

『LOVE & HOPE〜いわて国体 Future Athlete』、
明日は、スピードスケート女子に出場する、陸前高田市出身の高校3年生、三嶋萌さんのインタビューをお届けします。

「いわて国体・冬季大会」の公式サイト
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復興、そして国体成功に必要なのは笑顔と協力
― ボストン・レッドソックス 上原浩治投手インタビュー ―


東日本大震災の後、様々な業界へ広がった支援活動の輪。その中にはもちろんスポーツで活躍するアスリートたちもいました。ボストン・レッドソックスの上原浩治投手もその一人。震災後野球教室などを通じて、被災地支援に取り組んできました。

「起きてしまった震災。その後のことを、皆さんで協力して立ち上がっていかないといけない。野球教室など、微々たるものかもしれないですけど、協力できるものがあればぜひしたい、という考えでやっています。子どもたちには、まずは笑顔になってほしい。そして、逆に僕も笑顔をもらっているので、お互いの笑顔があればそれでいいかなと思っています。」

支援活動への思いについてそう語った上原投手。
震災の一報を聞いたのはアメリカ。チームメイトからその知らせを受けたと言います。

あれから5年。
トップアスリートとして活躍する中で、しかも遠く離れたアメリカを拠点にしているにも関わらず、変わらず支援を続ける上原投手が、今、被災地の人々に伝えたいこととは。

「もう5年経っていますから、悩むことなく、前に前に進んでいってほしいなと思います。弱い部分は出していっていいと思うので、助けたり助けられたりという人と人とのつながりですから、みんなで協力して、これからももっともっと町が良くなっていってほしいなと思います。」

そして。本日冬季大会が開幕するいわて国体については、こんな考えを話してくれました。

「国体が行われるということはすごいこと。間違いなく成功するとは思いますが、もっともっとこれから盛り上げていって、みんなで協力することで成功していくような、そんな大会になってほしいなと思います。」

インタビューの中で上原投手が繰り返し使った「笑顔」と「協力」。上原投手は言葉だけでなく、野球教室を通じて、子どもたちと「笑顔」を交わし、復興に向かって「協力」する姿勢を、身をもって示し続けているのです。

そんな上原投手も応援している「希望郷いわて国体」の冬季大会は、本日1月27日に開幕します。両大会の成功に向けて、トヨタ自動車はスポーツ交流やボランティアなど、様々な支援活動を行い、大会を盛り上げていきます。

今回の取組を含めたトヨタの様々な社会貢献活動の様子は、トヨタのソーシャルアクション「トヨタマゴ」のサイトから発信されていきます。詳細を知りたい方は、「トヨタマゴ」で検索してみてください。

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2016年1月26日

1月26日 いわて国体 フューチャーアスリート(2)

『LOVE&HOPE 〜ヒューマンケア・プロジェクト〜』。
今週は「LOVE&HOPE いわて国体 フューチャーアスリート supported by TOYOTA」と題してお送りします。

いよいよ明日、いわて国体・冬季大会が開幕します。今週は、東日本大震災を乗り越え、東北各県からこの大舞台に立つ、若きアスリートにスポットを当ててお届けしています。
今朝はご紹介するのは・・・!

宮城県石巻市出身、盛岡中央高校1年 野々村光純選手。
「少4の時に石巻のリンクでスケートを滑っていたら、かっこよく滑っている人を見て、それがアイスホッケーだと知ってアイスホッケーを始めました。」


氷の上の格闘技・アイスホッケーで初の国体に挑むのは、野々村光純選手。実家が宮城県石巻市雄勝町のお寺で、お父さんは住職という野々村くんは、小学5年生の時に東日本大震災を経験しました。

◆雄勝小学校で被災「死ぬんじゃないかと思った…」
理科室で授業を受けていたら揺れがあって、すぐに校庭に避難して、津波が来るということになったので裏山に逃げました。黒い水みたいなのが見えて死ぬんじゃないかと思いました。すごい衝撃的でした。自分の家も流されて。自宅とお寺は形が一応残っていて、使えそうなものが残っていたのでまだいいかもしれないけど、土台しか残らなかったという人も多くて、自分たちはまだ幸せな方だなと思いました。


とはいえ実家は全壊。避難先を転々とする生活が続いたと言います。
それでも野々村くんはアイスホッケーを続け、中学では仙台の名門チームに入団、宮城県選抜に選ばれるほどのプレーヤーに成長しました。そして、それを陰で支えたのが、お父さんでした。

◆父親が後押し
やめようと思ったんです。やっている暇じゃないくらい親も忙しいのを見ていますし。まず道具も無いし。親にやめようと言ったら、「そんなのは気にしなくていい。道具なんて買えばいい」ホッケーの練習はだいたい夜なので、「夜はおれも空いているから続けていいよ」って言ってくれました。だからいまも続けられている。やるからには結果を残したいなと思いました。


仮設住宅のある石巻市・雄勝から、練習場所の仙台までは、車で50分。お父さんの支えがなければ、アイスホッケーを諦めていたと言います。

そして現在、野々村くんは親元を離れ、盛岡で寮生活を送っています。高校卒業後は仏教を学び、雄勝でお寺を継ぐつもりです。震災前はあまり興味がなかったお寺の仕事、そしてお父さんや故郷への素直な気持ちを、野々村くんはこう打ち明けてくれました。

◆親や雄勝に貢献したい
その頃から親の仕事とかを見て、自分が生まれ育った街でお世話になった人たちに尽くしたいなと思いました。とにかく雄勝も結構津波の犠牲者、行方不明者を出したので、雄勝内には他にもお寺があって、そのうちの一人のお坊さんが亡くなって、その地区の檀家さんを供養して手伝いを少ししていました。雄勝で育ったので、もっと親や雄勝に貢献したいなと思いました。


宮城県石巻市雄勝町出身、盛岡中央高校1年。アイスホッケーで国体に出場する野々村光純選手の声でした。

◇野々村選手の出場する試合は28日(木)「岩手県 対 福岡県」。
 これに勝つと準々決勝で北海道と対戦します!頑張って!

「いわて国体・冬季大会」の公式サイト
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野球上達と復興の共通点「キャッチボール」の重要さ
―トヨタ自動車株式会社プレゼンツ ボストン・レッドソックス上原浩治
恩返し 夢教室 in 岩手 希望郷いわて国体・希望郷いわて大会の成功に向けて―


雲一つない冬晴れの青空が広がった1月17日日曜日。
雪に覆われた岩手山を望む、滝沢市の岩手産業文化センターアピオに岩手県全域からおよそ300人の野球を愛する小学生が集結しました。

子どもたちが目を輝かせて待っていたのは他でもない現役メジャーリーガー、ボストン・レッドソックスの上原浩治投手。

この日は、1月27日に冬季大会が開幕する「希望郷いわて国体・希望郷いわて大会」の成功に向けて、大会を支援するトヨタ自動車による上原選手の野球教室、「恩返し 夢教室 in 岩手」が行われました。


震災以降、折に触れて被災地の子どもたちへ笑顔を届けてきた上原投手。
両大会を支援するトヨタ自動車やトヨタ自動車東日本の、野球部で活躍するメンバーとともに、子どもたちに直接指導を行いました。

子どもたちへの挨拶を終えて、最初に行われたのは、上原投手が野球をする上で最も大事だと考えている、一番の基本「キャッチボール」

「ちゃんと相手が捕りやすい胸に投げることに集中すること。
キャッチボールをおろそかにする人はうまくなれない」

真剣な言葉に子どもたちの表情も引き締まります。


会場の中を移動しながら、目についた小学生に近づいては気さくに話しかけて、ワンポイントアドバイス。

その後は各チームのバッテリーを集めての指導もありトヨタの野球部員とともに、たくさんの子どもたちの力になる言葉をかけ続けました。

練習の後は、トークショーを開催。
プロ野球選手を夢見た小学生だった頃から、高校では試合に出られなかった経験、そして、大学入学前の1年間送った浪人生活とその頃にしていた警備員やスーパーでのアルバイトのことなど、自身の挫折も赤裸々に語り、野球の話だけにはとどまらない幅広い内容と、そこから甲子園や大学野球で活躍してきたエリートたちに負けたくないと頑張ったエピソードなど、野球選手という夢を追う子どもたちにエールを送りました。

さらに、会場の子どもたちから直接質問を受ける時間も!
ピッチャーに一番大事なことを問われた上原投手は、
「一番大事なのはスピードやパワーじゃなくてコントロール。そのコントロールを良くするために一番大事な練習は、これもまた『キャッチボール』。ちゃんと相手の胸に返そうと繰り返し練習することで上達するもの。相手のことを思いやる気持ちが必要であることは、普段の生活も一緒で、それこそ復興のために協力することも、お互いの思いやりが必要なこと。」と答えました。

そして、「これから開かれる国体はすごい選手がたくさん来るので、ぜひ生で観に行ってほしい。自分もアメリカでアメフトなどを観て刺激を受けるので、野球じゃなくてもいい。」
と語りかけ、子供たちは、一線で活躍する現役プレーヤーの言葉を聞き逃さないようにと真剣な顔で耳を傾けていました。

最後は各チームで記念写真を撮って野球教室は終了。
貴重な体験は子どもたちにとって一生の思い出となり、夢を追いかける背中を押してくれる経験となったのではないでしょうか?

そんな上原投手も応援している「希望郷いわて国体」の冬季大会は、1月27日に開幕します。
両大会の成功に向け、トヨタ自動車はスポーツ交流やボランティアなど、様々な支援活動を行い、大会を盛り上げていきます。

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2016年1月25日

1月25日 いわて国体 フューチャーアスリート(1)

『LOVE&HOPE 〜ヒューマンケア・プロジェクト〜』。
今週は「LOVE&HOPE いわて国体 フューチャーアスリート supported by TOYOTA」と題してお送りします。

あさって27日に開幕する「第71回国民体育大会・希望郷いわて国体」冬季大会。【東日本大震災からの復興】を旗印に、東北各県からもたくさんの選手がエントリーしています。今週は震災の経験を乗り越えて、「いわて国体」に出場する若きアスリートに注目します!

今朝はご紹介するのは・・・!

宮城県仙台市出身、宮城県工業高等学校1年、佐々木那奈子選手。
スケート、ショートトラック少年女子の部に出場します。お父さんの賢二さんも国体入賞経験を持つ現役のスケート選手で、
宮城県工業高校、そして県のコーチを務めていらっしゃいます。

今回は仙台近郊のスケート場で、お話を伺いました。那奈子さん、スケートをはじめたきっかけは、やはりお父さんお影響が大きかったようです。

◆タイムが伸びて滑るのが楽しくなった
那)小学1年生のときからはじめて、きっかけは父がスケーターをやっていたこと。それに混ざって練習を見たり、ちょっと滑ってみたりして。
賢)自分も小・中・高・大学とスケートをやっていた。自分が世界にいけなかったということもあって、それを子供に託したというというところもあった。
那)本格的にやろうと思ったのは小学4年くらい。なんかすごいタイムが伸びた時期があって、その時期に滑るのが楽しくなっちゃって、ちゃんとやろうかなと。

 
那奈子さんが、“本格的にスケートに向き合おう”と思った矢先に起こったのが、東日本大震災。那奈子さんは当時小学校5年生。
主な練習場所だったアイスリンク仙台は被災して営業停止になり、思うように練習ができない日々が続きました。

◆練習ができない日々
那)リンクが使えなくて、全く練習できないまま大会に出たりとか、そういう感じだった。大変なこととはあまり思ってなくて、ただ使えないんだなあと残念に思っていた。当時タイムが全然伸びなくて、もう練習したくないと思っていた時期だったので、そんなにもやもやしたりとかはしなかったです。ずっと滑ってなかったから、久しぶりに練習したときには、「ああスケートっていいな」と思ったりはしました。


「震災による大きな影響は受けていない」と話す那奈子さんですが、仙台市は沿岸部と内陸部で被害の状況が全く異なりました。お父さんでコーチの賢二さんは、「周囲が支援を受けながら生活する中で、スケートに打ち込むのはとても難しい状況だった」と振り返ります。練習不足で、ぶっつけで試合にのぞむうち、那奈子さんはケガにも見舞われ、中学2年生までは、なかなか調子を上げることができませんでした。

そんな那奈子さんの気持ちを奮起させたのが、2014年ソチオリンピックの視察!世界レベルの滑りとオリンピックの雰囲気を体感して、選手としての自覚が芽生えます。いまの目標について、聴きました。

◆国体では決勝まで残れるよう頑張りたい
那)いまの目標は(の)強化指定選手に残ること。強化指定選手に残るためには全日本ですごく上のほうにいないといけないので。あと7番くらいまで順位を上げないといけないので、いつも予選で落ちてしまうが、準決勝や決勝までいけるように頑張らないと。国体は中3のときも出たが、去年はあまりいい結果が出せなかったので、今年は準決勝や決勝まで残れるように頑張りたい。今年はちょっと調子がよくなったので、頑張ればいけるかなと。
賢)今年はスピードも出て、すべりにも安定感が出てきたので、チャンスをつかめれば上位までいけるのかなと。なかなか経験が少ないところもあるが、あとは本人の意気込みで上位を狙ってもらえればと思う。


那奈子さんは、開幕日27日(水)に行われるショートトラック少年女子1000メートルと、28日(木)の500メートルに出場。「上位8名による決勝までなんとか駒を進めたい」と話していました。頑張って!

あすの『LOVE & HOPE〜いわて国体 Future Athlete』、アイスホッケーに出場する、宮城県石巻市雄勝町出身、盛岡中央高等学校1年、野々村光純君のインタビューをお届けします。

「いわて国体・冬季大会」の公式サイト
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復興国体、成功へ こころひとつに
―「2016希望郷いわて国体・2016希望郷いわて大会」応援イベントレポートー


1月16日土曜日。希望郷いわて国体の冬季大会の開幕が近づく中、東京・お台場にあるMEGA WEBで、その応援イベントは行われました。

イベントは岩手県からやってきた「さんさ 華の連」による盛岡さんさ踊りで華々しく開幕。いわて国体・いわて大会の公式マスコット「わんこきょうだい」も駆けつけ会場を盛り上げました。

イベントでは、岩手県達増拓也知事が震災以降、初めての被災県での開催である「希望郷いわて国体・希望郷いわて大会」の成功に向けた意気込みを語り、トヨタ自動車の早川茂専務は、モノづくりを通じて東北の復興に尽力してきたトヨタ自動車が、スポーツ交流などを通じて、両大会をサポートしていくことを約束しました。

そして!スペシャルゲストとして登場したのは、ボストンレッドソックスに所属する現役のメジャーリーガー上原浩治投手と、実はかつて少年男子テニスのダブルスで国体優勝経験があるタレントの杉村太蔵さん。二人は、それぞれの体験などを交えながら、スポーツが持つ力について熱く語りました。特に、これまでも野球教室などを行って被災地の子供たちと触れ合ってきた上原投手は「まずは子どもたちに笑顔になってもらえれば。」とその支援活動の意義について、思いを述べました。

トークショーの後は、応援会場内にある、ピッチングアトラクション「ストラックアウト」のブースへ移動。この日のために、震災で大きな被害を受けた岩手県の陸前高田市、大船渡市、そして復興支援の拠点となっている住田町で野球、バレーボール、バスケットボールをしている小学生たちと直接触れ合いました。

最後は、いわて国体・いわて大会開幕に向けてカウントダウンラッピングを施した、岩手の工場で生産されているトヨタ「アクア」の前で記念撮影。イベントは和やかで温かみのある雰囲気の中で幕を閉じ、両大会の成功に向けて一丸となった思いが、会場を訪れた多くの人に届いたことでしょう。

「希望郷いわて国体」の冬季大会は、いよいよ1月27日に開幕します。両大会の成功に向けて、トヨタ自動車はスポーツ交流やボランティアなど、様々な支援活動を行い、大会を盛り上げていきます。

今回の取組を含めたトヨタの様々な社会貢献活動の様子は、トヨタのソーシャルアクション「トヨタマゴ」のサイトから発信されていきます。詳細を知りたい方は、「トヨタマゴ」で検索してみてください。

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2016年1月22日

1月22日 新たな情報発信基地「釜石PIT」2

今朝も昨日に引き続き、岩手県釜石市にオープンしたライブ施設「釜石PIT」の話題です。

エンターテインメントを通して被災地を応援しようと、一般社団法人チームスマイルが岩手県釜石市の中心部に1月9日、「釜石PIT」をオープンさせました。この釜石PITを企画・運営するのは、釜石まちづくり株式会社 井筒健太郎さん。釜石出身、30歳で地元に戻ることを決意し、東京からUターンしてきました。

そんな井筒さん。釜石の未来について、「3月10日に戻すのではなく、子どもたちに夢を与えられるような街に作り変えたい。」とその夢を語ってくれました。

◆地元の高校生によるワークショップ「地元愛」
市民ホール自体が被災してしまったので人が集まれる場所というのが高校の体育館ぐらいしかなかったので、市民が気軽に集まれる場所ができたのが震災後ここがはじめてになる。釜石PIT、着席で160名収容でき、255インチの大型スクリーンと、高機能プロジェクタを備えているので、ライブだけじゃなくて、会議だったりセミナーだったり、映画館の代わりにもなりますので多目的な利用方法が考えられる。例えば岸谷香さんが来るとかゴスペラーズが来るとかもあるが、そうじゃなくて釜石らしさを発信していくような施設にしたい。釜石は海の幸が美味しいので、有名アーティストと行くワカメ採りツアーをやった後にライブをやったり、そういった海山を活用しながらもっと釜石をアピールできるイベントを組んでいきたい。
(ライブとかもそうだけど、地元の方が集まる憩いの場にもなったらいい?)
いろんな芸事の発表会とか写真展とかで地元の人が集まって、地元釜石の発信能力の向上になればいいと思ってる。
(震災前はもともと釜石は縮小ぎみだった、井筒さんご自身も高校卒業後一度東京へ行かれたということで、これから釜石の子供たちが高校卒業して一旦釜石を出たとしても、また戻ってきてほしいという思いがあるのかなと思いますが、そういう子たちにはこの釜石PITどんな風に活用してほしいですか?)
私も今地元の高校生を相手に「地元愛」釜石の良さを再発見してみようよというワークショップを行っている。例えば釜石のシンボルは何?>海 海の産業は?>漁師さん 後継者がいない。どうしたらいいと思う?>きちんとお給料がもらえて働くことができれば漁師さんやる。きちんと生活の基盤ができるくらい収入を得られるためにはどうしたらいいかということを一から考え直すワークショップをやっている
(子供たちの反応は?)
興味ある子はいます。釜石には高校生以上の学校がないので高校生から上の年代がガラッと空いてしまう。できることなら釜石を離れたくないという高校生もたくさんいる。だけど限られた業種でしか釜石に残ることができないので、そうじゃなくて幅広いお仕事ができるような、みんなが笑顔でいられるような町になればいいなと思います。


「地元愛」という地元を再発見するワークショップ、いいですね。ワークショップがきっかけにして、高校卒業後いちど町を離れたとしても、いつかは釜石に帰ってきて「釜石をなんとかしたい」という人が一人でも多くなればいいなと感じるお話しでした。
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「LOVE&HOPE」、来週は「いわて国体」に注目!震災の経験を乗り越えて出場する、若きアスリートの声をお届けします。

2016年1月21日

1月21日 新たな情報発信基地「釜石PIT」1

エンターテインメントを通して被災地を応援しようと、一般社団法人チームスマイルが岩手県釜石市の中心部に1月9日、「釜石PIT」をオープンさせました。ライブのほか、映画上映や首都圏での音楽ライブビューイング、また市民の発表の場としても利用でき、幅広い活用が期待されます。

チームスマイルの代表 いわき市出身の矢内廣さんに伺いました。

◆エンタメが心の復興になれば
やっと釜石PITがオープンというのは私にとってはとてもうれしい。感無量です。
(震災から5年を迎える中で、エンターテイメントが持つ力がこれからの復興にどう役に立つと思うか?)
復興というのは地元の方たちが両足で立つんだという気持ちを持つことが一番大事。東京からいろんなエンターテイメントのコンテンツをここへ持ってきます。ですけど、それだけではいけないと思っている。この場所を地元の人達がいろんな形で楽しめたり、子どもたちが元気になるようなイベントを作ったり、そういう自分たちも夢を実現できるんだ、ということを、喚起してくれるのがエンターテイメントや文化だと思ってる。そういう心の復興というのは、価値のある、力のあることだと思っています。



この釜石PITを企画・運営するのは、釜石まちづくり株式会社 井筒健太郎さん。釜石市出身、30歳で東京からUターンしてふるさとに戻り、町づくりに関わるNPOにつとめていました。

◆3月10日に戻すのではない
震災当日は、ここ情報交流センターの近くにあった病院でセミナーをしていた。車を取りに戻ろうかどうか迷ってた時にちょうど、保育園の園児たちが避難しようとしていたので一緒に手をとって子どもたちと山へ登った。まさか街が全てのまれるとは思ってなかったので、この先どうなるんだろうと思っていたが、自分の生まれた街なので何とかしたいという想いもあった。そんな中でこのPITに繋がるんですけど、東京芸術大学の日比野克彦先生との出会いがあり、お酒を飲んだりしながら未来の釜石について語りあったりした。釜石はもともと高齢化が進んで、新日鉄も縮小化していく中で人口も減少していく状況にあった。それで震災が来たからといって3月10日に戻していいのか、3月10日よりもっといい街に作り変えなきゃいけないんだ、ということを日比野さんに強く訴えた。それに日比野さんも感動していただいて、子どもたちに夢を与えられるようなものが何か欲しいな、という話をずっとしていました。



今朝は1月9日、岩手県釜石にオープンした「釜石PIT」。PITは「Power into Tohoku!」(東北に力を)の略です。
PITは、東京の豊洲、福島のいわきに続き釜石が3か所目で3月には仙台にもできる予定です。

外壁はアーティスト日比野克彦さんの監修で、全国から送られてきたハートマークがコラージュされています。
明日も引き続き、釜石PITについてお伝えします。

2016年1月20日

1月20日 富岡レインボーステーション3

今日も、福島県富岡町の小学生がつくるラジオ番組の話題です。

震災による原発事故の影響で、富岡町から避難し、現在は福島県三春町にある仮校舎に通う子供たち。小学5年生の授業の一環としてラジオ番組づくりを行い、町の臨時災害FM「おだがいさまFM」で放送しています。

番組の名前は「いまこそ発信レインボーステーション!」。今年度は10代から80代まで、富岡出身のさまざまな世代の人に直接インタビューをしています。

今日はその中から、第6回目の放送。20代の長沼蘭さんへのインタビューです。長沼さんは富岡町桜地区の出身。現在は声優を目指して郡山市内の専門学校に通う傍ら、「おだがいさまFM」でパーソナリティとしても活動しています。

◆レインボーステーション第6回ハイライト
Q。菊地書店はどんなお店でしたか?
A。菊地書店は富岡の中央商店街にありました。小さいときからあって、家族といったり友達と夜の森から自転車で行ったり、よく行ったところでした。漫画やコミック、月刊コロコロコミックなどを買いました。
Q。「いっちゃき」ってなんですか。
A。「いっちゃき」はよのもりのほうにあった駄菓子屋さんの名前です。お菓子をかってその後堤公園のほうにいってお話をしたりしていた。


ラジオ番組づくりを通して、1年間、町の方たちにインタビューした7人の子供たち。担任の松本先生にとっても、ラジオ番組づくりは初めての経験でした。

◆富岡への考えが深まった
わたしたちも普通の教科なら教科書も計画もあるが、なんにもないので、その中で授業したり活動したりするので、子どもたちと一緒にわたしたちも成長した。驚いたり、確かめあったり、疑問を感じたりということの連続でした。もともと素直で子供らしくて元気な子たちだったが、じっくり考えるようになった。考えが深まるようになってきたという印象。去年も富岡町については勉強しているが、そこに「人」「だれだれさんから聞いた」という、住んでいる人にとっては(富岡町が)大切なところだったんだ、これからも大切にしていきたい場所なんだということは大事にしたかった。


そして5年生の感想です。

「わたしたちは5年生の一年間、ラジオ番組づくりを通して富岡町の人たちにいろいろ話を聴いてきました。みんな、ラジオ番組づくりはどうでしたか?」
「わたしは質問して、答えてくださったその答えに対して、また質問できるようになりました。」
「誰にも質問ができるようになってよかったです。」
「いっぱい練習したけど本番になったらダメだったところが難しかったです。難しかったけどまたやりたい。」


富岡町では震災前、町内の2つの小学校におよそ900人の児童が通っていましたが、現在、避難先の富岡小学校三春校に通うのは、15人。来年度は5年生がいないことから、ラジオ番組づくりは一旦お休みになります。

◇「いまこそ発信レインボーステーション」、今年度最後の放送では、富岡出身の10代にインタビュー。1/28(木)に「おだがいさまFM」で放送されます。

2016年1月20日

1月19日 富岡レインボーステーション2

福島県富岡町の小学生がつくるラジオ番組の話題です。

原発事故の影響で「全町民避難」が続く、福島県富岡町。避難先の郡山市で放送を続ける町の臨時災害FM「おだがいさまFM」では、富岡町の小学5年生たちによるラジオ番組づくりをサポートしています。番組名は「いまこそ発信レインボーステーション!」。今年度は10代から80代まで、富岡出身のさまざまな世代の人に子どもたちが直接インタビューしています。

今日はその中から、第4回放送分と第5回放送分のハイライトお届けしましょう!
第4回は、80代代表、ワタナベタダミチさんのインタビュー。ワタナベさんは昭和5年生まれの86歳。昭和初期の富岡の様子とは?

そして第5回は、40代代表で、TOKYO NO.1ソウルセットのメンバー、渡辺俊美さん。俊美さんはふるさと富岡の桜の名所、「夜の森(よのもり)」の思い出です。

◆レインボーステーション第4回ハイライト
Q。今日インタビューに答えてくださるのは70代、80代の方です。
  初めに富岡町で想い出に残っている場所を教えてください。
A.わたしは昭和11年から15年ころの、あなたたちと同じ生徒でした。富岡町岩井戸という山の中で育ちました。第一小学校まで約5キロの道のり。周囲は松原や原っぱとかいろんなところで、学校では教わらないような自然の教材がいっぱいありました。動物や植物、松山にはリスが松の実を食べにやってきた。そんなところを約1時間半かけて小学校に通っていました。学校から帰るといつも真っ暗でした。
→ とっても昔のことがいろいろわかったので、昔は道具がなくても楽しい遊びをしていたと聞いたので、わたしたちも真似してやってみたいなと思いました。

◆レインボーステーション第5回ハイライト
僕の名前は渡辺俊美といいます。僕は5歳まで川内村に住んでいて、小学校に上がるときに富岡第二小学校に移り住んで、18歳まで富岡町に住んでいました。うちのお母さんが小学校の先生だったので、自分も小学校の先生を目指したんですが、なぜか皆さんと同じ小学校4年生、5年生くらいのときにギターに出会って、大学は東京に行って、音楽のほうがやりたくなって、いま音楽を26年間続けています。
Q。満開に咲いた桜のトンネルはどういうところですか?
A.夜ノ森公園がありまして、僕は富岡第二中学校の裏のほうに住んでいたんですが、さくら通りというのがあるが、ぼくがいたころは夜桜のテレビの生中継とかよくやってたんです。
Q。誰といったんですか?
A.兄弟や友達、あとは東京に行ってから戻ってきたときは仲間など。そこにいくと誰かに会えるので、みんなに会いに行くという感じでした。


渡辺俊美さんのお話に出てきた「夜の森」は、全国有数の桜の名所。震災前は、およそ500本、2500メートルにわたる桜のトンネルを観に、毎年県内外からたくさんの人が詰めかけました。

2016年1月18日

1月18日 富岡レインボーステーション1

今日はこのコーナーで継続的にお伝えしているシリーズ、福島県富岡町の小学生がつくるラジオ番組の話題です。
原発事故の影響で「全町民避難」が続く福島県富岡町。避難先の郡山市で放送を続ける町の臨時災害FM「おだがいさまFM」では、富岡町の小学5年生たちによるラジオ番組づくりをサポートしています。5年生は現在7名。それぞれの個性が生きた番組にしたいという思いを込めて、番組名は「いまこそ発信レインボーステーション!」。10代から80代まで、富岡出身のさまざまな世代の人に直接インタビューするのが今年度の目標で、先週、ついに最終回の収録が終わりました。今日からの3日間は、子供たちの一年間の成長を、ラジオ番組を通して、お伝えしていきます。

まず今日は、去年9月に放送された、第3回目の放送分の一部をお届けします。子どもたちがインタビューするのは、60代の代表、サトウカツオさん。サトウさんは〔サクラスポーツクラブ〕に所属、仮設住宅などで暮らす町民に、健康体操の指導を行っています。メインインタビュアーはミツヒコ君とマユちゃんです。

◆レインボーステーション第3回
Q 合宿の里ってどこにあるんですか。
A 富岡町のスポーツセンター、みなさん覚えてないかな〜。体育館とかテニスコートなどがあって、その隣に合宿センターというのがあったの。東京大学や慶応大学とか大学の皆さんが来て、野球の合宿で10日間合宿をしていた。皆さんのお父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃんに聴くとわかるかもしれない。大学の応援合戦もあって、すごかった。大学の応援団の皆さんが一堂に富岡に来て、「オッス!」という掛け声で、まだまだ日本人大丈夫!という感じでわたしも元気づけられて、富岡は「合宿の里とみおか」としてやっていた。一年に一回10月になると、東京6大学の応援団が集まって富岡体育館で応援団フェスティバルというのもあった。富岡の皆さんが集まって、ステージを使って各学校の応援学校の応援合戦を見る、というもの。おじいちゃん、おばあちゃんも観たことがあると言う人もいると思うので、ぜひうちに帰って聴いてみてくださいね。


前年度の5年生は3人でしたが、今年度は7人。番組制作も前年度とはだいぶ勝手が違ったようです。子どもたちのラジオ番組づくりをサポートしている、「おだがいさまFM」の久保田彩乃さんに、お話を伺いました。

◆「子どもたちにふるさとのことを伝えたい」
昨年の5年生と違い人数が多い7人だったが、見事に一人ずつ個性を発揮してくれた。明るい元気の子がいれば、ちょっと奥で考えてじっとしている子もいるし、インタビューが苦手な子、得意な子もでてきて、やっているうちに子供たちも自分の得手不得手がわかってきて、
番組を通して彼らが進化したような感じ。
ただ楽しいだけの子どもたちだけの番組でなく、子どもたちからの発信だけでなく、富岡について大人たちから子どもたちに伝えたいこともあると思うので、大人と子どもが相互に発信できるような番組づくりを心掛けた。おだがいさまFMの原点「富岡町のラジオ」ということがうまくとりこめて、作れたんじゃないかと思います。


現在の5年生は、震災当時、幼稚園の年長組だった子どもたち。ふるさとの記憶が徐々に遠くなる中で、この番組は町のことを知る大事な機会になっています。

2016年1月14日

1月14日 気仙沼 すがとよ酒店4

気仙沼・鹿折地区、「すがとよ酒店」は、津波の被害を受け、現在は元のお店から数キロ離れたプレハブの仮設店舗でご商売を続けています。

気仙沼では、住宅再建のための土地の造成、災害公営住宅の整備が徐々に進んでおり、すがとよ酒店も、いよいよ新しいお店での再出発が近づいています。すがとよ酒店のおかみさん、菅原文子さんのお話です。

◆「点」が増えて「面」になる
こないだなんか私たちの住んでいた地域が消滅したんです。危険地域で住めないので。90世帯あったんですけど、もともとの鹿折地区に残ったのは3世帯か4世帯。みんな散らばってしまって。地元に帰れそうではありますが、お店を建てたとして果たして人のいないところでやっていけるのかという問題がある。じゃあどうするか。ものを売るだけじゃなく、もっと別の思いを共有できるお店にしたいと思ってね。2階にピアノを置こうとか。6万5000人くらいしかいない気仙沼にはおかげさまで、両国酒造と男山酒造という立派な美味しいお酒を作る酒蔵がある。南部杜氏が品評会で金メダルを取るような良いお酒を造っている。ピアノの生演奏があるようなところでお酒の試飲会をやったり、楽しむ会をやったり、遠方から訪ねてくる方々に気仙沼のいろんなことをご紹介しながら商いができたらね。新たな夢ですね。そういうものをやっていけたらと思うし。ご覧の通りまだまったくかさ上げ工事中のところもあって、橋や道を作ろうと頑張ってはいるが、面でどうぞいらっしゃいと受け入れるのは時間がかかる。点として我が家があったり誰かのお店があったりする。その点がどんどん増えたら面になるから、何年かかるかわからないけど、その「点」として戻ろうとして、その青写真の設計図を造っている最中です。


ただ、鹿折地区に40店舗ほどあった商店街は、廃業や移転が相次ぎ、結局残るのは10店舗程度だそう。立地条件など様々な問題もあると言います。ですから菅原さんは、「経済的な状況もそれぞれ違う。みんなで頑張りましょう
とは言えない」として、商店街から独立してお店を再建することにしたと言います。

また、本来 行政から引き渡される土地では時間がかかるため、お店をいち早く再開できる「別の土地」で、ご商売を再開する予定です。不安を感じながらも、菅原さんは「とにかく、ウチはやるんです」と前を向きます。

◆あの日までの想いを胸に
11月6日に鹿折地区の街の重要なまっすぐな道路があさ6時に開通して、私はその日6時前に行って待っていたの。様々な思いがこみ上げて、工事関係者の見守る中で、まだ朝日も登っていなくて、私も万感の思いだった。これからこの街が新しくなると思って。勝手に「希望の道」と名前をつけてね。本当に嬉しくて。これがこの街の夜明けだと思って。とにかくこの街とともに、もうちょっとでお店も100周年になるし。亡くなったじいちゃんばあちゃん、商店街のみんなもね。商店街でも17人くらい亡くなったかな。私の頭の中にも、息子の頭の中にもあの町はあるのね。だからまた、新しいものだけどあの日までの思いを大切にして、ここでまた再出発だなと思って。おじさんたちにありがとう、道を作ってくれてありがとうって呟きながら走りました。ワクワクドキドキ。でもお客さんくるかな・・・(笑)


菅原さんは、「今年の年末には、もうお店も大丈夫になっているはず」とおっしゃっていました。ゴールデンウィーク過ぎには、土地が引き渡され、お店の再建が始まるということです。



2016年1月13日

1月13日 気仙沼 すがとよ酒店3


気仙沼・鹿折地区、「すがとよ酒店」のおかみさん菅原文子さんは、震災と津波で、夫の豊和さん、そしてそのご両親を失いました。豊和さんはお店の2階へあがろうとする途中で、津波に連れ去られ、そのまま行方不明になってしまいました。

そんな中、文子さんは、ご商売を再開することを決意をしたといいます。

◆酒に託した「負げねえぞ気仙沼」
涙がでなかった。お父さんもじいちゃんもいなくなってどうしていいかわからなかったし、主人が行方不明ということもあって凍りついたようになんの感情もなくどうしていいかわからない状態になってしまった。息子たちは毎日のように「親父を探すんだ」と潰れかけたお店でがれきの中を探したりする毎日だったが、私は自分がこれからどうやって生きていくかを考えて、町も無くなりお得意さんも亡くなった中で、私に別の生きる道なんてあろうはずがないし、これまでやってきたことをやるしかないと考えた。ちょうどその時に息子が「うちのお得意さんが、みんな集まって泣きてえんだ、酒もってこいって言っているけど、お袋どうする?」っていうから、そうだ、なんだかわからないけどやろうと。小さな13坪の土地に3坪のプレハブを置いて、気持ちを切り替えた。そうしたら何も怖いものはなかった。失うものはないし裸一貫でなんでもやれると思った。ゴールデンウィークの頃に、「まげねぇぞ気仙沼」って書いたラベルを張ったお酒を並べたら、どんどんそれが広まって、メディアの人も全国に広めてくれて、全国から発注がくるようになって、泣いている暇もなかった。必死になって働いてね。でも気持ちの中には、お父さんがいない、おとうさんどこいったのと思い続けて、なんとも言えない月日だった。そんな中でご縁があって、大切な人に手紙を書こうという企画をやっているのを勧められた。「あなたの悲しみも手紙に書けばいくらかは悲しみが癒されることがあるんだよ」と勧めてくれた。それでお盆過ぎに主人にむけて手紙を書いたんです。11月に「あなたへ」という恋文が大賞を頂いた。


2011年の11月。菅原文子さんがつづった手紙は、京都の老舗紙問屋が主催する「恋文大賞」で、9000通の応募の中から大賞を受賞。今回、そのお手紙の一部を、ご本人にあらためて朗読して頂きました。

◆「あなたへ」
あなたへ。ひぐらしがうるさい位 鳴いています。きょうは八月二十一日。お盆を過ぎて町は静かになりました。あなたが突然いなくなって五カ月と十日。もう五カ月、まだ五カ月と、とても複雑です。あの日、忘れようにも忘れられない東日本大震災が起きました。あなたは迎えに行った私と手を取り合った瞬間、すさまじい勢いで波にのまれ、わたしの目の前から消えました。あなたは一体どこへ行ってしまったのでしょう。季節の巡りは早く、まもなく涼風が吹いて秋がやってきます。願わくは寒くなる前に、雪の季節が来る前におかえりください。なんとしても帰ってきてください。家族みんなで待っています。わたしはいつものようにお店で待っています。ただただひたすらあなたのおかえり、待っています。
平成23年8月21日 菅原文子  菅原豊和さま


この手紙を書き上げた翌年、2012年6月。夫の豊和さんはご自宅から数分のがれきの下で発見されたということです。また、文子さんがご商売を1か月半で再開できたのは、豊和さんが、最後まで店を守ろうと、お店のシャッターを閉じてくれたことで、お酒が流されず、一部残ったからなんだそうです。

あしたも、菅原文子さんのお話をお届けします。

2016年1月12日

1月12日 気仙沼 すがとよ酒店2


気仙沼・鹿折地区で90年以上ご商売を続ける「すがとよ酒店」。
菅原文子さんとご主人、そしてその長男・次男夫婦は震災前、まさに家族総出で、このお店を盛り立てて行こうと動き出したばかりだったと言います。そんな中、気仙沼はあの大震災と津波に襲われました。菅原文子さんは、ご自身の津波体験をこう振り返ります。

◆主人の手を取った瞬間に津波が
津波があったとき私は家にいて、じいちゃんばあちゃんは昼寝の時間で2階にいた。あんな大きな揺れがきてどうしようもないから、息子たちは自分の子供たちの安否を保育園や小学校へ見にいき、主人はご近所や店を見回った。そんなのはいいから早くお父さん2階に上がってよって言った。2階にじいちゃんばあちゃんがいて、逃げるという感覚がなかった。まさかあんな大きな波がくると思わないから2階にいれば大丈夫だろうという考えだった。その時に市の広報で「大津波警報」が出た。大津波という言葉を聞いたことがなかったがどうしようもない。祖父祖母もぱっぱと歩けるわけじゃないし。そのうちに、お父さんはいつまで上がってこないんだろうと思って窓を見たらお店に入ってくるのが見えたので、ああよしよしと思ったが、なかなか上がってこない。うちは2階が玄関なので靴を履いて下に降りて行った。階段の下から5段目くらいに降りたらもうすでに水が来ていた。ふとみたら主人が倉庫からやってきたのだが、水位がどんどんあがり、主人は腿あたりまで来ている水をかき分けるように来たので、早く早くと急かして主人の手を取った瞬間に大きな波が来て、主人は持って行かれてしまった。私も腰から波をかぶり駆け上がって玄関の戸を閉めたが、波が階段を駆け上がるようだったので、屋根に続く階段を上った。振り向きながら、2階に残ったじいちゃんを呼んだのだが、じいちゃんは「早く行け」と言っていて、その姿が最後だった。私は屋根の上で、周りは火の海の中で一晩過ごした。爆発音が聞こえたりしたが幸いにも我が家には火は燃え移らなかった。怖いとも悲しいともなんの感情もなかった。妙に月や星が綺麗だなと思ったりして。次の日の夕方に息子が迎えに来てくれて、「じいちゃん、ばあちゃん、親父は」と聞くので、お母さんしか生きていないと言って・・・。日が落ちる前に一度屋根から降りた時、じいちゃんは2階の窓際で冷たくなっていた。じいちゃんごめんねと言って、こんな状態だからばあちゃんもどこかで亡くなっているのだろうと、すぐに上に上がってしまった。それを息子に告げると、次男は「あした必ず助けに来る」と言ってくれたが、もう私は嫌だ、ここを出ると車を乗り越えたりひっくり返った家の屋根をよじ登ったりして、向こう岸にたどり着いた時には日が暮れていた。次の日の夜明けに、川の上流にある長男の実家に軽トラックで移動・避難したのだが、お嫁さんが「生きていた」と泣いてくれて。絶対この家族から離れるものかと感じた。


気仙沼市を襲った津波は、最大でおよそ20mの高さだったと言われています。
「まさか、そんな大きな津波が来ると思わなかった」「2階にいれば大丈夫だろうと思った」。大変 リアルな証言でした。ただ、そんな状況でも菅原文子さんは、この日から1ヶ月半で、お店を再開させたと言います。あしたも、菅原文子さんのお話をお届けします。

2016年1月12日

1月11日 気仙沼 すがとよ酒店1

今週は、宮城県気仙沼市から、一軒の酒屋さんの「復興」へ向けたストーリーです。

お話を伺ったのは、気仙沼にある「すがとよ酒店」のおかみさん菅原文子さん。
震災と津波で、自宅兼お店は全壊となり、現在は、元のお店から数キロ離れた仮設のプレハブ店舗でご商売を続けています。あの津波で、お店とご家族を失った当時、菅原さんはこんなことを考えたと話します。

◆100年の歴史を持つ町の酒屋
わたくしの店は「すがとよ酒店」という気仙沼市鹿折という町の酒屋さんです。あと4年で100周年。震災で二代目の父と母と、主人を亡くしてしまったんですが、小さなお店だけれどもずっとこれまで先人たちが守ってきた我が家・店をなんとか続けたい、繋げたいと思って。私には息子が3人おりますので、次男は小売店を守るということで仙台から戻ってきました。私たち家族にしたら一大決心だった。あの頃は自分としては正常なつもりではいたんだけど、すごい張り詰めているというかたくさんの人に「頑張って下さい」と言われて、頑張って下さいという言葉に潰されそうでしたね。

 
震災の直前、すがとよ酒店は、文子さんとご主人、ご長男夫婦、さらにお店を守りたいと仙台から戻ってきた次男夫婦で、お店を盛り立てようと動き出したばかりだったと言います。その背景には、個人経営の、いわゆる「地元の酒屋さん」を取り巻く、厳しい環境がありました。

◆マグロ漁船とともに生きてきた
私が嫁に来た当時なんかはマグロ漁船が多かったんです。マグロ船というのは日の良い日に出るんですよ。そういう時は港に何回も配達に行ってね、「祝 大漁」って熨斗紙に書いて船頭さんに缶ビール、お船の皆さんにはお酒2本とかね。大安日の時には熨斗紙を描いても書いても足りないくらい港に運びましたよ。それがだんだんマグロ船がダメになって、そういうこともなくなって。マグロ船が1度出港したら乗組員は飛行機で帰ってきて、船は外地の造船所で修理をしたり点検をしたりと言う時代になったんです。だから港がどんどんマグロ船を相手にした商いも寂しくなってきたの。震災の10年〜15年くらい前はそうでした。それから安売りの量販店ができてどこでもお酒が買えるような状況になって、小売店をやっていくというのは本当に大変なことでした。だからあんまり手に入らないようなお酒を持ってきて売るとか差別化をしてきた。次男を呼び寄せたのもネットとかこれからの商いを考えてのこと。それでさあこれから4人でタッグを組んで成果が見えてきたかなというところで震災になっちゃった。あれから4年8か月が経過して、ご存知のようにどんどん状況が変わって。来年はどうやら地元に帰れそう。鹿折地区にお店を建てて帰られそうですが果たして人のいないところでお店をやっていけるのかと言う新しい問題がある。


あしたも、菅原文子さんのお話をお届けします。

2016年1月12日

1月8日 気仙沼 アンカーコーヒー5

今週は気仙沼のコーヒーの名店、「アンカーコーヒー」についてお届けしています。

「アンカーコーヒー」は2005年に気仙沼でオープン。 シアトルスタイルの洗練されたデザインの店舗で 自家焙煎の美味しいコーヒーを提供するお店として人気を集めていましたが、 東日本大震災による津波で本店を含む気仙沼市内の2店舗と焙煎工場が流出。 去年の春に、「マザーポート店」と名付けた本店を再建しました。

気仙沼市は、震災前の市街地はまだ剥き出しの土の上をトラックが走り、復興へ向けての工事が続いています。事業の減少に伴って人口も減少、とりわけ若い世代の減少がほかの被災地と同じく大きな問題となっています。

「アンカーコーヒー」を手掛ける小野寺靖忠さんは、生まれも育ちも気仙沼市。誰よりも気仙沼の復興を強く願っている一人です。変わりゆく中で、残していきたい気仙沼の魅力について、お話を伺いました。

◆海と生きる民
気仙沼に住んでていちばんいいよなあ〜って思うのは、リアス式海岸で、山があってすぐに海っていうのがすごくいいんですよね。車を運転していて、たとえば内湾地区を運転してるときに、曲がり角を曲がったときにすぐ海が見てて、船があって、そこにフェリーがゆっくりと沖に向かっていくような、そういう風景だとか。風がスーッと通って、海猫が囀っているような、そういう所に生活があるという、こういう所で生活するのが文化になっていくんだよな〜という風に思います。
なので出来るだけぼくは海の近くで生きていきたいなと思って。僕、大学がミネアポリスってとこで、海まで車で3日かかるんですね。太平洋に行くのも大西洋に行くのも3日。やっぱ水の近くにいるっていうのがすごく好きっていうか、それを再認識して。しかもそこに潮の匂い、やっぱり僕は太平洋の香りが好きなんだあっていつも、インド洋行った時も大西洋行った時も思うし、僕が好きな海の香りっていうのはここ気仙沼の太平洋のこの香りなんだなって思います。


慣れ親しんだ、海の景色、塩の香り、海猫のさえずり・・
復興へ向けて街づくりが進む気仙沼に、そうした昔の風景が戻ってくるのか?その問いに対して、小野寺さんはこう答えてくれました。

◆気仙沼は「常若」の文化
その風景がもどってくるのかどうか・・・戻らないですよね。やっぱり変わっていくし、同じ風景を取り戻したいっていっても、東京の下町の風景はどんどん無くなっていって、次の新しい東京の風景が生まれてくるんだなって思うんですよ。気仙沼もそれと同じで、気仙沼、何しろ我々は海と生きる民なので、海と生きて津波があって、風が強くて火事があってっていう。気仙沼の文化は常若の文化、常に新しいもの、常により良いものに変化していく、そういう気質があるんだよなって思うので、これからも僕もそういうものなんだと思って、ここにコーヒーショップだとか、景色のいいレストランだとか作って。ぼくはコーヒーショップやってるんですけど、コーヒーを売ってるというよりは、ライフスタイルを販売してるって思ってるし、うちのスタッフにも言ってるんですね。ライフスタイルを売ってるってことの意味は、すべてが重要なんだよって話をするんですね。なので気仙沼だよか三陸沿岸だとかの人たちのライフスタイルをどういう風にしてより良いもの、新しいものとか古いものを尊びながら、どうやってやっていくのかってこと、それに尽きるのかなと。とにかく常若という言葉がぴったりな、自然災害の多い地区なんで、どんどん賢く、どんどんより良く、街づくりをしていくしかないんだよなって思います。


「アンカーコーヒー」は、姉妹店の「フルセイルコーヒー」と共に、宮城県と岩手県で8店舗を展開。
また自家焙煎の商品は、オフィシャルホームページで通販もしています。

2016年1月11日

1月7日 気仙沼 アンカーコーヒー4

今週は気仙沼のコーヒーの名店、「アンカーコーヒー」についてお届けしています。

「アンカーコーヒー」は2005年に気仙沼でオープン。 シアトルスタイルの洗練されたデザインの店舗で 自家焙煎の美味しいコーヒーを提供するお店として人気を集めていましたが、 東日本大震災による津波で本店を含む気仙沼市内の2店舗と焙煎工場が流出。 去年の春に、「マザーポート店」と名付けた本店を再建しました。

「アンカーコーヒー」を手掛ける小野寺靖忠さんは、 アメリカ留学からの帰国後、“無ければ作ろう”と思い立ち「アンカーコーヒー」を立ち上げました。 震災でお店が無くなったあとも、そんな“無ければ作る”という思いが背中を押したといいます。

◆「無いものは有るようにしてしまおう」
基本的に僕の中にある、何か魂の火みたいなのがあって、無いものは有るようにしてしまおう、出来ないものは出来るようにしてしまおうというのがあるんですよ。だからコーヒーショップを作る。今も、気仙沼がどういう形をとるのか分からないですけど、僕の中では世界中の人がここに住みたいって思ってもらえるような、そんな街になっていかないかな〜と思ってますし、どんな逆風は吹いても、なにかしらそういう風にしていかないとなという風に思ってやってました。ただやっぱり、「震災だから何なのさ」っていう意地みたいなのもあって、震災にあうというのは交通事故に遭うのとどう違うのさ、って思ってる自分もいて。もちろんたくさんの人が一気に亡くなっちゃったってのはあるんだけど、それぞれに個人的な災難が起こったっていう考え方も出来るじゃないですか。でも交通事故に遭ったからっていって、「もう車に乗りません」っていうのは違うと思うし、だからこの街に住まないっていうのも違うよなと。どこまでも僕はここで生まれたし、じいさんばあさんもここだし、ほんとにここをどう楽しく生きてて、ここに生まれたことを誇りに出来るような、あるいは「いいね!気仙沼に生まれたんだ!アンカーコーヒーあるとこでしょ?」って言われるような、そういう出来事を増やして行けるように頑張るしかないと思っています。


生まれてきたことを誇りに思えるような街にしていきたい・・・そう小野寺さんが思い描く、これからの気仙沼ですが、いま港の一部を除いて街をぐるりととり囲む、防潮堤の工事が進められています。そうした復興計画について、代々気仙沼に暮らしてきた小野寺さんはどう思っているのでしょうか。

◆海と生きる
気仙沼は「海」なんですよ。海からのめぐみを受けて、今までずっと、めんめんと生きてきたというのがあるので、じいさんも漁師でしたし、もう片方のじいさんは造船関係の鉄工所でしたし、そういう海と関わって海と共に生きる、気仙沼の標語が「海と生きる」、2011年から掲げているんですけど、ほんとに「海と生きる」、このことに尽きると思います。なので、人間は海に寄り添って生きている、人間と海の境界線のところが我々の生活の舞台なんだなって思うし、それが我々の文化だと思います。その海と人間の営みの間に防潮堤が出来て、それで安心感が生まれるっていうのはちょっと違うんじゃないかなって思ってて、高台移転とかで住むところは高いところに移動しますし、出来るだけ危機感を持って生き、危機感を持って子供を教育し、家を建てる工場を建てる土地を購入するって時に、その危機感も感じながら選べるような、そんな港町であって欲しいなって思います。


そんな小野寺さんが手がける「アンカーコーヒー」は、姉妹店の「フルセイルコーヒー」と共に宮城県と岩手県で8店舗を展開。また自家焙煎の商品は、オフィシャルホームページで通販もしています。

2016年1月6日

1月6日 気仙沼 アンカーコーヒー3

今週は、気仙沼のコーヒーの名店「アンカーコーヒー」についてお届けしています。

「アンカーコーヒー」は2005年に気仙沼でオープン。自家焙煎の美味しいコーヒーを提供するお店として人気を集めていましたが、東日本大震災による津波で本店を含む気仙沼市内の2店舗と焙煎工場が流出。去年の春に、「アンカーコーヒー」のフラッグシップでもある「マザーポート店」と名付けた本店を再建しました。

再建場所には被災しなかった内陸部を選びました。資金は民間の被災地応援ファンドなどを活用。海辺のロッジのようなお洒落なデザインで、1階にある焙煎室はガラス張りで、来店した方が見学できるようになっています。

港町・気仙沼の“復興への願い”も込められた「マザーポート店」。しかし震災後、小野寺さんは、とてもこの町でお店を再建できるとは、思わなかったと話します。

◆「場づくり」としてのコーヒーショップ
もうね、ぐちゃぐちゃになった場所を見た瞬間に、これはこの町を捨ててどこかで新しいところで生きなくちゃいけないんじゃないかと、正直、思いました。このごたごたを片付けるのに何年必要だし、これをどかすっていってもどこにどかすのこのがれきの山を?ダメだなって思いましたもんね。当時アンカーコーヒーとフルセイルコーヒーというブランドがあったんですけど、アンカーコーヒー2店舗、フルセイルコーヒー3店舗、5店舗でやってたんですね。アンカーコーヒー2店舗、海の近くにあったんで2店舗とも被災して使えない状態、3店舗はあったんですよ。なのでその3店舗があったおかげで張り合いが出来たというか、それを動かし続けなくちゃいけないし、ここで休んでる場合じゃないんだっていうところもあって、で気仙沼で働いていた人たちも、一店舗、車で40分くらいかかるところ、岩手県なんですけど、ワークシェアリングしようと。こういう時はもう働き続けることが何より大切だと思うんだ。だから働きたい人は、そこまで行って働きましょうよって言って往復してましたね。そうすると気仙沼の人たちが気仙沼では買い物できないから、一関へ行く、そうすると一関への延長線上にうちの店があるので、そこで会って、「ああなんだ元気だった!」とか言って抱き合ったりとか。
で2011年の12月には、田中前っていうところでアンカーコーヒーの仮設店舗を作ることが出来たんですね。カフェっていうのは、私たちの仕事っていうのは「場づくり」だと思ってるんですね。人と一緒に集える場所、そういう場所ってのがすごく重要だよなっていう。で、そこでもやっぱり、うちの内の脇っていう場所は、いちばん人が亡くなった、無くなった人の多い地区なんですね。気仙沼の中では。で、どこが誰に生きてるか死んでるかもわかんない状態で、アンカーコーヒーに近所のおばさんたちとかやってきて、「わあ元気だったんだ良かった!」とか、「今どこにいるんだ?」とか、コミュニケーションというか、そういう情報を得る場としてもコーヒーショップ、カフェっていうのはすごく重要なんだと思いました。


震災よって、自身の手掛けるコーヒーショップ、カフェの「役割り」に気づかされた小野寺さん。新しく作ったフラッグシップの「マザーポート店」という名前には、こんな思いが込められています。

◆母なる港、マザーポート
マザーポートっていう名前は「母港」っていう意味ですけど、なんていうかここが母港になってお客様がここにいらっしゃったり、あと我々の母港になればいいなってのもあるし、何よりも優しさとか、母なる港、みたいな、そういう雰囲気ってのはすごく重要だよなって思ってて、それでマザーポートって名前にした感じですね。



真新しいアンカーコーヒーの「マザーポート店」。エントランスには大きな錨のオブジェがあって、木造の店内は落ち着いた雰囲気で、挽きたてのコーヒーの香りが広がっています。気仙沼へ行かれた際は、ぜひ足を運んでください。

また宮城県と岩手県で8店舗を展開。自家焙煎の商品は、オフィシャルサイトで通販もしています。

2016年1月6日

1月5日 気仙沼 アンカーコーヒー2


今週は、気仙沼のコーヒーの名店「アンカーコーヒー」についてお届けしています。
「アンカーコーヒー」は2005年に宮城県気仙沼市でオープン。シアトルスタイルの洗練されたデザインの店舗で自家焙煎の美味しいコーヒーを提供するお店として人気を集めていましたが、東日本大震災による津波で、本店を含む気仙沼市内の2店舗と焙煎工場が流出。去年の春に「マザーポート店」と名付けた本店を再建しました。

「アンカーコーヒー」代表 小野寺靖忠さんに、2011年3月11日、震災当日の話を聞きました。

◆イタリアに届いた悲劇
気仙沼の内の脇という所で育って、内の脇は大川と内湾に挟まれた土地だったので、津波が来ていちばん最初くらいにもまれてしまった町。僕は震災の日の午前10時のローマ行きなので上空だった。10時に飛んだのでシベリア上空とかそのくらいの時間。降りて携帯にスイッチ入れた瞬間にすごい数のメールが入ってきたんです。大津波10メートルなんてのが見えて、「えっ」と思ったら、「気仙沼で」ってのが出てきたんで、「やべえな」っておもったら、うちの嫁さんと姉から一通ずつメールが入ってて、嫁からは「お姉ちゃんを除く家族みんなは避難して無事です」と。お姉ちゃんからは「魚市場の屋上にいます。従業員のみんなは逃げたんだけど、気仙沼とんでもないことになったから、お前はそっちで仕事して、帰ってこなくていいぞ」と。すぐに帰ってきてどうこうできない状況というのがわかったと思うんで、もう稼いで来い!ということでした。よし、じゃ稼ごうと思ったんですけど、一緒に添付されてきた写真が、うちの店の2階まで水浸し、真っ黒い水がそこまで入ってる写真。これはほんとにどうしようもないな、家も無いだろうなっていうのがあったし、だから昼間は向こうでネゴシエーションしている相手の前で、「あー良かったよ、もう35年経ってる家だったしさ!建て替えようと思ってたし、壊す代いらなくなったよ!」みたいな話をしながら、「家族もみんな無事だったし、よかったよかった」なんていう話をしつつ、夜中は泣きながらFacebookとかツイッターで情報取集とか、あとうちの従業員とか元気なのかどうなのか、気仙沼の本当の状態はどうなのか、情報収集して。
あとアリタリア航空がストを起こして、5日後くらいから福島の原発事故で飛ばないって話が出てましたよね。で、アリタリアのカウンターに行って、「分かりませんよ、飛ばないかもしれませんよ」って言ってきたんで、「あのな、おれは気仙沼ってところ出身で、家も無くなったし、うちのコーヒーショップも2店舗無くなったんだ。君たちが積んでいく俺のバックには、子供のための暖かい服とか、食べ物とかがいっぱい入ってんだよ。そういう人を連れていくかもしれないんだって、ちゃんと伝えてくれ。たぶん家がなくなって着るものも食べるものも無くて、気仙沼で寒い中いるんだよ」っていう話をして。そしたら「関空だったら飛ばします。」っていうことで、関空に飛んでもらって、それで気仙沼までなんとか帰ってきたって感じですね。


小野寺さん家族が暮らしていた内の脇という地区は、大川と内湾に挟まれた、「島」のような場所。もしもの時は、道が2本しかなくて渋滞のリスクがある、また歩くと遠い地域の指定避難場所ではなく、急いで大川を渡って、内陸のほうへ避難しようと、家族で決めていた。たまたまあの時間は、お姉さん以外の家族は家にいたので、揃って避難して無事。お姉さんは店の従業員を避難させて、魚市場の上で津波から逃れた、ということでした。

「アンカーコーヒー」の小野寺さんのお話し。明日は、お店の再開に込めた思いについて伺います。

2016年1月4日

1月4日 気仙沼 アンカーコーヒー1

今週は、気仙沼のコーヒーの名店、「アンカーコーヒー」に注目します!

「アンカーコーヒー」は、2005年に宮城県気仙沼市でオープン。シアトルスタイルの洗練されたデザインの店舗で、自家焙煎の美味しいコーヒーを提供するお店として人気を集め、徐々に店舗数を増やしていましたが、2011年、東日本大震災による津波で本店を含む気仙沼市内の2店舗と焙煎工場が流出。去年の春に「マザーポート店」と名付けた本店を再建しました。

気仙沼といえば、全国有数の港町で、漁業や水産加工が盛んな町。そこで愛されてきた「アンカーコーヒー」は、いったいこの町でどんな歴史を積み重ねてきたんでしょうか?(株)オノデラコーポレーションでコーヒー事業を統括する、専務取締役の小野寺靖忠さんに伺いました。

◆長靴から革靴まで、軽トラからベンツまで
アンカーコーヒーをもともとやろうと思ったのは、僕はアメリカの大学いって、90年代後半のアメリカって、すごくコーヒー文化が花開いたっていうか、アメリカ人の生活の中にエスプレッソを中心にしたコーヒーが入っていったっていう時期だったんですね。で僕はミネアポリスっていう町で勉強していたんですけど、ミネアポリスはローカルのチェーンというかショップが多くて、焙煎をしている姿が見れたりとか、焙煎の匂いが体に着くくらい新鮮なコーヒーが出てたりとかそういうのがあったので、僕もそこで朝飯食べるのもコーヒーショップだし、勉強するのもデートするのも晩飯食べるのもコーヒーショップみたいな生活をしてたんですね。だから自分の生活の中にコーヒーショップがあるのが普通だったんですよ。で気仙沼に帰ってきてからそういう場所が見つけることが出来なくて、無いものは自分で作るしかない、ほかに人にも気に入ってもらえる、そういうコーヒーショップを作れば、事業としてもやれるだろうし、自分の生活も豊かになるだろうしっていうことで、はじめたというか・・・カフェラテが飲みたかったんですよね、カフェラテが好きなので。。
魚市場の向かいにあったんで、いろんな方が利用してましたけど、漁師さんて恥ずかしがり屋の方が多いので、長靴で入ってきちゃダメなんじゃないか?とか、礼儀正しい人が意外と多いんですよね。あと1号店がドライブスルー専門のショップだったんですけど、その時はあまり身なりとか長靴どうこう考えなくていいので、もう港から船から帰ってきたような軽トラに乗ったおじさんが来て、「カフェテラください」と来て、「はい!カフェテラ入ります!」とかやってましたね。だから基本的にその時のイメージがすごくあるんで、〔僕のコーヒーショップ〕というものの使われ方の中には、〔長靴から革靴まで〕、〔軽トラからベンツまで〕っていうそういうコンセプトで、ほんとに老若男女問わず、おじいちゃんと孫が買いに来てくれたり、どんな格好でもいいし、そんな風に使ってもらえるようにこれからも頑張りたいなって。
気仙沼の内湾の開発やってますけど、内湾の海が見える船の見える働く人が見える場所でまた店をやれたらなと思ってますし、あとは12月に女川町にも一店舗、女川町の方がうちのコーヒーショップみたいなのが女川町にもあって欲しいということで、女川町にも開店しましたね。


「アンカーコーヒー」は、気仙沼の「マザーポート店」や、女川の新しい中心街「シーパルピア女川店」など姉妹店の「フルセイルコーヒー」を含めて、宮城県と岩手県で8店舗を展開。自家焙煎の商品は、オフィシャルホームページで通販もしています。
アンカーコーヒーショップ

『LOVE&HOPE』、明日は震災の時の様子を、小野寺さんに伺います。

パーソナリティ 鈴村健一

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