2015年11月30日
11月30日 福島県相馬市出身 巨人・鈴木尚広選手1
今週は、福島県・相馬市出身。読売巨人軍・鈴木尚広選手のインタビューを5日間にわたってお届けします。
いま、「スペシャリスト」という言葉がいま最もふさわしい選手。バッティングでも守備でもなく、「代走のスペシャリスト」として球界を代表する存在です。
競争激しいあのジャイアンツで、「代走」として絶対的な信頼を得ており、去年は代走での盗塁数・日本記録を更新。プロ19年間で218盗塁。通算盗塁成功率は8割を超え、200盗塁以上の選手としては歴代2位。
そして今年、鈴木選手は原監督の監督推薦で、19年のプロ野球人生で 初めてオールスターゲーム出場を果たしました。地元・相馬市の人たちの歓声を受け、大舞台を駆け抜けた姿を覚えている方も多いはず。まずはこれについて伺いました。
◆37歳で立った、初の大舞台
中西:いま37歳、プロ19年目。まず聞きたいのは今年のオールスター。選ばれると分かったのはいつですか。
鈴木:1か月前くらいですかね。ミーティングの時に監督が、「今回は尚広をオールスターに選ぼうと思う」って全員の前で発表してくれたんです。
中西:いきなりですか?
鈴木:そうですね。いきなりです。僕も普通の試合のようにミーティングを聞いていたんですけど、ぽかーんとしちゃいましたね。「えっ?」みたいな感じですよね。
中西:「え、俺オールスターでるの?」みたいな感じですか。
鈴木:なんか実感が全然わかなくて、人ごとのような感じでしたね。どうしたらいいのかな、みたいな。
中西:そして監督推薦でオールスターに選ばれた。理由はなんだったんですか。
鈴木:なんなんですかね・・・。
中西:直接は聞かなかったんですか。
鈴木:聞かなかったですね。まあ、親心かな・・・。
中西:「代走」でオールスターに出るということに関しては?
鈴木:やっぱりオールスターっていうのは、毎日テレビに出ているレギュラーで、超一流でずっとスタメン、先発と言う選手が出るものだと思っていたのでちょっと自分としては引け目がありましたね。代走というカテゴリで選出されたわけなので。
中西:ただ実際オールスターに行って見てどうでしたか。
鈴木:年齢も37歳ですし、周りは若い子たちばっかりだったのでマイペースにできましたね。もうちょっと緊張するかなと思ったんですけど、意外とオールスターの雰囲気を非常に楽しめたという印象がありましたね。
中西:しかもきっちり、第1戦、第2戦ともに結果を出して。
鈴木:いや〜、シーズン中よりも緊張しましたね。決めて当然、いつ走るんだいつ走るんだという雰囲気で。シーズン中は駆け引きがあるんですけど、オールスターだと、これは初球から走ったほうがいいのかなとか、いつ出るんだろうとか。シーズン中は(試合の中で)自分が出るポイントがあるんですけど、オールスターは初めてですからどこでどういう風に出るのかが分からなかったので常に準備していました。
中西:その準備について伺いたいんですが、代走のスペシャリストの準備というのはどういうものなんですか。
鈴木:だいたい僕の場合は、東京ドームだと11時くらいに入ってますね。7時間前くらいからですかね。レギュラーの人たちに比べて運動量は落ちると思うので、とにかく自分の練習をしっかり整えていくという感じですね。
中西:じゃあ試合では本当に一瞬にかけているんですが、それ以外のところはたくさん練習をしている。
鈴木:そうです。レギュラーの人よりも多く動くと自分の中で決めていて、その自分のやるべきことを淡々とやりながら試合に臨むという感じですね。
中西:駆け引きの部分。走りずらいピッチャーとかいるんですか。
鈴木:いや、僕が出るとどのバッテリーも僕に意識が働きますから、やっぱり一筋縄にはいかないですね。簡単に走れるバッテリーはほとんどいないです。
中西:でもなんで成功するんですか。
鈴木:・・・どうなんでしょうかね〜。
中西:それがすごいなと思うんです。絶対に成功させなきゃいけない場面で、警戒されていても成功しているでしょ。
鈴木:そういう土壇場で力を発揮するのが得意なんでしょうかね。
中西:そうなりてえ〜(笑)
ちなみに鈴木選手、今でもジャイアンツの他の選手と競走して絶対に負けないそうです。37歳となった今も「巨人で一番速い」と話していました。
ちなみに、俊足の選手が盗塁で2塁に到達する所要時間は3秒弱。「その3秒」のために、鈴木選手は毎試合、淡々と準備を続けているわけです。
ということで明日は、鈴木選手の走塁を支える「準備」、そして、その走りを後押しする故郷・相馬市の人々についてお届けします。
2015年11月27日
11月27日 女川町の町づくり・震災まる5年へ?
女川駅・駅舎を中心に、新たな町づくりが進む女川町。駅から海へ向かって伸びるプロムナードと、その左右の商業施設も、来月12月23日にオープンすることが決まっています。
そしてこのプロムナードの一角からは、実は、「ギターの音色」が聴こえることになるらしいんです。どういうことなのか。町づくりの中心メンバーのお一人、かまぼこ店「高政」の四代目・高橋正樹さんに伺いました。
◆メイドイン女川のギター
(聞き手:高橋万里恵)
プロムナードの中に、女川のギター工房ができるんです。酒と魚と音楽の町にしたいということで、音楽の重要なところ。この方というかコイツはですね。
(今写真がありますが若くて爽やかな笑顔の方ですね)
種子島で生まれているんです。かじやくんは。実は彼は日本で誰もが知っている楽器屋さんがあり、そこのギターセクションの責任者、要するに日本で一番ギターを売っていた人なんですよ。YouTubeでも有名人で、日本一のギターマニアで、震災を機に姿を消したんです。辞めたんです。それでどこに現れたかというと沿岸被災地だった。その中で女川に来て、僕らと飲んじゃったんですね。それが彼の運の尽きなんですよね。部室に来ちゃったんですよ。
(部室!部室の集客力はすごいですね)
部室に来たら僕はいるし、町長もいるし、僕ら以外に外から移住しちゃった人もいる。で、「僕はギター屋さんを辞めて自分でギターを作りたいんだ」と。世界にはギブソンとかギターの型が5個あるんですが「6個目を僕が作りたいんだ。だからどこに工房をおいてもいい。どこにしようかなと思っているんですよ」って。じゃあここにすればいいじゃんと町長が言って、「なんかいいすね。女川町って町の人たちのスピード感がすごく好きです。決めました」って女川で作ることになったんです。
(本人もスピード感がありますね)
ええ。彼自身のギター工房、GLIDE(グライド)という名前なんですが、そのコンセプトがすごい。とりあえず東北、宮城・女川の木でギターを作る。ギターのブランドも「女川」にする。フレットとか飾りの部分も女川のアワビを磨いて。山を伐採すると木が出るわけですが、その中にミズナラの木があったんです。ミズナラってウィスキーの樽にも使う丈夫な木で、世界中のギターはミズナラの木の代替品としてオークなどを使っていると言われている。そういう潜在的な可能性がある町ですので、そして彼のすごいなと思うところが、彼はマニアすぎて、ギターのボディ・本体の部分とネックの部分をジョイントさせるのに普通は接着剤とかボルトを使うんですが、それで音が変わるとまでこだわるマニアで、じゃあ接着剤を使わないでジョイントさせたらどんな音がするだろうと、彼は陸前高田まで宮大工の修行に行ったんです。そこに持って行ってギターとネックを「すいません、これを接着剤やボルトを使わないで作れますか」と宮大工さんに尋ね、方法を教えて貰った。日本古来の神社を建設する技術でギターを作ったら東南アジアとかで受けるじゃないですか。伝統技術が使われているギター、ブランド名は女川。それを世界に売る。結構ミュージシャンの方々が注目していて、面白いことが女川で起きそうだなと。それが震災から4年半が経過して工房ができる。4年半が経ってはじまる新しい女川のストーリーがあってもいいんじゃないかと。こういう魅力って震災前の女川にはなかったですから。・・・なんかギターの宣伝ばっかりしてかまぼこの宣伝を全くしていないかまぼこ屋がお送りしていますけど大丈夫ですか(笑)
ギター工房、名前は「GLIDE(グライド)」。現在は、仙台で営業していますが、プロムナード完成とともに女川で開業する予定。ここには、町外・県外からギター職人も呼ぶという構想があり、女川の人口、雇用を増やそうと言うことも考えているといいます。
★GLIDEブログ
そして12月23日、いよいよ女川のプロムナードが完成。若者が自由に動き、年配の人たちがそれを支え、大事なものを守りつつ新たに生まれ変わる女川が、いよいよお披露目となります。
2015年11月26日
11月26日 女川町の町づくり・震災まる5年へ?
今週は、若い世代に未来を託した町、宮城県・女川町の「いま」をお伝えします。
今年3月、JR石巻線が全線復旧。同時に完成した新しい女川駅・駅舎を中心に、新たな町づくりが進む女川町。駅から伸びるプロムナード、商業施設も完成間近となっています。
40代中心の若い世代が、10年後、20年後、次の世代のために作る新しい女川。その未来の姿は、どのようなものなのでしょうか。町づくりの中心メンバーのお一人、かまぼこ店「高政」の四代目・高橋正樹さんに 伺いました。
◆大事な話は夜9時以降に行われる!?
じゃあどういう町にしましょうか、というときにやはり人に優しい町でありたいなと思う。僕らの町づくりにおいて主役は建物でもなくコンテンツでもなく人なんです。人にどうアプローチを考えたときに、具体的なところでは「女川温泉ゆぽっぽ」「女川駅」の建物があります。そこの駅の真下に立ってプロムナードを見ると海に向かって道がある。その道の脇にプロムナードがあって商店街になる。その駅から、プロムナード、海の方角には意味がある。初日の出が上がる方角なんです。駅に立って唯一見られる海の方角。女川町からいっぱい人が出て行ってしまったんですね。それは二次避難やもしくは就職や進学で都会に出た人もいるかもしれない。しょっちゅう帰ってこいとは言わないけど、でも正月ぐれえは帰ってこいよと。初日の出一緒に見ようぜという意思表示を町の形に表したというのが新しい町の地図の結構大きなポイント。出てった人間に対してもいつでもウェルカムだよという優しい町でありたい。
あと僕らの町には裏コンセプトがあって、あんまり言わないんですが、基本的に被災地じゃなくてもどこでも町づくりは行政から予算を引っ張ってくる。それが町づくりのスタートだが、僕らはなるべくその補助金に頼りたくない。景気の良い町にしたい。漁師町だし、威勢の良い景気の良い町にしたい。景気が良いと税金を納めるんですよね。その税金を行政は福祉や教育などいろんなところに分配してくれよと。その原資を我々民間が作らないとダメなんじゃないかな。町づくりの根本、お金の回り方が「補助金→町づくり→過疎の町→また補助金を出します」ではなく、逆回転させる。「税金を生む→お金が行政に入る→行政がサービスする→みんなが幸せになる→また我々がお金を稼ぐ」という逆回転の構造にしたいなと思っている。経営感覚で町全体を見る。漁業コンテンツを体験したい人たちを全国から呼ぶとか。魚は季節に違うしいろんなことができる、バーベキューもできます、宿泊できるし泊まったら泊まったでおいしいものいっぱいありますよ。朝一にトレッキングできますよ、リアス式海岸で山登りもできますよというね。そういう、形じゃないクラウドなものですがそういう町にしたいなと。僕らはガル屋というクラフトビールバーに行って、そこが町づくりをする人間の部室みたいになっていて、そこには町長も産業振興課の課長もくるし僕ら事業者もくるし町づくりに関わるみんながいる。そこにふらっと行くと誰かが酒を飲んでいてそこでいろんな会話がある。そこで僕らがどういう町を作るのかという方向性がだいぶ決まっていますね。あんまりそういうこというなって町長さんに言われそうだけど・・・(会議室で決まっていたんじゃないんですね)部室で決まってます(笑)町づくりは大体部室。まあ真面目な話は真面目な話で会議がいっぱいあるんですけど、そういうところで話さない方が良いことって実は全体の8割だったりするんです。氷山の一角がまともに見えて、水面下でいろんなことを調整したりして。それが大体夜9時頃に行われると。それで本音を言いながら話さないと良い町でぎねって。うん。
お話に出てきた「ガル屋」は、女川町の仮設商店街 「希望の鐘商店街」にある、クラフトビールのお店。ここの店長も30代の女川出身。震災前は関東で飲食店などを経験。震災後に、女川で頑張ってる人がくつろぐ場を作ろうとお店を開業しました。そして来月、12月23日に開業する女川駅前のプロムナードへの移転が決まっています!
また新しい場所で、ビールを酌み交わしながらの熱い議論がここで行われることになりそうです。
明日も、女川町のいまについてお伝えします。
2015年11月25日
11月25日 女川町の町づくり・震災まる5年へ?
今週は、若い世代に未来を託した町、宮城県・女川町の 「いま」をお伝えします。
今年3月、JR石巻線が全線復旧。同時に完成した新しい女川駅・駅舎を中心に、新たな町づくりが進む女川町。駅から伸びるプロムナード、商業施設は、12月23日に開業する予定。着々と準備が進んでいます。
40代前後の若い世代を中心に、今まさに新しい町のスタートを切ろうとしている女川。その陰には、彼ら若い世代に町の未来を委ねようと決断した60代・70代の存在があります。町づくりの中心メンバーのお一人、かまぼこ店「高政」の四代目・高橋正樹さんに伺いました。
◆町が変わるために、何を変えないか
(聞き手:高橋万里恵)
Q:20代ー40代の若い人達で話をしている時に、上の人達の意見は聞くんですか。60代の「口を出さない」と言っている方々の意見を聞きに行くことはあるのでしょうか
「女川町のすごいなって思うところは、「お前らに任せたよ」って言われたから、今度僕らのミッションは上の人達をどうやって引っ張り出すかってことなんですよ。若手だけで作ったらオール女川の町作りにならないんです。年配の方々が「お前らに任せるよ」って言った後にしてくれたことは、僕らがアイデアやコンテンツ、こういう町にしたい、こういう風に人が来る仕組みを作りたいと思った時に上の人達に相談するんです。おそらく年配の方々の経験則からすると「それはやめたほうがいい」って思うものも多いはず。喉元まで出かかった「やめたほうがいい」という言葉をぐっと飲み込んで、「お前らがやりてえんだったら、やったらいいっちゃ。いいど思うよ」と。それで何をしてくれるかというと、僕らが進みたい方向、目指したい方向には道がないので、草刈りをしてくれるんです。
ご年配の方々は肩書きもあり経験もあり経歴も人脈もある。そういう方々が自分たちの力を使って、僕らが進みたい方向に進みやすいように準備をしてくれる。例えば議会の調整をご年配の方々がやってくれたり。僕らも当然議会には話をするんだけどなかなか通じない。でも「若い奴らがこういう風に言ってっからあんたたち頼むよ」って調整してくれたり、先回りしてくれるんですよね。それで僕らがやりやすいというとアレだけど、実現したい町にどんどん障害がなくなっていく。どんどん前に進める。そういう世代を超えた町づくりを任された瞬間に、僕らはやらなきゃいけないなと思いました。
一方で、変えちゃいけないものがある。町がどんどん変わっていく、ましてや若い人間に任せたから大事なものまで無くなっちゃうという不安は世代を超えて同じ思いで持っている。一番最初に年配の人に相談したのは、俺たちは町を変えるつもりはない、これとこれは大事だから残したいって言った。そしたら「お前らに任せてよかった」って言ってもらったんですね。何を変えるかじゃなくて何を残したいかって言ってくれるお前らが好きだと言われました。それが大事だなと。それが町づくりの重要な部分。変える町なのに何を変えないかが重要だということに気がついた。そこから一気に町づくりが見えましたね。ああしたいこうしたいという夢物語や絵空事が出なくなりました。実際にリアルな町ってどうなんだろう、どういうコンパクトな町を作って住み心地よくしようというところから、もう一昨年の6月の時点で新しい町の地図ができるところまで行っちゃった。だから上の世代の方々がいなければこの町、僕ら若手中心と言われている町づくりはなしえなかった。そのパイプ役に町長が入ってくれている。僕の2個上で43歳の若い町長ですけど、議会と産業界、上と下の世代、行政と民間のパイプ役に町長がしっかりハブとして機能してくれているので、いろんなものががっちりタッグを組んで、全員でスクラムを組んで前に進んでいる感覚がありますね。」
2015年11月24日
11月24日 女川町の町づくり・震災まる5年へ?
今年3月、JR石巻線が全線復旧。
同時に完成した新しい女川駅・駅舎を中心に、新たな町づくりが進む女川町。
その中心となっているのは、主に40代前後の、町の若い世代です。
今回お話を伺った、高政という地元かまぼこ店の四代目・高橋正樹さんはもちろん、経営者、移住してきた若者、主婦、学生、町長も、みんな若い世代です。なぜ女川はこうした人たちが積極的に町に関わることができるのでしょうか。
◆未来を見ることができる人間に町を託そう
(聞き手:高橋万里恵)
Q:高橋正樹さんとお話をしていると、役場の方か、復興担当の国の方かと思ってしまうけど、何を隠そう蒲鉾屋さん。でも町づくりに深く関わっていて県外からの受け入れもやっている。女川の町づくりってどうなっているのでしょう。
「一言で言えばクレイジー。60−70代が町の中心として復興に関わりみんなの意見をまとめて作るのが普通だが、女川は60−70代の方が考えたのは、町の8割の建物がなくなり街づくりというより都市計画をするにあたり、俺の65歳の親父は商工会の会長をやっていて、年配の人を集めてこう話した「女川町を作るにあたり、20年後−30年後の未来に責任を持てない。俺らはその時死んでいるよ。だから女川町の30代ー40代。これから20年後ー30年後の未来を見ることができる人間に街づくりを託そう。還暦以上は街づくりに口を出すな」ということを言った。だから僕だけじゃなく、20代も含めた僕らの世代(30−40代)は街づくりに積極的にコミットしている。下手すると10代もワーキンググループに参加して積極的にどういう町にしたいかを発言している。だからこそ街づくりはこうなっているということを役場の人間みたいにだれでもしゃべれる。みんな同じ想いと情報をシェアしているという構図。」
Q:若い世代が集まった時に意見がぶつかることもありますか。
「僕らはルールを決めている。ちょっと違うよ、俺はそう思わないとか言わない。とりあえずその人の発言を全部引き出す。途中で遮らない。最後まで話を聞くと「そうなんだ」となる。最初はちょっと違うと思ったけど、そういうことならやり方を変えればうまくいくかもよ、とすごくポジティブに話が流れる。ものすごくみんながみんなのことを考えています。新しく駅前にできる中心地には、当然 角の場所や海の見える眺めの良い場所がある。僕の先輩が中華屋さんをやるんだが、彼は一度も自分のところに利益誘導をする発言をしていないし、人格的にも優しい人で、そういう人が一番いい場所をもらいました。海の見える一番良い場所。それが女川っぽいなと思いました。自分がどんなに大変でも周りに同じように大変だと思っている人がいたら、自分のことをほっておいて周りの人の背中を押す。自分は後回し。実はそれが311の震災では、そういう人から死んでいった。僕の兄貴分、佐藤水産の当時専務だったみつるさんは、社員全員、働いている中国人も全て高台に避難させて、もうだれもいないか工場内を確認して会社の外に出たらもう津波が来ていて亡くなってしまった。私の祖父もそう。お袋とばあさんを先に逃がして、自分は間に合わず溺れて亡くなってしまった。そういう責任感の強い元々の女川人気質の方が亡くなってしまった。生き残った我々はどうあるべきか、どう生きるべきか。だからこそ自分のことを置いておいて背中を押す。でもそういう町であり続けることは亡くなった人の想いも、実は新しい町に滬められるのではないかと思う。」
女川町では、この「30代・40代」の町づくりの中心世代を
「責任世代」と呼んでいます。そして60代以上の人たちは、こうも言ったと言います。 「我々が、君ら責任世代の弾よけになる。」
女川町長も、まだ40代前半。若い町長さん。こうしたことは、女川町の町づくりの象徴的な話として有名。地域活性を目指す自治体、市町村にも影響を与えています。
明日も、女川町のいまについてお伝えします。
2015年11月23日
11月23日 女川町の町づくり・震災まる5年へ?
今週は、若い世代に未来を託した町、宮城県・女川町のいまをお伝えします。
今年3月、JR石巻線が全線復旧。同時に完成した新しい女川駅・駅舎を中心に、新たな町づくりが進む女川町。建物の8割が津波で流され、何も無くなった灰色の町に駅舎が立ち、人が増え、色を取り戻していく様子を、番組では継続してお伝えしてきました。
そして女川駅開業からまる8ヶ月。走り続けてきた女川町は今どうなっているのか。地元・女川のかまぼこ店の四代目で、町づくりの中心メンバー高橋正樹さんに、先週 お話を伺いました。
◆震災まる5年が経過する前に・・・
(聞き手:高橋万里恵)
Q:2015年は、3月末に女川駅再開。復興元年だったのでは。
「今年がポイントというより、震災直後から考えていたのは、震災5年の時点で、6年目以降は被災地は女川に限らず取り上げられなくなる。それまでにどこまで町を作って僕らの日常を取り戻せるのか(が重要だった)。もうすぐ5年、まる4年の段階で鉄道を取り戻し町をほぼ完成しましたよ、いろんな面白いことがあるので遊びに来てくださいという感じで震災直後からやってきた。順調です。とりあえずは。坂茂さんは女川駅を設計した後に建築界のノーベル賞と言われるプリツカー賞を受賞し、坂さんの設計した建物を見たいという日本中の建築を学ぶ人間、携わる人が見に来ている。女川駅は9割がたが温泉施設で1割をJRが間借りするという特殊な駅なので、そこで見て見たい。行っていいんだ、行ってみようということでふらっと来てくれる人が結構増えた。非常にありがたい。」
Q:女川に行くのは、被災地に行くという感覚ではなく、また見たい景色や会いたい人がいて、美味しいものがあるという感覚。リピーターも多くなっているのでは?
「リピートどころか移住が進んでいる。女川に人が来ている。ただ住む場所がなくて、女川に外から移住する人たちを受け入れるために、例えば仮設住宅でもしっかり作られた住宅系のものを、当初の被災者向けの用途を変更しましょうとか。南三陸などでは議会で決定され運用が始まるが、女川も早くそれをやろう。当面はそこに住んでいただいて、女川にマンションやアパートを作ってそこに入ってもらうという感じでやる方向でいる。「私はこういうことができる」という人に対して、ああわかった、これを手伝って、これが必要だ、こういう仕事があるから一緒に町を作ろうという。町自体が何をやるにしても、ハードルが低い町と言われている。町そのものがいろんなチャレンジをしている。自分がこういうチャレンジをしたい、それをやりたいというのに対して女川は超ウェルカム。じゃあこれをやったらいいじゃん一緒にとみんなが言える町なので移住者が増えている。」
Q:女川を被災地と呼ぶべきか。
「俺たちも被災者って言われると違和感が出てきていて、被災地と呼ばれても、ただ町の中心は完成するし・・・いや・・・そうね、被災地ではあるよねという感じになってきましたね。」
2015年11月20日
11月19日 相馬高校放送局が伝える福島 ?
昨日に引き続き福島県相馬市の高校生たちが伝える、福島のリアルについてお伝えします。
県立相馬高校放送局では、震災後、原発事故後の生活を記録したドキュメンタリーなどを次々制作。これまでに作られた作品は全国で反響を呼び、各地で上映会も行われています。
現在、相馬高校放送局は、2年生部員8人。きょうは、この現役部員たちが制作した、映像ドキュメントの音声をお聴きいただきます。タイトルは「故郷(ふるさと)を伝えゆく」です。
◆故郷を伝えゆく
※あらすじ
浪江町請戸地区に伝わる伝統芸能「田植え踊り」を、受け継ごうと考える女子高生・横山わかなさんを取材した作品。田植え踊りは、地元女子が可憐な衣装に身を包み、見る人を魅了するもので住民たちは毎年楽しみに
していた。しかし請戸は震災で壊滅し東電福島第一原発の事故で町の大部分が警戒区域に。
町民はちりじりになり、田植え踊りの継続も伝承も絶望的とされた。しかし全国から支援で伝統は守られた。取材対象の女子高生は、「最初は友達に会えるのが一番なんども重ねるうちに踊りは伝統だと、それを守っていかないといけない」と田植え踊りに参加を続ける理由を語るが、その一方で、「踊りがなければ請戸と離れることができた。踊りあるから辛い過去を忘れられない。踊りがなかったら楽に郡山で生活できた。だけど大学行ってから、卒業してからでもいいけどまたそこに戻って続けられたらいいなと思う」と本音も見せる・・・
これを作ったのは相馬高校 放送局の部員・玉野紘成くん。津波で家が流され、放射線で立ち入りも制限されているため、両親とともに相馬に住んでいます。
「踊りは伝統。守っていかないといけない。でも、逆に言えば踊りがなければ請戸と離れることができた」。という女子高生の言葉、あなたはどう感じましたか。
2015年11月18日
11月18日 相馬高校放送局が伝える福島 ?
昨日に引き続き福島県相馬市の高校生たちが伝える、福島のリアルについてお伝えします。
県立相馬高校放送局では、震災後、原発事故後の生活を記録したドキュメンタリーなどを次々制作。これまでに作られた作品は全国で反響を呼び、各地で上映会も行われています。
そして現在、相馬高校放送局は、2年生部員・8人で活動が続いています。いまの放送部員は、4年前の震災と原発事故を、どんな風に捉えているのでしょうか。放送局・顧問の升田邦弘先生に伺いました。
◆震災が「ピンとこない」世代
一人は浪江町、その他の7人はもともと南相馬に家があった子が1人、あとは相馬、そして北の新地町ということろ。震災について生徒たちが話しをするということは確かにない。体験が一人一人違うのも大きい。自分の体験よりもっとひどい体験をしている可能性があるので、話しをすると人を傷つけちゃうんじゃないかと。いまの高校2年生は当時小学6年生、高1だと小学5年生だった。震災時小学生だったので放射能のことなどは大人たちがどういうことを考えていたのかは、よく分からないし震災のことはピンとこないという生徒もいる。それは前の世代の高校生たちとはちょっと違うのかなと思う。だんだん震災のことが薄れていくということに対して、いまの放送局の子達、特に浪江出身の子たちは「いろんな人の想いを形にするということをきちんとやっていきたい」という想いがあるようで、浪江から避難した子たちは心の中に整理できない部分を持っているのかなと。思っていることも言えずにここまできているという部分を感じた。例えば放送局の子たちは放送番組を作るという手段を持っているけれども、手段を持っていない子供達もいるわけで、聴く人はこの作品を聴いてそれが全てだと思われても困るし、ただ震災がまだ終わっていない部分が大きいというところに気づいてもらいたい。そこに気づいてもらえればそれでいいと思う。
こうして、震災当時まだ小学生だったという放送局のメンバーは、先輩たちと同じように、福島のリアルを放送作品にしています。
◆故郷を伝えゆく
いま現在だと、作品3本を完成させたところ。1本は「故郷を伝えゆく」。浪江町請戸という津波の被害もあったところの小学校に通って居たタマノくんという生徒が作った作品。同級生で郡山に避難している女子生徒の友人がいて、その子が浪江町の請戸に伝わる田植え踊りを震災後もやっていて、それを取材してさらに制作者・タマノくんの震災を伝えていくという自らの想いを語っていくという作品。
お話に出てきた浪江町(なみえまち)の請戸(うけど)地区は福島第一原子力発電所より10km圏内にあり、津波の被害も受けた地域。現在は避難指示解除 準備区域となっています。
請戸の田踊りは請戸地区に300年前から伝わるという郷土芸能。地元の方がバラバラに避難している現状では、その伝統を継承することすら困難とされています。
相馬高 放送局・タマノくんは、そこに焦点を当てた作品を作ったわけですが・・・この続きは明日のこの時間お届けします。
2015年11月17日
11月17日 相馬高校放送局が伝える福島?
昨日に引き続き福島県相馬市の高校生たちが伝える、福島のリアルについてお伝えします。
県立相馬高校放送局 では、震災後、原発事故後の生活を記録したドキュメンタリーなどを次々制作。全国で反響を呼び、各地で上映会も行われています。番組では、去年 放送局が制作したラジオドラマを、一部抜粋してお届けしました。タイトルは「キレイになりたくて」。原発事故で起きた事実を元に、高校生たちが自ら企画した作品です。
「キレイになりたくて」
あらすじ:主人公は、ピカピカになって牛舎を旅立つことを夢見る、福島の牛舎で飼われる子牛。
原発事故で、警戒区域ではたくさんの牛が見捨てられることになったが、主人公の子牛は、自分が置かれている環境もわからず、牛舎で人間が戻ってくるのを待ち続ける。。。
警戒区域にある牛舎の「子牛」を主人公にしたこのラジオドラマの、脚本や声の出演もしている相馬高校卒業生・荒優香さんによれば、「人間の事情で命を左右されてしまった動物たちがいることを伝えたかった」
荒さんは現在大学生。放送局での活動で、 「世の中を変えたいなら、思っているだけではなく行動することが大切だと学んだ」と話しています。また、原発事故の経験を世界に発信したいと考え、世界の情勢も知るために、 現在は、国際政治・国際協力などを大学で学んでいるそう。
明日も、相馬高校放送局の活動についてお伝えします。
2015年11月16日
11月16日 相馬高校放送局が伝える福島?
今週は福島県の相馬市の高校生たちが、伝える福島のリアルについてお伝えします。
番組で紹介したのは県立相馬高校放送局(つまり放送部)が製作した映像ドキュメント「相馬高校から未来へ」。
相馬高校放送局は震災後、原発事故後の生活を記録したドキュメンタリーや演劇を次々制作。全国で反響を呼び、各地で上映会も行われています。
この「相馬高校から未来へ」は、2011年・震災直後の入学式の様子や、放送局の活動をまとめ、数人の部員によって制作されたもの。完成したのは2013年6月で、NHKの高校生向けコンテストの、テレビドキュメント部門で優勝、山形国際ドキュメンタリー映画際でも上映されています。
※番組では許諾を得てその作品の「一部」をお届けしました。
相馬高校放送局の当時のメンバーは、演劇部と合同で様々な活動をしていました。その活動の中には、原爆の被害を受けた長崎、水俣病の水俣市などを視察・取材するといったこともあったそう。特に演劇は、原発事故後の地元高校生のリアルを描かき高い評価を受けた。例えば・・・相馬高校の高校生たちは、原発事故や震災の話を「しない」といいます。友達を傷つけてしまうことを恐れ、会話に「気を使う」のだそう。だから、震災・原発事故を語り合うこともない。演劇では、そうしたリアルが描かれている。きょうお届けした作品の音声にも、一部、演劇のシーンが出てきていました。
高校生たちの中でも、原発事故の話はタブーになっているということ。ただ、風化させないためには積極的に打ち明け合うことも必要。そんなことを考えさせられる。
明日も、相馬高校放送局の活動についてお伝えします。
2015年11月12日
11月12日 津波防災シンポジウム2015 ?
引き続き、11月5日・津波防災の日に行われた「津波防災シンポジウム2015」の模様です。
このイベントで講演を行った専門家の一人が東北大学大学院 准教授の陶山佳久さんです。
陶山さんは「タブノキ」という樹木のDNAを全国的に調査。同じタブノキでも、東北と、それ以外では別のグループに分かれることを突き止めています。
東北沿岸部では、津波から命を守る「森づくり」「植樹活動」が広がっていますが、この、タブノキの調査結果は、なにを意味するのでしょうか。
◆地域に根付いた樹木
もちろんこのように広い範囲に分布するので、地域地域にそれぞれ違ったタブノキが存在するのですが、地域地域にそれぞれ違ったタブノキが存在する。そして全体として3つのグループに分かれることがわかりました。西・関東・東北。いま植樹というといろんな問題がある。例えば苗木が足りないとか、経済的な問題で現実としてしょうがない時があるが、実際に移植されることがある。いまはこのデータがあるので「それは違う(地域の)ものですよ」と言うことができるが、このデータが無ければ、同じタブノキだからいいでしょと植えられてしまう。遺伝的に違うことを指摘できるのだが、何が悪いのか説明を求められた時のために実際に植えて比較をしてみた。千年希望の丘で、同じ数だけ同じ場所に統計的に比較できるように植えた。一冬越えたあと1年目の状況だが、愛知県産・茨城県産の苗木は枯れていた。一方で、全く同じ条件で宮城県産のものが元気に育っているものがある。一箇所だけだと偶然と言われてしまうので、もう一箇所、南三陸でも比較した。宮城県のものはやはり成長が良い。樹高がわずか1年で(他のものと)10センチくらい差が出ちゃう。成長だけならまあよい、これくらい我慢しろということになるが、冬を越えた時に一番先端の芽「頂芽」がたくさん枯れてしまう。その割合は宮城県産でも50%くらいあった。茨城県産と愛知県産については、愛知県産がわずか15%。これはショックを受けた。こんなに差がでるのかと思った。宮城県産は冬に寒い状況に対応できているからこうなるのだが、これがわかっていたらこんなこと(植樹)はしないですよね。まとめると、まず地域には独自の遺伝的な系統があるということを覚えておいてください。そして地域環境に適応した個体が基本的には各地に分布している。これは何をもたらすかというと、将来に確実な海岸林を成立が期待できる。それからさらにより高く暗転した生態系サービス、つまり森の恵みを享受することができる。この時点で少なくとも、地域性種苗・地域の苗木は歴史という保険が利いているということ。で、いつもそうだとは限らないことも覚えておいて欲しい。他地域産の種苗であっても問題なく成長することはもちろんある。外来種というのは全然違うところから持ってきて、成長がよくなることがある。でもそれは遺伝子攪乱を起こしてしまうので、成長しようがしまいが、他地域産のものを持ってくるのは良い事は無い。未来に責任の無い行為だということができると思う。最後のメッセージだが、研究をしていて色々何をやればいいのかと思うことがあるが、今ははっきりとこうしたいという気持ちがある。僕のできることは遺伝子を調べることなので、地域の遺伝資源を次代に残すことが僕にはできるし、僕の願いは未来により良い環境を残すため遡って、森の防潮堤にも貢献できればと思っている。
2015年11月11日
11月11日 津波防災シンポジウム2015 ?
引き続き、11月5日・津波防災の日に行われたシンポジウムの模様です。
TOKYOFMホールで行われた「津波防災シンポジウム2015」。
このイベントでは、宮城県岩沼市の「千年 希望の丘」など、森を活用した津波防災について、様々な分野の専門家が講演を行いました。
その一人が、森林分子生態学という、植物をDNAレベルで研究する研究者、東北大学大学院 准教授の陶山佳久(すやま・よしひさ)さんです。津波から命を守る「森作り」や「植樹」について、植物の専門家・陶山さんは、どう考えているのでしょうか。
◆未来への責任
植樹というのは未来に対しての責任が生じる行為といえる。なぜなら未来の環境に影響を及ぼすから。コンクリートで作られた防潮堤とはわけが違うんですね。なぜなら木は生きているから。生きて成長して将来の環境を作るから。それだけじゃなく、僕の専門だが「花を咲かせる」花を咲かせれば花粉を飛ばし、種を作る。周りの自然環境にも影響を及ぼす。未来の環境に影響を及ぼす。したがって植樹というのはより良い未来の環境を導くということがいえる。2番目が今日の僕の本題。生物には地域性がある。地域によって違う。これは一般的にそう。なぜなら各地域には各地域それぞれの歴史・環境が異なる。その歴史の上でその場所にいるのが基本。したがって地域性を無視した植樹は自然破壊にもなり得る。もちろん、するなと言っているわけではない。より良いためにどうしたら良いかを言いたくてわざわざショッキングな言葉を使ったのだが、これは本当です。無視した植樹は破壊になり得る。例として、森の防潮堤に使われている代表種・タブノキ。これは非常に大きく成長する木で、東北地方の海岸の代表的な広葉樹、日本の代表的な常緑の広葉樹。東北地方の北限、太平洋側は岩手県から、南側は台湾や中国本土にもある。これがタブノキという木の分布域。もちろんこのように広い範囲に分布するので、地域地域にそれぞれ違ったタブの木が存在する。全国から集めて337個体のDNAを比べたところ、全体として3つのグループに分かれていることがわかった。西、関東、東北ときっぱり別れる。もちろん多少のノイズはあるが、一体この3つのグループがどういった経緯で、どれくらいの年代で分かれてきたのかは解析することができる。過去、これが分かれたのは少なくとも数万年前。氷河時代の寒かった頃は東北地方にはなかった。房総半島とか紀伊半島の先、鹿児島にしか存在し無い。寒かったから。みなさんは森ってずーっとその場にあるような気になっているかも知れませんが、そんなことは決してなくて、気候は変わっている。少なくとも1万年以上かけて今の分布域まで広がっている。動いているのであれば今も動かしてもいいじゃない、と思われるかもしれ無いが、そんなことはない。(分布域が)動くのに数百世代以上がかかっている。毎世代毎世代、たくさんの種を作ってその中で環境に適したものが生き残って、それを繰り返し、トライアンドエラーが繰り返されて現在に至っている。東北の話をしているが、それぞれの地に生き残っている生物は、基本的に同じような歴史を持っていて、それが各地に根付いている。そう考えると郷土愛も生まれ無いですか。それぞれの地にそれぞれの宝があると言ってもいいと思います。
明日もこのシンポジウムの模様をお伝えします。
2015年11月10日
11月10日 津波防災シンポジウム2015 ?
昨日に引き続き、11月5日・津波防災の日に行われたシンポジウムの模様です。
TOKYOFMホールを会場に行われた「津波防災シンポジウム2015」。このシンポジウムでは、東日本大震災の津波被害を教訓にした、東北沿岸部の、「森づくり」の取り組みも紹介されました。
現在、「千年 希望の丘」という、津波減災のプロジェクトを推し進める宮城県岩沼市・菊地啓夫市長のお話しです。
◆岩沼市 千年希望の丘
「千年希望の丘」・・・これが高さ11mあります。いざというときに逃げ込むためのもので、10km圏に15個作る計画。丘と丘をを結ぶ縁路には木を植える。縁路の高さが3mだが木が伸びることで10mくらいまでの高さになる。いまは2mまで伸びているがこれを将来は縁路で伸ばすことで、この(10mの)丘の高さまで伸びれば堤防と同じ機能を果たす、減水効果を働かせようということで千年希望の丘というプロジェクトが始まっています。まず私たちの岩沼はどのあたりかをご存知ない方も多いと思いますが、仙台市の南側約16キロ、仙台空港がある。仙台空港が津波にのまれるところが世界中に配信されて、岩沼はそういう意味では有名になったが、一方では危険という印象もあるのでなんとか払拭しようという思いも、千年希望の丘の目的の一つ。岩村先生は「このあたりに住んではだめだ」と藩政時代の話をされたが、実際このあたりには100世帯以上の集落があった。それが津波でほとんどながされて181人が亡くなった。この状態から我々はどのように復興していくか、地域の皆さんと話し合って、一箇所に集団移転しようと。玉浦西という名称でここに新しい街が出来ている。田んぼの中に四角く作って20haの敷地に1000人が生活している。ほとんど半分が持ち家で、あとの半分は自律再建が無理だということで災害公営住宅に入っている。これでだいたい住む場所としては岩沼は完成。これほどの大規模な、400世帯が集団移転した例は日本には他にないという。一箇所に集まったというところが岩沼の特徴。ところは守りは全然できていない。太平洋側から同じような津波が来たらまた同じことがある。ここは浸水域で50センチ〜1mの浸水があった。多重防御という選択で、国でいう海岸防潮堤を一番最初に作り、その後ろに1000年希望の丘という我々の作るもので減水効果を期待している。時間を稼ぐための。これでシャットアウトできるとは思っていないが、逃げる時間くらいは稼げるだろうと。これをいまから2年くらいかけて10キロまで全部完成させようと。まだ50%だが来年は最大級の植樹祭をしようと、森の防潮堤の皆さん、がれきを生かす登場プロジェクトの皆さんを中心に、ぜひ成功させたいところから活動させていただく予定です。
※千年希望の森、2015年の植樹
2013年に始まったこの「千年希望の丘」。
岩沼市長によれば、これまで植樹された樹木の数は15万本。さらに植樹は続けられ、10年かけて立派な森になっていくといいます。
あしたも、津波防災シンポジウムの模様をお伝えします。
★森の防潮堤協会
2015年11月9日
11月9日 津波防災シンポジウム2015
今週は、11月5日・津波防災の日に行われたシンポジウムの模様をお届けします。
TOKYOFMホールを会場に行われた「津波防災シンポジウム2015」。この番組でも紹介してきた、「津波から命を守る森づくり」に関わる団体が主催で、防災・減災の各専門家による講演が行われました。
今朝はその中から、東北大学・災害科学国際研究所所長で、津波工学が専門の東北大学 今村文彦さんによる講演の一部をお伝えします。今村さんは、津波の被害を減らす「1000年希望の丘」という宮城県岩沼市の森づくりを例に、防災・減災の考え方について語りました。
◆津波からいのちを守るために
3.11を振り返ります。これが仙台空港で岩沼が見えています。手前が名取市です。もともとこの地域は1611年・慶長の時代、ちょうど伊達政宗が仙台の街を作った頃に同じような大津波を自身で受けています。それで被害を受け、政宗はここに住まないように、防潮林を整備してできるだけ住民の方は沿岸部に近づかないようにという土地規制をしていたようです。この防潮林というのはそれからずっと保全していたが今回の津波は、1611年に津波をはるかに上回った。それを乗り越えた津波は防潮林の7割以上を破壊しました。確かに松は20メートル、30メートルに成長して幹も素晴らしいものになるんですが、実は支持する根っこが場合によっては浅い。低いところは地下水が近いので根を張らないわけです。これを改めて我々は現場で知った。今も仙台空港には残っている。何本か木もあるし神社もある。昔の集落はこのようなところに「イグネ」を植生し、高潮や風、津波から街を守っていたのだろうと思います。しかし津波はこのような防御をはるかに超えてしまい、滑走路に来た時、またその破壊力を増します。凸凹があるといろんな形で津波を止めてくれます。勢いも弱まります。しかし平地だと加速してしまう。この津波はすでに海水の色・ブルーではなく、土砂や泥を巻き上げて残念ながら黒い濁流となって街を襲った。助かった方もたくさんおられたんですが、この津波を飲み込んでしまった方は、津波肺を起こしてしまいました。泥の中には有害物質もありますし、そこで肺が炎症してしまったということです。いかに命を守るのか。もちろん高いところに避難するのが第一ではありますけど、流されたとしても諦めてはいけません。漂流すれば命は助かるわけですが、その「死の水」を飲まないことも大切だと思っています。あとはこの震災を受けて改めて大切だと思うのは、命を守ること。それは安全な場所を確認することと、いつ避難するかのタイミング。言い換えれば、津波の来襲を少しでも抑えてくれれば、この到達時間が遅くなれば我々は命を守るチャンスがよりあるということ。そこに1000年の丘があれば、近くのところで命を守ることができるわけです。具体的に、流れ、流体力を軽減すること、また時間を遅らせること、様々な効果をいろんなプランでいろんな状況で検討していきたい。ぜひさまざまなプランをみなさまに提案していただいて、具体的な減災効果を岩沼市や他の地域で考えていきたいと思っています。
今村さんの講演では、津波被害を軽減する「森」の効果についても解説がありました。
まず、森があることで、漂流物を食い止めることができる。森の間を海水が通ると勢いが減る。結果、その背後にある建物が守られる。そしていざという時、木に登って助かるケースもある。といったお話しでした。実際、2004年インド洋津波でも、マングローブやココナッツの林があった地域は、津波の被害が、ほかと比較して少なかったという実例も紹介していました。
あしたはこのシンポジウムから宮城県岩沼市の「1000年希望の丘」のプロジェクトについてお伝えします。
★森の防潮堤協会
2015年11月4日
11月4日 あすと長町仮設住宅のコミュニティづくり5
引き続き、宮城県仙台市太白区、「あすと長町」からのレポートです。
最大で233世帯が暮らしていた巨大仮設・あすと長町仮設住宅。見知らぬ他人同士、突然、狭い仮設住宅での暮らしということで、当初は、住民同士のトラブルも少なくなかったと言います。
こうしたトラブルを解消するために立ち上がったのが、あすと長町仮設の「運営委員会」です。立ち上げメンバーで、自治会長も務めた飯塚正広さんに仮設住宅のコミュニケーションについて伺いました。
◆あいさつからはじめよう
運営委員会の役員達で申し合わせていたのは、私たちが会った人に挨拶をしよう、ということ。会った人にはおはようございます、こんばんは。そして今度はちょっとずつ世間話ができるようになり、会話になって、だんだんそれが広がっていった。その中には申し訳ないのだがコミュニティに入れない、溶け込めない人たちもいた。そういう人たちの浄化作用もやることになった。傷害事件があったり様々なトラブルがあり、川でいうと上流・大きな石がゴロゴロ転がって水が流れてばちばちぶつかる、仮設住宅を一言で言うとそんな感じだった。いまは中粒くらいで石も角が取れてきて、だんだん水の流れも穏やかになってきている。それがいまの仮設住宅です。
この運営委員会はその他、新しい町のお買い物スポットをまとめたマップ作りなど様々なイベントも行ってきたそう。最初のメンバーは80世帯程度でしたが、最終的には200世帯に広がったと言います。
こうしてこの仮設ではご近所づきあいも深まっていったのですが、震災から4年、それぞれ生活再建へ進む中で、別の課題が出てきたんです。
◆せっかく生まれたご近所づきあいを・・・
せっかくここでできあがった200世帯のコミュニティが、またバラバラになるのはいやだなと。これはあるおばあちゃんの一言だった。「みんなここでせっかく仲良くなったのだから、この仲間をバラバラにしたくないようね。そういうような復興住宅ってできないのかな」という一言だった。それが私が会長に就任してまもなくの言葉だった。復興住宅に行くときはみんなでいけるようなものをどこかに見つけなければ、この仮設のコミュニティを大事にしなければ、というのが自治会長としての決意の一つとしてあった。そのためにコミュニティ構築を考える会という会を作った。自治会とは性格の違うものなので任意組織として、みんなで勉強をした。それが最終的には、あすとの三箇所の復興住宅に80世帯が入れる結果になった。復興公営住宅の入居は基本的に抽選。抽選じゃない、優先入居の方がいる。それは津波でこれから家に住めないという方達の優先順位1番。次は傷害を持った方、片親世帯などが抽選なしとなっている。それと一緒に、仮設住宅でのコミュニティ、震災前のコミュニティも10世帯があつまれば優先順位の高いところで入居できますよというところに、仮設住宅のコミュニティも認めますよと一言追加された。それは私たちの活動があったから、その文章が追加された。それがコミュニティ構築を考える会の最大の成果だったと思う。
こうして結局、あすと長町仮設住宅からは、80世帯がすぐそばの災害公営住宅に入居しています。「もし抽選だった場合、これはありえなかった」と飯塚さん。
そして80世帯の、「元・仮設住宅メンバー」は、災害公営住宅で出会った、新しいご近所さんとの関係づくりをこの春からすでにスタートさせています。
2015年11月3日
11月3日 あすと長町仮設住宅のコミュニティづくり4
きょうも引き続き、仙台市太白区「あすと長町仮設住宅」についてお伝えします。
お話を伺ったのは、飯塚正広さん。岩沼市のご自宅が、2011年4月の大きな余震で 住めなくなり、あすと長町の仮設に入居。233世帯の巨大な仮設住宅の、自治会長として、様々な問題・トラブルに向き合ってきた方です。
◆問題が起きるのは当たり前だった
ほとんどの人が震災前は一軒家に住んでいたのに、これだけ狭い仮設住宅にぎゅっと押し込められたわけですから問題が起きるのは当たり前ですよね。例えば車の違法駐車とは言いませんが「無法駐車」ですね。自分の家の前にクルマを駐めるとか、駐めっぱなしで一晩過ごすとか、両側にクルマが停まっていて真ん中を通れないとか、そういった問題などが様々おきました。それをなんとかせねばということで立ち上がったのが「運営委員会」だと思っている。あともう一つの大きな役割は、住むにあたっての様々な住環境の不備。約22項目あったものを、役所と団体交渉するための組織だった。運営委員会が立ち上がってから団体交渉も始まった。
この「運営委員会」による「団体交渉」、具体的にはどんな交渉があったのでしょうか。
◆「あそこの仮設はうるさい」と言われていた
要望は、「雨どいをつけてくれ」「家の下に水が溜まるので暗渠を入れてくれ」「棟と棟のあいだの舗装をしてくれ」とか。当たり前にあるべきものがないのでとにかく生活に困った。例えば雨が降ると玄関先に水が溜まって家に入れなくなる。1センチ2センチの水ではなく、5センチ10センチの水。普通の運動靴では飛び越えて入れない状態。そういう中で私たちは暮らしていたので、だから要求をしてきた。ほぼほぼ実現した。役所も一目置いた。「自治会らしき組織」と呼ばれていた。あくまで運営委員会。なぜかというと交渉時に役所と紐付きだと団体交渉が出来なくなってしまう。そこであえて自治会・町内会を名乗らなかった。名乗らなかったので当然補助金も「わざと」もらわなかった。独立した組織だったから。そしてある程度要求項目が満たされた段階で、自治会に移行していった。ですから「あそこの仮設住宅は一番うるさい仮設」だと言われていた。とにかくここで何かやれば、あっちにもつくんだなと。例えば雨どいにしても、ここの仮設で工事が始まれば、「うちの仮設も雨どいがつくんだな」と思っていたらしい。自分たちが声を上げなくても、あすと長町の仮設が声をあげれば、自分たちの仮設住宅の住環境もよくなるんだと皆さん思っていたみたい。それはあとから聞いた話。「おめえんところで一生懸命やってくれたから、俺たちは全然交渉しなくて良かったんだよ。俺たちもどうすっか悩んでいたんだけどさ」とあとから聞いた。
※団体交渉によって、雨どいの取り付けや棟と棟のあいだの舗装などが行われた長町の仮設住宅
このあすと長町の自治会の活動は、いまもブログが残っています。2011年からの書き込みを読むと、行政との大変な交渉が続いたことがわかります。
そして現在、あすと長町仮設住宅は、ほとんどの方が災害公営住宅や、新たに建てた自宅での生活へ移行。あすと長町に完成した災害公営住宅も、他の地域から引っ越してきた方が多いといいます。そこではまた、新しいコミュニティづくりがスタートしています。これについては明日のこの時間に。
あすと長町仮設住宅の元自治会メンバーの大湯正志さん(左)、飯塚正広さん(右)
2015年11月2日
11月2日 あすと長町仮設住宅のコミュニティづくり3
先週に引き続き、仙台市太白区「あすと長町仮設住宅」についてお伝えします。
あすと長町は、東北本線・東北新幹線の線路沿いにある再開発地区です。震災後、大規模な仮設住宅が建てられピーク時は、233世帯・およそ450人が暮らしていました。
お話を伺ったのは、今年の春までこの仮設住宅で生活をしていた大湯正志さん(61歳)。震災前は、同じ仙台市のマンションに暮らしていました。
◆14階建てマンションで被災
仙台市宮城野区に購入した14階建てのマンションが311の震災で傾き、仙台市から「赤紙」が貼られた。住んではいけない、ということで解体が決まってしまった。被災した2時46分の揺れは一生忘れない。縦も横もミックスしてガサガサガサ!!と揺らされた感じ。あの恐怖は一生忘れないね。その時に私がやった行動は、「これは絶対に火事が起きる、絶対に棚に押しつぶされる人がいる」と揺れた瞬間に思い、自分の部屋からとにかく出て、エレベーターも止まっていたので同じ9階のフロアを片っ端から玄関を叩き、大丈夫か、生きているか、火事は起きていないかと確認した。30分くらいかけて全部の部屋を叩いて回った。中にはお年寄りの方がタンスに挟まれて動けない人もいた。若い人は階段を1階から14階まで上がったり下がったり・・・まずその日は安否確認で終わりましたね。10年〜20年一緒に住んでいるのに隣に誰が住んでいるかもわからないような状態だったが、そこで集まってご飯を炊いたり、穴を掘ってトイレを作ったりね。
結局、この分譲マンションは危険だということで立ち入りが出来なくなり、大湯さんは、家財道具を持ち出すことができなかったそうです。そういう意味でも、被害は大きかったと大湯さんはおっしゃっていました。
その後、大湯さんは避難所を転々とし、2011年5月に「あすと長町仮設」へ入居。この一連の体験で、「ご近所づきあい」がいかに大切かを、痛感したと言います。
◆「つながり」を持っておくこと
仮設住宅や今住んでいる復興公営住宅で、コミュニティ・コミュニケーションが大事なのはなぜか。平和な時は何もなくても良い。でも何かあった時のために一つのつながりを常日頃から持っているべき。それを意識している。同じ宮城県のいろんなところから集まってきた、顔も性格もわからない中でいろんな問題があった。十人十色と言うけど本当に色んな人がいる。一緒に集団生活ができない人もいたし喧嘩もするし夜に酒飲んで暴れたり、そういうメンバーをひとまとめにするというのは大変だった。仮設住宅でも同じ。復興公営住宅でも同じ。私が言いたいのは、1対1の人との対話、付き合いを優先的にやらないと、自助・共助・公助がうまく回るためには人とのつながり、お互いに理解して助け合う気持ちがないとうまくいかないと思う。
東北三県から、最大で450人が生活した巨大な仮設住宅・あすと長町仮設。入居者の多くは、面識もなく、文化も方言も違う人たち。住民による「新しいコミュニティ作り」は急務だったと言います。ただ、大湯さんご自身は、元々のご近所さんとともに入居することができたので、知り合いも多かったそう。
そして、大湯さんをはじめ数人のメンバーは、この仮設を、安心して暮らせるコミュニティにしようと動き出したのですが、この続きは、明日のこの時間にお伝えします。