2015年8月31日
8月31日 石巻市 大川小学校のいま2
今朝は、8月17日の放送に引き続き、宮城県石巻市 大川小学校をめぐる、ご遺族の今の想いをお伝えします。
全校児童108名のうち74名が死亡・行方不明となり、教職員の方も10人が亡くなった大川小学校。今も「助ける方法があったのでは」という、疑問が解決していない場所です。そしてこの場所で、語り部を続けているのが、「小さな命を考える会」代表の佐藤敏郎さん。次女で、当時 大川小の6年生だった佐藤みずほさんのお父さんです。
佐藤さんは、津波でみずほさんを亡くされているんですが、もう2人お子さんがいます。いま大学に通っているご長女、そして就職を控えたご長男。
この2人のお子さんをはじめ、津波を免れた子どもたちは、4年半を経て、自分たちの意思で、町の将来を考え始めたと言います。
◆旧校舎の保存をめぐって
うちの娘は大学生なんですけど、大川小出身で、今は校舎はこうなってしまったけれども自分の心の中では体育館も校舎もあの時のまんまなんです。ここで朝から晩まで生活していたわけで、だから大切にしたいって子どもたちも言っているんです。震災遺構の問題は各地でいろんな議論がされていますが、大川小学校の旧校舎は複雑な事情もあって議論にすらされてもらえなかった。そんな中で去年あたりから高校生、妹や友だちを亡くした子どもたちが4年半必死になって生きてきて、「学校を残したい」ということを勇気を出して発信しはじめました。うちの娘の同級生とかここの卒業生たちですね。私たちの楽しい思い出の集まった母校。特に大川地区は「ここ」しかない。町も生活も何もなくなってしまった。全部壊したくないという気持ちがあると思う。あとはあの悲しみを繰り返さないためにも。津波の威力とかそういうものを伝えてくれるのがこの建物だと子どもたちは言っているし、私もそう。一方で、「辛いから、見たくないから壊してほしい」という気持ちもやっぱり大事。子どもたちもそう言っている。だから誰も間違ったことを言っていない。みんなでそれを聞くところから始めたいと思っている。まずそれを話し合える、出しあえる場をなかなかも受けてもらえなかったので、そこからだと思います。いろんな時間的な制約があって、石巻市では議論する前に費用の計算をしている。それはちょっと残念なやり方だなと私は思っています。50年先、100年先を考えて話し合ってもいいんじゃないかなと私は思っています。
そして佐藤さんの長女、そのみさんは、大川小の卒業生たちとともに、「大川小の校舎を残す・保存する」呼びかけを始めていて、先日の、国連防災会議でも自分たちの意見を発表したといいます。
父親である佐藤さんは、そんなそのみさんの「成長」も強く感じているようです。
◆あいつなりに向き合っているんだな。
2つ下の妹ですごく仲が良くていつも一緒だった。だからショックだったと思うんです。名前はそのみと言うんですが、そのみは作文を書いたんです。その作文には「いつもの自分が流された」って書きました。いつもの自分が無くなって本当の自分が見えたと。今までいかに、いろんなものに寄りかかっていたか。本当に自分がやらなければいけないことを今やらないと後悔するということが分かった、ということを書いていて。弁論大会に出るタイプじゃなかったんですけど、出場して発表したりしてあいつなりに向き合っているんだなと。うちの娘は小さいころから映画が作りたかったんです。「大川の映画が作りたい」と。震災があってかなりしぼんじゃったんですけど、逆にその夢は「震災」という次元が加わったみたいです。だからそっちの世界へ行こうとしています。いま大学生でちょこちょこカメラを回しています。
佐藤さんは大川小のおとなり、女川中学の先生でしたが、現在は教職を退き、こうした語り部の活動などに専念。語り部として、時には、全国からやってきた高校生を案内することもあるそうです。高校生・・・もし、次女みずほさんが生きていたら、ちょうど同じ年代です。佐藤さんは「この4年半という時間に想いを馳せてほしい」と、高校生たちに語り掛けていると言います。
明日は、佐藤敏郎さんと子どもたちによる、東日本大震災に学ぶディスカッションの模様をお届けします。
全校児童108名のうち74名が死亡・行方不明となり、教職員の方も10人が亡くなった大川小学校。今も「助ける方法があったのでは」という、疑問が解決していない場所です。そしてこの場所で、語り部を続けているのが、「小さな命を考える会」代表の佐藤敏郎さん。次女で、当時 大川小の6年生だった佐藤みずほさんのお父さんです。
佐藤さんは、津波でみずほさんを亡くされているんですが、もう2人お子さんがいます。いま大学に通っているご長女、そして就職を控えたご長男。
この2人のお子さんをはじめ、津波を免れた子どもたちは、4年半を経て、自分たちの意思で、町の将来を考え始めたと言います。
◆旧校舎の保存をめぐって
うちの娘は大学生なんですけど、大川小出身で、今は校舎はこうなってしまったけれども自分の心の中では体育館も校舎もあの時のまんまなんです。ここで朝から晩まで生活していたわけで、だから大切にしたいって子どもたちも言っているんです。震災遺構の問題は各地でいろんな議論がされていますが、大川小学校の旧校舎は複雑な事情もあって議論にすらされてもらえなかった。そんな中で去年あたりから高校生、妹や友だちを亡くした子どもたちが4年半必死になって生きてきて、「学校を残したい」ということを勇気を出して発信しはじめました。うちの娘の同級生とかここの卒業生たちですね。私たちの楽しい思い出の集まった母校。特に大川地区は「ここ」しかない。町も生活も何もなくなってしまった。全部壊したくないという気持ちがあると思う。あとはあの悲しみを繰り返さないためにも。津波の威力とかそういうものを伝えてくれるのがこの建物だと子どもたちは言っているし、私もそう。一方で、「辛いから、見たくないから壊してほしい」という気持ちもやっぱり大事。子どもたちもそう言っている。だから誰も間違ったことを言っていない。みんなでそれを聞くところから始めたいと思っている。まずそれを話し合える、出しあえる場をなかなかも受けてもらえなかったので、そこからだと思います。いろんな時間的な制約があって、石巻市では議論する前に費用の計算をしている。それはちょっと残念なやり方だなと私は思っています。50年先、100年先を考えて話し合ってもいいんじゃないかなと私は思っています。
そして佐藤さんの長女、そのみさんは、大川小の卒業生たちとともに、「大川小の校舎を残す・保存する」呼びかけを始めていて、先日の、国連防災会議でも自分たちの意見を発表したといいます。
父親である佐藤さんは、そんなそのみさんの「成長」も強く感じているようです。
◆あいつなりに向き合っているんだな。
2つ下の妹ですごく仲が良くていつも一緒だった。だからショックだったと思うんです。名前はそのみと言うんですが、そのみは作文を書いたんです。その作文には「いつもの自分が流された」って書きました。いつもの自分が無くなって本当の自分が見えたと。今までいかに、いろんなものに寄りかかっていたか。本当に自分がやらなければいけないことを今やらないと後悔するということが分かった、ということを書いていて。弁論大会に出るタイプじゃなかったんですけど、出場して発表したりしてあいつなりに向き合っているんだなと。うちの娘は小さいころから映画が作りたかったんです。「大川の映画が作りたい」と。震災があってかなりしぼんじゃったんですけど、逆にその夢は「震災」という次元が加わったみたいです。だからそっちの世界へ行こうとしています。いま大学生でちょこちょこカメラを回しています。
佐藤さんは大川小のおとなり、女川中学の先生でしたが、現在は教職を退き、こうした語り部の活動などに専念。語り部として、時には、全国からやってきた高校生を案内することもあるそうです。高校生・・・もし、次女みずほさんが生きていたら、ちょうど同じ年代です。佐藤さんは「この4年半という時間に想いを馳せてほしい」と、高校生たちに語り掛けていると言います。
明日は、佐藤敏郎さんと子どもたちによる、東日本大震災に学ぶディスカッションの模様をお届けします。