2015年7月31日

7月31日 北限の海女フェスティバル


今朝は、岩手県久慈市、小袖海岸の「小袖海女センター」であさって日曜日に行われる、「北限の海女フェスティバル」について、実行委員会の鈴間佳衣子さんに伺いました。

小袖海岸は断崖と赤銅色の岩礁がつらなる景勝地で、「あまちゃん」で有名になった「北限の海女」さんたちの素潜り漁が見られる場所です。

詳しくはこちらのサイトをご確認ください

北限の海女フェスティバル



そして東北は夏の祭りが、この週末から一斉に行われます!

◇盛岡の「さんさ踊り」は8.1〜4
◇弘前の「ねぷた」は8.1〜7、青森の「ねぶた」は8.2〜7
◇秋田の「竿灯」は8.3〜6
◇仙台の「七夕まつり」は8.6〜8
◇山形の「花笠まつり」は8.5〜7
◇福島の「わらじ祭り」は7.31〜8.1  

東北まつりネットワーク

2015年7月30日

7月30日 石巻「STAND UP WEEK2015」開催!


宮城県石巻市の夏の恒例イベント『石巻STAND UP WEEK』についてお届けします!

大正時代から続く石巻の伝統的なお祭「川開き祭り」が、今週末・7月31日(金)、8月1日(土)に開かれますが、これに合わせる形で、先週からスタートしているのが震災後に始まったクリエイターたちによる大きなイベント『STAND UP WEEK』です。

このイベントを主催するのはおなじみ、ISHINOMAKI2.0.先日、このSTAND UP WEEKの今年のコンセプトをお披露目する、東京のリリースパーティーが行われました!

◆石巻という未来に参加しよう!
一般社団法人ISHINOMAKI2.0 代表理事 松村豪太さん
Stand up week 2015 『石巻という未来に参加しよう。』が今年のテーマ。7月24日から8月1日まで実施。2011年はまだ電気も点らず瓦礫が残る石巻で、僕らISHINOMAKI2.0の最初のアクションとして、いまこの町だからこそ面白く新しい、モデルとなるものが作れるのではないかと考えました。映画館が流されたがビルの影は残っていた。そこにニューシネマパラダイスの最後のシーンさながらにここをスクリーンにすればシネコンよりも面白い体験ができると考えた。川沿いは大変な被害で流されてしまったのですが、美味しい食材と素晴らしい料理人はいる。ならばこの川沿いの景色を津波が押し寄せたところとネガティブに捉えるのではなく、川の風邪を感じられる良いところと考えようと。地元の料理人たちに一品ずつ持ち寄ってもらってその日限りのスペシャルなレストランを出現させた。サッカーフィールドを作ることはできないが、10m四方の小さなピッチを作りDJがそこで音楽をかき鳴らすことはできる。僕らは若者に力を与えたいと考えている。ライゾマティックスという増上寺のプロジェクションマッピングを作った世界的なクリエイターがいるが、彼らが信じられないことに自分たちの作品ではなく、石巻の高校生たちを教育してインタラクティブなプロジェクションマッピングを作っちゃいました。本当に多くの観客がそれを楽しみました。

STAND UP WEEK 総合ディレクター勝邦義さん
元々いろんなアイデアからスタンドアップウィークを始めたが、根本には石巻の川開き祭りという伝統的なお祭があり、それを盛り上げたいと考えた。石巻の誇りとなっているこのお祭自体をもう少し良くしたいという想いからスタートした。今年一つ大きく取り組みたいのは、震災から5年間中断していた七夕飾りを今年はやろうということ。子どもたちがすごく楽しみにしていた景色をいろんな人たちと一緒に作るということを通じて、今年のスタンドアップウィークの町びらきを試みたいと思っている。七夕以外にも石巻のモノ作り、創造的な価値観に触れられるようなクリエイティビティへの参加、新しい観光として町と関わるものがたくさん起こっており、それに参加するプログラム、さらに石巻の路上で起こっている面白い文化がスタンドアップウィークの軸となっています。


石巻で開催中の『STAND UP WEEK』、まだまだこの週末も続きます。川開き祭りと合わせて、いろいろな企画を実施。例えば・・・
〇石巻から牡鹿半島を往復する自転車のイベント「ポタリング」。これ、ロードバイクが趣味の方にはかなりおススメ。結構 起伏の多い山道、石巻の海を見渡す高台など見どころたくさん。
〇町の建物の壁を巨大プロジェクター代わりにして、そこで懐かしのファミコンを楽しむ「町ゲーム」
〇七夕飾りを作るワークショップ
〇スケートボード、BMX、フットサルなどを楽しめる「プレイ・オン・ザ・ストリート」などなど。。。

〜詳しくは、STAND UP WEEKのサイトをご覧ください。

公式サイトはこちら

2015年7月29日

7月29日 石巻(いすのまぎ)カルタ2

昨日に引き続き、『石巻かるた』についてお届けします。

石巻出身・東京在住の浅野郁美さんと、東京の自由大学で東北復興学を受講したメンバーが発案した、宮城県石巻市の「あるある」を、カルタにしたものです。


今週末には、石巻の「川開き祭り」で、カルタ取り大会が開かれるのですが、今日はそのリハーサルがてら、どんな札があるのか実際に紹介したいと思います。(※読み手はもちろん石巻弁ネイティブの浅野郁美さんでした)

◆んだ!んだがら!!んだがらっしゃ〜!!!
<あ>

「雨降っと! においでわかる天気予報」
 雨が降る前は石巻の町の中がくさくなる。海のほうから吹く風が雨雲を運ぶのか、雨雲がくるから海から町に風が吹き付けるのかはわからないんですが、海の近くの水産加工工場や大きな製紙工場の匂いが町に流れ込んで来たらいよいよ雨降るぞ、というのが石巻の人たちにとってはあるある。くさくなってきたら洗濯物を取り込むというのは石巻の人に「んだんだ」と言ってもらえる札じゃないかなと思う。

<ん>

「んだ んだがら〜 んだがらっしゃ〜!」
石巻で一番ポピュラーな相槌。「んだ」はよくみなさんご存知だと思うが、「んだがら」「んだがらっしゃ〜」と徐々に同意の度合いが深まる。そうですね、そうですねという気持ちがどんどん入っていく。これを使いこなせたら石巻の人も認めてくれる。漁業の町なので海で取れたものがご近所からおすそ分けがくるのが当たり前で、例えば、「またおらいにイカばっかりきたよ〜(うちにまたイカのおすそわけが来ましたよ)」と言ったら、「おらいもだ、んだからっしゃ〜」って言う(笑)おばあちゃんが多いので。もう一つ思いつきました。「最近天気が悪いから、足腰痛くてわかんねえ」「んだからっしゃ〜」(天気が悪いと気圧の関係で腰が膝が痛くなったりする時に、相手が「そうだね、大変だね」という意味も込めて、んだからっしゃ〜。

<か>

「川開き 出店ほとんど 海の幸」 川開きは石巻で一番のお祭。港町なのでダイナミックに貝やイカを焼いている。そういう想い出を描いた札。川開きは町の一大イベントなので、好きな人と出かけて花火を観る。どこからでてきたんだろうというくらい石巻の人がわんさか出てくるお祭。


ちなみにスタッフお気に入りの絵札はこれ↓

さて、どんな札でしょうか。知りたい方はぜひカルタ取り大会に参加してください!

そしてこのカルタは、石巻で暮らす大人と子ども、おじいちゃん・おばあちゃんをしっかり繋げる役割も、果たし始めているんです。

◆石巻の人々を繋ぐツールに
石巻グランドホテルで開催。お部屋にかるたの紹介分、解説文を張ったところ、来て頂いた方が、「そうだったそうだった」、「おばあちゃんはこうだったんだよ」とお孫さんに話す姿も見られた。本当にやってよかったと思った。地元の方々があるあるを共有して、繋がるツールになればと思って作ったので、それが繰り広げられている感じがして嬉しかった。もっともっと多くの人に観て頂きたいし触れて頂きたい。「んだんだ」と言って欲しい。おこがましいけどそう思っています。


そして、石巻市では今週末に、町最大のお祭川開き祭りが開かれますが、8月1日(土)の午後1時から3時まで、石巻市中央の「まきビズ」にて、かるたとり大会も開催されます。参加は自由。勝ち続けると「段位」がもらえるということです。



石巻かるたは手作りで数が限られます。現在は市販はされていませんが、今後も仮設住宅など色んな場所でかるた大会を実施したいということです。

★石巻カルタFacebook

2015年7月28日

7月28日 石巻(いすのまぎ)カルタ1

きょうは、宮城県石巻市出身の方のアイデアから生まれた、ちょっと楽しい、昔ながらの遊び道具のお話です。

はい。それが「石巻かるた」です!!


今週末に石巻市で開かれる、「川開き祭り」でも、このかるたを使ったイベントが行われます。どんなものなのでしょうか。このアイデアを考えた、石巻市出身の浅野郁美さんに伺いました。

◆石巻の人ならみんな「んだんだ!」
石巻カルタ、正式には「いすのまぎカルタ」。いろはにほへとの48文字に石巻の「あるある」を当て込んで作ったカルタ。石巻の人なら「あるある」「んだんだ」と思う名称、小学校で習う言葉、ほかの地域の人は知らない有名人などを当て込んで作った。


これを考えた石巻出身の浅野さんは、東京で会社員をされています。震災後、東京のコミュニティカレッジ「自由大学」で、東北の復興を考える講座に参加。ほかの生徒たちとともに、石巻カルタのアイデアを形にしていったと言います。

◆「しちがつ」じゃなくて「すつがつ」
私の家は、マンガッタンという観光名所の中瀬公園の島のすぐそば、北上川のすぐそばにあったんです。私は東京で被災して、両親は旅行中でたまたま家を空けており、その時に津波が来て家が流されてしまった。帰るべき実家が無くなり、ただの魚臭い田舎の町だったのが、私が知っている石巻じゃなくなっちゃったなと。その想いで、魚くさい小さな田舎町の石巻をどうにか形にして残したいと思って。私の妹が群馬県にお嫁に行ったんですが、そこの「上毛カルタ」をヒントに。群馬の人はみんな上毛カルタを知っていて、読み札のネタも地元の名士の名前だったりする。それを嬉々としてお話してくれる群馬の人たちを面白く感じて、じゃあ石巻バージョンも出来ればなとアイデアを考えた。そんなにたいそうなものではなく、身近なネタ、あそこ美味しかった、大福売りのおじいさんがいた、雨の前はすごく町が臭かった・・・という(笑)、半径5mくらいのことをカルタにして石巻を残せればと思った。
石巻にいた頃は早く仙台に行きたい、東京に行きたいと思っていたが、今になって石巻の良さ・面白さが分かる。友達に面白がって何度も言わされたのが、1月、2月、3月と数えて行って、7月は石巻弁で「すつがつ」になるというもの。この鼻濁音が面白いそう。ちょっとやそっとじゃ出せない発音が初めて聞く人には面白いらしい。何かにつけて「すつがつ」を言わされた。今まで恥ずかしかったけど、それをネタにしたら面白いしハッピーになる。友達のおかげで石巻という出身地を楽しめるようになった。1月、2月、3月、4月、5月、6月、すつがつ。難しい。「す」がなかなか出せない(笑)


この石巻かるたは、今年1月に東京大森にある「石巻マルシェ」で初めてのかるたとり大会が行われ、その後、今年5月に石巻での初お披露目されました。やはり地元・石巻の方々は、「あるある!んだんだ!」と相当
喜んだそう。



そして、石巻 川開き祭りの8月1日(土)には、石巻市中央の「まきビズ」にて、午後1時からかるたとりイベントを開催。こちら、午後3時までなら、いつでも自由に参加できるということです。

★石巻カルタFacebook



あしたも、石巻かるたについて。明日は実際に、かるたで遊んでみたいと思います!!


2015年7月27日

7月27日 相馬市「相馬野馬追」

今朝は福島県相馬市南相馬市を中心とする相双地区で開催中の伝統行事、「相馬野馬追い」に注目します。

旧相馬藩の時代から1000年以上続く国の重要無形民俗文化財「相馬野馬追」。
戦国時代の〔軍事訓練〕から始まったもので、勇壮な出陣式に始まって、騎馬武者による行列、旗をなびかせて疾走する「甲冑競馬」、数百騎の騎馬武者が旗=御神旗を奪い合う「神旗争奪戦」と、壮大な歴史絵巻が繰り広げられます。

震災の年、2011年にも、“祭りの灯を絶やしてはならない”と開催された「相馬野馬追い」。土曜日、時おり小雨のパラつく天気の中、相馬中村神社で行われたのが「出陣式」です。出陣は、総大将のいる相馬中村神社、そして相馬太田神社、相馬小高神社、それぞれで参拝と祝杯が行われて、一斉に出陣。街なかを戦国時代そのままの騎馬武者たちが行進して、野馬追の中心会場でもある「雲雀ヶ原祭場地」を目指します。



土曜日に出陣式、そして昨日日曜日の「本祭り」では約500騎の騎馬武者が居並ぶ「お行列」や兜を脱いで白い鉢巻を締めた武者たちが旗をなびかせて疾走する「甲冑競馬」、打ち上げた花火から落ちてくる旗=御神旗を奪い合う「神旗争奪戦」が行われ、そして今日の最終日は、馬具を取った裸馬を素手で捕まえて奉納する、「野馬懸」がこのあと9時から行われます。

土曜日、相馬中村神社の近く新しくできた相馬市の観光の拠点「相馬市千客万来館」へも行ってきたんですが、市内の観光情報が集約されていて、宿泊情報なんかも網羅していますので、相馬市へ観光で訪れた時にはぜひ立ち寄ってほしいと思います。

2015年7月23日

7月23日 南三陸町「長須賀海水浴場復活大作戦」2

今日も、宮城県南三陸町の「長須賀海水浴場復活大作戦」の話題です!

東日本大震災の前、宮城県内におよそ30あった海水浴場のうち、今年海開きを迎えられるのは、5か所のみ。

そのうちの一つ「長須賀海水浴場」は、民間ボランティアの力で、2013年から砂浜の清掃とビーチの運営を行っています。プロジェクトの中心人物、仙台出身の潜水士、勝又三成さんを動かしたのは、「地元の海で泳ぎたい!」という、子どもたちの声でした。

◆地元の高校生たちの思い
今年のオープンは8月1日〜10日まで。10日間のみの運営。海水浴場をオープンしている間地元の高校生を監視員として雇っている。被災地なのでアルバイト先がほとんどない。そういった子供たちも、地方に出てしまうよりも、こういった地元の海のために地元の子供たちが安全に遊べるように監視して、それで時給がもらえたらいいんじゃないかと思って、地元も高校生を雇用している。海に恩返しするつもりだとか、自分たちがいままで遊ばせてもらった海だからとか、震災があってこんなに素晴らしいものがあったと気付かせてくれたとか、これを見てくれてうれしい、これは僕たちがやるべきこと、などと話してくれる。
(震災当時)小学生だった子供たちが中学生になり、中学生は高校生に、さらに社会人になっている子供たちもいる。彼らの意識がどんどん高くなって、地元のために、自分たちよ小さい子供たちのためにと考えているから、それはすごくかっこいいことだなと思って。

また、勝又さんは潜水士として、いまも月に1回は南三陸の海に潜り行方不明者の捜索を行っています。

◆遺留品が見つかった方角に手を合わす
潜水士としてずっと行方不明者の捜索を行ってきた。いま震災から4年4か月たって、本当に行方不明者が見つかるの?見つからないんじゃない?と言われることがほとんど。実際、身体がまるまる見つかることはほとんどないが、4か月前にも腰骨が見つかったりしている。いま宮城県には1242名の行方不明者がいるが、先月も3人の方が見つかって、身元がわかったりしている。
僕たちもガレキの撤去で潜ったら財布を見つけて、そこにクレジットカードが入っていて、名前からどこどこの集落の人だとわかったりする。そうすると、その集落で行方不明になっている人の家族は「自分の家族は太平洋のどこに行ったかわかなかったけれど、あのあたりに流れたのかもしれないなと思って、手を合わせてお祈りするだけでも、気持ちが落ち着く」と言ってもらえる。僕らが潜って、行方不明者の捜索をするだけでなく、なにか遺留物を見つけるだけで行方不明者の家族の方の癒しであるとか、心の支えになっているのではと思う。
実際子供たちを見ると「海水浴場で遊びたい!」という健気な思いがある。一方で、絶対わすれちゃいけないのが、震災でみんなつらい思いをしたけれども、家族がまだ見つかっていない人が一番苦しくて、どんなに明るい話題が増えても自分の心にはぽっかり穴が開いている。そこを忘れてはいけないと思う。忘れて楽しいことばっかりやっていては、それは違うよねと話している。そこを忘れずに、海で遊ばせてもらう、その両方をしっかり子供たちやボランティアの人たち、海で遊ぶ人たちにもわかってもらいつつ、海から離れるのではなく海と親しめる環境づくりを頑張っている。


手弁当で行っているこの取り組みで、いつまで続けていくのか葛藤することもあるけれど、子どもたちの成長や、サポートしてくれる人の声に支えられて続けていると、話してくれました。


★長須賀海水浴場の海開き★
長須賀海水浴場 ことしは8月1日から10日間限定でオープン!

長須賀海水浴場復活大作戦facebook


2015年7月22日

7月22日 南三陸町「長須賀海水浴場復活大作戦」

今朝は、宮城県南三陸町を舞台にした、民間ボランティアによるプロジェクト「長須賀海水浴場・復活大作戦」の話題です!

◆石巻市桃生町から来ました。
小さいときからずっとここに来てたので。石巻、牡鹿、雄勝など、全部砂浜だったんだけど、(震災で)だいぶなくなってしまった。ぜひとも(ここの砂浜は)なくさないでほしい。
◆登米市から来ています。
近くで泳げるところがここしかない。子供たちが海や水遊びが好きなので、残してほしい。夏になったら子供たちと一緒に泳ぎに来たい。砂浜自体が近隣からなくなってしまったので、せめてここだけは残してほしい


7月上旬、長須賀のビーチで水遊びをしていた方たちの声です。聴こえてくるのは、「やっぱり地元の海で遊びたい」という思い。

そんな地域の方の声にこたえる形で、民間のボランティア団体が取り組んでいるのが、南三陸町の「長須賀海水浴場復活大作戦」です。プロジェクトの中心人物、仙台出身の潜水士、勝又三成さんのお話です。

◆震災前は、白い砂浜が続いていた
南三陸町の歌津にある長須賀海水浴場というところ。震災前はここは約2キロの砂浜があって、その砂浜が北海道で使われるアイヌ語の「オタエツ」(白い砂浜がある場所)という名前から、ここの地名の「歌津」がお多恵津から歌津の人たちは自分たちの故郷の名前の原点であるこの砂浜を愛している。なにせまたきれいな海なので、年間平均3万人くらいの観光客が足を運び、民宿が立ち並ぶ人気の海水浴場だった。もちろん被災して砂浜がほとんどなくなってしまい、これから防潮ができたり、地盤沈下をしているという中で、ここは(町が運営を再開するのは)難しいだろうと言われている海水浴場。


震災で多くの知人、友人を多く失った勝又さんは、「自分になにかできることはないか」と考えて、震災の翌年、2012年の夏、つながりのあった南三陸の子供たちを沖縄の海に連れていきました。

◆やっぱり地元の海で泳ぎたい
ここの子供たち24名を沖縄に連れて行って、沖縄のビーチで遊んで、海がこんなにきれいなんだよ、海に慣れてほしい、安心してほしいという思いから連れて行った。沖縄の海はきれいで、きれいな海に行きたくなるのは自然なことと、割と安易な気持ちから子供たちを沖縄に連れて行った。ところが、子どもたちは「きれいな海」とか「どこの海」とかではなく、「誰と一緒に遊んだか」という想い出のほうが深い。沖縄に連れて行ったところ、「やっぱり地元の海で泳ぎたい」という子供たちの声に、衝撃を受けた。「なんで?」と子供たちに聞くと、「あの時●●ちゃんと一緒に深いところまで行ったことがスリル満点ですごく楽しかった」「みんなで砂浜に埋めあいっこして遊んだ、その記憶が楽しい」ということで、想い出はここ(南三陸)にある。いくら沖縄の海に行っても、海はきれいだが、故郷の想い出には勝てない。それを子供たちの口から聞いたときに、「あー、俺の考え方は安易すぎた。みんなの想いはここにあるんだ」と気が付いた。しかも家が流されて、友達がみんなバラバラの仮設に入っていくとか、県外に出て行って友達とも離れてしまう環境があって、みんなさみしいんだということがわかった。だったら、みんなの想い出の海はこんなにガレキだらけだけど、ガレキを自分たちでどけてみよう、みんなで毎週土日清掃活動をがんばろうねと。そこから4か月後にオープンした。
その間、自分たちの活動を知った世界中の人たちが助けに来てくれたり、福島で放射能の問題や津波で家を流された方たちが、こっちに来て、子供たちが頑張っているならと、重機を持ってきて砂浜を彫り上げて、埋まっているガレキを取り除いてくれたりとか。いろんな被災地の人たちや、全国、世界の人たちに助けてもらってできあがった海ですね。


防潮堤の工事の影響、また震災で駐車場やトイレが使えなくなってしまったことから、町は海水浴場の再開を断念している状態。そんな中、勝又さんたちが、クラウドファンディングも利用して、民間の力で海水浴場をオープンしたのは、震災2年後の2013年のこと。
今年も地元の小中高校生、民間ボランティアによるビーチクリーンを行い、8月1日の「海開き」に向けて準備を進めています。8月1日〜10日まで、10日間限定の海水浴場。150メートルの区域をプライベートビーチとして無料開放します。

LOVE&HOPE、明日も「長須賀海水浴場復活大作戦」の話題です。

2015年7月20日

7月20日 塩竈みなと祭

今日は海の日。そこで今日は、東北の海水浴場の話題です。

宮城県塩竈市にある桂島海水浴場は、震災前は幅600メートルの砂浜が広がる人気のビーチでした。震災後は、一時営業を見合わせていましたが昨年2014年、遊泳区域を100メートルに限定しながらも、3年ぶりにオープン。震災前とほぼ変わらない、4700人が訪れて、活気を取り戻しました。そして今年は、2日前の7月18日(土)に海開きが行われたばかり。150メートルの区間で海水浴が楽しめます。

海開きとともに、町の方たちが心待ちにしているのが、「塩竈みなと祭」。今年68回目を迎える伝統の祭りは、昨夜前夜祭の花火大会が行われ、今日祭りのメイン、神輿の海上渡御が行われます。

日本酒「浦霞」で知られる地元の老舗造り酒屋、冨谷圭輔さんもこのお祭りを毎年楽しみにしていると話します。

◆2つの神輿が海上渡御、100艙の漁船が連なる祭
非常に塩釜は歴史をはじめ神社もそうですし社を中心にして、暑い祭りの1日があるんですよね。なんといっても塩竈には1948年に始まった「みなと祭」というのがある。塩竈神社の重さ1トンの輿が2つあるが、塩竈神社を出発して202段ある階段を降りて、町の中を練り歩き、その後港から船に乗って松島湾を海上渡御する。その後ろに100艙の漁船が連なっていく。これはほんとに勇壮ですごい。それでまた町の中に戻ってきて、最後202段の坂を上がるところはすごく神々しくて、感動する。
実はこの「みなと祭」が昨年11月に賞をいただいた。総理大臣賞。これは単に海上渡御がすごいということではなく、市民が一体となって祭りをつくっていうところが評価された。ボランティアはじめ、市民みんなが一つになっている。踊りなどもあって、本当に熱い一日になる。
「東北の夏は塩竈から始まる」とも言われ、気持ち的には最高潮に「夏が来たぞ!」と盛り上がる一日。そういう「失われるつつあるもの」がきちっとここにあるというのが塩竈の大きな魅力。ぜひ観に来てもらいたい。



ちなみに、この「海上渡御」のおすすめビューポイントは「202段の階段の上り降りや、港から船に乗って神輿が出てゆくとこ」。また、桂島や野々島など島のほうで待ち受けて見物するのもおすすめとのことでした。
   
「塩竈みなと祭」神輿の海上渡御は、今日10時30分スタートです。

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そして宮城、岩手、福島の今年2015年の海水浴場の情報もまとめてお伝えしておきましょう。

2015年岩手県内の海水浴場
岩手県。「あまちゃん」の故郷、久慈市の舟渡海水浴場や、景勝地としても知られる宮古市の浄土ヶ浜海水浴場など8か所がオープンします。

2015年宮城県内の海水浴場
宮城県。桂島海水浴場のほか、気仙沼大島の「小田の浜海水浴場」など5か所。

2015年福島県内の海水浴場
福島県。いわき市の四倉と勿来の2か所。

LOVE&HOPE、明日はなでしこジャパン、大儀見優季選手が語る東北の復興です。

2015年7月17日

【試写会のお知らせ】 7月26日(日) 『波伝谷に生きる人びと』特別試写会@東中野ポレポレ坐

LOVE&HOPEでは、8月1日から東京・ポレポレ東中野から公開スタート
映画『波伝谷に生きる人びと』の特別試写会を実施します。





震災前の宮城県沿岸部の小さな集落にはどんな営みがあり、人々はどんな想いで集落を守ってきたのか、貴重な映像とともに描かれた作品です。東日本大震災以降、私たちは「震災後の東北」に目を向けてきましたが、この作品は、「震災前」に確かにそこにあった、人々の暮らしが生き生きと描かれています。この作品を観ることで、私たちは東北を本当の意味で知ることに繋がると考えます。

●日時:7月26日(日) 12時30分開場・13時スタート
●場所:東京 東中野「ポレポレ坐」 http://za.polepoletimes.jp/
●ご招待:15組30名様
●上映前に我妻監督・高橋万里恵によるトークセッション実施

●映画サイト http://hadenyaniikiru.wix.com/peacetree
希望される方はこのブログのメッセージフォームに、「試写会希望」と書いてご応募ください。

※当選者にはメールでお知らせします。メールアドレスを必ずご記入ください。

※締め切りは:7月19日(日)です。

2015年7月17日

7月17日 映画『波伝谷に生きる人びと』 我妻和樹監督(3)

今朝も、8月1日から東京・ポレポレ東中野から公開スタート、この番組でも試写会を行う映画『波伝谷に生きる人びと』の監督インタビューです。

宮城県南三陸町の小さな集落・波伝谷。そこには、人口減少が進む中、集落の伝統を守り暮らしを営む人々がいました。しかし、およそ80軒あった集落は震災で壊滅、16名の方が犠牲に。そしていま、波伝谷という共同体は、大きな変化の中にいると言います。

震災前から波伝谷を見つめてきた、我妻和樹監督に伺いました。

◆震災から4年を経て
いまは高台の造成も進み、ずっと仮設住宅に住んでいた人々が高台に新居を構え始めている。元の軒数の半分の40戸が波伝谷に家を建てて残っている。それ以外は町の公営住宅に入る人もいれば、外に行って戻れなくなっている人もいる。地域をまとめていた「契約講」の存在意義が問われて、波伝谷の新しい高台造成地に家が建ったとして、波伝谷に残る人たちがどういう風にまとまっていけばいいのかを、今の契約講の役員さん、若い年代の人たちが本格的に考えなければいけない状況に来ている。獅子舞は、なんとなく震災前の雰囲気に戻ってきた感じがする。震災の翌々日が獅子舞の日だった。それが震災でできなくなってしまったが、2012年に復活させる時にやっぱり震災1年という時期は複雑で、人間関係も地域も揺れ動いていた。その中で獅子舞を復活させた。波伝谷から避難して戻ってこられないおじいさん・おばあさんも復活に願いを込め、波伝谷との距離を再確認した。よりどころだった。いろんな思いがあって復活した獅子舞が、だんだんと明るい雰囲気が戻ってきている。その日に向けて外に出た若いお兄ちゃんもみんな戻ってきて笛を吹いたりする。そういうのを見ると波伝谷ってすごいなと思いますね。


高映画『波伝谷に生きる人びと』は、震災前の波伝谷を中心に構成していますが、我妻さんは、これから先の波伝谷も、見つめていきたいと考えています。

◆特別な人たち
感謝というか、他人とは全然思えない。不思議な存在。すごく身近だけどどこか遠い。例えば、自分の周りから大事な人たちがみんないなくなっちゃったとしても、自分には波伝谷があるという部分は僕の中である。特別な人たち。


★ ★ ★ ★ ★

LOVE&HOPEではこの『波伝谷に生きる人びと』の試写会を実施します。
震災前の宮城県沿岸部の小さな集落にはどんな営みがあり、人々はどんな想いで集落を守っているのか、貴重な映像とともに描かれた作品です。

●日時:7月26日(日) 12時30分開場・13時スタート
●場所:東京 東中野「ポレポレ坐」 http://za.polepoletimes.jp/
●ご招待:15組30名様
●上映前に我妻監督・高橋万里恵によるトークセッションもあります

●映画サイト http://hadenyaniikiru.wix.com/peacetree
希望される方はこのブログのメッセージフォームに、「試写会希望」と書いてご応募ください。
当選者にはメールでお知らせします。
※締め切り:7月19日(日)。

2015年7月16日

7月16日 映画『波伝谷に生きる人びと』 我妻和樹監督(2)

きのうに引き続き、8月1日から東京・ポレポレ東中野で公開、この番組でも試写会を行う 映画『波伝谷に生きる人びと』の監督インタビューです。


(※試写会の応募方法は、ページいちばん下にあります)

宮城県南三陸町の小さな集落・波伝谷。我妻和樹監督は学生時代、民俗学の研究でこの土地を調査しており、そこで出会った古くからの「獅子舞」をはじめ、人々の日常を見つめる中で、映画制作に思い至ったと話します。

◆変わりゆく集落を見つめることで
始まりは民俗調査だったが、映画を作るうえで心がけたのは、そこに生きている人たちの生の魅力を伝えたいということ。時代の流れの中でだんだん変わっていく部分がある。例えば獅子舞の行事は元々、波伝谷で80戸あるうちの半数以上の旧家層にあたる土地に昔から住んでいた人々による「契約講」というのがある。これは宮城の農山漁村では集落ごとにある自治組織。集落の物事を取り決めて祭を執り行い運営する。山や土地の資源を管理分配する。ただ、契約講で手に手を取って協力することも少なくなってきた。若い世代が減る中で獅子舞の行事も契約講を中心には維持できなくなった。そんな中で新しくできた家(契約講に属さない世帯)にも協力をお願いしてみんなでやるようになった。変えていかなくちゃいけない部分がたくさん出てきて、その中で葛藤する地域の方々の姿が見えてくる。それって日本のどこにでもある姿だと思う。波伝谷を深く見つめることで、人々の生き方やコミュニティの在り方、普遍的なテーマ、自分たちが生きている世界を足元からちゃんと見つめなおすことができるんじゃないかという。


「契約講」は、雑な言い方をすれば町内会のような組織。コミュニティを維持するうえで、大きな役割を果たしてきたのだそうです。我妻監督はこの、「契約講」の変化を大きなキーワードに据えて、震災前“そこにあった波伝谷の人々の営み”を記録。震災後も、波伝谷の人びとに寄り添い続けました。

◆生きている限り営みは続く
震災が起きても僕自身がやりたかったことは変わっていない。元々の地域というものと共にに生きる地方の生活者の姿を描きたい。ただ現地が被災して映画がそっちに向かっていくという構成にはなった。震災を経て自分自身が取り続けてきた震災前の映像に、どういう意味があるのかを考えた。たまたま波伝谷という字が「波を伝える谷」という字を書くので、その波伝谷を通してかつての東日本沿岸部の人の営みをちゃんと丁寧に描きたいということはすごく考えた。大きな災害を受けても人が生きている限り営みはこれからも続いていくということ、もっと根底にある部分を観に来てくれる人に感じてもらえるかというのを意識して映画を作った。


我妻監督が被災したのは、まさに映画の完成試写会の打ち合わせで波伝谷へ向かう途中だったと言います。その後も波伝谷へ通い、あしかけ6年かけて映画は完成。一昨年・昨年と各地のドキュメンタリー映画祭にも出品し、去年は「ぴあフィルムフェスティバル」の日本映画ペンクラブ賞も受賞しています。

★ ★ ★ ★ ★

LOVE&HOPEではこの『波伝谷に生きる人びと』の試写会を実施します。
震災前の宮城県沿岸部の小さな集落にはどんな営みがあり、人々はどんな想いで集落を守っているのか、貴重な映像とともに描かれた作品です。

●日時:7月26日(日) 12時30分開場・13時スタート
●場所:東京 東中野「ポレポレ坐」 http://za.polepoletimes.jp/
●ご招待:15組30名様
●上映前に我妻監督・高橋万里恵によるトークセッションもあります

●映画サイト http://hadenyaniikiru.wix.com/peacetree
希望される方はこのブログのメッセージフォームに、「試写会希望」と書いてご応募ください。
当選者にはメールでお知らせします。締め切りは7月19日(日)。

明日も、『波伝谷に生きる人びと』 我妻監督のインタビューをお届けします。

2015年7月15日

7月15日 映画『波伝谷に生きる人びと』 我妻和樹監督(1)

今朝はまもなく公開がはじまる、一本の映画についてお伝えします。


映画のタイトルは、『波伝谷に生きる人びと』
波伝谷は、三陸沿岸に突き出す、戸倉半島の北側。宮城県南三陸町の小さな集落の名前。リアスの豊かな海に恵まれ、カキやホヤの養殖が盛んな集落。徐々に人口が先細るなか、古くからの慣わし・文化を守りながら波伝谷の人々は生活を営んできました。

そんな集落に震災前から寄り添い、カメラを通して見つめてきたのが、我妻和樹監督(29)。出身は宮城県の内陸部・白石市。波伝谷とはもともと関わりも無かった我妻監督は、映画作りのきっかけをこう話します。




◆波伝谷の人々の営みを伝えたい
なぜ波伝谷で映画を作ることになったか。仙台の東北学院大学の文学部歴史学科で民俗学を学んでおり、人の暮らし・生き方を探っていた。大学入学時に民俗学ゼミと歴博の共同による県内の一地域を徹底的に調査して本を作るプロジェクトが立ち上がり、たまたま学生としていったのが、波伝谷だった。三月の第二日曜日に全戸を獅子舞が回る行事があり、そこではじめてその地へ行って見たもの衝撃的だった。全戸・全世代が行事に主体的にかかわり獅子舞を踊る。海で鍛えられた男たちが鮮やかな装束で踊る姿のカッコよさ、無礼講で一軒一軒ずかずか入りお酒を飲む姿、女の人はそれぞれが個性的な料理で振る舞う。そこに人と人とのつながりの強さが見えてきた。お祭が行われる背景にある日常の暮らし、人間関係とは一体どういうものなのかということで三年間かけて調査した。調査の成果を本としてまとめたが、完成したと同時に大学を卒業。波伝谷の魅力、生きる人たちの生き様を映画にしたいと2008年3月に大学卒業後映画製作を始めた。


こうして我妻監督は、2008年以降も波伝谷に通い続け、そこで暮らす人々の営みを、記録し続けました。震災後も、波伝谷での撮影を続け、あしかけ6年かけて『波伝谷に生きる人びと』を制作。完成した映画はすでに宮城県沿岸部11か所で上映会が行われ、8月1日からは東京・ポレポレ東中野で公開、さらに、順次全国での上映が予定されています。

★ ★ ★ ★ ★

LOVE&HOPEではこの『波伝谷に生きる人びと』の試写会を実施します。
震災前の宮城県沿岸部の小さな集落にはどんな営みがあり、人々はどんな想いで集落を守っているのか、貴重な映像とともに描かれた作品です。

●日時:7月26日(日) 12時30分開場・13時スタート
●場所:東京 東中野「ポレポレ坐」 http://za.polepoletimes.jp/
●ご招待:15組30名様
●上映前に我妻監督・高橋万里恵によるトークセッションもあります

●映画サイト http://hadenyaniikiru.wix.com/peacetree
希望される方はこのブログのメッセージフォームに、「試写会希望」と書いてご応募ください。
当選者にはメールでお知らせします。締め切りは7月19日(日)。


明日も、『波伝谷に生きる人びと』 我妻監督のインタビューをお届けします。

2015年7月14日

7月14日 いわき市「たまごの郷」(2)

福島県いわき市の「たまごの郷」。
震災前は、福島県大熊町で養鶏場を経営、卵の直売所とスイーツの販売を行っていた大柿純一さん。故郷を離れて避難生活を送りながら、事業の再開にこぎつけたのは、昨年5月です。

いわき市内の養鶏場でニワトリ1万2000羽を飼育し、新鮮な卵をふんだんに使ったスイーツを販売するお店もオープンしました。養鶏場の規模は大熊町時代の10分の1になりましたが、大柿さんにとっては、まさに「大きな一歩」。

原発がある双葉郡出身の養鶏農家で震災後事業を続けているのは、大柿さんただ一人です。

◆毎日夜になると夢を見る
大熊町はほんとうにのどかというか、梨とキウィフルーツの産地で、果物のおいしい町だった。温暖な気候で、海水浴場もあって、夏になると海開きがあったりお祭りがあったりした。
つい2週間ほど前に、1年ぶりに自宅に戻ったが、家ももうすぐつぶれるんじゃないかというような感じだった。家中カビだらけで、農場も半分は倒れかかって、ニワトリも死んだままの状態。言葉にできないというか、無残だなと。震災の3か月前に親父が亡くなっているので、その墓参りをかねての帰郷だった。わたしもいずれはその墓に入るつもり。
毎日夜になると震災前の夢を見る。そういう点では気持ちの整理がついていないのかもしれない。いまは仕事が忙しくて、振り返っても…という感じ。一か月ほど前に息子が戻ってきたので、できるだけ前向きに行こうかなと。三代目がやるということだから、前に進めないとだめだなと思っている。過去は過去として、これから先のことを考えていかないと。
やっぱり息子がいなければ(農場とお店を)再開する気にはならなかったと思う。いまから設備投資をして、借金を背負って、果たして返せるかなというのがあったと思う。

  
大柿さん。いまでは、三代目となる息子さんと机を並べて仕事をしています。

原発事故の影響でいまも全町民避難が続く大熊町。震災で大きく変わった大柿さんの仕事と人生ですが、いまは、いわき市での再出発に全力を傾けています。

お店はJR常磐線の泉駅から歩いて10分ほどのところ。
水族館「アクアマリンふくしま」もすぐ近くです。

◆ニワトリの飼育にはこだわっている!
まず卵の直売所なので卵を販売している。「いわき地養卵」という卵。ニワトリの環境にこだわり、ニワトリが入る鳥小屋は冬は暖かく夏は涼しい環境になっていう。ゆったりとした環境で飼っている。エサにもこだわり、よもぎや海藻などをやることで、卵としては甘くて味の濃い、生臭さのない卵になっている。
お菓子では、一番の売れ筋はプリンで、あとはカステラクーヘン。バームクーヘンもあるのだが、うちはカステラ上のバームクーヘンになっている。いわきにお越しの際はぜひお立ち寄りいただければうれしいですね。



いわき市内にニューオープンした「たまごの郷」、外観がかなりインパクトあります。デザイナーさんに頼んだら、驚きのデザイン、驚きの建築費にびっくり。「でも一目で“卵のお店”とわかるから、もとはとれているんじゃないかな」と大柿さん。飄々とした語り口の中に、仕事への誇りと故郷への思いが詰まっていました。

たまごの郷 詳しくはコチラへ

***

LOVE&HOPE、明日は、宮城県南三陸町、震災前の街や人々の姿を記録した、ドキュメンタリー映画「波伝谷(はでんや)に生きる人びと」、監督のインタビューをお伝えします。

2015年7月13日

7月13日 いわき市「たまごの郷」(1)

今日と明日は、福島県いわき市の「たまごの郷」からのレポートです。

直営の養鶏場から届く新鮮な卵と、その卵を使ったスイーツが人気の「たまごの郷」。お店を手掛けるのは、大柿純一さんです。大柿さんは、原発事故の影響で全町民避難が続く、福島県大熊町の出身。自宅は、福島第一原発からおよそ5キロのところにあり、お父様の代から受け継いだ養鶏場では、およそ10万羽のニワトリを飼育、卵を使ったスイーツも地元の方たちに愛されていました。

◆震災当時は次の日には帰れるかと・・・
大熊町というところで、親の代、50年ほど前から営業をしている。もともとは養鶏所が本業だが、15年ほど前からお菓子の製造販売を始めた。
震災当日は確定申告で役場にいて、大きな揺れが来た。お店に行ったり、農場に行ったりしたがひどい状態。農場もエサのタンクが曲がって、エサも水もやれない状況で。それに対処していたら、すぐに避難しなさいという避難命令が出て、自分の車で三春の避難所に避難した。そのときには、次の日ぐらいには(自宅に)戻ってこられるんだろうと思っていた。それは町民の人もほとんどの人は、2〜3日で戻れると思っていたと思う。2〜3日だったら、鶏たちもなんとか大丈夫だろうと思って、避難した。
避難所についたのが、次の日のお昼ぐらいで、その後3時ぐらいに爆発した映像がテレビで流れて、これでは帰れなくなるんじゃないかなと。

  
結局大柿さんは、従業員を全員解雇して、奥さんの実家がある茨城県で避難生活を送ることになりました。でも、そこであきらめないのが、大柿さんのすごいところ。避難生活を始めた直後から、農場とお店の再開に向けて動き出します。

そして震災から3年を経た昨年、いわき市内で養鶏場を再開。昨年5月には、卵の直売とスイーツの販売を手掛ける「たまごの郷」のリニューアルオープンにこぎつけました。

◆養鶏場ができる場所を求めて
(原発が)爆発したときからすぐに、とにかく養鶏場をまたやるつもりでいた。だから、日本全国、とくに関東を中心に、養鶏場ができる場所を探すというのが、日課だった。一つは、親父から引き継いだ仕事を自分の代で終わりにしたくないという思い、あとは跡継ぎの息子がいたということもある。だいたい40か所くらい探して回ったが、養鶏場ができるば所はそんなにない。そんな中、(福島県いわき市で)たまたま養鶏場をやっていた人から、売ってもいいですよという話が持ちかけられた。いわきで養鶏場を再開できたのは、大変幸運だった。遠いところだと知り合いもいなくて、なにかと不安だが、いわきなら(自分の故郷の大熊から)避難してきた人もたくさんいて、「以前は(大熊町の)お店に行ってたんだよ」「再開できてよかったね、楽しみにしていたよ」という声を聞くとうれしくなる。鶏の数はいまは1万2000羽で、ピークに比べると10分の1.もう少し増やしたい。
最初オープンのころは、お菓子は売れたが卵が全く売れなかった。それが1年経ってみると、お菓子の売り上げは変わらないが、卵の売り上げは3〜4倍になった。思ったほど風評被害が少なかったという印象。最初のころは「(放射能の影響は)大丈夫なの?」というと問い合わせもあったが、最近は全くといっていいほどない。毎月のように、卵だけでなく、エサ、水に至るまで、いろいろなものの放射能検査をしている。



1番人気の「えっぐプリン」のほかにも、ふわふわ生地の「ロールケーキ」や卵たっぷりの「かすてら」など、お店には自慢のスイーツが並んでいます。

店内には、フリードリンクのカフェスペースも設けました。
「被災した人たちが気軽におしゃべりできる憩いの場になれば」という思いからこのカフェスペースをつくったそう。

2015年7月10日

7月10日 ふたば未来学園(4)


今週は「ふたば未来学園」からのレポートです。正式名称は「福島県立ふたば未来学園高等学校」。原発のある双葉郡8町村の要望でこの4月に開校し、現在は一年生のみ152名が在籍しています。生徒のおよそ半数は自宅や仮設住宅から通い、残りの半数は、学校近くの寄宿舎で生活をしています。

4月からこの学校に通う生徒さんたちにも、話を聞くことができました。どんな思いでこの学校を選んだのでしょうか。


◆「将来は津波や地震に耐えられる建物を作りたい」
双葉郡富岡町出身、井出大雅です。
当時は小学校5年生で震災があったが、震災があったときはパニック状態で、親とか周りの人に助けられてここまで来ました。いまは高校生になったので、これからは両親や周りの人などお世話になった人たちに恩返しをしたいと考えています。この学校は一期生だから、これから自分たちが伝統を築くという意味で、この学校を選びました。さらに海外研修もあると聞いたのでここを選びました。
故郷は誇りです。自慢したい街ですね。いまは双葉郡は全滅というか帰れない状態ですが、将来双葉地区の仕事に就きたいです。測量士穂になって、津波や地震にも耐えられる建物を作りたいと考えています。まずは双葉郡をよくして、さらに福島県全体もよくしたい。そういう目標を持って頑張っています。」


◆「将来は医者になろうと考えています」
双葉郡富岡町の出身、山田拓甫君です。
富岡町から避難して、各地の避難所や知り合いの家を転々としたが、避難している4年間は故郷から離れることに悲しみを全く感じなかったんです。見ないようにしていたというか、それよりももっとやるべきことがあったというか。僕は長男なので、家族を引っ張るというか、常に前を向いていなければいけなかったんです。弟たちが駄々をこねたり、わがままを言ったりするので、自分はそういうことは言えませんでした。
中三で進路を考えるとき、故郷を失った喪失感が強く表れるようになってきて。自分の夢について考えたとき、人助けをするのに幸せを感じると気付き、それを生かせる仕事はなにかと考えたら、一番しっくりきたのが「医者」でした。いま自分は医者になろうと考えています。学力などはまだ足りないですが、それに向かって目標も見つかった。いまは帰れませんが、自分を育ててくれた故郷に対する恩返しができたらなと思っています。



最後は副校長、南郷市兵さんです。

◆「ここから新しいものを作っていくのが、僕の役割」
福島から初めていかないとな、と思っています。僕は日本全国の教育を考える文部科学省にいたが、福島の人たち、福島の中学生高校生から教えてもらうことがすごく多い4年間だった。ここから新しいものを作っていくのが、僕の役割だと思っています。
全国や世界に教育の復興と地域づくりのモデルとして発信する。これは双葉郡の教育長さんたちが教育復興ビジョンの中で書いた言葉だが「変革は遠いところ、弱いところ、小さいところから」という言葉があるが、この厳しいところから全国のモデルをつくっていきたいし、いまの生徒たちの活躍をみると、「できる」と確信しています。



「福島県立ふたば未来学園」学生たちの声と、副校長、南郷市兵さんでした。

ふたば未来学園は、双葉郡にある既存の高校の伝統を受け継いで、バドミントンやサッカーなど、スポーツもさかんです。今後、全国大会などで「ふたば未来学園」の名前を耳にするかもしれません。

「ふたば未来学園」Facebook
  

2015年7月9日

7月9日 ふたば未来学園(3)

震災当時、およそ1万人の子供たちが学校に通っていた、福島県双葉郡。原発事故の影響で、現在地域が運営する学校に通う児童・生徒の数は、震災当時のおよそ1割程度に減少しました。

そんな双葉郡にこの春新設されたのが「ふたば未来学園」。県立の高等学校です。新入生は、男女あわせて152名。著名人による「応援団」や独自のカリキュラムにも注目が集まっています。

お話は「ふたば未来学園」の副校長、南郷市兵さんです。

◆動く授業・課題解決の能力をつけてほしい
カリキュラムの特徴は、とにかく「動く授業」をするということ。例えば、いまうちの生徒たちが取り組んでいるのは、5〜6人のチームに分かれて、地域のいろいろな団体のところにヒアリングに行き始めている。あるチームは町役場の復興の企画担当のところ、あるチームは復興NPOのところ、さらに商店の方や廃炉の作業を担当されている国の機関などに行っている。なにをやっているかというと、彼らがいま取り組んでいる復興の取り組みについて聞いて、これを夏までの間に演劇にしていく。20チームあるので、20の演劇ができあがる。平田オリザさんの指導で演劇をつくっているが、狙いは、うちの生徒たちは双葉郡の復興の課題を知っていると思いながら、実は深く知らないかもしれない。地域の人の復興の想いをわかっていない部分もあるかもしれない。そこを今一度見つめようということで、自分で話を聞いて、それを演劇という形で表現するというステップを、いまやっている。この春にやる演劇は、すごく難しい演劇。復興の希望のストーリーではなく、ある復興のテーマに対してAさんも、Bさんも、Cさんも真剣に良くしようと思っているけれども、立場の違いやすれ違いや難しさを、そのまま劇で演じるというもの。観た後にみんながうーんとうなってしまう演劇になると思う。それが、これからの社会で求められる、「誰もが正解がわからない難しい課題をそのまんまとらえる」という学びにつながる。そこからどういうふうに復興をすすめるかは、彼らの高校生たちの学びの結果、どういう選択を彼らがしていくか。
秋に海外の方が多くこの広野町にやってくる機会があるので、そのときに地域の方と海外の方に、この演劇を観てもらって、みんなで一緒にディスカッションをするという。この課題に対してどうしていったらいいんだろうねという議論をするということができれば、すごく意味のある場にできるので、そんな形でやっていこうかなと思っています。

  
海外への留学のチャンスも「ふたば未来学園」の特徴です。この夏には、ベラルーシ、タイ、ドイツに、それぞれ10人程が訪ねる予定。福島はいまどうなっているのか。自分の言葉で発信する機会になります。

また2年生になると、「再生可能エネルギーの研究」や「メディア・コミュニケーション」(風評風化に対して、どうメディアを使って発信していくのか)など専門的なプログラムが予定されています。

さらにこの学校のもう一つの特徴が、各界の著名人による「応援団」の存在です。

◆リミッターをはずす
わたしたちの学校には本当にありがたいことに、多くの一線の方々が、「ふたばの教育復興応援団」ということで名乗りを上げてくださっている。小泉進次郎復興大臣政務官が「リミッターをはずしたい」とよく話をしている。子供たちには未来の可能性を考えるときに、小さな発想でとらえてほしくない。こういう方々の声を聴き、背中を見ることで、常識にとらわれた、自分がいま想像できる範囲でものごとを発想するのではなく、それを超えた物事の発想をできるよう、刺激を与えてほしいなと思っています。



「ふたば未来学園」は、授業だけでなく部活もユニークです。「社会起業部」は「被災地の課題を高校生の目線で解決しよう!」という部活動。部員は20名ほど。地域の空き家の活用法を考える「空き家計画」では、店舗を出す、合宿所にする、町民の話し合いの場に利用するなどさまざまなアイディアが出されています。

2015年7月9日

7月8日 ふたば未来学園(2)


この春、福島県に新しく誕生した高校「ふたば未来学園」。
原発のある福島県双葉郡8町村の要望で、双葉郡広野町に設立されました。中高一貫校を目指してまずは高等部が新設され、この4月、男女合わせて152名が入学。「ふたば未来学園」の副校長に就任したのが、南郷市兵(なんごう・いっぺい)さん、36歳です。

◆震災で生きる動機が芽生えた東北の子どもたち
元々は文部科学省の職員で、震災が発生したその日から震災対応にあたっていた。振り返れば、高校時代に阪神淡路大震災のボランティアをやって、当時相当大きなショックを受けました。自分という存在と社会は無関係じゃないんだなと感じた、大きな転機でした。僕の心の中では、東北の子供たちはもっと大きな生きる動機が震災のときに芽生えたんじゃないかと思うので、それを伸ばすような学びをしたいなと、ずっと4年間取り組んできました。
原発の影響を受けた福島県双葉郡で子供たちの人数が減っているのをなんとかしたいとか、放射線の不安に対して除染を含めてしっかり対応していくとか、目の前の課題が山積している中で、ちょっとずつ「数十年先のことも考えませんか」と地元の教育関係者の方たちとお話をしてきたので、その延長で今回、ふたば未来学園の副校長として着任をしました。


震災後、双葉郡では「教育復興ビジョン推進協議会」を立ち上げて、これからの地域の教育について検討を重ねてきました。原発周辺地域の復興には30年、あるいは40年かかるとも言われています。そのときの町の課題はなにか。議論はそこからスタートしたといいます。

◆未来学園のカリキュラム…動く授業
震災前から「2050年の日本を試算したデータ」というのがあります。2050年といえば、まさに「ふたば未来学園」の一年生が50歳ぐらいになる年だが、日本全国の地域を見ても、人口が半分以下になってしまう地域が6割、全国の2割が無居住地域課すると予測され、さらに労働人口が4割減少すると言われている。地域の支えあいをどうするのか、地域の経済をどうするのか。いままでの社会と2050年とでは全く状況が変わるので、その中で東北の復興をやっていかなければいけない。そうすると、もとに戻す復興というよりも、いまだからこそ数十年先を見据えた全く新しいことをやらなきゃいけない。自然とそこから議論をスタートすることができました。
2050年先の社会がどうなるかは、データとしては出ているが、実際に描くことはできないですよね。ただ、明確に一つだけわかっていることは「不確実な社会だ」ということ。誰もが正解がわからない社会だということ。これは、教室で知っている人が知らない子供たちに正解を教えてあげるという教育ではなくて、目の前に誰もわからない難しい問題があっても、人と話をしながら挑戦をしてみる、そういった力のほうが必要になるのではないか。これは平たく言うと、知識だけでなく「課題解決力」とか「コミュニケーション力」ということになり、これまでも言われてきたことだが、それを心底東北の方々は痛感されたのだと思う。だからこそ、先を見据えた計画を始めることができた。そして、学校の設立を具体化していく中で、小中高の子供たちと話しているうちに、「動く授業」がいいのではないかという声が上がったんです。教室に縛られる授業ではなく、外にどんどん出て行って自ら動きながら学んでいく「動く授業」をやってほしいとうキーワードが子供たちの中から出てきたので、ふたば未来学園のカリキュラムはそうしたものを取り込んでつくっています。


「双葉郡教育復興ビジョン推進協議会」では、「双葉郡子供未来会議」も10回ほど行ったそうです。こちらは、地域の大人や子供が一緒になって、地域の教育や理想の学校について自由に意見を述べ合うというもの。「ふたば未来学園」のコンセプトやカリキュラムには、子供たちの声が直接反映されているというお話でした。

2015年7月9日

7月6日 ふたば未来学園(1)

今週は、この4月、福島県に新しく誕生した高校の話題です。
名前は「福島県立 ふたば未来学園」

「ふたば未来学園」は、原発のある福島県双葉郡8町村の要望で、この春設立されました。秋元康さんや山崎直子さんなど、多くの著名人が「応援団」として名前を連ねていることでも話題を集めましたが、その設立の背景には、双葉8町村の教育現場が置かれた、厳しい現状があります。


お話は、浪江町 教育委員会、教育長の畠山熙一郎さんです。

◆子どもの数、震災当時の1割しか戻っていない
双葉郡8町村に、震災前は小学校が17校あったが、それぞれの避難先で再開できたのが13校。4校が再開できないでいるが、これは全部浪江の小学校になる。中学校は11校あったが、そのうち再開できたのは9校。再開できない2校はやはり浪江の中学校。具体的には、避難先の使っていない学校の校舎をお借りするとか、仮設校舎を建てるということで再開している。再開した学校に通うお子さんの数は、割合で言うと被災当時小学生は8%、中学生が11%。
義務教育は家族とつながり、地域とのつながりが大事だが、その地域自体が大きく変わってしまった。ご家庭にもそれぞれいろいろなご事情があって、子供さんに被災前のように心配りができないということも、場合によってはある。そういういろんな変化の中で、子供たちは一生懸命耐えながら頑張っている。だから学校に来たときだけは、楽しい時間を過ごしてほしいと考えている。

  
双葉郡の8町村は、それぞれ避難先に仮設の小学校を再開しています。たとえば浪江町の場合、避難先の二本松市に仮設の小学校があります。一方、浪江出身の子供たちは、二本松市の小学校に通うこともできます。どちらの学校に通うか、選択することができるんです。その結果、8町村の平均として、故郷の町村が運営する学校に通うのは、震災当時の1割程度になってしまいました。浪江町の場合はさらに少なく2%ということです。

さらに高校について、双葉郡にある5つの高校は、現在新入生の受け入れを一時中止していて、在校生が卒業したら休校する見通しです。そのため、双葉郡全体の高校生の受け皿として、今回「ふたば未来学園」が誕生しました。

◆自分の可能性を開いていける道筋を作りたい
いろいろな意味で、突然の被災や全町避難など、ハンディを背負ってしまった子供たちなので、そのハンディを長引かせてはいけない、またその子供たちが勉強を通して自分の可能性を開いていけるような、そういう道筋を作りたいと思った。その延長線上に高校も欲しいということになった。それを実現したのが「ふたば未来学園」ということになる。
わたしどものような状況に置かれると、未来がどうなるんだろうということが漠としてある。ただそういう中で、自分のいろんなものに気付いて、それを自分の力に育てていく高校生活であってほしいと思った。できればそれが、決して押し付けではないが、地域の復興に結びついてほしいなという願いがある。ただ、子供たちはすでにそのことは骨身にしみて、そんなことをわたしどもが言わなくても、「将来自分たちが故郷の役に立ちたい」と、まったく自然に言ってくれる。それはおそらく実現していくのかなと思う。
もう一つ、わたし自身もそうだが、こういう(避難)生活をしていて、いろんな方にお世話になりながら、かろうじていろんなことができている。人と人とは支えあうものだというのが、これもまた骨身にしみて子供たちもわかっているんではないかと思う。自分の将来を考えるうえでも、人間的な幅ややさしさ、思いやりというものは、こういった経験をしていないお子さんに比べたら、自覚していないかもしれないけれど、持っているんだろうと思う。それを生き方の中でも大事にしてほしい。


開校に向けては、8町村だけでなく福島県外から定員を超える応募があり、この4月、152名がここで高校生活をスタートしました。半数は自宅から、半数は学校の近くにある寄宿舎から通っています。

2015年7月7日

7月7日 釜石市・橋野高炉跡  世界遺産決定!

「明治日本の産業革命遺産」が、世界遺産に登録決定!日本中がわいています。実はこの決定を、東北・岩手県釜石市の方々も、心待ちにしていました。

今回、世界遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」の一つが、釜石市にある、「橋野高炉跡(はしの・こうろあと)」。高炉とは、山から掘り出した鉄鉱石を溶かして鉄を作る「炉」のことです。

   

現在も、製鉄所を中心とした鉄の町として知られる釜石。その原点であり、明治の産業革命のルーツが、この高炉跡と言われています。

お電話でお話を伺ったのは、地元のボランティアガイドとして、被災地や橋野高炉跡を案内している三浦達夫さん。三浦さんはこれまで、世界遺産登録を励みにガイドを続けて来たと言います。ご自身も元鉄鋼マン。「鉄の町」釜石とともに歩んで来ました。

今回の世界遺産登録は長崎の軍艦島から、釜石の高炉跡まで広い地域にまたがります。この「橋野高炉跡」のある釜石は、もともと砂鉄を使った「たたら」製鉄が盛んだったそう。幕末(安政)にはいち早く海外の高炉技術を導入。最先端の精錬技術を採用し、そこで培われた技術が、北九州・八幡製鉄所へ伝わったといいます。つまり、明治日本の産業革命のルーツ! 現在の高炉跡には、実際に製鉄に使われていた「炉」の一部が保存されており、ボランティアガイドによる見学ツアーもあります。ご覧になると分かりますが、荒涼とした斜面に巨大な石が積まれた様子は、まるでストーンヘンジのよう。

三浦さんはこれまで、世界遺産の候補として高炉を紹介してきましたが、これからは「胸を張って世界遺産ですと紹介できる。今は土日に釜石駅前からシャトルバスが1日2本運行しているが、それ以外に子どもたち向けの鉄のつくり方などのガイドもしていきたい。」 と話します。

この橋野高炉跡のボランティアガイドは予約制です。釜石観光物産協会で受付をしています。シャトルバスは毎週土曜日・日曜日に釜石駅前から1日2本運行。午前10時出発と、午後1時出発の2本です。

詳しくは、★釜石物産観光協会まで

LOVE&HOPE。あしたは、福島県に誕生した「ふたば未来学園」からのレポートをお伝えします。

2015年7月6日

7月11日は『仙石トレインフェス』へGO!

今朝は、7月11日(土)、宮城県東松島市ではじめて開催される『仙石トレインフェス』に注目します。


◆SENSEKI TRAIN FES
5月30日に全線が開通した、仙台〜石巻を結ぶ鉄道、仙石線の沿線、3会場を舞台にさまざまなアーティストが登場して行われる音楽イベントです。
本塩釜駅会場は「塩竈市杉村惇美術館」の中庭
高樹町駅会場は「松島高校」の体育館
陸前小野駅会場は「小野市民センター」が会場となっています。
仙石線に乗って3つの会場を巡ることも可能ということで、ライブはもちろん、各会場に登場する飲食ブースでは地域の美味しいものが勢揃い、また地元の方とのふれあいが楽しめるフェスになっています。



ライブの出演は、ジャズピアニストの上原ひろみさんや、マイア・ヒラサワさん、
空気公団にキセルなどなど、幅広いジャンルのアーティストたち。

そして宮藤官九郎さんや、鉄道マニアで知られる歌手、徳永ゆうきさんらが出演するトークショーもあります。

7月11日(土)、宮城県東松島市ではじめて開催される「仙石トレインフェス」。
◇チケットは3会場共通のフリーパス券で、前売り5500円。
 各種プレイガイドで販売中。

ぜひ3会場を巡って、地域の文化や物産、そして「人」との交流も楽しんでほしいです!

SENSEKI TRAIN FES 公式サイト

2015年7月4日

7月2日 東松島 森の学校4

今朝も宮城県東松島から、「森の学校」についてお伝えします。

東松島市・野蒜地区に2年後に完成予定の宮野森小学校。通称「森の学校」。森そのものを子どもたちの学びの場とするこの計画で、実際に森の整備をしているのは地元の方々や子どもたち、各地のボランティアです。

震災で子どもたちが受けた心の傷を、森の力で癒したい。計画に賛同する親御さんたちは、共通してそんな気持ちを持っています。震災からまる4年以上が経ったいま、地元の子どもたちの心の状態は
どうなっているのでしょうか。森の整備に参加した地元のお母さんの声です。

◆雨の音が怖い・・・
震災の影響なのかな、暗いところがダメだったりとか。当時真ん中の子どもが高校生で、雨の音がしばらくダメだった。津波が一晩中寄せて返して寄せて返してという音にすごく似ているって。雨になると布団にもぐって眠れないと。今は平気になったと思うんですけど、岩沼市って空港の方に就職して就職してすぐに地震があって、お客さんを助けなきゃいけない役目だったのに私は何もできなかった、という話を聞いたときに、やっぱりまだまだなんだなって。私も震災の時はちょうど川の近くを車で走っていて流されてしまったんですね。泳いで渡り歩いたという感じだったので、川の風が強くて波が立っているのがダメですね。今でもやっぱり。


また三人のお子さんがいる別のお母さんは、元々野蒜地域に暮らしていたのですが、震災後は内陸側の矢本へ転居しています。新しくできる森の学校には、お子さんたちは通うことはないのですが、それでも森の整備を手伝う理由を「ここが故郷だから」、と話します。

◆この森は故郷 心の癒し
野蒜小学校の体育館で津波にあったんですけど、泳げないので必死でした。子どもも最初は自分の周りにいたんですけど津波が何度もくるので、どこにいるかも分からず。上の子が小学6年生、2番目が小学3年、下の子が2年生。上の子は体育館のギャラリーに早くから上がっていてそこまでは津波も上がらなかったので無事で、2番目・3番目は濡れてしまって、前から水泳を習わせていたので必死で泳いだようです。私が泳げなかったので水泳を習わせていてよかったなと思っています。私も必死でした。記憶も遠のいていくし。何度も津波が来る中で水のなかでもがき苦しんで、ああ死ぬってこういうことなんだなと思って。いったんは助からないかなと思って、でもやっぱり死にたくない、子どもたちを見捨てない!と思ったら力が湧いてきて、頑張れた感じです。4年が経ちましたがまだ心のどこかで忘れられないというか鮮明に覚えているので、ちょっとまだ辛い。野蒜には住めないと思っちゃって、隣町の矢本に転居した。子どもはこの地域の学校には通わないが、この森は故郷ですから。元々は野蒜の小学校があって、それが失われてこの森の学校ができたので、それは心の癒しとして、これができることで大人も地域の方も変わっていければなと思います。


東松島市野蒜地区では、被災した野蒜小学校と宮戸小学校が統合。2017年に「宮野森小学校」として新たなスタートを切ります。すぐ隣の大きな森が、そのまま学びの場「森の教室」となるこの計画、公立の小学校としてはもちろん初めての試みとして注目を集めています。
森の学校づくりは、地元の方々の手によって、いまも少しずつ確実に、前へ進んでいます。

2015年7月4日

7月1日 東松島 森の学校3

今朝も宮城県東松島から、「森の学校」についてお伝えします。

東松島市・野蒜地区に2年後に完成予定の宮野森小学校。通称「森の学校」。森そのものを子どもたちの学びの場とするこの計画で、実際に森の整備をしているのは地元の方々や子どもたち、各地のボランティアです。今年5月にも、森の手入れが行われ、たくさんの方が 斜面の笹刈りに汗を流しました。森に生えすぎた笹を刈ることで、光が入り風が流れる「健康な森」となるわけです。

そして汗を流した後は、夕暮れ時の森の中でこんな楽しいイベントも行われました!

◆1日限定! Tree Dragon BAR
「えっと、今日のお酒のおつまみは、クラッカーにハムとチーズを切って乗せたものです」
「ニコルさんレシピの鹿肉のソーセージです。日本では鹿は獲っても捨てられてしまっているんですが、こうして利用すれば美味しく食べられますからね」




森の学校にすでに完成している『ツリードラゴン』。森の斜面に寄りかかるように建てられた、大きな3階建てのツリーハウスです。ここを、一日限定のバーにして、仮設住宅に住む方々を招待して交流の場にしようというもの。森の学校長、アファンの森財団代表、CWニコルさんから挨拶の言葉がありました。

◆森の学校は間違いなく日本一の学校になる!
「ツリードラゴンバーへようこそお集まり頂きました。ようやく夜の部、バーの部をオープンしたいと思います。」「この震災があって、みなさんがすごくトラウマを受けていたので、生きている森、ひょっとしたら一日しか命が無いカゲロウもいれば、何百年も住めるミズナラの木もある。そういうところへ来たら癒しになると思ってアファンの森へ招待しました。27人の子どもと大人がいらしたんですね。その3日後に思わぬ結果が出たんです。「東松島に森の学校を作るのを手伝ってくれ」と話をもらったんです。それから4年が経過しました。私がなぜ日本に来たのか分かったんです。森の学校づくりをやるために私は来たんです。みんなの苦労を想像しようとしても、僕は経験していない。それでも、よく東松島の人たちが我々を家族にしてくれた。私は本当に幸せです。僕は死ぬまでここに来ます。僕が死んでからもうちのスタッフも、友達もきます。ただね、あんまりうるさいから来るなと言うなら来ないかも知れないね(笑) あんまりうるさいなら言ってね(笑) あと2か月で75歳ですから、ますます、未来を信じる。例えばここに山桜があるから、この辺で町とみんなが納得してくれるならここに山桜を作ろうよ。この池には珍しいカエルがいるから活かそうよと。この学校は間違いなく日本一の学校になるから、トラウマを受けた苦労した人たちが人の苦労が分かる、ここで育った子どもたちは日本のリーダーになるに違いないです。間違いないです。ずっと応援してるから、僕が80歳になったらみんな優しくしてね(笑)。じゃあバーが開いていますから、いろんなことを語り合えたら・・・」


この『ドラゴンツリー』と言うツリーハウスで行われた1日限定のバー。実はニコルさんではなく地元の奥様方が企画したものだそう。「私たちのツリーハウスで、こういうことしたい」?私たちの”という声が出たことに、ニコルさんも本当に喜んでいました。

パーソナリティ 鈴村健一

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