2013年12月31日

12月31日 福島富岡町「おだがいさまFM」(3)

今朝は、全町民避難が続く、福島県富岡町のレポートの最終回。
大みそかのラジオから、ふるさとの「除夜の鐘」が響きます。


「全国で暮らす町民に、ふるさとの除夜の鐘を届けたい・・」
そんな想いから、富岡町の臨時災害FM「おだがいさまFM」が企画したのが、富岡町民が慣れ親しんだ、「町の除夜の鐘」の録音放送です。協力を求めたのは、富岡町の居住制限区域にある「龍台寺」。副住職、矢内隆久さんとともに、11月下旬、寺に向かいました。

◆龍台寺の除夜の鐘
この鐘ができまして30年経つんですが、当初福島県内で一番大きい、530貫の鐘なんですね。多くの方が大みそかの夜10時を過ぎますと除夜の鐘をつきに来たんですが、もう2年、3年、今年もできないかなと。立ち入りができないので。立派な鐘がありながら「除夜の鐘」ができない状況ですね。



日中のみ立ち入りが許されている、富岡町の龍台寺。
副住職の矢内さんは、避難先のいわき市から頻繁に足を運んで、境内の雑草や枯葉の駆除を行ってきました。けれども墓石は倒れ、本堂も被災後の雨漏りなどで痛みが激しく、位牌も散乱したまま。放射線量が高く、寺の修復に手がつけられない状況が続いています。

◆昔のようなお寺にしたい
まだ線量が高い状況の中で、いままでですと、月命日に多くの方がお墓参りに来ていただいたんですが、お墓も倒れたままになっている。皆さんお墓が倒れているのがさみしいということで、状況にしたいと考えています。4月までに除染が完了するという環境省の話なので、お墓と本堂、位牌、客殿と、すべてのものを新しく直して、皆さんが来たときに驚くようなお寺にしたいと考えている。
わたしもお寺の住職でなければ、戻ってこないかもしれない。これだけ線量が高いところに、子供を連れてこれるかというと、なかなか難しい。もう無理なのかなと一昨年は思っていた。それがいまは放射能が3分の1くらいに下がってきた。一刻も早くこのお寺を元通りにして、皆さんがいつも来ていただいて、お茶飲んで笑い声がしたお寺という、昔と同じようなお寺に一日でも早くしたいと思っています。


この日、ひっそりと静まりかえった町に、住職が打つ鐘の音が、ひときわ高く響き渡りました。

「おだがいさまFM」では今夜、龍台寺の「除夜の鐘」を放送します。郡山市内では通常のラジオで聞くことができるほか、インターネットのサイマル放送、そして富岡町が町民に配布しており「タブレット端末」でも聴取可能です。

◇富岡町臨時災害FM「おだがいさまFM」

さらに、今夜11時から放送の、JFN年末年始特別番組「空を見上げて」でも夜11時45分ごろ龍台寺の除夜の鐘をオンエアする予定です。

◇JFN年末年始特別番組「空を見上げて-明日へのチャレンジ-」


2013年12月30日

12月30日 サントリーの被災地支援 石巻「子どもセンター」(2)

今朝は、『東北サンさんプロジェクト』をはじめ、被災地支援に取り組む、サントリーの活動のレポートです。

漁業の復興支援、未来を担う子どもたちの支援、文化スポーツを通じた支援を柱にした、サントリーの様々な活動を紹介してきましたが、きょうは、先週の月曜日に引き続き、「未來を担う子どもたちの支援」をピックアップします。



宮城県石巻市の市街地に今月完成した「こどもセンター」。
スポーツが出来るスペース、読書スペース、2階部分は吹き抜けになっていて、螺旋状の階段もあって…観ているだけでワクワクする建物ですよね。この施設は、石巻の小中高生による「子どもまちづくりクラブ」が出しあった町の復興アイデアを元に作られました。サントリーは、建築費およそ3億円を支援しています。

完成直後に行われたセレモニーでは、子どもたちが自ら来場者のガイドも努め、子どもまちづくりクラブのメンバーも、自分たちの思い描いた施設の完成を本当に喜んでいました。子どもまちづくりクラブメンバー 宮本愛与(まなよ)さん(中3) 松岡優雅(ゆうが)くん(中2)の2人の声です。



◆もっと石巻を知ってほしい!
・宮本さん「震災で石巻が暗くなったけど、その石巻を元に戻したいなというのは思っていました。でも子どもの意見はあんまり聞いてもらえないじゃないですか。ここだと言ったことが実現できるし、仮設とかで公園がなくなってしまって体を動かす場所が限られてしまったんですけど、子どもセンターを作ることになって体を動かす場所が欲しいということでスポーツ室を作ることができて嬉しい。」

・松岡くん「自分も仮設とかになるとあまり周りのことを考えてゆっくりできないので、ゆったり広場を作りたいという意見が形になって広場ができたのは嬉しかったですね。」

・宮本さん「石巻には川開き祭りがある。ここを開放して屋上から花火を見たりとか、ここができたことで石巻も明るくなると思うんですが、これだけではなく、これからも他県から子どもセンターを利用する人が増えて、石巻を理解して欲しい、石巻はこういうところなんだよということをわかってもらいたいですね。」


ここまで、子どもまちづくりクラブを見守ってきた、セーブ・ザ・チルドレン・ジャパンの津田知子さんは、この経験が、子どもたちを大きく成長させたと感じています。


◆「町のために何かがしたい」 〜子どもたちの変化
子どもたちには「なにかがしたい」という気持ちがあって、そこにちょっと寄り添ってあげるだけで、どんどん主体的に動いてくのがすごいなと感じている。昔はモジモジして人の前では話せず、子どもたち同士でも自分の意見をいうのに周りの空気を呼んで考えていたんですけど、町のためならということで、どんどん自分たちで外へ飛び出して意見を聞こうという風になってきたところが、変化かと思う。この活動を通して、子どもセンターの企画デザインをしていく中で、将来建築士になりたいというメンバーがいたり、社会福祉の方にいきたい、市役所の職員になって支えたいなど、自分の10年後がだんだん見えてきているというのもひとつの成果なのかなと思う。




子どもセンターは今後、石巻市の施設として運営されることになります。子どもまちづくりクラブは、今後、子どもセンターの石巻市職員とともに、まちづくりの活動を続ける予定。
また来年1月19日(日)には、オープニングパーティーが開かれます。子どもたちによる発表や出し物が行われ、市内市外、大人子供関係なく、 どなたでも参加できるということです。

サントリーの被災地支援の取組みについてはこちらをご覧ください。


2013年12月27日

12月27日 福島富岡町「おだがいさまFM」(2)

今回LOVE&HOPEのスタッフは、富岡町の臨時災害FM「おだがいさまFM」の取材に同行して、富岡町の居住制限区域に入りました。

冨岡の「除夜の鐘」を録音して、大みそかに放送しよう!というプロジェクトです。

取材に訪れたときの、富岡町の空間線量は、だいたい3〜20マイクロシーベルト。高いところでは、45マイクロシーベルトを記録しました。東京都内の空間線量0.04マイクロシーベルトに比較すると、やはり線量はかなり高いと言わざるをえない状況です。

そんな富岡町を今回案内してくれたのは、富岡町の社会福祉協議会、主幹兼事務課係長の吉田恵子さん。生まれも育ちも富岡の吉田さんは、「おだがいさまFM」の立ち上げにも奔走した人物です。吉田さんは現在、家族とともに、いわき市に住んでいます。人影のない富岡の町を車で走りながら、その想いを語ってくれました。

◆花好きの父が「花なんて見たくない」と言った
うちの父親が草木を育てるのが好きで、商売をやっていたので、店先に飾っていた。お店に来てくれたお客さんと「この花なんていうんですか、きれいですね」というところから会話が始まって、いろんな話ができるようになったりしていた。いろんな草花を育てるのが好きだったのに、震災後なんかの話から「もう花なんて見たくない」と父がいった。朝起きれば花のところにいって、夜寝る前に花を見て、という人だったのに、どういうこと?と思ったら、「花を育てられる環境じゃないことに気が付いたから、自分でもう考えるのをよそう」と思ったんだろうと。その時に、そんな寂しい想いをさせながら、残りの人生を送らせていいのかなと考えてしまって。本人にどうする?って聞いたら「もう富岡には帰らないよ」と言ったので、わたしはいわきに家を買った。放射能はあります、でも誰も帰ってきません、じゃそこで住みますか?と言われても、住みたくないよね。例えば、庭で畑でもやってとか、釣りにでもいってとか、そういう普通の生活はできないでしょう。


アンケートによると、町に帰りたいと答えた人は町民の12%。還らないが46%。残りはまだ迷っている、という回答でした。町民一人一人が、選択と決断を迫られている、というのが現実です。

スタッフが取材で訪れた富岡町は、人影もなく、田んぼや畑、駅や神社にも、草木が生い茂って、荒涼とした風景が広がっていました。

吉田さんは、原発事故の教訓として、この風景を遺しておくべきなのでは?とも考えています。

◆原発事故が残した風景
逆に、今年は木が生えました、来年になったらこれくらい伸びてましたとか。なんかそのままにしておきたいというか。こうふうになったらこういう町になっちゃうんだよ、というのを遺しておきたい、とも思う。


今朝は、福島県富岡町、社会福祉協議会の吉田恵子さんのお話でした。

2013年12月26日

12月26日 福島富岡町「おだがいさまFM」(1)

福島県富岡町の臨時災害FM「おだがいさまFM」。
震災当初、郡山市内の避難所「ビッグパレットふくしま」の館内放送としてスタート。その後、町民からの要望とスタッフの尽力で、臨時災害FMの認可を受けて、現在は、郡山市内の「おだがいさまセンター」から情報を発信しています。

そんな「おだがいさまFM」が準備を進めているのが、大みそかの「除夜の鐘」の放送。富岡町の居住制限区域にあるお寺の「除夜の鐘」を録音して、12月31日の特別番組で全国の町民に届けよう、という試みです。今回は、「除夜の鐘」の録音に、LOVE&HOPEのスタッフも同行しました。

お話は「おだがいさまFM」の久保田彩乃さんと、富岡町社会福祉協議会のスタッフ吉田恵子さんです。

◆除夜の鐘を町民に。
わたしお寺が好きなんです。それで、富岡町のお寺ってどういう状況なのかなと思って、除夜の鐘の音って録音できるですかねんですかね?と恵子さんに聞いたら、いま昼間なら入れる場所にお寺があるよと。いろいろ話を聞いたら、そこは震災前、富岡の方が除夜の鐘をついたり、お参りに行ったりするお寺だったと知った。せっかく除夜の鐘の音が録音できるなら、放送で大みそかに使えたら、全国で聴いている人も富岡町のお寺の鐘が聴けるかなと。


では、全国にちらばる住民に、どうやって「除夜の鐘」を届けるのか。
キーワードは「タブレット端末」です。富岡町では、町民全世帯にタブレット端末を配布。町民は全国どこからでも、町のお知らせを受け取ったり、「おだがいさまFM」を聴いたりすることができるんです。

◆おだがいさまFMタブレットの利点
富岡の町民は、47都道府県全県にいるので、どんなに電波を出しても全員が聴けるわけじゃない。だからタブレットを使って聴いている人もいる。それは有り難いなと。大きさ的にはIPadみたいな大きさで、だいたい放送してから2週間くらいサーバーに保存しておいて、全国の町民は好きな時間に聞くことができる。それによって、話題提供とコミュニケーションを新たにつくることができる。「誰々さん出てたね〜」みたいな感じで電話をしてくれたり、ということもある。最初生放送にすごくこだわったんだけど、逆に(自分が好きな時間に聞ける)タブレットでの放送も取り入れて、よかったんじゃないかと思う。


「おだがいさまFM」のコンセプトは、「とにかく冨岡にこだわる!」ということ。仮設住宅や小学校などでの取材、そして全国各地で暮らす富岡町民へのインタビューなどを通して、富岡町民の「いま」を伝えています。

また、全国にちらばる町民のきずなをどうやってつなぐのかも課題。
「除夜の鐘」の放送も、その一つです。

2013年12月25日

12月25日 福島県富岡町 宮本皓一町長

今日は福島県富岡町の宮本皓一町長のインタビューです。

町民全員が町の外で避難生活を送る、いわゆる「全町避難」が続く富岡町。
町の復興と帰還の要となるのが、「除染」です。
震災から2年9カ月。
富岡町では、ようやく、本格的な除染がスタートしようとしています。

◆いつ帰れるのかという町民の問いに答えられない。
富岡町は、年が明けてやっと本格的な除染が始まる。国は当初、「除染は平成26年の3月までに終わらせますよ」という話だったが、その時期が、始まりの時期となった状況。工程の見直しをちゃんと説明してくれと求めたが、「まだいつまでに終わらせる」という具体的な説明には至っていない。
わたしたちは除染を終えたところから、ライフラインの整備などをして帰ろうと思っていたが、今回茂木経済産業大臣の発言にもあったように、「もう帰れないところもでますよ」という話も出ている。除染が終わって、それでも線量が下がらないから帰れないよ、ということであれば、町民の方も納得できると思うが、本格的な除染も始まらないうちに出た話なので、戸惑っている。また、町民からは、蛇の生殺しのようでなく、帰れるなら帰れる、帰れないなら帰れないということを町は言うべきだ、という声もある。どんな難しい方程式でもとけない方程式はないと思うが、「いつ帰れるのか」という町民からに問いかけには、わたしの口からは残念ながら答えがでない。今回の国の発表については、富岡の存亡にかかわることだと考えている。



町が行ったアンケートによると、町に戻りたいという町民は12%。帰らないという方が46%。残りは迷っている、という回答。2年8カ月にうちに、家屋が老朽化して、住むことが難しくなっている現状もあります。
隣接する隣町との合併という案もあるが、まだ具体的な話には至っていません。


除染が進まず草木が茂る富岡町内の諏訪神社

2013年12月25日

12月24日 福島県川内村 遠藤雄幸村長

今日は福島県川内村の、遠藤雄幸村長のインタビューです。

2012年1月に帰村宣言を行った遠藤村長。その後、緊急時避難準備区域の解除などもあって、いまでは村民のおよそ半分、1500人が、村に戻って生活しています。

一方で、村民の半分は、引き続き避難生活を送っている状態。帰村のネックとなっているのが、「低線量被ばく」と「農業・林業の再開」です。そんな中、今年はうれしいニュースもあったといいます。  

◆農業の再開と課題
今年からコメの作付をして、収穫が終わろうとしている。いま全袋検査をしているところ。いまのところ、すべて放射性物質は基準値以下ということで、正直ほっとしている。農家の人達も、金額としては非常に小さいが、土と関わる、水を守る、森林を育てていくという行為ができることで、川内村に戻ろうという決断された方もいる。お金だけ、保障だけもらっていればいい、というわけにはいかない。農作業ができるということが農家の人たちにとっては、どれだけストレス解消や生きがいにつながるか、ということ。
また課題もある。除染してきれいになった農地を、耕す人、農業の担い手がいない、ということ。いままでの中山間地域が置かれていた少子化が急激に進み、多くのところで高齢化率が60%となっている。若い人達の帰村が進まない中、誰が農地を耕すのか。もし耕作でさらに遊休地、不耕作地、農地が増えて荒れてしまうということも、十分想定される。
2年8カ月。避難生活をしている村民はせまい仮設住宅でもう限度だと思う。一日も早く地自分のうちに戻れるように、環境整備をしていく必要があると考えている。


今年、お米の収穫が行われたという川内村ですが、農業に関しては、実験的な取り組みも始まっています。今年4月に誕生したのが密閉式の野菜工場。こちらでは、LEDと蛍光灯を使用した野菜の試験栽培が行われていて、川内村の農業再生の切り札として、いま注目されています。

一方で、村の高齢化が進み、介護の担い手が不足するという課題も出ているということです。

2013年12月23日

12月23日 サントリーの被災地支援 石巻「子どもセンター」

今朝は、『東北サンさんプロジェクト』をはじめ、被災地支援に取り組む、サントリーの活動のレポートです。

はい。サントリーは漁業の復興支援、未来を担う子どもたちの支援、文化スポーツを通じた支援を柱に、様々な活動に取り組んでいます。12月の毎週月曜日、その取り組みをご紹介していますが、今回ピックアップするのは、「未來を担う子どもたちの支援」。その1つが、宮城県石巻市の市街地に完成した「こどもセンター」です。

◆石巻の子どもたちのアイデアが詰まった施設
ただいまより「子どもセンター引き渡し式」を開始いたします。石巻市子どもまちづくりクラブは2011年7月に活動がはじまり大人も子どもも過ごしやすい、古いものも新しいものの一緒にロックンロールの街を目指して、2011年夏に夢の街プランを描きました。このプランを実現しようと、私たちローリング・ストーンズが企画したのが「子どもセンター」です。大切な故郷の復興のシンボルになればという思いが沢山詰まっています。


「こどもセンター」は、「子どもまちづくりクラブ」という、石巻の小学生から高校生までの子どもたちの、復興のアイデアを元に作られた施設。サントリーは、建築費およそ3億円を支援しています。

子どもまちづくりクラブは、公益社団法人セーブ・ザ・チルドレン・ジャパンの、呼びかけで生まれた集まりです。セーブ・ザ・チルドレンジャパンの津田知子さんは、発足のきっかけを「子どもたちの想い」だと言います。震災直後のアンケートで、宮城・岩手の子どもたち1万人中 9割が、「町のために何かがしたい」と、考えていることがわかったんだそうです。

◆子どもたちが復興を考える「場」を。
震災後、子どもはか弱い存在、守ってあげなきゃいけない存在だという風に語られることがすごく多かったが、震災でしんどい思いをしたとはいえ子どもたち自身は「何かがしたい」という気持ちがある。10人中9人が、復興のために街のために何かがしたいと思っているというのは、すごく強い気持ち。一方で実際にそういうことをしたくてもどうやったら良いかわからない、そういうことをするには心の底から話しあえる仲間が欲しいといった声も挙がってきた。子どもたち同士で活動できるような場を作ることが大切なのではないかと思って子どもまちづくりクラブを実施した。


こうして、石巻の子どもまちづくりクラブのアイデアが詰まったこどもセンターは、21日に石巻市に引き渡され、式典が行われました。来年1月には利用がはじまり、運営は子どもたちが中心となって企画していきます。また、この日の式典では、石巻市長や大勢の大人を、子どもたち自らガイドしました。

◆私たちのアイデアが詰まっています!
(※子どもたちによるガイドの様子)
「こちらのスペースはゆったり広場といって、子どもセンターのシンボル。子どもセンター自体がこどもたちにとってゆったり、のんびりできる自分の家のように使える場所と鳴るようにと名前をつけました。」

「ここはスポーツ室です。石巻市には小さい子供、小学生、中高生が体を動かす場所が少ないということからデザインされました。限られた広さですが、3オン3をはじめ体をいっぱい動かせます。」

「白いプランターが”次世代の畑”になっています。これは農業をやめてしまう人を減らすため、遠くに行ってしまう若者を減らすため、そして食べることの大切さや楽しさを知ってもらうために、地域の人が協力して野菜を育てていけたらいいなという願いを込めて作りました。いっぱい野菜ができたら、キッチんなどで、イベントで食べられたらいいなとわたしは思っています。」





※そしてお知らせです。中西さんとともに、サントリーの被災地支援活動「東北サンさんプロジェクト」のアンバサダーを務める佐藤真海さんに密着した番組が、12月28日(土)に、「BS・TBS」やTBCなど東北のTBS系列局で放送されます。

『夢を駈ける -佐藤真 海 東北に笑顔を-』
【地上波】東北6県ブロックは、TBC−ATV、IBC、TUY、TUF、ABSの6局ネット 放送日時12/28(土)14時〜

【衛星】
放送局:BSTBS 放送日時:12/28(土) 22時〜

【出演者】
中西哲生 佐藤真海 他

2013年12月20日

12月20日 クラフトバンドで被災地支援

今日はクラフトバンドを使った被災地復興応援プロジェクトについてご紹介します。活動の中心となっているのは、クラフトバンドエコロジー協会代表理事の松田裕美さん。松田さんが10年程まえに出会ったのが「クラフトバンド」を使った、かごづくりです。


クラフトバンドという紙のひも、一般的にはお米や玄米などが入っている紙の袋の、一番上を縛るひもを200色に染めたもの。それでかごやバッグを編んでいます。松田さんは趣味が高じて、このクラフトバンドの販売を手掛けるようになり、さらに、クラフトバンドを使ったかごやバッグの作り方を教える立場になりました。いまでは、日本全国に1000人を超える認定講師がいるほどの、人気のアートクラフトに成長。そんな松田さんが取り組んできたのが、東北の被災地復興を応援する取り組みです。


◆技術の高さに感動して買ってもらいたい
わたしも被災地に行ったんですけど、「家もなくなり家族もいなくなり仕事もなくなって、時間だけがあるのよ」と言われた。その時間、なにもすることがなくて、外に行くこともつらいということなら、その時間かごを編んでいたら気持ちが紛れるのではないだろうかと思って、材料の寄付を1年半くらいやってきました。すると、皆さんだんだんと心にゆとりができてきて、うれしいお手紙が来るようになった。「ボランティアに来るかたたちにかごをプレゼントするのが楽しいです」「死のうと思わなくなりました」というお手紙が来たときに、材料を寄付することしかできなかったのに、救える命があるんだと思いました。
今年の夏前、陸前高田の鳥羽市長にお会いしたときに、「もう寄付はいらないんです、仕事が欲しいんです」と言われました。「生活保護ではなく自分で働いたお金で好きなものを買いたい」と、気持ちが切り替わってきた、と。そこで「かごを売る」ということをやったらどうかなと考えたのです。被災地の方に「編んだものを売ってみますか?」と聞いたら、皆さん「ぜひやりたい」「久しぶりに仕事ができる」とおっしゃって。寝る間も惜しんで、楽しくてたまらないと編んでくれています。お仕事として編む、ということがすごく彼女たちの意識を変えたのです。
厳しい検品をするので、被災地だからへたくそでも我慢してね、という商品は作りたくなかった。本当は「被災地のだから買う」ではなく、かごを見て、気に行って購入した後に、よく見たら「東日本大震災」て書いてある。もしかして被災地の人が作ったの?と後から気が付いてほしい。かわいそうだから買ってあげる、ではなく、技術の高さに感動して買ってもらえたらと思います。


現在、かごの制作にあたっているのは、岩手県宮古市と福島県郡山市・いわき市に住む被災者の方たちです。


「クラフトバンドを使ったかご」は、今日から販売がスタートしています。

◆購入はコチラから。
クラフトバンド・エコロジー協会

2013年12月19日

12月19日 釜石の震災語り部(2) 鵜住居地区

きのうに引き続き、岩手県釜石市から、震災の被害や現状を後世に伝える、語り部の言葉をお伝えします。

語り部は、三浦達夫さん。この町で長年、鉄鋼マンとして働き、現在は、釜石観光ボランティアガイド会の会長として釜石の歴史遺産の案内や『震災語り部』としての活動をされています。

小中学生が自分たちの判断で、全員津波から避難した「釜石の奇跡」など、その防災教育が注目された釜石ですが、3月11日の震災では、すべての人がこうした行動をとれたわけではないと言います。その一つが、釜石の鵜住居という地区で起きた出来事です。
三浦さんはこの出来事を、町の教訓として語り継ごうとしています。

◆鵜住居地区の防災センターの悲劇
鵜住居という場所が大槌に行く途中にあり、防災センターがあった。完成は平成22年1月。そこは防災センターという名前はついているが津波の避難場所としては使っていけないという場所。ではなんのために防災センターという名前がついていたのかというと、近隣の人が災害などで家に住めなくなった場合に一時的に避難する場所だった。津波の避難場所としては使っていけなかった。ところがこれが完成した時のこと。年に数回の津波訓練をする際に避難する場所がちゃんとあるのだが住民の住んでいる場所から非常に遠い。1キロ以上離れた場所なので訓練をやってもだれも集まらない。そのため住民側から、防災センターを「訓練の時だけでいいから使わせてください」という話が出た。行政もそれに乗っかって訓練だけならいいだろうと使いだした。何度も訓練を続けているうちに住民の意識は、その場所が津波避難場所と考えられてしまった。
平成23年3月3日にもその場所で防災訓練をやっている。その1週間後に東日本大震災が発生。住民は何のためらいもなくその防災センターに避難してしまった。およそ169名が避難し、その8割がそこで犠牲になった。そういう場所。そこを行政の責任が問われているが、使ってはいけないという場所を訓練のためだけに使わせてくれ、と妥協して使ってしまったためにそういうことが起きた。そういう話をして、参考にして自分の地域での活動を考えてくださいという話をしてる。鵜住居の防災センターは今年12月にも壊す予定。壊されたら語り部としての説明をどうすればいいのかと考えている。


お話に合った『鵜住居地区 防災センター』はすでに解体工事が行われています。ただ、建物の壁や床などは、今後、災害記念館などに展示される計画。また、防災センターの建物は、立体映像として保存されるということです。

釜石観光ボランティアガイド会

2013年12月18日

12月18日 釜石の震災語り部

◆3度目の冬を迎えた釜石
釜石は仮設が3000人くらいの方がいるんです。もう3回めの冬を迎えますがね、なかなか復興住宅が建っていませんから、遅れていますからね。まああと5年くらいはかかるんじゃないですかね。そういう意味ではまだ大変な生活をしているなという感じ。


今朝は、岩手県釜石市で、震災の被害や現状を後世に伝える、語り部の言葉をお伝えします。

語り部は、三浦達夫さん。この町で長年、鉄鋼マンとして働き、あの「新日鉄釜石ラグビー部」の初代キャプテンも務めた方です。



現在は、釜石観光ボランティアガイド会の会長として、釜石の歴史遺産の案内や、震災の被害や現状を伝える活動をされています。 三浦さんによれば、「釜石は昭和35年、昭和53年の津波を経験しているが、大きな被害はなかった。だから今回も “そんなものじゃないか”と感じていたのでは」と言います。

◆世界最大の防波堤の意味
ポイントが2つある。1つは釜石に「津波防波堤」というのがあるんです。特徴は世界最大の津波防波堤。63メートルという深いところに作った防波堤ということで、ギネスにも登録された。これを作ったのは明治29年と昭和8年の三陸大地震をベースに、その程度のもので発生する津波はこれで防げるということで作られた。その時の地震はマグニチュード8。東日本大震災はM9で、この防波堤が崩壊した。これを研修にくる子どもたちも多いが、僕らは「人間が作った建造物で、自分たちの生命や財産は100%守ることはできないんですよ。じゃあなんのためにあるのか。もちろん生命や財産を守るためなのだが、それ以上に、これによって津波の時間、エネルギーをある程度抑えてくれる。そうすると我々は逃げる時間を稼げる。そう考えると防波堤は意味があるが、それを100%信用してしまうと大きなことにつながりますよ」と。今回もこの沿岸で230人から240人の方が亡くなっているが、ほとんどの人が、この防波堤がができたおかげで逃げなくても大丈夫だと考えて逃げ遅れたのが結構多い。だけど、ここにあった釜石小学校の子どもたち184人は一人の犠牲者もいない。それは、彼らもこの防波堤ができたことも分かっているし、津波の高さが3mだということも聞いているが、それも無視してみんな逃げているから。そういう説明をやっている。




三浦さんの説明したのは『釜石港 湾口(わんこう)防波堤』。長さ990mと、長さ670mの2つの防波堤を、湾の入り口に配置しており、完成したのは、2008年。東日本大震災の3年前のことでした。この防波堤は、東日本大震災の津波で破壊されたものの津波の高さ・速さを抑える効果はあったと考えられています。ただ、「津波をとめる・防ぐ」力は、無かったわけです。

釜石観光ボランティアガイド会

LOVE&HOPE。あしたも釜石から震災体験を語り継ぐ「語り部」のお話をお届けします。

2013年12月17日

12月17日 釜石市 橋野高炉跡

今朝は、鉄鋼と製鉄の町・岩手県釜石市からのレポートです。

明治時代から、日本の産業を支え続け、現在も、新日鐵住金・釜石製鉄所を 中心とした「鉄の町」として知られる、釜石。 その原点が、釜石市 北西部の山中にある、「橋野高炉跡」です。

高炉とは山から掘り出した鉄鉱石を溶かして鉄を作るための「炉」のこと。「橋野高炉跡」は、2015年に政府が推薦する世界遺産候補の一つでもあります。今回、この場所を地元のボランティアガイド・三浦達夫さんに案内して頂きました。



◆日本の鉄鋼産業・黎明の記憶
※三浦さんのガイド
「これが釜石市の橋野高炉跡という場所です。現存する洋式高炉の中では日本最古。南部藩、盛岡藩の沿岸を警備するためにどうしても鉄が必要だった。大砲などを作るために鉄の必要性を痛感して、橋野という場所に盛岡藩が作ったのがこの高炉跡。

ここは地形を活用して建てられていて、その1つが水車。製鉄する際の空気はオランダからの技術でフイゴを足で踏んで風を送っていた。それでは能率が悪いということで水車を使うことを考えだした。地元には水車があったので活用しようと。流れている川を水路に流して水車を回し、一番高炉の風車の動力源とした。さらに燃料として木炭が必要なのでたくさんある山から切ってきて燃料にした。さらにこのあたりは花崗岩という岩がたくさんあったので、それを切り出して高炉の外壁とした。

地形、鉄鉱石、木炭、炉を構築した花崗岩も使われている。それが全部重なって、この一体が世界遺産に、という形で日本として申請された。ここに遊びに来る子どもたちは川を探索しながら磁石を持って歩き、川の中で鉄鉱石を拾って歩くということもできる。触れてみて触ってみて、昔の人がどんな苦労をしてこういうものを作ったかを感じることが出来るということ。」




明治時代の最盛期、この場所には1000人以上の働き手、150頭の牛、100頭の馬がいたといいます。この場所には一大製鉄産業と、人間の営みがあったのです。日本の製鉄産業が産声を上げた当時を物語る遺産…橋野高炉跡は、「明治日本の産業革命遺産」の1つとして、2015年のユネスコ世界遺産委員会に、日本から推薦される予定です。世界遺産を目指す動きは、釜石の復興にとって大きな力になるかも知れません。


あしたも釜石からのレポート。震災体験を語り継ぐ「語り部」のお話をお届けします。

2013年12月16日

12月16日 サントリーの被災地支援 釜石東部漁協の復興

今朝は、『東北サンさんプロジェクト』をはじめ、被災地支援に取り組む、サントリーの活動のレポートです。

サントリーは漁業の復興支援、子どもたちの支援、文化・スポーツを通じた支援を柱に、様々な活動に取り組んでいます。その中で今日ご紹介するのは、「漁業の復興支援」。サントリーは、漁業の再生が被災地の復興に不可欠と考え、被災地の漁師さんや養殖を営む方の、復興のための支援を続けています。

この支援を受けて、いち早く漁業を再開したのが、岩手県・釜石東部漁協。この地域の漁師さんたちも、津波で大きな被害を受けたといいます。

◆漁船のほとんどを失った
波を見た瞬間に逃げたが、湾の手前のところにいくと20メートルを超える高さ。なんにしろ、上から波がくるような状態で間一髪で私も助かった。震災前は全部で715隻の漁船があったが、その中で被害を受けなかった漁船は9隻。あとの706隻は沈没、流出、損傷を受けているという状態だった。


お話は、釜石東部漁協の久保正明(くぼ・まさあき)さんです。この地域は16m〜20m近い津波の被害で、715隻あった漁船のうち、706隻が沈没・損傷。しかし現在は、423隻まで復旧しています。そのほとんどが、サントリーの支援によるものとなっています。

◆支援による復旧と課題
船もすべてほとんどが流れたが、なんとか修理する漁船は修理して、新造する船は作ると早い取組をしてきた結果、震災の年から定置網も再開、アワビも再開した。翌年にはウニも再開して震災前と同じような操業形態になった。これからの時期は、アワビの漁期。天然のアワビが獲れている。自分でも獲ります(笑) 漁師であれば、やっぱり生のものをかぶりついて食べるのが一番おいしい食べ方。近海だと鮭、するめいか。今のイカは身が厚くなって脂も乗って美味しい。マグロもたまに獲れるが、今の時期は脂がのっているので食べてみたい。震災後、みなさんのご支援があって復旧に至っている。本当にありがたいと思っています。ようやく復旧して、復興へ向かって漁業者も一生懸命頑張っている。漁船や施設はそろったが漁村は半壊している。ほとんどの方がまだ避難所暮らしをしているので、この地域から離れて、仮設住宅から漁業をしている状況。今後は漁村の形成のほうに力を入れて早く回復させたい。


サントリーの被災地支援の取組みについてはこちらをご覧ください。

2013年12月13日

12月13日 三陸ジオパーク4

火曜日から、「三陸ジオパーク」のガイドツアーの模様をお伝えしています。

大槌町の地下から出る湧水・湧き水や、ひょこりひょうたん島、津波の被害を受けた町役場。どれも、「ジオパーク」という新しい視点で見ると、改めて学ぶこと、気づくことの多いツアーでした。

そして、このツアーをガイドしてくれたのが、小林寿美さん。大槌町で生まれ育った、まだ10代、高校生の女の子です。彼女がガイドをやろうと手を上げた理由を教えてもらいました。



◆本当の現状を自分の声で
わたしはずっと前まで文句しか言っていない高校生で、町に対して「町長さんは何やっているんだ」とか「なんで防潮堤が高いんだ」とか文句しか言っていなくて、ある日、町長さんとお会いしてお話しする機会があって、自分が持っている問題意識をぶつけて、返ってきた答えには町としてちゃんと理由があった。自分は文句しか言っていなかったなあと思って。ニュースやメディアでは、被災地ががんばっている、復興が進んでいるという良いことしか言っていないと思った。だったら自分が大槌町の本当の被災地の現状を自分の声で、県内外の人に伝えていきたいなと思って、高校生ガイドの話を聞いて参加しました。

(今日ことみちゃんのガイドを受けてすごく熱いものを感じたんですけど、ガイドでは何を一番お客さんに伝えたいですか)
町の復興計画の現状も伝えたいが、当たり前のことが実はあたりまえじゃなくて、今生きていることも、ご飯を食べていることも自分の力ではなくて、さっきのひょうたん島のおじいさんのように誰かに助けられて生きている。みんな生かされているということを伝えたいと思ってガイドをしています。

(大槌町が復興する中で、大槌町で暮らす中でどんな街になってほしいと思いますか)
綺麗なお店が欲しいとかは全く思わないんですけど、住民が愛着のもてる町、海が見えて、海の匂いがするね〜とか建物とかじゃなく、体で感じられる部分を失いたくないなって思います。


ことみちゃんは現在、このガイドを務めながら、高校生だけの「こども議会」という活動にも参加。将来の街づくりのことを、真剣に考えています。彼女の将来の夢は 「大槌にかかわる仕事をすること」。

一方、三陸ジオパークは今後、より認定基準が厳しく認定されれば世界にアピールできる「世界ジオパーク」の認定も目指すということです。


来週は、岩手県・釜石から、釜石東部漁協の復興と、支援の動きについてお伝えします。

2013年12月12日

12月12日 三陸ジオパーク3

今朝も引き続き、「三陸ジオパーク」についてお伝えします。

青森・岩手・宮城にまたがる三陸地域の、地震や津波も含めた自然活動を、そのまま「公園」と考えて活用するのが、三陸ジオパーク。

地元高校生ガイド・小林寿美さんの案内で、岩手県大槌町のジオパークを巡ってきましたが、最後に案内してもらった場所は、大槌町の名所。作家・井上ひさしさんが名付けた、あの有名な島の見える場所でした。



◆ひょっこりひょうたん島
(すごいねー、きれい。)
あそこにみえるのがひょっこりひょうたん島と呼ばれている、蓬莱島です。大槌の人たちは蓬莱島と言っています。井上ひさしさんがひょうたんの形をみて、「ひょっこりひょうたん島」と言っただけであって、この地区の人たちは蓬莱島、または島に祭られている七福神の弁天様の名前で呼んでいます。

(想像より小さい島だけど存在感がありますね)
なんか自慢になります。ひょうたん島のモデル〜って(笑)。すごい自慢です。

(じゃあ、「ひょうたん島」って呼ぶことも多い?)
私たちの年代は、ひょうたん島と呼ぶ人も多いと思うんですけど、おじいちゃんおばあちゃんは「弁天様」。この地区もチリ地震の津波ときに、夜だったのでみんな寝ていたそうなんですけど、助かったおじいちゃんが、「おらが寝ていたら弁天様が枕元にきて助けてくれた」といったらしいです。そういう力があるんだなと思って。もしかしたらおじいちゃんは勝手に目が覚めて逃げただけかも知れないが、そういうのを信じるというか、感謝しながら生きているのが大槌町の人なのかなと、震災後に感じました。

(海があってちょっと先にひょうたん島があって、そして山がある。リアス式の特徴ですよね。山も紅葉していてこんなきれいな景色があるんだなって、感動しちゃいます)


大槌町の名所、人形劇「ひょっこりひょうたん島」のモデルとして知られる蓬莱島を案内してもらった様子、お伝えしました。

取材したのはちょうど夕暮れ時。大槌の町に面した静かな湾に、ぴょこんと海から飛び出していた、ひょうたん型の島が本当に美しく映えていました。この島は、1億2000万年前の火山活動でできた岩石による島ということで、この地域がどうやって形成されたかを物語る、「ジオパーク」となっています。

蓬莱島は本来は桟橋を歩いて渡ることができますが、桟橋も津波の被害を受けたため、現在修復中となっています。もうすぐ、観光客も島にわたることができるようになりそうです。

明日は、今回のガイドを務めてくれた地元高校生・小林寿美さんの、街に対する想いをお伝えします。


2013年12月11日

12月11日 三陸ジオパーク2

青森・岩手・宮城にまたがる三陸地域の、地震や津波も含めた自然活動を、そのまま「公園」と考えて活用するのが、三陸ジオパーク。

今回、高橋万里恵は、岩手県大槌町のジオパークを地元高校生ガイド・小林寿美さんの案内で、めぐってきました。そのコースの中には、大槌町の地面からわきでる水、つまり「湧水」もありました。

◆湧水のわきでる町
(:いま連れてきていただいたところは、パイプからキレイなお水がじょぼじょぼと流れていますね?)
これは湧水といって地面から湧き出ている水なんですけど、この水は生活用水だったり、お米を洗ったり、夏場はスイカを冷やしたり飲み水に使ったり・・・生活に欠かせないものとして震災前に使われていたものです。一軒のお家にひとつではなく、近所の人たちが集まって井戸端会議をしたりだとかという風に使われていて、こういう風に自分の力で湧き出ている水が大槌町には160か所以上あるといわれていて、小さな湧き水も加えると200近くあるといわれています。
(水の資源が豊かなんですね。湧水は震災前は寿美ちゃんも使っていたの?)
はい。大槌町では家の水道水がだいたい地下水を引き出しているもので、それ以外では、こうした湧水をペットボトルにくんで飲んだりと使っていました。
(都心では考えられないからすごくうらやましい。今でも飲めたり生活用水に使える?)
おばあちゃんとかは湧水のところを散歩してお茶を飲んだりして、「あそこの水はこういう味で、あっちは味が違う」というらしい。私は味はわからないんですけど(笑)

大槌町は、山と海の距離がすごく短い地域にある町。山の急勾配を下る地下水は、とても水圧が高いんだそうです。なので、すこし地面を掘るだけで、湧き水がでてくるんですって。

ただ、問題もあります。いま大槌町は「2mのかさ上げ」が始まっています。これによって、湧き水も出なくなってしまうのではないか、という懸念があるそうです。ガイドの寿美さんは、ちゃんとそういう問題も説明してくれました。

高校生ガイド・寿美さんと歩く大槌町のジオガイドツアー。
このあとは、大槌のシンボル、ひょっこりひょうたん島へ向かいます。

2013年12月10日

12月10日 三陸ジオパーク

今朝は、「三陸ジオパーク」についてお伝えします。

ジオパークの「ジオ」は、地球のこと。ジオパークとは、自然の地形をそのまま利用した、「公園」のようなものです。実はいま、被災地沿岸部、青森・岩手・宮城にまたがる三陸地域が、日本ジオパークの審査を受けて、「三陸ジオパーク」に認定され、観光資源としての活用が始まっています。

三陸ジオパークの推進員、関博充さんに伺いました。

◆「大地の公園」を三陸に!
ジオパークは直訳すると「大地の公園」。そもそも津波以前から三陸地域は大地が作る造形がある場所だったためジオパーク活動を進めていたが、3月11日の地震と津波も地球活動の一つとしてとらえればジオパーク活動の大きな目玉になる、世界に打って出る視点になるということも含めて、今回の津波の被害を受けた建物跡、津波で運ばれた災害の建物跡も、ジオパークとして扱っている。


地球が起こす現象が作った海・陸地・自然。これがジオパークの大事な要素。それに加えて三陸ジオパークは、地震や津波という地球活動によって被害を受けた建物も、ジオパークと捉えています。

そして高橋万里恵は先日、この三陸ジオパークの一つ、岩手県大槌町のジオパークへ行ってきました。こちらでは、大槌町の地元有志達が、ジオパークをめぐるガイドをしてくれるのですが、今回、私を案内してくれたガイドさんは、地元の高校生の女の子でした!


◆大槌町の今を伝える高校生ガイド
みなさんが見ているのが大槌町の旧役場庁舎です。震災当時町長さんたちもいて136人が働いていました。津波による被害で40名が犠牲になった。なぜそれほどの数が亡くなったかというと、津波が来ることをわかりながらも高台ではなく、波を逃れられると考えられる屋上でもなく、今立っているこの場所に災害本部を設立した。後ろにはコンクリートの壁が並んでいますが、あれが防潮堤です。海の水は見えないですよね。津波が来たといわれても、津波を知るときには実際にその波が足元にくるまで気づかなかった。高台に逃げようにも間に合うはずはなかった。そんな中で40名という犠牲者が出てしまいました。いま大槌町は復興計画が出ているが、みなさんが見えている防潮堤の高さが6.4m。復興基本計画ではあの防潮堤が14.5mの高さになるといわれています。およそビル3階、建物の高さ。
そうなると今でさえ海の水が見えないのに、大槌町はコンクリートの壁に囲まれた町になってしまうというのが住民の中で問題になっている。被災地に目を向けられていない方にも発信することがはじまるのではないかと感じている。今から少し歩くんですがついてきてもらえればと思います。


大槌町の地元有志による団体「おらが大槌夢広場」の一員で、ジオパークのガイドを務めてくれたのが、地元の高校2年生、小林寿美さん。一見、とてもあどけない女の子ですが、ガイドをする姿は、本当にしっかりしていて、大人顔負けでした。大槌町では、彼女をはじめ地元の高校生たちから、街の復興にかかわりたいという声が本当にたくさんあり、高校生たちが自らガイドを買って出たそうです。現在、ガイドは70歳から高校生まで、6〜7名。高校生ガイドは、小林寿美さんを含め、4人いるということです。

大槌町でのことみちゃんのガイドはこのあとも続きます。明日も引き続き、お伝えします。

2013年12月9日

12月9日 サントリーの被災地支援 水産高校への奨学金

今朝は、『東北サンさんプロジェクト』をはじめ、被災地支援に取り組む、サントリーの活動のレポートです。はい。サントリーは漁業の復興支援、未来を担う子どもたちの支援、文化スポーツを通じた支援を柱に、様々な活動に取り組んでいます。

番組では12月の1か月間、毎週月曜日に、これらの取り組みをご紹介していきます。先週の「フクシマススムファンド」に続いてピックアップするのは、被災地の未来を担う“学生たち”への支援です。
サントリーは、漁業の再生が被災地の復興に不可欠と考え、東北の水産高校・水産科の高校生を対象に、返済義務のない奨学金の給付を続けています。

今回は、中西哲生がこの奨学金を受けて勉強を続ける、宮城水産高校の高校生に電話で話を伺うことができました。海洋総合科3年生、菅原浩人(すがわら・ひろと)くんです。

◆石巻の魚をもっと知ってもらうため
(まず水産高校に入学を希望した理由を教えてください)小さいころから釣りが趣味で特にアイナメなどを好んで釣っていました。そこでもっと多く釣るためにはどうすればいいかを考え、多く生息するポイントや好んで食べるエサなど生態を詳しく学びたいと考え水産高校に入学しました。

(たくさん釣れるようになった?)
なりましたね。

(具体的には勉強がどう役に立ったんですか)
結構役に立ちました。生態とか多く生息するポイントを実際に釣りをしてみました。

(ストレートな理由で入学したわけですが、三年生になってその気持ちはどう変化しましたか)
実際に魚を食べておいしいと感じて、釣りも今もしているし石巻の魚をもっと知ってもらいたいと思いました。

(震災というつらい体験を経て考え方や目標はどう変わりましたか)
震災前の石巻は全国でも有数の水揚げを誇る市場、その周辺に多数の水産関連企業がありましたが津波ですべて流されてしまった。最近は加工場などの企業が戻ってきています。実際に魚をとってくる漁師と消費者の間の架け橋的な役割を果たすのが市場。だから自分も石巻の復興のためになれると思って、石巻魚市場への就職を決めました。

(石巻の魚で菅原君が一番たべて欲しいのは?)
金華山という島があって、その近海で獲れる金華サバぜひ食べてほしいです。脂と甘味があって味噌煮が俺的には好きなんですけど。

(菅原くんは料理もするんですか)
たまに母の手伝いでやります。魚もさばけます。さばいたものを母が料理してくれます。

(お母さんの料理で好きなのはありますか。)
ムニエルです。スズキのムニエル。

(そういうものを子供のころから、新鮮なものを食べられるのはうれしいですね。それが石巻のよいところでしょ)
自然豊かで、魚もとれて魚もおいしいところがよいところです。

(最後に将来の目標を)
釣った魚などを、自分でさばいて食べるなどをしたときに石巻の魚は本当においしいと感じています。
この魚を全国に広めて、もっともっと多くの人が魚を食べてくれるように頑張っていきたいと思っています。


サントリーの奨学金は、宮城水産高校のほか・宮城県立宮古水産高校、気仙沼向洋高校、福島県立いわき海星高校、岩手県立高田高校などの学生を対象に、2013年度は、485名の生徒に奨学金を給付しています。

その小学生の一人が菅原くん。今回は緊張しながらも一所懸命 答えを考えて話してくれました。
菅原くんの実家は津波で大きな被害を受けています。ご両親が、経済的に厳しい状況だということを、彼なりに考えて、奨学金を受けることにした、とも話していました。現在、菅原くんは、食品化学を勉強するコースで学んでおり、缶詰や干物、魚醤づくりなど、水産加工の技術も身に着けているということです。

この高校生たちが、地元の水産業の未来を担う。いろんな支援を受けたことを胸に、しっかり学んでほしい!


先日開かれた「サンファンフェスティバル」の会場で、アンバサダーの中西哲生&佐藤真海さんは宮城水産高校の学生たちとともに、学生たちが作った干物などの販売をともにしています。

サントリーの被災地支援の取り組み

明日は「三陸ジオパーク」についてお伝えします。

2013年12月6日

12月6日 福島路ビール 林檎のラガー、桃のラガー


今朝は、福島から「地ビール」の話題です。

福島県産の果物を使ったフルーツビールが、いま密かな話題を集めています。
開発を手掛けたのは、福島市で地ビールの製造と販売を行う「福島路ビール」。
震災直後は、ビールそのものも、風評被害で大きく売り上げが落ち込んだといいます。

同じく復興に向けて模索を続けるのが、桃や林檎を生産する福島県内の果樹農家でした。
震災当時、県内の農家は風評被害で販路を失って、生産の8割を捨てざるを得ない状況にありました。そこで地元ビールと果樹農家がタッグを組んで取り組んだのが、果物の果汁を生かしたフルーツビールの開発でした。

お話は「福島路ビール」の営業統括責任者、吉田真也さんです。

◆果樹農家さんを応援したい!
農家さんを応援したいという気持ちがある。風評被害で果物が売れない、どうしても販売が落ちている分を、わたしたちが買い取って、フルーツビールに変えて東京の人に福島のフルーツをアピールしたいということで、「フルーツビールプロジェクト」と呼んでやっている。
現在商品化をしているのは、林檎と桃。わたしたちはビールが専門でジュース加工のプロではないので、ビールに入れたくない繊維や糖分によるべたつき、絞ったあとの濾過など、開発にだいぶ悩んだ。いまではきれいに早く絞ることができるようになった。
林檎もフジがいいとか陽光がいいとかいろいろあるが、基本的には農家さんがいま出したい果物を買う、というスタンス。果実は糖分や香りなどばらつきがあるものなので、むしろそれを楽しめるように。桃も一緒。糖分は甘いが酵母が食べてしまうので(加工すると)3分の1くらいになってしまう。でも香りは残る。だから実際飲んでみて「林檎だね!」とわかるまで入れたかった。実際飲んでくれた人からそういう声が上がるので、「やあ、農家さん頑張ってるんよ」というと、「じゃあもう一杯飲むよ」ということになって。それが非常にうれしい。
クリスマスには今年の夏の桃を使った「桃のラガー」と、「林檎のラガー」の3仕込目を皆さんにお披露目したいなあと思っている。


香料は使わず、果物の自然な風味を生かしたフルーツビール。
「林檎のラガー」は来週12月10日から販売を再開する予定。
また「桃のラガー」は、今月中旬以降の販売を予定しています。

購入は工場直売店、または「福島路ビール」のオフィシャルサイトから。
「林檎のビール」は現在、予約購入を受け付けています。

「福島路ビール」のオフィシャルサイト
林檎のラガー 予約受付中!

2013年12月5日

12月5日 ダイビングショップ「ハイブリッジ」

今日も、宮城県石巻市のダイビングショップ『ハイブリッジ』、代表の高橋正祥さんのインタビューをお届けします。

牡鹿半島・女川町の「サケの遡上」観察ツアーなどを企画している高橋さん。震災前は、神奈川県で働いていましたが、東日本大震災をきっかけに、拠点を宮城県石巻市に移し、ダイビングショップを開いたと言います。
生まれは仙台。子どもの頃から三陸の海に親しんでいた高橋さんは、ダイバーとしての経験を活かし、震災直後から海の中のがれき撤去などのボランティアを続けています。

◆自分が育った海を復活させたい
昔から遊んでいた海だというのもあったし、震災の時は神奈川の葉山で働いていたんですけど、震災でこっちの海に潜るようになり地元の海って魅力のある海だと思った。自分の育った海ですから、地元の海を復活させたいというのを感じて帰ろうと。それで、帰ってきてがれき撤去や作業ダイバーをやりながらこっちでお店を開いた。世界中の海を潜ったが、東北の生物はどこよりもポテンシャルがある。三陸にしかいない生物がけっこういる。宮城と岩手にしかいないクチバシカジカという魚は、女川のダイビングポイントでは年中見られる。岩の中にいる、簡単に言えばイノシシっぽい魚。泳がず水底を這いつくばる。それはすごく珍しい。あとはダンゴウオ。

潜っていて思ったのが、宮城県牡鹿半島の南と北では生物が全然違う。水温が夏場で2度くらい違い黒潮と親潮がぶつかるところなので、春口になるとクリオネが北から流れてきたり、台風の時期になると沖縄から熱帯魚がこっちまでくる。親潮の魚も黒潮の魚もどちらも見られる。なかなか親潮と黒潮がぶつかるところって日本でもそんなにない。そういう魅力のある海がここ。僕はこっちで育ったが全然知らなかった。震災後に勉強して色々なことを知ったと言うのが正直なところ。今年も何度かやっているが、石巻の定置網をやっているところに話をして、定置網ダイビングを実施している。定置網の中に潜るといろんな魚がいて圧巻。まるで定置網に自分がかかっているような感じだけど(笑)そういうのを漁師さんたちから声をかけて頂いて入らせて頂いた。


また、高橋さんは去年11月、『石巻うみさくら』という団体を立ち上げ、ダイバーや潜水士による、海の中の清掃、ボランティアを募っての、ビーチクリーンなど三陸の海の清動を続けています。 高橋さんによれば、いまの海の中には、クルマや舟、ガードレール、そして衣類など津波で流されたものが、多く残っていて、まだまだ、継続してボランティアを続けることが必要だと語っています。

【石巻うみさくら】
【石巻ダイビングショップ High bridge】

2013年12月4日

12月4日 宮城県女川町〜鮭の遡上ツアー

今日は、宮城県・女川町から、「鮭の遡上」のレポートです。

宮城県東部、牡鹿半島の根本にある女川町には、山間を流れる、小さな川があります。11月中旬。この川で、海から帰ってきた鮭たちの産卵がピークを迎えていたんです。



◆鮭の遡上
ツアーガイド「いっぱい卵がゴロゴロ転がっています。真珠くらいの大きさです。イクラに火を通しちゃったような濁った赤っぽい卵がそのへんにゴロゴロ転がっているのですぐに目視できます。」

取材したこの日は、本当に無数の鮭が川の流れに逆らって泳いでいました。澄み切った冷たい水に目を凝らすと、小さな鮭の卵が、川底の岩にしがみつくように揺れているのも分かりました。

そして実は、この鮭の遡上を川の中に「入って」観察するツアーがあるんです。ツアーを企画・ガイドも勤めているのは、石巻市でダイビングショップを開いている、高橋正祥さん。現地でお話を伺いました。

◆鮭の遡上・産卵を「水中で」観察!
宮城ダイビングサービス「ハイブリッジ」で主催しているのはサケの遡上ツアー。秋に白ジャケ(日本では白ジャケと言われる。銀ジャケは養殖)の遡上、海から川に戻ってくるのをシュノーケルで見るというツアー。震災前、2009年に放流した白鮭の稚魚が4年かけて、アラスカ、ベーリング海を回って戻ってくる。だいたい50センチから70センチくらいの規模が多い。川に戻ってくるのは0.2%くらいと言われている。戻ってきた鮭はまたこの川で産卵をする。生命の神秘ではないが感動する。東北は鮭が遡上するのでツアーを組んだら面白いと思い去年からはじめた。ウェットスーツでは川水は冷たいので、ドライスーツという首から下が濡れないように着られるものを着用。普通の服の上に着るような感じなので全然寒くない。それで岩場に寝転んで撮影をする。タイミングが良ければ産卵シーン、オスメスの交尾シーンがみられる。普通の方が見ても感動する。一度見たいという方は来てもらって見てみるといいかも知れない。こないとわからない部分もすごくある。
                      

宮城ダイビングサービス「ハイブリッジ」HP
 

明日も、女川町の「鮭の遡上」に関するレポートをお伝えします。

2013年12月3日

12月3日 オペレーション・ブレッシング・ジャパンの「チャリティ年賀状」


アメリカに本部を持つ「オペレーション・ブレッシング・ジャパン」は、教育や人道支援、そして災害援助に取り組むNPO法人。震災の直後には、東北に救援物資を届けるとともに、震災でメガネを無くしたり、視力が低下してしまった人のために、検眼をした上で適切なメガネを提供するサービスに取り組みました。届けたメガネは5000着以上。また、漁業の復興に向けた支援事業や、外遊びができない福島の子どもたちに、スクールバスをプレゼントする活動も行ってきました。そんな「オペレーション・ブレッシング」が今回取り組んでいるのが、「チャリティ年賀状」です。

「オペレーション・ブレッシング・ジャパン」の代表理事、ドナルド・トムソンさんお話を伺いました。

◆チャリティ年賀状
年賀状の企画は、福島県相馬市という原発に近い街の子供達に絵を描いてもらうもの。テーマは「午」と「希望」。
「午」は来年の干支でもあるが、相馬は馬追いの伝統のある街なので、馬がいいかなと。(子どもたちに馬の絵を書いてもらった感想は)まず上手だなと。また、希望という言葉も空を飛ぶ姿など、自分たちの街が汚染されているのも現実だが、希望を持って前身しなければいけない。馬のように前に進んでいく、というイメージを受けた。
またこの活動を通して、一つの訴えにもなるかなと。福島では子どもたちがあまり外で遊ぶことができないことは、大人としては心が痛む。バスを寄贈した幼稚園も計測器で放射能を測定して、子供を今日外に出すか出さないか、判断している。これは絶対大丈夫ということは誰もいえない。そういうところを見ると心が痛むし、なんとか早くこの問題が解決するように祈るばかり。


力強く草をはんだり、空を駆けあがる馬の姿など、デザインは4つ。お年玉付き年賀状に描かれていて、価格は1枚100円。10枚がワンセットです。12月20日まで購入可能。集まったお金は、福島の子供たちの移動手段となるスクールバスの購入資金に充てられます。購入は「オペレーション・ブレッシング・ジャパン」のHPから。

オペレーション・ブレッシング・ジャパン

2013年12月2日

12月2日 フクシマススムファンド

今朝は、番組で紹介してきた『東北サンさんプロジェクト』をはじめ、被災地支援に取り組む、サントリーの活動のレポートです。先月は、その一環として行われた「ツール・ド・東北2013(にせんじゅうさん)」と、
「サン・ファン・フェスティバル」というイベントの模様をお届けしましたが、サントリーは漁業の復興支援、未来を担う子どもたちの支援、    文化スポーツを通じた支援を柱に、様々な活動に取り組んでいます。これまでも漁業支援など総額88億円の復興支援を行っているんだそうです。番組では12月の1か月間、毎週月曜日に、これらの取り組みをご紹介していきます。

今朝ピックアップするのは、サントリーと、公益社団法人セーブ・ザ・チルドレン・ジャパンが立ち上げた、
『フクシマススムファンド』です。セーブ・ザ・チルドレン・ジャパンの梶英樹さんに伺いました。

◆フクシマススムファンドとは
東日本大震災によって、福島県内・県外に避難されている子どもたちを支援するために、地域に密着したNPOを助成金を通じて後押ししようということで実施している。

放射線の影響を考え県外に避難したり、県内でも自由に外遊びが出来ないなど、福島の子どもたちを取りまく環境は様々です。そうした背景から立ち上がったこのファンド。今年1月に15の団体を対象に支援がスタートしました。支援する中で分かった、福島の子どもたちの現状について伺いました。


◆県外・母子避難者のいま
県外に避難している方々というのが18才未満の子どもで言えば約3万人。現在も避難先で暮らしている状況がある。その事例の一つが『NPO法人やまがた育児サークルランド』。なぜ山形かというと、避難先の場所として当時最も多かったのが山形県。ピーク時に比べると避難者は減っているが、山形にはいまでも避難されている方、特に母子避難者が多いく子育てに関する悩み・不安も多い。この団体は避難された母子のための交流サロンというものを設置していて、多い時は日に200人の利用がある。避難先で定住して生活していこうと決意を持った方々もいれば、戻りたくても戻れないという方もいる。家庭家庭によって状況は多様化している。その中でも、小学生ママのサロンに参加していた母親から、サロンでのコミュニケーションが元気に繋がって、新しい職場でスタートを切る気持ちになったというお手紙を頂いた。その中にはこんな文章が添えてあった。


「先日お風呂場から転校先の小学校の校歌が聞こえてきました。三年生のおねえちゃんが一年生の弟に校歌を教えていた。震災や原発に振り回されてきて、戸惑いながらの転校でしたが、いつの間にか立派な小3になっていたおねえちゃん。先生やお友達、上級生がしっかりサポートしてくれたんだろうとありがたく思いました」

子どもたちの成長のスピードは速く、一方、山形の中で暮らしていく親には戸惑いもある。しかし子どもはその中でしっかり成長していくといったエピソードが支援する中ではあった。

このファンドではその他、
・郡山市にある子どもの屋内遊び場の専門スタッフの養成、
・福島県内の児童養護施設の子どもたちの健康管理に関する事業
などにも支援をしています。
また、来年・2014年度は25の団体を支援することが決まっています。

フクシマススムプロジェクト(フクシマススムファンド)

サントリーの被災地支援の取り組み

パーソナリティ 鈴村健一

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特別番組 LOVE & HOPE ~10年目の春だより

TOKYO FM 特別番組 HANABI

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