2013年11月29日

11月29日 「震災遺構」を考える(4) 宮古市 たろう観光ホテル



岩手県宮古市の田老町は、高さ10mの防潮堤を建設するなど、津波に対して強い街づくりを進めてきましたが、東日本大震災ではその防潮堤を越える津波が発生し、多くの犠牲者が出ました。

そんな田老町に震災遺構として残されているのが、「たろう観光ホテル」です。
このホテルの保存に、復興庁が2億円余りを交付する方針を固めたというニュースが、昨日入ってきました。これは、震災遺構の保存を国が支援する、初めてのケースです。

これまでの経緯を、宮古市復興推進課、滝澤肇さんに伺いました。

◆5度目の正直
宮古市として遺そうと想定している震災遺構は「たろう観光ホテル」。田老地区はもともと、高さ10メートルの防潮堤が2本、2.4キロにわたって整備されていた。その2本の防潮堤のちょうど真ん中に位置して、6階建の建物だったが、4階まで被災し、5階と6階が残っていた。
津波の恐ろしさを後世に伝えるものとして、非常に保存する意義が高いと考えたが、市の独自の事業としては費用が掛かりすぎるということがあり、復興交付金でお願いしたいと国に支援のお願いをしていた。これまで、意義は認めるものの時期的な問題とか、様々な観点で、4回申請した中で4回とも認めていただけなかった。今回5回目にして、始めて保存の費用が認められた。やっと市として保存に取り組むことが可能になった。宮古市としては、「たろう観光ホテル」に付随する形で、破壊された防潮堤も同時に遺していきたいなと考えているところ。


田老地区では、「たろう観光ホテル」を拠点とした「学ぶ防災プログラム」が実施されています。これは、津波の恐ろしさを伝え、防災意識を高めるための取り組み。これまで、4万人を超える方が参加しています。

◆学ぶ防災プログラム
「学ぶ防災プログラム」が宮古観光協会を中心としてすすめられている。
「たろう観光ホテル」の社長さんが、津波のときに一人で留まって撮影したDVDを館内で上映。ツアーの皆さんはそのDVDで規模と被災の状況を実際に見ることで、始めて津波の恐ろしさを体験することができる。震災遺構を保存する意味というのは非常に大きいのではないかと考えている。


「たろう観光ホテル」は震災遺構に実際に立ち入ることができる、被災地の中でも珍しい場所。
また、保存について、地元で大きな反対の声は上がっていないとのこと。「ホテルで犠牲になった方がいないこと」「ホテルの保全が復興街づくりの障害にならないこと」など、いくつかの条件が重なった結果です。

地域ごとに状況が異なる「震災遺構」。震災の教訓を後世に伝えるためにも、時間をかけて取り組むことができるよう、被災地をバックアップする仕組みが必要です。

2013年11月28日

11月28日 「震災遺構」を考える(3) 南三陸町 高野会館

宮城県南三陸町にある「高野会館」は、海岸からおよそ200メートルの場所にある、4階建ての建物。震災当時は津波が屋上まで押し寄せましたが、館内にいた方たちはビルの最上部に避難して、難を逃れました。この高野会館を所有する阿部長商店は、
公費による解体撤去を見送り、当面保存する考えを明らかにしています。お話を伺ったのは、阿部長商店「南三陸ホテル観洋」の女将、阿部憲子さんです。

◆目で伝えることも重要
この震災と津波の出来事を皆さんに学んでほしい、今後の教訓にしてほしいという気持ちで、語り部活動を行っていたが、志津川の病院や警察署、戸倉小学校などもかつてはあったが、そのようなシンボル的な建物が次々に解体された時期があって。そのとき、町内の語り部の方もホテルの語り部のスタッフが一斉に「(震災や津波について)伝わらなくなった」と口にするようになった。
※いままでは被災した建物のところにいくと、説明が始まる前から、お客様が驚いた顔をしたり、表情が伺いしれたのが、建物が解体されたことで、伝わらなくなったと。これはやはり「目で伝えること」も必要ではないかな、語りだけでは伝わらないものがあると考えた。
※シンボル的な震災遺構が次々と解体された関係上、われわれの持ち物である高野会館はわたしどもの意志で存続が決められる、ということもあったので、多くの方にこの出来事を伝えるためにも遺すべきではと考えて(当面の保存を)決めた。


高野会館では震災当時、高齢者による演芸発表会が開催されていました。
スタッフが4階建てのビルの最上部に客を誘導。327名の命が救われました。

◆次の世代に伝えるために
地元にいても「震災遺構」について、皆が同じ捉え方ではない。というのは、「高野会館」は人の命を救うことができたので、直接的に反対する意見は一件も届いていない。
幸いにして、皆さんを守ることができた場所でもある。非常に重いものを背負うことにもなりかねないので、心配な想いはあるが、やはりこの出来事が次の世代にも伝えられないと、無念な想いで亡くなった方たちがたくさんいるから、残ったわたしたちが最善の考え方を進めなければいけない、という気持ち。


津波の教訓を次の世代に引き継ぐために、震災遺構の残そうという動き。でも、恒久的な保存に向けては、管理と保存経費が課題になります。阿部長商店としては、公的な機関に管理と保存を委ねたい考えですが、見通しは必ずしも明るくないのが現状です。今後さまざまな機関と相談して、保存に方法を模索していく予定です。

南三陸ホテル観洋 「語り部バス」

2013年11月27日

11月27日 「震災遺構」を考える(2)

宮城県の気仙沼では、陸の乗り上げた漁船が先日解体、撤去されました。一方宮城県女川町では、震災遺構について、町内で意見が二分しています。震災の記憶をとどめる建造物=「震災遺構」を保存するべきか。それとも解体して撤去するのか。お話を伺ったのは、建築の歴史が専門で、震災遺構に詳しい、東北大学大学院工学研究科教授、五十嵐太郎さんです。
 
◆「震災遺構」は「津波の証言者」
東日本大震災の震災遺構と言われているものは、正確に言うと「津波遺構」。
一番有名になったのは、南三陸町の総合庁舎。ここは最後まで避難を呼びかけた女性の方が亡くなったという物語が、この場所で起こったことの悲劇を伝えている。実際南三陸を訪れた多くの人が、この場所に花を手向けたり写真を撮る、ということが起きていて、ある種の目印になっている。
個人的には、女川で目撃した倒壊した建物の衝撃が大きかった。建物自体が20メートル級の津波によって、基礎ごと引っこ抜かれ、4階建ての鉄骨のビルなどが一旦水の中をただよって、別のところに流れ着いて、ゴロンと転がっている。建物自体が根こそぎ浮き上がって別の場所に流れ着くという壊れ方は、東日本大震災でも特異な激しいケースで、物理的な(津波の)破壊の力を証言する意味を持っている。
津波の専門家も「世界に例がない」と言っている。女川の場合は、世界的にもほとんど起こったことのない建物の壊れ方をしていると言える。同じ場所で津波はまたいずれ起きることは確実といえる。震災遺構がのこっていくことの意味は大きいと思う。


震災遺構に関しては、保存や維持管理にかかる費用の問題も浮上しています。根本匠復興大臣は、今月15日の記者会見で、震災遺構の保存に向けた新たな支援策を明らかにしました。保存の初期費用を国が負担するというもので、「公平性の観点から1市町村につき1カ所」と説明。震災遺構が複数ある地域は、さらに難しい選択を迫られています。

2013年11月26日

11月26日 「震災遺構」を考える(1)

震災の記憶をとどめる建造物=「震災遺構」を巡って、いま被災地が揺れています。その一例が、宮城県南三陸町の防災庁舎。町は「解体」を決定したものの、復興庁が「保存」に前向きな姿勢をみせたことから、解体着手を見合わせる状態になっています。

今回お話を伺ったのは、東北大学大学院工学研究科教授、五十嵐太郎さん。建築の歴史が専門の五十嵐さんは、東北各地に度々足を運び、震災遺構の「歴史的な意味」を問い続けています。
 
◆震災遺構、保存か解体か
震災遺構は、日本にはあまり残っていなくて、世界だとイタリアのジベリーナという小さな町に、1960年代地震があって、町が破壊された後、町ごと新しいところに移住したので、遺された町の街区をアーティストに依頼して、かつて町があった場所を一種のランドアートに変えてしまった、非常に珍しい事例がある。
比較的最近だと、中国の四川大地震があった跡。政府が比較的早い段階で、ここは破壊されたガレキは除去しない、復興しないと決めて、一種の観光もできるような場所として開放されている場所もある。
よく比較されるのは広島の原爆ドーム。ものとして残っているということでは意味がある。広島はいまは復興して現代都市になっているが、町の中心部に原爆ドームが遺されていることで、かつて原爆がここに落ちたということを物理的に伝えている。それが世界遺産になったり、全国有数の観光地になったりしている。
震災遺構は将来的に長く残ると、そういった意味を持ちうるが、直後だとなかなかそういうふうに考えづらい。広島でも、本格的に保存しようという話が盛り上がるまでに十数年かかっている。それまでは、とりあえず復興が第一の時期があって、解体されそうになってはじめて「残そう」という運動が起こって、現在の形になっている。同様に考えると、今回東日本大震災の震災遺構については、こんな早い段階で残すか残さないかの決断を迫られているのは、ものすごく性急に結論を要求されている気がする。


「震災遺構」の日本国内の例としては、広島の原爆ドームの他にも、「神戸港震災メモリアルパーク」があげられます。神戸港メリケン波止場の一部、およそ60メートルを被災したままの姿で残し、阪神淡路大震災の教訓を後世に伝えています。

2013年11月25日

11月25日 モビーディックの「エコフレンドリーライン」


宮城県石巻市の「モビーディック」は、今年創業50周年を迎える会社。地元漁業者への潜水器材の供給からスタートして、いまでは、ウェットスーツの製造販売を手掛ける、国内最大手のメーカーに成長しました。そんな「モビーディック」が手掛けるのが、「エコフレンドリーライン」。   ウェットスーツのハギレを利用した小物の生産工程の一部を、仮設住宅で暮らす方たちに委託することで、復興を目指す取り組みです。

そもそも「エコフレンドリーライン」のアイテムが誕生したのは、震災前のこと。お話は「株式会社モビーディック」の菊田信也さんです。
 
◆スタッフの「もったいない!」からスタート
スタートしたのは2010年ごろ。ウェットスーツを作る際にハギレという、使わない部分が発生する。それを、それまでは産業廃棄物として処分するしかなかったが、現場のスタッフから「もったいない!」という意見が出た。それをなんとか形にして、ウェットスーツを知らない方々、サーフィンやダイビングをやらない方にも触っていただけるものを作ろうじゃないかと。現場のスタッフから出たアイディアから作られた商品。


こうして誕生した「エコフレンドリーライン」の商品は徐々に人気を集めるように。でもそんな中、石巻を襲ったのが、2011年の東日本大震災でした。石巻市内に5社あった協力工場のうち2社は津波により壊滅状態に。一時は本業の再生のため、ハギレを使った製品の生産はできなくなってしまいます。そこに、転機が訪れます。

◆被災地に雇用を創出。地元企業の復興の支えに
震災当時は地元の大学があって、震災後仮設住宅に入られている方たちの現状を調査されている大学の教授から、仮設にお住まいの方たちが仕事を亡くされているという話を聞き、アクセサリーを内職としてお手伝いしていただくことで、お金の流れを生むことができるんじゃないかと。と同時に、アクセサリーを制作するエコ活動のプロジェクト再生ができるんじゃないかと考えた。仮設にお住まいの方たちに制作の一部を委託することで、エコプロジェクトの再スタートを切ることができました。「メイド・イン・石巻」にこだわって、全国からいただいた温かいご支援にお応えすべく、わたしはこんな形で頑張っています、ということで、全国に発信をしていきたい。


モビーディック「エコフレンドリーライン」のアイテムは、東京池袋にある「宮城ふるさとプラザ」で購入できます。

また、明日11/26(火)から、東京銀座の「クリエイションギャラリーG8」では石巻ちゃっこいバッグ展がスタートします。こちらは、モビーディックのウェットスーツの生地を使ったオリジナルバッグを展示、販売するというもの。国内外のトップクリエイターなど180人がデザインした180種類のバッグが並びます。また、生産工程の一部分は、仮設住宅で暮らす方たちに委託されます。

詳しくは「モビーディック」のオフィシャルサイトでチェックしてください。

2013年11月22日

11月22日 松島かき小屋



今朝は、宮城県松島町の「マリンピア松島水族館」にオープンしたばかりの「松島かき小屋」の話題です。なんとこちらの水族館、館内に、牡蠣食べ放題の牡蠣小屋を作っちゃったんです。

というのも、実はこの水族館、震災の影響や老朽化のため、再来年・春に閉館することが決まっており、今後の敷地の利用方法を検討する中で、11月から、テストケースとして牡蠣小屋を始めたんだそうです。

お店を切り盛りする、菊地まさ江さんに、松島の牡蠣と、この牡蠣小屋について伺いました。  

◆松島の牡蠣が食べ放題!
松島の牡蠣は小ぶりでプリッとしたところが美味しさがある。湾内で育てているのでミネラルを含んだ山からの水の流れ、栄養素を吸収してそれで美味しさが出てくる。水族館の中も見られて牡蠣も食べるというセット料金もある。親が牡蠣を食べている間に子どもが水族館を見ているというお客さんもいらっしゃった。初めていらしたお客様は、まず40分間の食べ放題で一番最初に鉄板の上にスコップで2杯いれて5〜6分蒸し焼き状態にする。そのあいだにエプロンをかけて、蓋を開けると同時に牡蠣の口の開いたのが出てくるので、それから先に食べていただき、それを食べ終わる頃に牡蠣の開け方の講習会がある。そして自分で開けて食べていただく体験コーナーも含まれている。それでお客さんが満足するまで、牡蠣がなくならないうちにまた鉄板に乗っけて食べていただく。そういうところなんです。お客様は大変喜んで帰って行かれます。今年いっぱいの牡蠣を食べつくしたという感じのお客さんもいる。お客さん、また2〜3日すると食べたくなるよというと、「そうですね」と言って、また帰ってきます。


高橋 ちなみにこちらの牡蠣小屋、牡蠣40分食べ放題で大人2000円。子供1000円。大人なら牡蠣50個くらいはペロリと行けちゃうそうです。高橋 そして今後この場所は、牡蠣小屋をはじめ、松島の水産加工品を扱う、新しい観光施設に生まれ変わる予定。水族館は、仙台市宮城野区に移転することになります。

◆牡蠣小屋で新たな活気を
私たちが小さいころからあった水族館。なくなると聞くと寂しい感じは大変心にあります。だからそこの跡地に牡蠣小屋ができると、また活気ずくのじゃないかと思う。そこに地場産品の商品、牡蠣の加工品やらも販売するという施設を作り上げるというのは素晴らしいことだと思う。

◆お客さんの声      
そんなに(水族館に)来た記憶はないが、初デートがこのマリンピア水族館。後ろで若干声が聞こえているが、アシカのアンディくんが名物。全くゆうことを聞かない。最初のデートは緊張していたのが一気にげらげら笑って大成功に終わったうれしい思い出がある。ちょっと思い出の場所が減るなと寂しいなと思う。その中で、こういう風にみんなで頑張ろうという感じで水産関係を盛り上げようというのはよいと思う。


こちらの牡蠣小屋は、来年の3月まで営業しています。
そしてマリンピア松島水族館の敷地はどうなるかというと、再来年2015年・春に建物を取り壊した後、2017年に新しい観光施設としてオープンを目指しています。あたらしい施設は、牡蠣小屋、カキの養殖展示スペース、牡蠣むき作業の見学、子どもの磯遊びプールなども設置する予定。子ども磯遊びプールはこの夏も実施。小さなプールにヒトデやナマコ、アナゴやカニなどを放ち、海の浅瀬のように遊ぶスペースを作り、子どもたちに大人気だったそうです。

2013年11月21日

11月21日 東北記録映画三部作(3)



東北記録映画三部作「なみのおと」「なみのこえ」そして「うたうひと」。監督は、酒井耕さんと濱口竜介さんのお二人です。「なみのおと」「なみのこえ」は、被災した当事者が語る震災の体験談。一方、3作目の「うたうひと」は、東北地方伝承の「民話語り」をカメラに収めています。

◆「民話語り」が伝える「語りの空間」
(酒井)東北に伝わる伝承で、おばあちゃんが子供に、そしてまたその子供に、口で伝えてきた民話があって、それを語っていることをカメラで撮影した。一見、映像だけ見ると、ほぼ同じ絵が流れるが、民話は動物がでてくるお話が多くて、本当に実感がこもっていたり、目の前に景色が浮かんでいるような顔で語っている。いままで昔話をそんなふうに聞いたことがなかったので、それが全然違う体験だった。「語り」で表現する中で最後の一本として、なにか感じてもらえるんじゃないか。
(濱口)3人の語り手が出てくるが、それぞれ100話とか200話の民話を自分の身体の中に蓄えている。聞き手の小野和子さんは「きっすいの聞き手」。彼女がどうやって人の語りを引き出しているのかもぜひ見てほしい部分。テクニックではなく生き方とかそういうレベルで語りを聞きだしている。そういう聴くことがつくる「語りの空間」というのがあるというのが見えれば、この三部作の見え方が変わってくるのでは。

◆「語り手の限りなさ」
(酒井)僕らは震災の経験や記憶を100年後に残せないか、100年後の人達が見た人に本当にあったこととして伝わらないかと思っていたが、民話を聴いていると、ほんとに狐がしゃべったかもしれないなと思う主観がある。信じられる瞬間。100年後に残ってほしいなと、見ているひとにも思ってほしい。
(濱口)どういう言葉が残っていくのか。小野和子さんは「語り手の限りなさ」という言葉を話しているが。語り手の一人一人のカダラに入っているものの限りなさ、その人に流れているすべての血や言葉が、こんなに豊かにもっているんだなというのが驚きだった。
(酒井)これ三部作といいつつ4本あるんですね。全部見ると7時間半くらいあるなと。でもこれ実はどこから見てもいいなと思っていて。1本見て興味を持ったらもう一本見てもらえばいい。ぜひ一本だけでも見てもらえたら。


映画は現在「オーディトリウム渋谷」と「渋谷アップリンク」で公開中。詳しいスケジュールはオフィシャルサイトでチェックしてください。

東北記録映画三部作オフィシャルサイト

2013年11月21日

11月20日 東北記録映画三部作(2)


東北記録映画三部作「なみのおと」「なみのこえ」そして「うたうひと」。宮城県気仙沼市や福島県新地町で撮影されたのは、被災した当事者が語る「震災の記憶」です。監督は、酒井耕さんと濱口竜介さんのお二人。夫婦や親子、友人同士など、親しい間柄の二人が向かい会って座りあの日の記憶を語るという、独特の手法をとっています。


   
◆当事者同士が語りあう、震災の記憶
(酒井)いわゆるインタビューとは全く違うもの。被災者の方同士でお話しいただいている。例えば旦那さんは奥さんの話を聞くことに関してはプロフェッショナル。その瞬間とかはすごくいい時間だなと思ってみていた。
(濱口)普段親しい間柄だからこそ話していないことがあるんだな、とも思った。カメラの前という特殊な状況だから初めて出てくる言葉、あの時ほんとはどう思ってた?ということをようやく聞けたとか、言えたとか。普段より濃密なお喋りの時間ができあがっていった。
基本的に質問は3つ。「3月11日どうしていましたか。」「3月12日からいままでどうしていましたか。」「3月10日までどうしていましたか」。
(酒井)ある人は「震災前までのことが夢だったみたい」と話した。それって過去がうまく繋がれていない感じだが、話しているうちに、昔のこととか、住んでたときのこととかも話してくれて。「語り」を撮ろうとしたきっかけでもあるが、初めて「ああ本当にこういうことが起きたんだなあ」ということを知っていくという感じがした。


映画は現在「オーディトリウム渋谷」と「渋谷アップリンク」で公開中。詳しいスケジュールはオフィシャルサイトでチェックしてください。
東北記録映画三部作オフィシャルサイト

2013年11月19日

11月19日 東北記録映画三部作(1)

現在東京渋谷の映画館で上映されているのが、東北記録映画三部作「なみのおと」「なみのこえ」そして「うたうひと」。宮城県気仙沼市や福島県新地町で撮影されたのは、被災した当事者が語る「震災の記憶」です。しかも、夫婦や親子、友人同士など、親しい間柄の二人が向かい会って座りあの日の記憶を語るという、独特の手法をとっています。監督は、酒井耕さんと、濱口竜介さんのお二人。どちらも30代前半の、若き映像作家です。


   
◆震災の記憶を100年先に届けたい
(濱口)僕達は311は二人とも東京にいたが、4月には仙台市の仙台メディアテークで「311を忘れないセンター」というアーカイブセンターができた。それは市民が記録した文字記録音声を記録しようということでできた。僕達が在籍していた東京芸術大学大学院映像研究科が参加したいということになり、現役生がいっぱいいっぱいだったので、僕達のところに話がきた。
そこからいろいろ見てまわる結果、単に被災地の景色を撮るというより、被災したひとたちの語りを撮ろうということになった。それをまとめたのが第一作の「なみのおと」。
(濱口)東北の沿岸部はだいたい30〜50年に一回くらい津波が起こっているという。復興してはまた津波が襲うということを繰り返している。そういうことを知らなかったのか、と聞くと、「事実としては知っていたが自分たちのところに本当に津波が来るということは実感としてはわからなかった」と。じゃあ、どうやって(津波に対する)実感や感情を持っていることをわかってもらうかと思ったときに、「語り」を撮ろうと思ったし、親しい人を見つめる視線を撮れば、伝わるのではと思った。
(酒井)親しい人に話しているので、本当に自分の身近なことのように感じてもらえるんじゃないかと思う。


写真や映像では伝えきれない「震災の現実感」を、「語り」で伝えようという試み。撮影された映像は延べ300時間にも及びます。映画は現在「オーディトリウム渋谷」と「渋谷アップリンク」で公開中。詳しいスケジュールはオフィシャルサイトでチェックしてください。

東北記録映画三部作オフィシャルサイト

2013年11月18日

11月18日 サポートアワーキッズ 来年へ向けて(2)

先週に引き続き、将来、復興を担う被災地の子どもたちの自立支援に取り組む団体、
「サポートアワーキッズ」の活動を紹介します。サポートアワーキッズは、各国の大使館と連携して、子どもたちに言葉や文化の違う海外でホームステイをしてもらい、自立心を養うプログラムです。

今月に入り、来年・2014年3月の、アメリカホームステイ参加者の募集がスタートしています。今日は、今年3月、「同じアメリカ」のホームステイに参加した一人、仙台高等専門学校2年生山城恵介くんに、アメリカでの経験を、振り返ってもらいました。

◆初めて見たアメリカ
日本とアメリカの街並みが印象に残った。最初はシアトルに行ったんだけど、広いなと思って、観光すると街並みがきれいで、初めて地平線を見たりした。なんと言えばいいか分からないけど本当に頭の中が真っ白になって言葉にならなかった。アメリカの雄大な大地を見て、ああ、こんな国なんだなと思った。私たちがアメリカでしてきたことは、東北の今の様子震災の時の様子を、現地の人々に伝えること。プレゼンテーションをしているときに現地の人から向けられる目線がとても熱いもので、本当に真摯に見てくれた。日本の良さを改めて聞かれ、自信を持って東北の良さを伝えなければいけないということ、日本のことをよく知ってもらうこと、自分たちが架け橋にならなきゃいけないんだなということを強く意識した。


山城くんは、この経験を境に、海外で仕事がしたいという目標をもったそうです。また、日本のエネルギー問題に関心があるということで、再生可能エネルギーの分野で活躍するロボットの開発にかかわりたいとも話しています。

そして、仙台高等専門学校の同じクラスで山城君の体験を聞き、今年6月のフランスホームステイに応募したという、半澤悠音さんからも、こんなメッセージをもらいました。

◆帰国後もつながる!
サポートアワーキッズは海外経験、ホームステイをするというのも重要なことだけど、日本に帰国してからも復興について子供たちの案を作る機会が結構ある。ただのホームステイじゃなく、東北の復興にかかわりたいと思っている子、ぜひこの機会に活動に参加したいという子もいればぜひとも応募してほしいし。山城くんも私もかなり人生が変わった。本気で海外も行ってみたい、復興にもかかわってみたいという子にはおすすめです!


そして、来年もサポートアワーキッズでは、海外ホームステイを実施します。
現在、募集をしているのは、来年3月に行われるアメリカへのステイです。お申し込みは郵送のみで、
サポートアワーキッズのHPから応募用紙を印刷、推薦してくれる方の推薦書とともに、指定の住所まで郵送して下さい。推薦者は学校の先生など、ご両親以外でも認められます。(※参加者は、書類審査、ヒアリングなどを経て決定します)

詳しくはサポートアワーキッズのホームページをご覧ください。

締め切りは、11月25日(月)。当日消印有効となっています。



明日は、現在公開中の、3部作で構成された震災記録映画について、その監督のインタビューをお届けします。

2013年11月15日

11月15日 サポートアワーキッズ 来年へ向けて(1)

今朝は、将来、復興を担う被災地の子どもたちの自立支援に取り組む団体、「サポートアワーキッズ」の活動を紹介します。

これは、各国の大使館と連携して、子どもたちに言葉や文化の違う海外でホームステイをしてもらい、自立心を養うプログラムです。番組では今年、フランス、カナダのホームステイの様子をお伝えしましたが、今月に入り、来年・2014年のホームステイ参加者募集がスタートしています。

そこで今日は、このホームステイが、どんな意味を持つものなのか。すでに体験した子どもたちの、「その後の声」をお届けします。話を伺ったのは、6月に2週間のフランス語学留学を体験した女の子です。

◆1秒たりとも無駄にできない!
福島県出身、現在は仙台高等専門学校・知能エレクトロニクス工学科2年・半澤悠音です。私はエンジニアになりたくて高専を選んだんですけど、エンジニアといっても色んなエンジニアがあって、その分野は学校に入って色々勉強してから決めようと気長に構えていました。フランスで見たクルマの世界に触れたら・・・。ピットでクルマの修理や情報処理をしているエンジニアさんを見て、自分たちが目標としてる憧れの職業なので、その姿が「カッコいい」と感じてその道にハマってしまいました。目標もはっきりして、日々の生活からもそういうのを意識できるようになった。ただ通うだけの学校ではなく、1秒たりとも無駄に出来ない10代だなという感じがして(笑) まだまだ学ぶことはいっぱいあるなと、覚悟も出来ました。やっぱりフランスで見たレースが初めてだったのですが、日本に帰ってきてからももう2回ほどレースを見に行くようになり、フランスでクルマを見た感覚を思い出して、道路を走っているクルマを見ても、あのクルマはカッコいいなと。クルマに目が無いです。めっちゃカッコいいですもん、クルマ。エンジンの本を図書館で借りて。全然本を読まないんですけど、興味があることは手を伸ばしたいなと思って。エンジンって、全ての動きが効率化されていて面白いなと。大学に入ったら機械系にも手を出して考えたいなと考えています。


半澤悠音さんはじめ、フランス語学留学に参加した10人は、世界三大自動車レースの一つ、「ル・マン24時間耐久レース」の観戦というすごい体験をしています。また、91年にルマンで優勝したマツダのマシンのシートに座ったり、 当時のエンジニアの方の話を聞く機会もありました。

というわけで、世界最高峰のレースと、ピットクルーの仕事を目の当たりにした半澤悠音さん。将来、自分がどこで何をしたいのか、はっきり、見えちゃったみたいです。

◆10年後のルマンの舞台に
ピットに立つことです。私もエンジニアの一人として。それが目標。女性ですけど活躍します。カッコいいと思います。できればルマンに戻って、100周年にぜひとも参加したい。私が行った時は90周年だったのであと10年後。100周年にはチームに入ってエンジニアになって、走らせたいですね。
クルマを24時間完走させたいです。




そして、来年もサポートアワーキッズでは、海外ホームステイを実施します。
現在、募集をしているのは、来年3月に行われるアメリカへのステイです。お申し込みは郵送のみで、
サポートアワーキッズのHPから応募用紙を印刷、推薦してくれる方の推薦書とともに、指定の住所まで郵送して下さい。推薦者は学校の先生など、ご両親以外でも認められます。(※参加者は、書類審査、ヒアリングなどを経て決定します)

詳しくはサポートアワーキッズのホームページをご覧ください。

来週も、「サポートアワーキッズ」のホームステイを体験した子どもたちの声をお届けします。

2013年11月14日

11月14日 食べる情報誌 『東北 食べる通信』 (4)

きょうも、『東北 食べる通信』、編集長の高橋博之さんのインタビューをお届けします。

史上初の“食べる情報誌”・・・『東北食べる通信』。編集長・高橋博之さんがこの月刊誌を創刊したきっかけは、2011年の、東日本大震災でした。高橋さんは、「たべもの」について真剣に考えることは、私たちが、生き方を考え直すきっかけに繋がる、と考えています。

◆食が切り開く新しい生き方
自分の口の中に入れる食べ物の出処を知るということは、自分の命と向き合うということ。食べたものが自分の体の細胞になっていくわけで、それにあまりにも、僕もそうですが無頓着すぎたと思っている。食べ物の出身地を知って、その育ての親を知るということは、すなわち自分の命に向き合うことそのもの。僕も18才で田舎がつまらなくて東京に出てきたが、今は東京もテクノロジーだとか途上国に仕事を奪われている。どういう価値観でどういう風に生きていけばいいか迷っている。都会の人と田舎の人が混ざり合って、平成版の”参勤交代”じゃないが混ざり合うことが大事。被災地でそれに気がついた。震災後、被災地を見ると、港町の価値が消えつつあった。それを守りたい田舎の人達と、その価値を持たない都会の人が、価値で響き、守りたいと結びつき、新しいコミュニティになりつつある。それは地縁や血縁ではない関係性で繋がれたもの。東京の人たちが「第二の実家だ」と言う。故郷がない人は、新しい故郷だという。東京の人が、石巻の親父だお袋だと、毎月行くわけですよ。地縁血縁に頼っているだけだと、
田舎も廃れるし窮屈で閉鎖的。そこに都市の人が入ってくることが大事だと思う。都市もまた乾ききっている。機械の部品みたいに心が摩耗して疲弊している。そこに田舎のドロッとしたところが関係性でなりたち潤いを与えている。双方が助かる道、楽しくなる、心躍る道だと思う。それを食を通じてやりたいなと改めて思った。





東北食べる通信HP

NPO法人東北開墾Facebook

明日は、被災地の子どもたちの自立支援に取り組む「サポートアワーキッズ」の、来年春に向けた動きをご紹介します。

2013年11月13日

11月13日 食べる情報誌 『東北 食べる通信』 (3)

きょうも、『東北 食べる通信』について、お伝えします。

「食べる人と作る人を、情報でつなぐ」。そんなコンセプトで、7月の創刊以来、すでに、多くの方が、記事と付録を通じて「ツナガリ」を持っていますが、実はその先に、もう一つの目的があると言います。編集長・高橋博之さんは、それを「お見合い」に例えています。

◆作る人と食べる人のお見合いの場
「街コン」などが色々とあるが、僕らは、作る人と食べる人が離れすぎてしまったので、その人達の出会いの場を作りたいと思っている。つまり「お見合い」の場。昔は食べ物は誰しもが自分で作っていたが、他の仕事が忙しくなり、食べ物を作ることを他の人に委ねてしまった。それが離れすぎてしまったので、食べる人と作る人が出会う場を作りたい。そのお見合いの場がこの東北食べる通信。毎月、素敵な生産者を紹介する。号が進むに連れて、「2月号の海苔の生産者、こりゃいいな。この人と長期的にお付き合いがしたい、継続的に支援がしたい」という人がいれば、CSAサービスというのがある。簡単にいえば
「わたしの漁師さん」。マイ漁師やマイ農家を持つ。自分の口に入れる食べ物を作る、知り合いを一人持つ。しかも自然リスクもシェアする。大型の台風が来れば牡蠣のイカダが全部やられてしまい、そのリスクは生産者が一手に負っていた。これを消費者も一緒にシェアする。実りも自然リスクもシェアして、応援する。これが今の食の現場の課題を解決することになるし、何よりも食べて美味しい。だからゆくゆくは、お見合いを経てわたしの漁師・わたしの農家を見つけ長期的に支援して、夏休みには子どもを連れて自分の食べ物を作っている農家さんを訪れ、一緒に土をいじり、舟に乗るという経験を提供できればいいなと思っていた。消費者は客席に座り、グラウンドに生産者が苦労している。だから客席から降りれば良い。降りるきっかけが東北食べる通信であり、CSAサービスだと思う。



お話に出てきたCSAとは、コミュニティ・サポーテッド・アグリカルチャーの略。アメリカ、フランスではすでに盛んに行われています。

東北食べる通信によるCSAは、1年間で12000円を前払いすると、「マイ漁師」や「マイ農家」から、年に3回、海産物・農産物が届きます。台風などで生産が少なかった場合、当然、反映される。ちゃんとリスクも負い、夏休みなどに、マイ漁師・マイ農家さんの地元に遊びに行って、漁業・農業体験や、生産現場の見学もできる!という仕組みにしたいと、高橋さんは話しています。



明日も引き続き、東北食べる通信についてお伝えします。

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NPO法人東北開墾Facebook

2013年11月12日

11月12日 食べる情報誌 『東北 食べる通信』 (4)

きょうも、『東北 食べる通信』について、お伝えします。

流通が発達し、大都市にいればどんな食べ物でも手に入る一方、「作り手の顔が見えない」のが、私たちの、食をめぐる状況です。そんな中、「食べる人と作る人を、情報でつなぐ」ために創刊した東北食べる通信。月額1980円に込められた「情報」は、たくさんの人の手に届き、食べる側・作る側両方に、様々なメリットを生んでいます。編集長の高橋博之さんのお話です。


すごく喜ばれるのが、Facebookのグループページで生産者と直接繋がれるので、「こんな風にして食べました」と読者が投稿し始める。それを生産者が見て、自分が作ったものを食べて、美味しいと言ってくれる人に触れると、作りがいがあるとすごく喜ぶ。逆に、消費者の厳しい目線に自分たちがさらされることにもなる。いい加減なものは作れない、ちゃんとしたものを作らなければいけないと生産現場の変革にも繋がる。あとは買い叩かれない。適正価格になる。国内盤のフェアトレードだと思うが、普通のところに卸してしまうと買い叩かれる流通の仕組みがあるが、これなら直接価値を理解してくれる消費者に、適正価格、自分たちでつけた値段で買ってもらえることが可能。生産者は「良いサービスを作ってくれた」と言っている。そして、1980円という値段設定は、だいたい600円分の生産物を届ける。牡蠣漁師が「この牡蠣は1個100円で売りたい」と言うのであれば、送料含めて5個という数になる。そこは生産者がつけたい値段になる。かぼちゃ1個600円というなら、かぼちゃ1個だけになる。スーパーに行けば全然もっと安く売っている。近所のスーパーの安いもの、というのが奥さんたちの感覚は、家計を預かっている以上しょうがない。これは、月に一度「体験を買う」教材。東京のスーパーで消費者が得られる情報は値段と栄養価だが、誰がどんな思いで作っているのかという生産現場の話がすっぽり抜け落ちている。そこが他の産業と一次産業が決定的に違うところ。そこをしっかり丁寧に伝えてあげればみんな理解してくれる。むしろ「こんな安くていいの」と逆に読者に言われる。時間と体験を買っているという感覚のようだ。



明日も引き続き、東北食べる通信についてお伝えします。

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2013年11月11日

11月11日 食べる情報誌 『東北 食べる通信』 (3)

先週に引き続き、『東北 食べる通信』にスポットを当ててお届けします。

史上初の“食べる情報誌”・・・『東北食べる通信』。東北の農家の方や漁師さんの生産現場、作り手の想いを紹介しながら、その「生産物」を付録としてつけるという月刊誌です。これまでの「付録」と、それを作った生産者の方の声を編集長の高橋博之さんに、教えて頂きました。

◆価値を伝えて、食べてもらう
創刊が7月で、7月は宮城県石巻市・牡鹿半島の牡蠣漁師を特集、真牡蠣を5つつけました。8月は岩手県久慈市(「あまちゃん」の里)の山形村というところの短角牛。100%国産のエサで放牧して育っている牛の肉を250グラム。9月号は福島県の相馬の漁師さんを特集。底引き網漁。残念ながら福島の海で水揚げしたものは規制され使えないため、北海道・青森から水揚げした「どんこ」という魚を使ったツミレ汁。新人漁師が船に乗って先輩のために作る賄い料理だったという。ビックリするくらい旨い!ふわふわしていて出汁もでて、「漁師が一番自信持ってオススメできるのがどんこ汁だ」ということなので、この際その味を多くの人に知ってもらいたい。そして10月号は岩手県遠野市のコメ農家と、秋田県潟上市のコメ農家、2つの30代の農家を特集。彼らは珍しいお米の作り方をしている。無肥料・無農薬で田んぼを耕さない、または馬で田んぼを耕すという変わった作り方をしてる。いわゆる自然栽培で作ったお米。それを料理して食べて下さい。結局自然栽培はコストがかかる。農薬をまいて大量に作る方がコストがかからないため、みんなそっちへ行ってしまうが、この2つの農家は安心安全なものを消費者に提供したいと。自分の子どもに胸を張って食べさせられるものを消費者に提供したい。小規模で手間をかけてやるためコストがかかる。だから価値を理解してくれる人たちに売っていきたいという思いがあるが、なかなかそういう場が今までは無かったので、東北食べる通信はまさにその価値を伝えながらまず食べてもらう、というコンセプトでやっており、喜んでもらえた。


そして東北食べる通信11月号は、福島県会津市の伝統野菜、かぼちゃと朝鮮人参。12月は岩手県大槌町の荒巻鮭、来年来年1月は福島県いわき市の冬野菜、キャベツとブロッコリー、2月は宮城県東松島市の、皇室に献上している、一番美味しい二番摘みの海苔、3月は南三陸町のワカメを予定しています。



明日も引き続き、東北食べる通信についてお伝えします。

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2013年11月8日

11月8日 食べる情報誌 『東北 食べる通信』 (2)

きのうに引き続き、『東北 食べる通信』にスポットを当ててお届けします。

史上初の“食べる情報誌”として、この7月に創刊した『東北食べる通信』。東北の、農家の方や漁師さんを紹介した記事に、その「生産物」が付録としてついてくる月刊誌です。

編集長の高橋博之(ひろゆき)さんは、現地に行きそこで獲れたものを食べる美味しさを、
この月刊誌を通じて疑似体験して欲しいと言います。そして、その背景にあるのが「食べる人と作る人の距離」の問題です。

◆新しい生産組合
震災後、大槌町の高校生と話す機会があった。みんな港町が好きで海もホタテも好きだが、漁師をやることに手を挙げる人はいない。世の中において食べ物を作る人達の地位があまりに低い。食べる人と作る人の間に流通というのがあり、それが肥大化しすぎて、作っている人から食べる人まで、1,2,3,4、5,6,7くらいの行程を経て届いている。これまでは安く大量にという時代だったからしっくりきていたのだろう。しかしその結果、作る人から食べる人が見えない、自分が作っているものが誰に食べられているかがわからない。食べている人も自分が口に入れるものを誰が作っているのかがよくわからない。極端に距離が離れすぎてしまっているのが生産現場への理解不足につながった。このままでは農家も漁師も食えなくなり、地位が下がっているために応援する組織である団体が力を発揮できない。東北食べる通信を、僕は新しい生産組合と呼んでいる。消費者も入った生産組合。食べる人も作るプロセスの中に色んな形で参加していく。知るということから始まったり、食べる・交流する・理解する・現場に行く・・・どんな形でもいいから作る側に参加してもらいたい。作る現場には感動がある。今の世の中、作るところに関わりたい、携わりたいというニーズがある。被災地は全てがそう。全てが無くなったので作るしかない。そこにボランティアだけではなく、こっち(東京)の仕事をやめて向こう(東北)に転職をした人もいますが、やはりみんな「作りたがって」いますね。             




来週も引き続き、東北食べる通信についてお伝えします。

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2013年11月7日

11月7日 食べる情報誌 『東北 食べる通信』 (1)

7月に創刊したばかり、史上初の“食べる情報誌” 『東北食べる通信』は
毎号、東北の農業・漁業・畜産業にスポットを当て、生産者を取材、
現場の様子・作り手の想いを、写真と文章で伝えています。


そしてこの月刊誌の最大の特徴が、付録です。例えば7月の創刊号、特集は石巻の牡蠣。そして付録は「本物の牡蠣、5個!」。8月号は、「岩手県久慈市の牛肉」、9月号は「青森県・三陸沖で穫り、福島県相馬市で作ったドンコのつみれ」!といった感じで、毎号、取材をした生産物が、付録としてついてくるんです。

なぜ、こうした月刊誌を創刊したのか。
編集長でNPO法人東北開墾 代表理事の高橋博之さんに伺いました。

◆「食べると作る」をつなぐ情報誌
岩手・花巻で地方議員をやっていました。農山村で生産現場が弱っていた。作り手はみんな年寄りで若い人がいない状況の中で、国産の安心安全な食べ物が食べたいと、問題意識を持っていました。なんとかしなければいけないと。そこに震災が起きた。海に行くと海辺の町も全く同じ問題を抱えていて、普段内陸で僕らは魚を食べていますが、魚をとる人がいない、若い人がいない。震災後に半年後くらいに、大槌町の高校生と話す機会があり、みんな港町が好きで海もホタテも好きだが、漁師をやることに手を挙げる人はいない。いわゆる「きつい・きたない・かっこわるい」、世の中において食べ物を作る人達の地位があまりに低いという状況の中で、政治から身を引き、一次産業をなんとかしたいと考えました。
やはり現場に行って食べるのが一番美味しいとみんな言う。僕も海に行って漁師さんの顔を見ながら、目の前で穫れたものを食べると美味しい。同じものが内陸のスーパーに売っていて、それを買って食べたら美味いのか。確かに美味いが味わいの深さが違う。ならば疑似体験をしてもらう雑誌を作りたいと考え、生産者の思いや生産現場の感動、苦労、生き様、哲学を特集して書いて雑誌にする。それに食べ物が付いている。情報で「食べる と 作る」をつなぐ。食べると作るが大きな流通構造の中で切り離され、食べる人から作る人、作る人から食べる人が見えないというのが、生産現場の疲弊に繋がっているとおもったので、直接情報でつなげてやろうと発刊しました。


あす以降も、「東北食べる通信」についてお送りします。

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2013年11月5日

11月5日 ツール・ド・東北2013 参加者をもてなす地元の「民泊」

クロノス中西哲生・気仙沼出身のパラリンピアン佐藤真海選手がアンバサダーとして参加した、東北沿岸部を自転車で走るイベント「ツール・ド・東北 2013 in 宮城・三陸」。

イベントには、本当に大勢の地元の方々がボランティアで協力していました。例えば、遠くからの参加者のための「民泊」。これは地元の方が、ご自宅に参加者を受け入れ、泊ってもらうこと。ツール・ド・東北では、31軒の方が民泊に協力したのですが、大会前日、2軒の方にお話を伺うことができました。
まず、石巻市沢田の齋藤伊平さんです。

◆全国からの支援に恩返しをしたい
震災で全国、世界から色んな支援を頂いて、恩返しをしたいと思っていたが仕事があるからなかなか出来ない。たまたま新聞を見て、これだったらうちにもできるかなと。座敷も開いているし協力したい。ここで牡蠣料理三昧で行こうかなと。炭を起こして鍋でも出そうかな。とにかく色んな人との交流が楽しみですね。今、作っている試作品の、牡蠣のオイル漬けもどうぞ食べてみて下さい。


斎藤さんは、父親の代から牡蠣の養殖業を営んでいる方。家の目の前には牡蠣の生産で有名な「万石浦(まんごくうら)」があります。津波の被害から2年半、齋藤さんは、牡蠣の加工場も復旧させ、「牡蠣のオイル漬け」など新商品の開発を始めています。その試作品は、思わずビールを頼みたくなる美味しさでした。

そしてもう一軒。石巻市雄勝町では、仮設住宅に参加者を受け入れた方もいらっしゃいました。

◆仮設住宅の暮らしを
ツールド東北で民泊を受け入れる高橋頼雄。雄勝硯を作っております。うちの仮設住宅・・・仮設に住んでいるのでそこに泊まってもらいます。震災後色々とボランティアで来た方に泊まってもらっているんです。ご飯を食べてもらって。仮設住宅が報道では「ひどい」と言われるが、実はわたしらはそんなにひどいと思ってはいない。狭いは狭いが、わたしの住んでいる雄勝地区の仮設は本当に地域の人たちばっかり。元々のツナガリがあった人らが多くて、ある意味、江戸の長屋ぐらしみたいな状況。食べ物をあげたりくれたり。今日はたぶん、鯖が1本、タコ、ホタテ。あともう2〜3あるらしい。そういった部分を感じて欲しい。もちろん家が無くなり身内の人が流されたりという辛い思いはしている。でも毎日辛いことで、もつわけがない、2年半も。だから普通なんですよ。基本的に。もちろんこもっていらっしゃる方もいらっしゃるのは事実だがそれが全部ではない。さらにこれから家を作ったり仕事を再開したりと、前向きに動いている人がいっぱいいるということを見て欲しい。通った景色を頭に入れて、次何かしらで遊びに来るっていうスタイルで続けて欲しい。民泊が必要であればいつでも受け入れるし、それをもっと広げていけば楽しいものになると思うので。


明日は、雄勝地区の伝統工芸、「雄勝硯(おがつ すずり)」の 今をお伝えします。

2013年11月5日

11月4日 ツール・ド・東北2013in宮城・三陸その2

東北サンさんプロジェクトの一環として行われた、自転車のファンライドイベント「ツール・ド・東北2013in宮城・三陸」。クロノス中西哲生・気仙沼出身のパラリンピアン佐藤真海選手の2人は、アンバサダーとして、60キロのコースを走りました。

スタートは、石巻専修大学の校庭。海沿いへ向かい、急勾配を上がり、女川の休憩所(エイドステーション)で、 女川名物の、秋刀魚のつみれ汁に舌つづみを打った2人は、女川から今度は雄勝へ向かったのですが・・・このあたりも結構な坂が続くんです!!




そして、スタート地点から距離にして38.5キロ地点。今度は雄勝のエイドステーションで、再び美味しいものが待っていました!




まさに、今朝海からあがったばかりのホタテ!! 雄勝のボランティアの方々が、朝から殻をむいて、たくさん用意してくれていました。このホタテの肉厚さ、そして海の甘み…思い出しただけでも顔がニヤつきます。え、食べたいですか? ぜひ雄勝へ行ってください。

石巻市・雄勝地区では、ホタテの養殖施設もかなり復旧してきています。取れる量も、かなり回復しているということです。また雄勝エイドステーションのすぐ近くを流れる川には、鮭が遡上(そじょう)する姿も見られるそう。震災を経験しても、海と川が豊かであることは変わりないのです!!

参加者の方にもお話を伺いましたが、大阪、さいたま、千葉、東京、九州・・・このイベントのために、全国から石巻へやってきていました。また、同じ東北の塩釜から来たという男性は「子どもの頃、父親に連れられて雄勝に来た想い出がある。自転車が趣味だから被災地を走りたいと思っていたけど、気が引ける部分もあり行けていなかった。こうしたイベントがあるととても嬉しい。久しぶりにきた雄勝は、子どもの頃と一緒でやっぱり美しい景色がいっぱいあった」と、少年時代のことを思い出しながら話してくれました。

また、沿道で応援する地元の方の姿に、力をもらったという参加者もたくさんいました。ちなみに、こんな可愛い応援団も。




ツール・ド・東北は、60キロコース、100キロコース、120キロコースとあって今回、中西・佐藤コンビが走ったのは60キロコース。雄勝のエイドステーションを超えると、標高90mの高さまで続く長い上り坂があり、トンネルをくぐり、そしてそして北上川をさかのぼって、、、、石巻のゴール。というコース。だいたい4時間ちょっとの自転車の旅でした。

ツール・ド・東北は、今後「10年続けていく」考えだといいます。自転車好きな方はもちろん、東北の今を知る、暖かい人たちに触れる良い機会。ぜひ来年はあなたが参加して下さい!!


2013年11月4日

11月4日 ツール・ド・東北2013in宮城・三陸その1

11月3日(日)、最高のお天気の下、「ツール・ド・東北 2013 in 宮城・三陸」が開催されました。これは、サントリーと、東北の地元のメディアや企業が力を合わせて支援活動をしていこう、というプロジェクトの一環として行われたもの。

クロノスパーソナリティ中西哲生、そして気仙沼出身のパラリンピック陸上女子の佐藤真海さんの2人は、このツール・ド・東北のアンバサダーとして、60キロコース(グルメフォンド)の自転車の旅を、満喫しました。




参加者は1300人以上。東京や、九州から参加した方も。あったかいおひさまと心地よい風を受けながら、2人はスタート地点の石巻から、女川へとペダルを漕いでいきました!

ツールド東北の目的の一つが、沿岸部の美しい景色だけでなく、被災した地域の現状をしっかり見てもらうこと。コースの左右は美しい海と山の景色、そして女川に今も横倒しのままになっている破壊された建物などを見ることができます。



そしてもう一つの目的が、地元の人達との、触れ合いです。



女川のエイドステーション(休憩所)では、地元のお母さんたち手作りの、女川名物「秋刀魚のつみれ汁」がふるまわれていました。女川は、かつてサンマの水揚げ日本一を誇る港町。震災の影響で水揚げは大きく落ち込んだが、徐々に回復しつつあると言います。

配膳をするお母さんたちの中には、仮設住宅に暮らし仮設の商店街に通って生活をしている方も。佐藤選手は、「でも無事でよかった。命があればですよ」と声をかけると、お母さんは「お店もがんばらなきゃね!」と元気に応えてくれました。また、お母さんは「全国からたくさんの支援を頂いた。わずかですが復興してきました。支援の恩返しのつもりで愛情込めて作っています。」とも話していました。

(その2に続きます)

2013年11月1日

11月1日 TOKYO FM/JFNとイオンが防災でタッグ

TOKYO FMをはじめとするJFNと、流通大手のイオンは、今日、「災害時における総合防災ネットワーク構築に関する協定」を結びます。これは、全国に38のネットワークをもつJFNと、地域の暮らしを支え、防災拠点の役割を担うイオンが互いに協力して、災害時に必要な情報を提供しよう、という取り組みです。
   
背景あるのは東日本大震災。震災では、三陸沿岸のイオン各店舗も被災。従業員が独自の判断で店内の客を避難誘導したり、物資の提供を行ったりました。そんな中で、地域住民から求められたのが「情報」だったといいます。
   
お話は、イオン株式会社グループ総務部施設グループマネージャー、本松才二さんです。
   
◆震災の教訓を生かして
イオンでは、東日本大震災の対応において、店舗を一時避難所として開放したり、避難してきた方々に物資を提供したり、災害時に必要な生活物資の拠点として活動した。その中で、地域のお客様の中から、生活物資に関わる情報が欲しいという声をいただいた。ラジオは災害時の情報のツールとして使いやすいということもあり、今回東京FMさんから情報を防災拠点の役割に入れてはどうかということで、協定の提案をいただいた。協定を組むことでより安全確保、生活物資、情報を兼ね備えた防災拠点が構築できることになるのでは、と思う。


そこで、JFNとイオンが結んだのが、今回の協定です。災害が起こったときには、イオンの店舗と地元のFMラジオ局を衛星電話でつないで情報をやりとり。店舗に避難している人に被害情報を伝えたり、避難所や店舗の状況を、被災地そして全国に発信することを目指しています。またイオンでは、今後全国にある大型店舗を中心に、防災拠点を整備していく考えです。

◆2020年までに100店舗を防災拠点に
イオンは小売業ということもあり、地域のお客様の暮らしを守ることが使命だと考えている。そのうえで、2020年までに100箇所の防災拠点を整備していこうと考えている。その防災拠点の役割は非常時における一時避難所としての役割、救援救護の活動拠点としての役割、そして生活インフラとしての役割。生活インフラということに関しては、災害時になるべく早く食品売り場を営業させたい。そのために、震災時どうしても停電ということになるので、エネルギーセキュリティ対応をしたお店を整備していきたいと考えている。


イオンでは震災後、防災訓練を年2回に増やし、春と秋に行っています。今日はその防災訓練の日。南海トラフ地震を想定した訓練がイオン各店舗で行われます。

パーソナリティ 鈴村健一

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