2013年6月28日

6月28日 JICA 地域復興推進員〜ガーナの経験を活かす(2)

昨日に引き続き、青年海外協力隊で知られるJICAの、「地域復興推進員」の取り組みをご紹介します。

宮城県・東松島市 野蒜(のびる)地区で活動を続ける、JICAの地域復興推進員の佐々木潤さん。アフリカ・ガーナでの青年海外協力隊としての活動を生かし、2011年から町の復興支援に取り組んでいます。2年に渡り活動を続けて気づいた、町の魅力について伺いました。

◆野蒜の魅力
野蒜地区の良いところは、元々あった住民の人たちの繋がり。震災前から行政区長や住民が集まる場、話し合いの場を持ち、あいさつ運動やお花を植える運動などでつながっていた。そうした人たちが震災後も一緒になって話し合いの場を持ち、こういう町にしていこう、協力していこうという気持ちを持ち、体制も作り上げている。横の繋がりは野蒜の強みだと感じている。私のような外部の者の活動についても、「出て行け」ではなく「ジュンちゃんも復興のためにやってくれているんだから」ということで家族同然の形で受け入れてもらっている。関係者の方にも、時には怒られながらも地元の人と同じような扱いでみなさん接してくれている。やはりありがたいというか、支援しているというより学ばせてもらっていることの方が多いと思っていますし、私自身、住民の人たちから生き方を学ばせてもらっていると思うことがすごく多い。高齢の方が多いのですが、生涯、地域のために活動している方がたくさんいて、自分の社会のため、地域のために活動するという人間の生き方を学ばせてもらっている。

そんな野蒜地区の将来像を、佐々木さんはどうイメージしているのでしょうか。

◆過去のことを一緒に笑えるように
10年後、20年後には新しい街が出来ていて、住民がたくさんの会議の場を持って住民自身でお花植えや住民のスポーツ施設、海岸などを住民自身で管理していて、自分たちでゴミ拾いをして素敵な町を推進しているような、外から来た若い人たちが住みたいと思うような、老若男女たくさんの人が住みたくなるような街というのを実現できたらなと考えています。野蒜は自分の第二の故郷と言っても良いくらいの街。将来は、街の人達と世間話をして、過去のことも話しながら一緒に笑えるような関係づくりをしていきたいと考えています。


来週は福島県 双葉郡富岡町を離れ、東京で避難生活を続ける あるご夫婦の今をお伝えします。

2013年6月27日

6月27日 JICA 地域復興推進員〜ガーナの経験を活かす

今朝は、青年海外協力隊で知られるJICAの、「地域復興推進員」の取り組みをご紹介します。

お話を伺ったのは、宮城県・東松島市 野蒜地区で活動を続ける、JICA地域復興推進員の佐々木潤さん。青年海外協力隊として、アフリカ・ガーナで活動している時に東日本本大震災が発生。帰国後、東松島でのボランティア活動を経て、2011年8月から、改めてJICAの活動に参加。野蒜地区で、復興支援に取り組んでいます。

◆ガーナで培った課題解決のプロセス
JICAの地域復興推進として東松島市で活動をさせてもらっている。目的はJICAとして震災復興への貢献を行うこと。10年後20年後へむけ新しい街作りをみなさんでやっていこうとしている中、多くの人が住みたくなるような持続可能な街づくりをめざしていく。住民主体の上で、NPOや専門家、行政と連携して街作りする中、色んな考えが出て色んな事業を実施していくことが有効な街づくりになるという考えのもとで活動。ガーナでは地域支援課として派遣され村落開発普及員として地元の人たちと問題を見つけて行って解決していくのが仕事だった。ガーナで信念を持って頑張ったのは、とにかく関係作り、協力作り。まず取り組んだのは地元に行って色んな人から現状の話を聞き、地元の現状課題の理解をした上で、その問題に対してそういったものを解決できる、課題を解決できる専門家などを横の繋がりの中で巻き込みながら活動するといった復興のスタンスとプロセス。それは東松島でも生かされているのかなと考えている。

東松島・野蒜地区では震災前から、地域が主体となってよい街をつくる話し合いの場があり、震災後もそうした地域の繋がりは続いているといいます。そこでは、どんな街づくりのアイデアが出ているのでしょうか。

◆住民が描く街の将来像
野蒜地区はキャラクターの「まっくん」という、松をモチーフにしたキャラクターもいるように「松林」が有名。この松を活かし、運河を活かした街づくりをしていこうというアイデアが住民から出ている。例えば運河沿いに民宿だとか宿泊施設をどんどん建設して、ヨーロッパの運河のような素敵な、観光客がどんどん来るような街づくりをみんなで実施していこうとか。被災した農地などに、農業、牡蠣、魚介類の研究施設を作り雇用が生まれるような場を実現できたらいいな、といったアイデア。元々野蒜にあった資源を生かした街づくりを盛り上げていこうという考えはすごく素敵だなと思った。それは元々野蒜にあった資源であり、みなさんが大事にしていたもの。そういうアイデアがどんどん出てきているのが今後の街作りに繋がっていくことなのじゃないかなと感じている。

今朝は、宮城県東松島市 野蒜地区で活動を続ける、JICAの「地域復興推進員」佐々木潤さんのお話をお届けしました。

明日も、JICAの地域復興推進員 佐々木潤さんのお話です。

2013年6月26日

6月26日 宮城県亘理郡山元町「災害公営住宅」(3)


今週は、宮城県亘理郡山元町から、「災害公営住宅」に関するレポートをお届しています。
山元町で「第一期」として建設されたのは18棟。4月から入居がスタートしました。ただ、入居者はそれぞれ、元の住まいも世代も様々で、お互い面識もありません。そこで町では、入居者同士が交流を深められるよう、サポートを行っています。その一つが、「顔合わせ会」と呼ばれる、懇談会。

お話は、山元町まちづくり課の班長、齋藤哲さんです。

◆18世帯のコミュニティの動機づけ
4月1日に18世帯の方に災害公営住宅に入っていただいて、生活もようやく落ち着いてきて、まわりの方とのコミュニティを、という動機づけを行うために、5月に一回目の「顔合わせ会」を行いました。その中でいろいろな宿題が出て、ごみ集積場の掃除の当番をどうしようとか、回覧板の配布方法はどうしようかなどを議論して、今日は懇談会という形をとらせていただきました。


<懇談会の様子>
司会者:次の4番の方に進みたいと思います。皆さんで決めることということで、ゴミ集積場の清掃。準備物としてホウキとチリトリが必要だと思う。購入費用については、皆さんで出しあっていただいたが、じゃあ誰が会計をするのか。となると、町内会というような感じになると思うが。
入居者:掃除当番といっても徹底しないと思うので、掃除当番という札を回していったらどうだろう。

6月中旬に開催された2回目の「顔合わせ会」には、入居者のうち12世帯が参加しました。役場のまちづくり課の職員が司会役で、町への要望を聞いたり、入居者の意見を引きだしたりしていました。再び、まちづくり課の齋藤さんです。

◆災害公営住宅のコミュニティづくりを後押ししたい
皆さん顔と名前が一致したので、いいコミュニティになってきたのかなあと思う。
出身の行政区が違う方がいることがわかったと思う。前はこうだったということをぶつけあって構わないと思う。スタートから、ゼロからやるっていうことは、皆で話し合って合意形成をしながら、小さいことでも話あって、小さいコミュニティのルールをつくっていければ、それが一番ベストだと思う。
行政としては、そういうものの動機づけと、背中を教えてあげたい、という気持ち。


仮設住宅では「被災者」という立場ですが、「災害公営住宅」に入ったら、自立した「一町民」。「災害公営住宅」への入居は、そのターニングポイントでもあると、齋藤さんは話していました。

ちなみに、宮城県全体で建設が予定されている「災害公営住宅」は、およそ1万6000戸。このうち、5月末現在で、建設が完了しているのは、50戸です。山元町での取り組みが、他の地域の「モデルケース」になっていくのかもしれません。

2013年6月25日

6月25日 宮城県亘理郡山元町「災害公営住宅」(2)


山元町では今年4月、宮城県で初めて、「災害公営住宅」への入居が始まりました。現在建設されているのは18棟。このうち、17世帯がすでに入居して、新しい「我が家」での生活をスタートしています。

先日スタッフが、この「災害公営住宅」にお邪魔しました。お話を伺ったのが、70代の、岩佐盤石さん。優しい表情のおじいちゃんです。岩佐さんは、奥さんと二人で、この「災害公営住宅」に入居しました。

◆「やっと安心できた」
浜通りにあった家を津波で流されてしまって、ここに申し込んだ。
不満はいまのところない。快適。大げさなようだけど。感謝している。ここに入る前は、不安だらけだった。先がどうなるかと。俺がアウトになったら、うちの家内から始まって、皆心配するでしょう。ここに入って、顔色よくなったって、皆に言われる。
もともと震災前に隣部落の人たちだった。こうやって話をしているとつながりが出てくる。一人では生きていけないから。これから我々も仲間を作って、協力し合って、余生を行きたいと思っている。


岩佐さんが夫婦で暮らしていた隣町の「みなし仮設」のアパ―トは、広さおよそ30平米。一方、「災害公営住宅」は2DKで、広さはおよそ65平米。なにより「将来の住まいへの不安」から解放されたことが、大きいといいます。
    
一方、お家の前で、岩佐さんと立ち話をしていたのは、渡辺みつ江さん。渡辺さんも70代です。プレハブの仮設から、この「災害公営住宅」に引っ越してきました。
    
◆「仲間が欲しい」
(手に持っているのは)シソの葉。自分でプランターで作っている。これでシソ巻するの。仮設にいたときにもプランター10個ぐらい作っていて、仮設の仲間とのお茶会のときは、一人一つパックでおすそ分けしていた。
今はできないの。やっぱり仲間が欲しいんだな〜。それだけだね。
わたしは一人暮らし。津波の前に夫が亡くなったから、一人暮らし。気楽でいい。


小さなお子さんと2人暮らしの29歳、千葉さんは

◆「家で過ごす時間が増えた」
取り急ぎ仮設住宅を出たかった。仮設は狭い。私達(子供と2人)だったら1Kしかなかった。6畳で、台所も寝るところも一緒だったので、こたつ置いて布団ひいたら何もできなかった。
あまり仮設に居たくないから外にいる時間が長かった。この家の抽選が当たったら、パッと家に帰ろうというようになった。「落ち着くなー」という感じがしますね。


震災から2年以上、まさに「ようやく」といった感じです。
それぞれ、別の仮設やみなし仮設から入居してきているので、お互い面識がなく、いま少しずつ、信頼関係を築いているところ。入居者同士の交流を深めるための「懇親会」も行われています。

2013年6月24日

6月24日 宮城県亘理郡山元町「災害公営住宅」(1)


東北各地の被災地では、長期にわたる仮設住宅での暮らしが続いていますが、山元町では今年4月、宮城県で初めて、「災害公営住宅」への入居が始まりました。現在建設されているのは18棟。このうち、17世帯がすでに入居して、新しい「我が家」での生活をスタートしています。

お話は、山元町まちづくり整備課の班長、齋藤哲さんです。

◆災害公営住宅600戸の建設を目指して
昨年7月、被災された皆さんに、震災後の住まいに関する意向調査を行った。対象世帯数は2600あまり。そのうちおよそ600世帯が災害公営住宅を希望されているというのが個別面談の結果。4月1日にようやくそのうちの18戸が入居できた、という状況。
これに至る経緯としては、建築資材の不足、コンクリートの不足、人出不足、入札不調による建築の遅れなどがあり、被災された方の自立再建(=災害公営住宅の建設、入居)の進行に、厳しい状況があった。
いままでは宮城県に公営住宅の整備、建築を委託して行っていたが、町で独自で一括発注方式をとることによって、よりスピード感を持って、平成27年度までに600戸の災害公営住宅の建設、さらには宅地造成もできるようにと、いま一生懸命取り組んでいるところ。


間取りは2DKから3LDKまで3種類。家賃は、広さと世帯収入によって異なります。ちなみに、70歳代、年金生活の夫婦なら、入居5年目までは、ひと月のおよそ5300円程度です。

また今回入居者は、公平な抽選で選びました。高齢者や傷害のある方の「優先入居」を行わなかったことには理由があります。
    
◆災害公営住宅での「孤独死」を防ぐために
阪神大震災の際、優先入居ということで、ご高齢の方や傷害のある方を先に入居させたところ、結果的に孤独死につながったということがあった。そういった教訓を踏まえて、さまざまな年齢、さまざまな世帯構成の方が一コミュニティに住まわれるように、公平な抽選を行った。18世帯には、いろいろな世帯構成の方たちがいる。小さいお子さんもいれば、中学生、ご高齢の方、お勤めのかたもいる。老若男女が一緒に住むことで、孤独死などをなくしていければと考えている。

今回は「連棟式」という形式。二世帯で一つの屋根というタイプ。取り組みとしては、「ペア入居」という取り組みを行った。仮設住宅でお隣同士になったことをきかっけに、ペアで応募されている方もいる。そういった形で、「一番小さい二世帯のコミュニティをつくる」という狙いもあった。


山元町でいちはやく「災害公営住宅」の建設と入居が始まった理由には集団移転先の「用地協力」が比較的スムーズに進んだことがあげられます。「孤独死を防ぐための、公平な抽選」「ペア入居」など、手さぐりで、さまざまな工夫を行う山元町。入居した世帯にも、親せきどおしで「ペア入居」した方たちがいる。今後は、ペットを飼っている人のための「ペットゾーン」を設ける計画もあります。

2013年6月21日

6月21日 宮城県亘理郡山元町「一苺一笑(いちごいちえ)」(2)


宮城県の南、福島県との県境にある、人口およそ1万4000人の町、山元町。山元町と隣の亘理町は、震災前、併せて400軒ほどのいちご農家がいちごの栽培を行い、東北有数のいちごの産地として知られていました。でも、震災でその多くが畑を流され、廃業を余儀なくされました。

そんな山元町で、いま20代から30代の若い世代が、新たに「いちごづくり」に取り組んでいます。佐藤拓実さんが、地元の幼馴染みと3人で達が立ち上げたいちご農園「一苺一笑」もその一つです。

◆家族が守ってきたいちご畑を失いたくない
震災前は親とおじいちゃんとおばあちゃん、そしてわたしで、個人の農家としていちご栽培をやっていた。津波でハウスはすべて流されてしまって、自宅も全壊で跡形もなくなってしまった。
おじいちゃんたちが作り出した農業、産地とともに作り出した世界を大事にしたいという想いと、親の仕事をなくしたくない、自分たちもずっといちごをみて育ってきたので、そのいちごがここで消えてしまっていいのかっていう想いがあって、やっぱり自分たちでやらなきゃだめだと思った。
−あと、若い人たちがすごく少なかったので、若い人たちがもっともっと参入できるしくみで新しい農業をやっていけたらと思って、やってみた。


苺の収穫は冬から初夏にかけて。6月いっぱいで今季の収穫が終わります。今季2つのハウスでいちごの栽培をスタートした佐藤さんたちですが、来季は倍の、4つのハウスで、いちごを栽培する予定です。

◆「一苺一笑」一粒の苺から一人の笑顔を
自分たちが新しくやったという意味では、まだまだ従来の味が出せているかどうかは、自分たちも感じられなかったところもある。ここでいちごづくりをやってきたお歳を召した世代が、自分たちにとっては先生。そういった意味で、そんな先生たちの力をうまく自分たちに提供してもらって、よりよいものに仕上げていきたい。
いまから宮城県のいちごが全国に羽ばたいて、日本一のいちご産地ができあがると、自分たちは思っているので、そういった中で先駆してやれることをやっていきたい。
「一粒の苺から一人の笑顔を生み出す」ということを目指して「一苺一笑」と名付けてやっている。
−皆さんにも自分たちおいしいいちごを食べてほしいので、今後も若い力とともに頑張っていきたいと思う。

      
「りんご」「ほっき貝」とともに「いちご」は山元町の主力産品。「若い世代が頑張らないと、いちごの町の未来はない!」と佐藤さんは語ります。苺の苗を育てるハウスでは、すでに来シーズンの苺たちがスタンバイしています。


山元町「一苺一笑」

2013年6月20日

6月20日 宮城県亘理郡山元町「一苺一笑(いちごいちえ)」(1)



宮城県亘理郡山元町は宮城県の一番南、福島県との県境にある、人口およそ1万4000人の町。町全体が沿岸に面していることから、東日本大震災の津波で大きな被害を受けて、630名を超える町民が犠牲者になりました。

そんな山元町の復興を支える柱の一つが、「いちごづくり」。いま、20代〜30代の若い世代が、新たに「いちごづくり」に取り組んでいます。

今回スタッフがお邪魔したのは、「一苺一笑」という農園です。ここは、地元の幼馴染み3人が、共同で立ち上げたいちご農園。役員の一人、土生哲也さんも、実家は代々、いちご農家でした。


◆土耕から水耕に。新たなチャレンジ
以前のいちご農地は津波の被害で、流されてしまって。土に植えるとなると、土に塩分があったり、ガレキなどが残っていた。土耕栽培といのは昔からのやりかただが、いまからやる人はいないと思う。
−いまは溶液栽培(水耕栽培)が主流。全部自動で、収穫も手入れも管理も楽になった。

土耕栽培とは、従来型の「土植え」のいちご栽培の方法です。一方、いま土生さんたちが取り組んでいるのは、水耕栽培のいちご。苺のポットが大人の胸の高さくらいにあって、そこに水と栄養を自動で送る仕組み。収穫も、地面まで腰をかがめる必要がなくなって、だいぶ楽になったといいます。

震災前、山元町には90軒を超えるいちご農家がありましたが、津波で農地が流されたり、塩害の被害を受けたりして、みな廃業を余儀なくされました。


◆みんな一度はあきらめかけた。
山元町自体、もとは一軒一軒バラバラのいちご農家で共同でやっている人はいなかった。「一苺一笑」も役員3人いるが、実家がそれぞれいちご農家だった。早くいちごの栽培を始めたかったので、(3人で)協同して始めた。
山元町からいちごをなくしたくなかったし。俺んちの親も昔から、何代になるかわからないけど、いちごをやってきたから。なくして始めて、大事なもんだったのかな〜と思った。父親はもういちごは止めて、違う仕事をしている。無理に父ちゃんにやれと強要はしないけど、やってくれたらうれしい。
社長自身もあきらめかけたときはあったんじゃないかな。というか、みんなそうじゃないかな、あんな津波になって。こんなふうに(いちごづくりを再開できるなんて)みんな考えてなかったんじゃないか。震災後はじめていちごが収穫できたときは、「できちゃった!」と。感動した。まさかここまでできるとは思わなかったから。水耕栽培は初めてだったから。いまも苦労しているし、勉強している最中です。


土生さんたちは、震災の年の夏にいちはやく会社を設立。昨年12月に初めての収穫を行い、いま最初のシーズンを終えるところです。栽培しているのは「もういっこ」というオリジナルの品種。「もういっこ食べたくなる」から「もういっこ」。来季は栽培面積をおよそ1.5倍に拡張する予定です。


山元町「一苺一笑」

2013年6月19日

6月19日 サポートアワーキッズ2013(3)

引き続き、東日本大震災の被災地の子どもたちに、数週間の語学留学を体験してもらう「サポートアワーキッズ」の今年度の取り組みをご紹介します。

今年のサポートアワーキッズ第一弾として、日曜日にフランスへと旅立った10人の中高生。その中に、石巻からやってきた、まだ背の小さな14歳の男の子がいました。

◆パリの凱旋門を見るために
宮城県石巻中学校2年生 板倉凱士です。うちのお母さんが前から、「絶対にフランスは必ずいって、必ず凱旋門をみてこい」と言われていた。小さいころからそう教えられてきた。俺の名前、凱士っていいうんですけど、凱旋門の凱からきているのでぜったい行って来い、と言われていて、それがようやく叶う。

板倉凱士くん。ご両親が昔、フランスを旅して感動した凱旋門の「凱」に武士の「士」と書きます。凱士くんがこのプロジェクトに応募した理由は、広い世界を見てほしいという、お母さんの願いを果たすためです。

◆悲しいけど楽しく生きよう
自宅の1階が全滅、母を亡くした。あの3月11日、地震が起きた時は弟が小学校にいて、お母さんは職場から小学校へ向かう途中だった。そこに津波が来た。お母さん迎えに来ている時、お父さんも自転車で来ていて、弟とお父さんと俺とで三人乗りしながら帰ったんですよ。だからそこでお父さんとお母さんが何らかの連絡を取っていれば、生きていたかも知れない。でもどうしようもないです。小学校の頃は携帯電話を持っていて、母から「生きていてね」ってメールが入っていた。それを見て電話をしたがお母さんは出なかった。お母さんは震災から1か月後に見つかった。ただただ悲しくて泣いていたが、だんだん慣れてきたというか、悲しいけど楽しく生きようと思考が変わった。あんまり泣くと、死んだ人があまりにもかわいそう。過ぎたことなのにクヨクヨされていると死んだ方も申し訳ないと感じる。うちではそれは絶対に忘れないが、あまりにも泣いてるとお母さんがかわいそうだから、楽しく生きようということでいっつもニコニコ笑って元気だよと思っていた方がいいなと思った。
               
◆ノーベル賞を3つ獲る!
凱旋門ってめっちゃでっかい。偉大というかそういう人になりたい。アルフレッドノーベル的な感じの。俺3つとるんです、ノーベル賞。ノーベル賞3つです。ノーベル賞を3つとってテレビでて、「あ、こいつが凱士だ」みたいな。世界中のだれが見ても、凱士だと分かるような人間になりたい。


凱士くんは、本当に自分の名前に誇りを持っていて、なんども「だってカッコいい名前じゃないですか」と言っていました。ノーベル賞を3つ取る!という壮大な夢へ向け、フランスで語学を学び、世界を知り、凱旋門を見るチャンスを与えられたことについて、「これで変わらなかったらどう考えても100%俺のせい」と、強いまなざしで語っていました。


左:星睦くん 右:板倉凱士くん

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2013年6月18日

6月18日 サポートアワーキッズ2013(2)

今朝は昨日に引き続き、東日本大震災の被災地の子どもたちに数週間の語学留学を体験してもらう
「サポートアワーキッズ」の今年度の取り組みをご紹介します。

高橋 16日(日)、今年のサポートアワーキッズ第一弾として10人の中高生がフランスへ出発。すでに現地での生活を始めています。この語学留学に応募した理由はみなそれぞれです。参加者の一人、福島県福島市の高校2年生・半澤悠音さんは応募の理由にあの原発事故を挙げています。

◆原発被害者として
フランスは原子力発電所に依存している。原発の被害者として私たち被災者がどんな被害を受け、
事故になったら体への影響がある危険な物であるということをフランスの人に伝えたい。フランスの人がどういう反応をするのかを聞いて、将来エンジニアになりたい自分としてはその意見を聞いた上で世界に目を向けられるエンジニアになるきっかけにしたい。そう思いフランスを選んだ。私の暮らしていた地域は市内で一番線量が高く、校庭の放射線量が高い。国の基準を超える屋外規制がかかってしまった。通学時間も規制され部活も外でできず、プールもない。教室もこの6月のジメジメした時期なのに窓を開けられず、湿度80%という教室で授業を受けて意識がもうろうとしていた思い出しかない。見えないものと戦っている私たちはこれから本当にどうなるんだろう。自分の健康被害もよく分からないまま中学校3年生をすごした。開き直っていた。

今回のホームステイでは、現地の人たちへ、子どもたちそれぞれが、自分の被災体験をプレゼンテーションする機会があるそうです。仙台の高等専門学校でエレクトロニクス工学を学んでいる半澤さんは、自分の将来のため、そして自分の体験を伝えるために応募したと言います。

◆当たり前の環境とは
フランスの方々はまず原子力発電についてどう考えているのかを聞きたい。空気の心配をせずにいられるような当たり前のことが、実は感謝すべき環境だったという価値観にかわった。辛いことを経験したから、他の人にはもうこんな思いをしてほしくないという考えを伝える。考えを変わりましたか、こういうことがあるんだけどどう思いますかということを聞きたい。


明日もサポートアワーキッズに参加した子どもたちの声をお届けします。


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2013年6月17日

6月17日 サポートアワーキッズ2013

今朝は、東日本大震災の被災地の子どもたちに、数週間の語学留学を体験してもらう「サポートアワーキッズ」の今年度の取り組みをご紹介します。

2011年から取材してきたこの取り組みも3年目。これまで、被災地の中高生120人が海外語学留学を経験。番組では、これから復興を担う中高生が、この旅を境に成長する姿をお届けしてきました。今年の留学先は、6月のフランス、7月以降にアイルランド、カナダ、ニュージーランドの4か国。番組では、フランスへ出発する直前の子どもたちを東京で取材しました。

◆それぞれの海外への思い
・宮城県大崎市 近藤智洋くん(高2) 「ルマン24時間にいくが車や鉄道に興味があるのでぜひ知りたいと思って応募。ルマン24時間はドライバーとチームが協力して勝負するものなので彼らの想いを吸収してこのあとの生活に生かしたい。」
・仙台市 斎藤隆幸くん(高1) 「自分の視野を広げたい。家や学校、自分の身の回りの世界しか知らない。色んな人にあえる。言葉も違うし暮らしていた場所も考え方も違う人たちに会えることが楽しみ。正直将来の夢ややりたいことがよくわからない。今回のフランスステイで好きなコト、やってみたいことがみつかればいいと思っている。」


今回の参加者は10人。まさにきのうフランスへ旅立ち、これから2週間、語学研修や現地の学生との交流、様々な社会体験をします。また、今年90周年のル・マン24時間耐久レースを 観戦する機会もあるそうで、これを楽しみにしている子もたくさんいました。

◆ル・マンで学びたいこと
宮城県・星睦くん(高1) 「姉が以前サポートアワーキッズに応募してニュージーランドへ。海外に興味がなかったが帰ってきたら明るくなっていたし、海外で仕事をしたい、とか将来に対して大きな夢を持つようになったと感じた。自分も行って何かを学びたい。ルマンの耐久レースを観に行く。ルマンには協力や努力が大切だと思う。何かを続けるのが苦手で、これまでバイオリンをやったり、最近はバンドもやりたくてドラムをはじめ、さらにギターをやったりと色んなものに手を付けて、全部中途半端になってしまう。努力が成功に結びつくんだということを学んで日本に帰ってきたら一つを集中してやり遂げることを自分なりに努力したい。




10人の子どもたちはもうルマンに到着しているはず。 火曜日からさっそく語学研修がスタートする予定。ルマン24時間をボランティアとして手伝う機会もあるそうです。

一方、子どもたちには、震災の体験を現地の学生たちに伝えるという役割も担っています。福島、宮城、岩手から参加した10人はみな、まだ小学生・中学生の時に震災で辛い経験をしています。

明日もサポートアワーキッズに参加した子どもたちの声をお届けします。

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2013年6月14日

6月14日 森は海の恋人植樹祭(3)

引き続き、6月2日(日)に行われた、森は海の恋人・植樹祭のレポートをお届けします。

豊かな森の恵みが川を伝い、海へそそぎ、そこで暮らす人々の、海からの恵みとなる。
こうした考え方のもと、森作りを続けてきた森は海の恋人植樹祭は、25年・四半世紀を経て、気仙沼と一ノ関、さらには日本中の人々を繋げてきました。そして来年も再来年も、この植樹祭は続いていきます。

NPO法人「森は海の恋人」副理事で、父・重篤さんとともにカキ漁を営む畠山信さんは、25年間の森作りが地域にもたらしたものについて、こんなお話をしてくれました。

◆元々自然も人も繋がっていた。
25年前、小学校4年生かな。当時は植樹歳というものがよく分からず親父に連れてこられて、なんかお祭りかな?みたいな感じはしましたけどね。元々は、山の人と仲良くなければ漁師は舟を作る木が手に入らなかった。時代は変わり船はプラスチック製となって、山の方々との交流は途絶えた。

ただ、伝統的な室根大祭というお祭りがあり、室根山の中腹から神輿をよーいどんで2つの神輿を背負って崖を下る。そして里にある神輿を置く場所にどちらが早く着くかという千年以上歴史がある。今年は4年に1度のお祭りの年。そのお祭りが始まる時に場を清めるための海水が、我々の暮らす唐桑・西舞根という集落が代々担ってきた。西舞根の集落の長老と呼ばれる人たちが、4年に1度のお祭りに合わせて、室根山が見えるところまで舟を置きに出して室根山が見えるところで海水をくんでここまで持ってくるという役割を持っていた。繋がりがあった。しかしその繋がりは希薄になり途絶えてしまう。それ以外の部分で新しい繋がりを作ろうというのはものすごく大変な作業だが、この森は海の恋人の植樹祭りは、元々自然は繋がっていた、人もつながりましょうという意味合いがすごく強い。


◆20年前に植えた木々は…
目の前にあるのがコナラというドングリがなる木。こっちがヤマザクラ、ナナカマド、ウリハタカエデ。とにかく色んな広葉樹が混在していて木陰に人が入れるような高さに成長しているので、大体20年経てばこのくらいの森になる。子どもの頃あんまり見かけなかった生き物が普通に見られるようになった。
生き物が証明してくれている。これがあって初めて豊潤な良質な海につながる。森作りは海で生業をたてるものにとって、非常に重要な作業になる。もっとよりよい、住みやすい地域づくりが出来ればと思う。



この土地に20年前に植樹した木々は、いま10mほどの高さの森に成長しています。そしてその足元には、綺麗な湧水がありました。この水が川となり森を伝い、気仙沼の湾に流れ、良質な牡蠣を育てています。

気仙沼のNPO法人「森は海の恋人」が 岩手県一関市で毎年実施している「森は海の恋人 植樹祭」からのレポートをお送りしました。

森は海の恋人ホームページ

2013年6月13日

6月13日 森は海の恋人 植樹祭(2)


昨日に引き続き、6月2日(日)に行われた、森は海の恋人・植樹祭のレポートをお届けします。
1989年から、毎年行われてきた植樹祭も今回で25回目。岩手県一関市室根町にある「矢越山 ひこばえの森」の植樹会場には、北海道や九州からやってきた方も含む、1400人の参加者が集まりました。参加者の声です。

◆苗木にそれぞれの想いを込めて
・植樹は初めてです。よく育ってくれるように。川が綺麗になって海が綺麗になってたくさんの微生物が成長して魚が成長して我々に貢献できるようなお魚がたくさんとれたらいいなと思います。
・東京から来ました。牡蠣をひとくち食べると、あの森が広がるね。舞根の海と森の景色がどわっと広がる。木を植えるところに来ないと。泣きそうになりました、この景色を見るだけで。
・私はずっと青森県八戸市で地元の地域活性化について研究している。実際に地元でやっていることだけじゃなくて他の県で活動していることを自分で体験して、そのメリットを真似して自分の地域をもっとよりよい、住みやすい地域づくりが出来ればと思います。(参加者)


今回の植樹では、ミズナラやコナラ、トチやブナといった広葉樹 1500本が、参加者一人一人の手によって、山の斜面に新たに植樹されました。この植樹活動でこれまで植えられた広葉樹の数は およそ3万本。25年前に植えた場所は、今では本当に立派な森に育っています。

森は海の恋人 理事長の畠山重篤さんに、この25年を振り返って頂きました。

◆必要なのは教育
25年前は若かったね(笑)すっかり年を取りました。何をやっているんだろうという風潮も当時はあった。でも山に木を植えれば木を黙っていても一人で育つが、問題は川の流域に住んでいる人間。彼らが良くも悪くもする。それは教育の世界に行かなければいけないとすぐ分かった。そこで子どもたちに、森と川と海がどう繋がっているのか、突き詰めれば人間とはどういう存在なのかということ。そういうことを子どもたちに、素人の漁師がメッセージを伝え続けていたことが教科書に取り上げられるようになった。子どもたちが勉強をする。それは家に帰って親に伝わる。それが希望。若い人たちが随分関わるようになってきた。山に木を植えることは森林の持っている公益的機能と言うんですが、最低20年はかかる。ある程度の効果・・・有機的な腐葉土ということを考えると100年単位で考えないといけない。だから継続性が重要。





NPO法人「森は海の恋人」は植樹活動とともに、子どもたちの体験学習を実施するなど、教育にも力を注いでいます。また、畠山さんによれば、この25年間の植樹で、気仙沼の海に注ぎ込む大川には、姿を消していた ウナギも姿を見せるようになったという。

明日も、森は海の恋人 植樹祭の模様をお届けします。

森は海の恋人ホームページ

2013年6月12日

6月12日 森は海の恋人 植樹祭(1)

今朝は、6月2日(日)に行われた、森は海の恋人・植樹祭のレポートをお届けします。
豊かな海を育てるために 森作りを続けているのが、宮城県気仙沼市のNPO法人「森は海の恋人」です。気仙沼湾に注ぐ上流にある、岩手県一関市で、毎年休むことなく植樹祭を実施、今年で25回を迎えました。

植樹祭の会場『矢越山ひこばえの森』に集まった参加者はおよそ1400人。気仙沼の牡蠣漁師で、森は海の恋人の代表・畠山重篤さんは、開会式で、こんなメッセージをしました。

◆森と海は相思相愛
おはようございます。切り株から出た若い木のことを「ひこばえ」と言います。植樹祭も最初の頃は大人が中心でしたが、今日ココに小中学生の子どもたちがたくさん参加されまして、文字通りひこばえがどんどん育つような植樹祭に発展していることを本当に嬉しく思います。いま小学校の全教科書に私たちの森は海の恋人のことが掲載されております。中学校の国語の教科書にも出ました。今年の4月からは高校の英語の教科書にも森は海の恋人のことが掲載されております。森は海の恋人という言葉を英語に訳しますと、The Sea is longing for the forest となるんですね。実は森は海の恋人という言葉を英語に訳すのはものすごく難しくて良い訳が出来てなかったが、ヒントを与えてくださったのが恐れ多くも皇后陛下美智子様。「long forという熟語を使ったらどうですか」とご提言頂いた。この熟語は「愛している、好きだ」という意味もあるが、第一義的には「お慕い申し上げている」という言葉。そういえば両陛下がご結婚なさるとき、新聞記者から陛下のことをどうお思いになっていますかという質問があり、「お慕い申し上げています」と言ったなと思った。森と海の関係は、森は海をお慕い申し上げているし、海は森をお慕い申し上げている、こういう関係。相思相愛の関係。そういう想いもいだいて木を植えて頂ければと思っています。



山の養分が川を流れ、海へ注ぎ込み、結果、海が豊かになる。森は海の恋人は、これを25年間かけて、証明してきました。そしてこの植樹祭は東日本大震災のあった2011年も休まず実施されています。震災の大きな被害を受けた気仙沼の海は、丸2年が経過した今、どのような状態になっているのでしょうか。

◆森が海を蘇らせた
震災のあとに海から生き物の姿が本当に消えたが、あっという間に復活した。それは背景の山がしっかりしていれば海は大丈夫だということの証明。震災前の気仙沼の海はものすごく良くなっていた。大川も綺麗になった。250kmある北上川には鮭が5万尾あがる。一方の大川は30kmの川だが6万尾まで鮭があがるようになっていた。それは川が良い証拠。また鮭がどんどんあがるようになってくれればいいなと願っています。大丈夫でしょう。これだけみんなで木を植えていれば(笑) 最初に植えたところなんてすごい良い森になっていますよ。


畠山さんによれば、植樹を続けることで豊かな海がよみがえり、その結果として川の流域に住んでいる人たちの意識も、自然や川を汚さないようにしようと変化しているという。

☆森は海の恋人

明日も、森は海の恋人 植樹祭の模様をお届けします。

2013年6月11日

6月11日 岩沼市 千年希望の丘

今朝は、宮城県岩沼市で、週末に行われた植樹祭イベントの模様をお届けします。

岩沼市の復興事業の一環として行われた「千年希望の丘 植樹祭」。岩沼市は、市の沿岸部に小高い丘と森を組み合わせた防潮堤を作る計画を進めています。そのスタートイベントとして行われたのがこの植樹祭。仙台空港にほど近い会場にはボランティアは4000人以上が集まり、3万本におよぶ苗木が、植樹されました。

イベントには、細川護煕元総理が理事長を務める「瓦礫を活かす森の長城プロジェクト」も参加。ボランティアの方とともに、苗木を植えていました。細川氏のお話です。

◆他の市町村にも広げたい
こんなにたくさん来て頂くと思いませんでしたが、引き金になるというか、これからずっと広がって、他の市町村がこれを見習ってやって頂くと良い。なかなか順調にいくかは分からないが、岩沼市が市長をはじめ英断して、ここで3年間に20万本を植えるということを進めるというのがすごく大きい。
(これから1000年の森が出来上がるのが楽しみですね)
全部木が植わって、下からみたら手ごたえを感じるのではないか。(聞き手:高橋万里恵)

岩沼市、井口経明市長に、市の計画について伺いました。

◆減災と鎮魂のために
希望の丘という名前の通り、岩沼全体を津波からしっかり守りたい、いざという時の避難場所としてもうけたいということで、岩沼全域で考えていかなければならない。岩沼ではこの集落が一番犠牲者が多かった。そこにまず第一号の希望の丘を置くことで亡くなった人たちの鎮魂にする。亡くなった人たちの想いを考えると、一日も早く復興させるよう希望を持って進めなければならない。この場所に設けたというのは世界、日本国内の方においで頂くため。仙台空港のそばであると同時に、岩沼としては一番被害の大きく犠牲者の多かった場所で第一歩を記すということは意味のあることだと自分たちとしては考えている。まず津波の力をそぐための丘を作る、避難場所としての丘。7〜8mの高さの津波だったので、10mの丘を作ることで同じような津波が来たとしても命が守れる。現に県立の海浜公園の築山に避難して助かっている実例があるので、避難場所として15の丘を作る。丘だけでは津波の力をそげても水は入ってくるし完全に防げない。そこで宮脇理論による、丘の間のつなぎのところに森の防潮堤を作ることで相当津波の力をそぐことができるということ。
               

◆地元からの参加者は…
今日は妹夫婦、母親と9人・3世帯で参加。家はちょうどこのあたりにあり、あと数分避難がずれていたら流されてしまったかも知れないが、うちは幸い全員無事。この場所には家を建てられない。はじめは来るのは嫌だったが、今日来てみて、これだったら次に同じような波が来ても、威力も小さくなるし助かる人も増えるし良いと思った。



岩沼市には約10キロの海岸線がありますが、3階建て以上の建物はほとんどありません。そこでいざという時の避難場所として高さ10mの丘を15個作るのがこの計画です。そして丘と丘を繋ぐ部分に、3mの盛り土をして植樹。避難経路 兼 森の防潮堤が作られる予定となっています。

岩沼市「千年希望の丘」


2013年6月10日

6月10日 浅田真央・舞 チャリティスケート教室

6月1日(土)に宮城県仙台市「アイスリンク仙台」で行われた、浅田真央さん・舞さんによるチャリティスケート教室の模様をお伝えします。


浅田真央さんと舞さんの姉妹が、「Support Our Kids Project」の活動に協力。東日本大震災で被災した、福島県いわき市と宮城県石巻市の小学生、およそ70名が招待され、行われました。

浅田真央さんによる、スパイラルやジャンプなどのデモンストレーションのあと、子どもたちがスケートシューズを履いてリンクに。真央さん、舞さんによるスケート教室が行われました。

◆生徒たちの感想
女の子「スケートは難しいのがわかったのと、夢をあきらめなかった二人を見て、わたしも保育士になる夢を持っているので、わたしも夢をあきらめないようにしたいと思います。」
男の子「5歳からスケートを始めて、長い間スケートを続けることは大変なことなのに、ずっと続けていることにびっくりしました。なので、僕もいま自分が夢中になっていることを、いろいろチャレンジしてみて、自分の前に立ちふさがるハードルを乗り越えている二人みたいになりたいなと思っています。」

◆宮城県石巻市 釜小学校の土井正弘校長
うちの釜小学校も雄勝小学校も、被災の甚大な学校。釜小学校は児童25人の犠牲者が出て、生き残った子供も親や兄弟や親せきを亡くした子が多い。毎日子供たちを元気づけるのがわたし校長の仕事だと思っている。それでわたしは「復興教育」を掲げているが、浅田真央さん、舞さんとのふれあいの機会を持たせてやりたいなと思っていた。
とにかく子供たちを元気づけてやりたいのが一番。大変よろこんで滑ってました。

◆浅田真央さん感想
結構みんな初めてすべる子たちが多かったので、最初は大丈夫かな、ケガとかしないかなと心配だったんですけど、最後はみんなでリレーとかして、ケガなく終われて、みんな楽しかったと言ってくれたので、よかったと思います。
今日来た子供たちもみんな悲しい想いとかつらい思いをしたと思うけど、こうして明るく楽しくすべることができて、わたし自身すごく元気をもらいましたし、スケートの楽しさを感じることができたので、すごくよかったなと思っています。
まだまだみんな小学生で小さいので、これからもなにか一つでも夢をもって毎日頑張ってくれたらいいなと。今日の出来事もよい想い出として今後また自分もがんばろうと思ってもらえたら。



浅田真央・舞姉妹によるチャリティースケートショー

2013年6月7日

6月7日 銀座復興バー


今朝は、東京・銀座にオープンした一軒のバーをご紹介します。
宮城県・石巻の町づくり団体「ISHINOMAKI2.0」が地元と県外のボランティアの交流の目的で、石巻に作ったお店『復興RAR』。これを、東京・銀座に期間限定でオープンするという試みです。

場所は銀座八丁目。5月31日から今月29日までオープンしています。この企画の発起人、茂手木厚志さんに伺いました。

◆コンセプトは「つながる」
元々は外資系のアパレル関係の人間たちで東北支援会というのを発足。被災地の人を招いて交流してもらう。被災地の今を伝えるべく発足。その中で宮城・石巻2.0と知り合うきっかけがあり、話を聞く中でもっと被災地と東京の交流ができないかと考えた。東京の真ん中・銀座に、復興や震災の今を発信する場所が欲しいと思い、復興BARを銀座に持っていこうということで石巻2.0松村代表に相談した。


茂手木さん自身、石巻の元祖・復興BARでお酒を飲み、復興を目指す人たちに触れ、ボランティアとしてこの企画を提案しています。そしてこの銀座復興バー、カウンターに立つのは被災地で復興を目指す様々な人たちです。

◆日替わりマスターがおもてなし!
石巻の復興BARには1日マスターというのがある。月に1度定期的にやっている。それにヒントを得て銀座では毎日の日替わりマスターというのがある。そうすれば30日間に30人の考え方の違うマスターが店を開ける。それぞれ考え方が違う。水産会社、酒蔵、変わったところでは石巻のラジオ体操を啓蒙する
活動をする方もマスターになる。みなさんが熱い思いでしゃべっているというのが正直な感想。真剣に悩み、将来的なビジョンを語り合っている。テーブルの上には石巻から直送の魚、クジラの缶詰などが並んでいる。銀座の一角だが宮城の飲み屋さんで将来を語り合うような雰囲気が感じられる。300人は超えている。この分で行くと開催は1か月だが1500人くらいの集客がある。それ以上の被災地とのつながりが持ってもらえることに感謝している。





◆お客さんの声
・東京からは距離があるので、こういうことをやると石巻を感じられるきっかけになるのかなと思った。
・まだ行ったことはないです。きっかけがあればぜひ行ってみたい。今日も石巻出身の人と知り合いになれたので良い機会だったかなと思っています。
・メニューも色々あって、今日はサバの味噌煮と牛タンつくねとクジラを頼みました。
・そこに住んでいる人たちと料理を通して少しでも身近に感じられれば、そこに行ってみたいなという気持ちになりますね。


復興BAR銀座の場所は、『銀座 蕎麦の花』(東京都中央区銀座8-11-9 STB11ビル 1F) 。お店が閉店する午後6時から10時まで。売り上げは、被災地からやってきたそれぞれのマスターや被災地支援に還元されるということです。

ちなみにこの週末の日替わりマスターは、福島県二本松市の酒蔵『人気酒造(にんきしゅぞう)』。総理主催の晩さん会でも出された日本酒を作った酒蔵。美味しい日本酒や地元の特産品が楽しめるということです。


『復興バー銀座』

来週は、フィギュアスケートの浅田真央選手が、仙台で行ったチャリティスケート教室の模様をお届けします。

2013年6月5日

6月5日 リアス・アーク美術館


今朝は、宮城県気仙沼市赤岩牧沢のリアス・アーク美術館がスタートさせた常設展、
「東日本大震災の記録と津波の災害史」を紹介します。

4月から開設されたこの常設展は、震災直後から学芸員が現地調査した写真約 200点と、津波で流された家財道具や、破壊された家屋の一部をそのまま展示しています。いわゆる「震災がれき」と呼ばれるものです。学芸係長の山内宏泰さんに伺いました。

◆失われた日常の記憶
我々はこれを瓦礫と呼ぶことをとにかくやめさせたい。例えばそこにあるH鋼の緑色のやつは私の家の一部。私も家を根こそぎ流された。200mくらい離れてめちゃくちゃになっていたものを発見して、最終的にそこから1本もぎ取って持ってきたもの。

モノには全て、関わってきた人間の記憶が例外なくどんなものにもある。実は我々が一番大きく失ったものは日常の記憶。それを宿している。自分の家の残骸を発見した時、3月13日に家を確認しにいった時に、家は根こそぎなかった。鉄骨4階建てのビルが根こそぎ無くなっていた。周辺をどんなに見ても自分の家の残骸がどこにもない。あれだけの質量のものがどこに消えたのか。理解できなかった。一旦はあきらめで自分で調査活動、記録とりをしはじめた時に、自分の家があった場所と全く違う場所で、鉄骨の残骸がもしかしたら自分の家かも知れないと見た。観察しているとどうやら自分の玄関のタイルと思われるものを見つけた。なんだろう、こんなものあったかなと記憶をたどるとタイルを発見した。自分の家だった。200m離れた場所に、4階建てだったものが2階建て分になり天地がひっくり返って東西が逆転している。それでも分かる。分かった瞬間、これは経験した人じゃないと理解できないが、鳥肌がたつくらい嬉しい。「あった!」と。

目の前には残骸しかないが、それがあったことがどんなに嬉しいか。たった1個でも自分の家のかけら、持ち物1個見つけた時、ものすごく嬉しいと感じる。ずっとそういう想いを抱えながら観てきた我々にとっては、今の現状で「片付いてよかったですね」とあたりまえに言うが、我々にとっては何もなくなってしまったという感覚。「大変だね全てがなくなって」という問題ではない。記憶喪失に近い。アイデンティティが丸ごとどこかに消えてしまうような感覚。



この常設展で展示されている、いわゆる震災がれきをリアスアーク美術館では「がれき」ではなく、「被災物」と呼んでいます。また、学芸員の方が撮影した写真は全部で数万点。その多くは、まだ報道も入れない震災直後の状況を伝える貴重なもの。その中から200数点が、当時、学芸員が感じた言葉とともに展示されています。

明日も、リアス・アーク博物館の常設展についてお届けします。


学芸係長の山内宏泰さん
リアス・アーク美術館

2013年6月4日

6月4日 ひろたごはん(2)

きのうに引き続き、岩手県陸前高田市の食材を使った食事会イベント「ひろたごはん」のレポートです。

東京都内の飲食店を貸りきって、
陸前高田・広田町の旬の食材を参加者に食べてもらうこの企画。不定期ですが、すでに何度も開催され、ネットや口コミで、学生や若い社会人を中心に参加者も増えています。参加した方の声です。

◆ご飯を食べに陸前高田に行きたい
・大学4年です。フェイスブックで誘われてきました。新鮮な野菜と魚はこんなに違うものなんだと。なめろうが一番好きですね。

・ワカメは食感が違うと想いました。他の食材も香りが違う。それは、すぐに獲れたものを
持ってきてくれた企画者の配慮。食材のことをよく分かっているなと思いました。お食事を出す時に一言説明を添えてくれるので考えながら食べられて、いつもと全然違うご飯の食べ方でした。すごく味わってます。

・記憶に残るのは五感。陸前高田の魚は美味しかったなと思うし、また行きたいと思う。

・友だちから陸前高田について聞いたことはあったけど、被災地に行くとなると何かしなきゃと身構えてしまう。こういう機会でその土地のご飯を食べると、陸前高田の食材の風味や香りが体験できるし、肩の力を抜いて、美味しいものを食べに行こうと考えられます。被災地として知るのではなく、身近に感じましたね。普通にご飯を食べに行きたいです。




この「ひろたごはん」では、広田町のお母さんたちが収穫した野菜を買い取り、お母さんたち直伝(じきでん)のレシピで調理しています。それが、お母さんたちの収入になっているのですが、他にも大きな意味があるようです。復興支援団体「SET共同発起人・兼・現地統括の三井俊介さんの話です。

◆お母さんたちの原動力に
間違いなく東京でも美味しいといっていただける品質があると確認できた。僕らだけが美味だと言っていても回らない。こっちの人が食べて「美味しい」といってくれるのが実証できた。広田のお母さんたちから原材料を買っているというだけで嬉しいと思う。野菜を作っているお母さんたちから、消費者の顔が見えると喜んでもらっている。今までは農協に出しているだけで、誰が食べていてどういう顔で、どういう感想を持っているのかが全くわからなかったが、それを、報告してあげると、お母さんたちも「張り合いが出る」という。地域の中でお母さんたちも色んなシガラミを抱えて日々生きている。そういう中で喜べる場所があるというのはお母さんたちにとっても生きる原動力、前に進む力になる。僕らもやっていてよかったと思うし、これからもしっかり形を作っていかなきゃ。身の引き締まる思いでいる。

               
「ひろたごはん」について詳しくは、復興支援団体「SET」のウェブサイトで確認できます。
復興支援団体SETのホームページ

2013年6月3日

6月3日 ひろたごはん

今朝は、岩手県陸前高田市から、食を通じた取り組み「ひろたごはん」という食事会イベントをご紹介します。これは、陸前高田市広田町の旬の食材を、東京の飲食店に持ち込み、お店を貸し切りにして、ご当地の家庭料理を楽しむというイベントです。

企画したのは、三井俊介さん24歳。陸前高田を中心に活動をする復興支援団体「SET」共同発起人・兼・現地統括という肩書を持つ若者です。東京の大学を卒業後、陸前高田市広田町に住民票を移し移住。地域活性に関わりながら、自立した生活を送っています。「ひろたごはん」は、そんな生活の中で生まれたアイデアです。

◆東京でできる”食べる復興支援”
僕らが広田町に暮らしていて感じたのは「食事がめちゃめちゃうまい」。地元のお家で食事を提供してもらって、とにかく東京で安いところで食うより断然美味。でも原材料は安い。それを東京に持ってきたらウケると思ってはじめた。本当に美味しいし、食べて復興支援という分かりやすさと、お食事会という楽しさがある。そういう楽しさを感じることで多くの人を巻き込んで復興支援に携わりたい。僕らがやっている広田で作った野菜を東京など外部に販売する事業があり、それを利用しておかあさんから野菜を仕入れて食べてもらう。魚は陸前高田の産地直送業者があるのでそこのお兄さんと仲良くなって企画を説明、協力してもらっている。いまは知り合いが中心。お店を貸してもらう場合もあるが、継続的な場所がなく開拓中。最近は東京でシェアハウスをしている若者たちが多いので、そこを貸してもらって食材を提供するホームパーティもできる。


現在、「ひろたごはん」は不定期に開催されていて、その時期その時期の旬な食材を提供しています。例えば、2月に開催されたイベントでは、こんな食材が並びました。

◆流通に乗らない食材を届ける
「まつも」と呼ばれる海草。これは三陸や北海道でしか獲れない高級品。その海藻を使った煮付けを地元のお母さんにレシピを教えてもらって、広田の食べ方で提供している。今回は早採れワカメ。ワカメは植林と同じで他の枝が育つように小さい枝を間引きしている。小さいのは切られてしまう。それを今までは捨てたり、破格で売っていたが本来とても美味。そういう流通に乗っていないものを食べてもらう、ということを考えながらやっている。




この「ひろたごはん」、5月にも開催されています。また、今後も不定期に開催されるということです。
詳しくは、復興支援団体SETのホームページをご覧ください。

明日も、「ひろたごはん」についてお届けします。

パーソナリティ 鈴村健一

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