2011年12月30日

12月30日「瀬戸内寂聴さんからのメッセージ」

作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんは、岩手県・天台寺の名誉住職も務めておられます。
寂聴さんにとって東北地方はゆかりの深い地域でもあります。

今回の震災ではたくさんの人が、家族や家、そして仕事を失いました。
そんな過酷な状況を、この震災を、私たちはどう受け止めたらいいのでしょうか。


◆あすはわが身かもしれない
 皆さんが「どうしたらいいでしょう?」と相談してくるが、「何をしてあげればいいか」と思うだけでいい。その思いやりの「念」、みんなの「念」が固まって思いやればチカラを持ち、祈りになる。
 自分が宝くじにあたるようにとか、玉の輿にのれるようにとか、そうはいかない。でも人のために「あの人は見かねますからどうか救ってやってください」と他人のための祈りは効く。
 そしてほんのわずかでもいいから義援金を。はっきり使ってくれるところに収めるべき。
 自分以外の困っている人を助けようという、当たり前のことを日本人はしなくなっているので、そうじゃなく。「あすはわが身かもしれない」と思ってほしい。


◆「無常」と「忘却」
 仏教には「無常」という言葉がある。この言葉は、『人間は生まれたら死ぬんだ』という意味もあるが、私は『常ならず』と読んだ。「生々流転」という言葉があるが、『全てのものは流転して変わっていく』というように、同じ状態へは決して続かない。だから誰かが亡くなってずっと悲しんでいても、1年経ってふと気がつくと、「あ、今朝忘れていた」またしばらくして「昼も思い出さなかったな」となる。
 人間は『忘却』という性能を与えられている。忘却というのは神や仏の恩寵(=愛や恵み)だと思う。忘れることができるから生きていかれる。だけど忘れてはいけない大切なことも忘れてしまう。これは神や仏の豪罰だと思う。なんでも裏と表がある。
 だからこれからは、「だんだん良くなるんだ」と希望を持って生きていってほしい。



瀬戸内寂聴さんのお話は、TOKYO FMをはじめ、JFN32の放送局で放送されている「On the Way Journal Weekend・寂聴です!」でもお聞きいただけます。

「On the Way Journal Weekend」

2011年12月29日

12月29日「南三陸・少年たちのチャレンジ」

「LOVE&HOPE」では、宮城県南三陸町に暮らす3人の少年たちが、海外マラソンへチャレンジする、「Run for Japan」というプロジェクトを追いかけました。


3人の名前は、和泉翔太君(高校1年生)、三浦泰門君(高校3年生)、三浦壮馬君(中学2年生)。

三浦泰門君が震災当日目にしたのは、想像を絶する光景でした。

◆10代の少年にとって、あまりに過酷な状況
 家はそこにひっかかって止まってた。親父も津波に流されて、がれきにつかまって助かった。近所も逃げなかった人が多いので半分以上の人がいない。うちの親せきのおじいさんもいまだに発見されてない。

最初にマラソンに興味を示したのは、高校1年生の和泉翔太君でした。

◆家を失い、祖父は行方がわからず
 家は流された。学校にいて警報が出たときは余裕こいてたけど、次第にやべえぞと。津波自体は見てないけど、土煙とか音がすごくて、終わったなと。
 マラソン。面白そうだな、身体を鍛えるのもいいかな。いままで走った最高は20キロくらい。やばかった。



彼らの、新たな目標となったのが、オーストラリアで開かれた ゴールドコーストマラソンです。
少年たちにゴーストコーストマラソンの話を持ちかけたのは、震災直後から南三陸でボランティア活動を続ける、筑波大学大学院生の藤原のぶやさんです。
彼らの渡航費の調達、事務的な手続きなど、3人の夢を叶えるためにはかなりのハードルがあったそうですが、なぜそこまでしてチャレンジを後押ししたのでしょうか。

◆夢を後押し
 最初はこんな時に走ってる場合じゃないと彼らも思っていた。でもチャレンジするって 前向きなこと。そういうことがないと、いつまでも自粛ムードだと前に進まない。どんな状況であっても挑戦する権利はあると思う。誰にでも。


7月、南三陸の3人の少年たちは多くの人に支えられて、ゴールドコーストマラソンにチャレンジし、それぞれが完走を果たしました!

その3人の「その後」を取材した特別番組「LOVE&HOPEスペシャル MY HOME TOWN〜三人の少年たち〜」が今日午後3時から(FM沖縄は午後9時から)放送されます。

震災、そして海外マラソンへのチャレンジが、彼らにどんな変化をもたらしたのか。年の瀬を仮設住宅で暮らし、2012年に向け、今なにを思うのか。
3人の少年たちと、その家族の声をお届けします。

2011年12月28日

12月28日「宮城県石巻市 来年春に東京へ巣立つ高校3年生・浅田香奈さん(2)」

宮城県石巻市から、来年春に東京へ巣立つ浅田香奈さんは高校3年生。
被災地の子どもたちに、海外ホームステイを体験してもらうチャリティ支援プロジェクト「Suppot Our Kids」で、ニュージーランド語学留学を体験した一人です。

彼女は元々、芝居や演劇に関わりたいという夢を持っていたのですが、震災を境に、家族のことを考えて それをあきらめかけていました。
しかし、ニュージーランドでの体験をきっかけに、夢を叶えるための決意を固めました。


◆決意を固めた
 震災を乗り越えて、「私はここまで出来ました」というのが見せられる時がきたら、自分の家も変わるだろうし家族も変わる。自分の夢を叶えた方が周りの人にプラスになるのかも知れないと思った。そういう面でも、私は自分の夢を叶えたいなと思った。
 進路は、地元ではダメなので可能性を広げようと東京に就職を決めた。あとは来年行くばかり。


◆地元にいなくてもできること
 石巻にいなくても出来ることがあると気づいた。他の県からたくさんボランティアに来ている方がいる。だから東京に居ても地元に対して出来ることがあると思う。家に居ても考えることしかできない。だから動いちゃおうと思ってやりはじめたのがきっかけ。ボランティアをしながら色んな人に会って色んな話を聴いて体験していくと、そういうところで気づく。

◆2012年にしたいこと
 高校の半分くらいは、復旧だったり家のことだったりで想い出が作れなかった。2012年はもっと笑いたい。もっと笑ってもっと普通に遊びたい。今はすごく充実している。
 明日やろうと思うことも、今日やっちゃおう。明日書けば間に合うやつも、今日やって明日は遊ぼう。だから時間が足りないんですよ。


◆10年後
 10年後って何歳ですか。30歳近いですね。10年後も笑ってたいです。笑うのが好き。笑っていれたらいいなと思う。
 笑うことも忘れるくらい大変だった。笑うと色んな人から幸せをもらえる。いいニュースが笑っていると多かった。泣いていると悪いニュースしか聞こえてこない。気分が明るくなると明るいニュースが聞こえてくるようになる。だからこそ笑っていたい。10年後も。

2011年12月27日

12月27日「宮城県石巻市 来年春に東京へ巣立つ高校3年生・浅田香奈さん(1)」

宮城県石巻市から、来年春に東京へ巣立つ浅田香奈さん。高校3年生です。
被災地の子どもたちに、海外ホームステイを体験してもらうチャリティ支援プロジェクト「Suppot Our Kids」で、ニュージーランド語学留学を体験した一人です。

◆今年7月、留学に向けての想い
 私自身は津波の被害に遭っていないが、家族が一人亡くなってしまった。地元でボランティアを続け、FM石巻でラジオ番組をやっていて、今回の活動を通して石巻にこれからどう貢献していけるかも見つかるかも知れない。自分がこの先どうするか迷っているので、それも見つけられたらいいなと思っている。

◆最近の石巻
 震災直後は治安が悪かったので、食べ物を持って歩くのが危険な状態。自販機を壊している人もいた。いま考えるとその時はそうしないと生きていけない状態だった。いまは店も再開して新しいスーパーも建って、復興してきたかなという実感。震災前より賑やかになる気がする。ボランティアに来ている人が住所を移して住み始めている。震災前になかった店が建ってきている。
 復興しようというみんなの気持ちがあるのか、賑やかになってきている。自分の家が自営業の子は、「自分の家でやろうかな」と言っている。もっと明るくなるような気がする。


石巻であと数ヶ月の高校生活を送った後、浅田さんは故郷を離れる予定です。
3月11日の震災で一度あきらめた夢を追いかけるためです。
彼女は、ニュージーランドでの体験を境に、気持ちも大きく変わったと話しています。

◆これからの夢
 夢は女優になりたくて、舞台が好きで舞台関係でなにか出来たらなと思っていた。それどころじゃないというのもあり、あきらめて地元で働くべきかなと思っていた。
 震災を乗り越えて、私はここまで出来ましたというのが見せられる時がきたら、自分の家も変わるだろうし家族も変わる。自分の夢を叶えた方が周りの人にプラスになるのかも知れないと思った。そういう面でも私は自分の夢を叶えたいなと思った。
 進路は、地元ではダメなので可能性を広げようと東京に就職を決めた。あとは来年行くばかり。




石巻商業高校 3年 浅田香奈さん

2011年12月26日

12月26日「福島県飯館村 雪の卒園・卒業式」

3月に行われるはずだった飯館村・草野幼稚園、飯樋幼稚園、草野小学校、飯樋小学校、臼石小学校の卒園式・卒業式は、震災と原発事故による全村避難で、長く延期となっていました。
しかし、子どもたちと保護者の声を受け、飯館村に実行委員会が発足。
5つの幼稚園小学校の合同卒業式を、福島県川俣町の公民館で開催することになりました。県内の他の地域や、北海道や大阪に避難している家族もいるため、できるだけ全員が集まれる日程として選ばれたのが、昨日のクリスマスの日でした。


飯館村の2つの幼稚園と3つの小学校の卒業生は113人。
9か月遅れで、ようやく卒園証書、卒業証書を受け取った飯館の子どもたちは、久しぶりの再会で、本当に嬉しそうでした。

子どもたちからは、こんな声が聞かれました。

「楽しかった」「赤い服着た人と歌った」「どこにすんでるのとか話した」
「2年生になったら、鉄棒の逆上がり。折り紙で白鳥を折ったりできるようになりたい」
「9か月ぶり。声変わりとかはわかる。身長も変わった」
「雪が降っててびっくりした」
「連絡はとりあってる。友達には変わりない」



一方、保護者の方々は、子どもたちの巣立ちと久しぶりの再会を喜びながらも、心境は様々だったようです。

「複雑な気持ち。やっと一区切りできてほっとしたところはあるが、現実はまだまだ問題がある。それをどう解決するかがこれからの課題」
「子どもたちはスクールバスで1時間かけて帰っている。子どもには大変かもしれない。でも戻っていいと言われても戻りたくはない」
「家族がバラバラ。久々に帰ってきて落ち着くっていうのはある。また雪っていうのもあるが、これが今の時期。普通」
「普通の引っ越しとは違う。子供の意見も聞かず避難をする。あの時の状況は一生忘れられない」



この日の福島は、前日から断続的に雪が降っており、奇しくもホワイトクリスマスの卒業式となりました。
大人がみんなで作り上げた雪の日の卒業式。
きっと子どもたちは忘れないはずです。

2011年12月23日

12月23日「宮城県石巻市・牡鹿半島の今(5)」

今週は宮城県石巻市・三陸海岸の南端に突き出た牡鹿半島の現在の状況、復興に向けた動きをご紹介しています。


今日も鮎川地域に先日完成した復興商店街「おしかのれん街」からのレポートをお届けしています。

今この商店街は、ボランティアでやって来た方が買い物をすることも多いそうですが、それはあくまで一時的なもの。
この地域は漁師町なので、地元の方は、“魚は買うものではなく、漁師さんから分けてもらうもの”という感覚があって、そういう意味でも観光客がこれから重要になってきます。

一方、この商店街でご商売を再開した方々からも、「いつ軌道に乗るのか」「本当に商売を継続できるのか」といった、不安の声はあるようです。


「おしかのれん街」の計画の中心になった、牡鹿復興支援協議会の遠藤太一さんに、この商店街の今後、その先の目標について伺いました。


◆恵まれた環境と自然の中で
 ここにどういう風にしてお客さんに来てもらうか。せっかくこういったものがあるので、どういった形で地域の活性化に利用出来るかを考えて行ければと思っている。観光として充実していってもらうこと、そして一次産業としての漁業は充実していて、品物は良いものが挙がるので、これを二次加工するような丘の上の仕事を充実させていきたいと思っている。
 せっかくこの恵まれた環境と恵まれた自然なので、趣味趣向性の高いリッチ層の人達が遊びに来て満足できる、そういった土地に出来るといいのではないかと思っている。
 マグロ、鯖、あじ、魚関係、海のものが豊富。これを食べずしていられないなと。何もなくてもおそらく年に何回かは魚を食べに来てしまうような土地。


◆やる気を後押しするための支援
 地元の雇用に関して、軌道に乗るまではどんなに時間が掛かっても、赤字でも仕事をしないと始まらない。そういった部分に関しては僕らの方でもお金の工面をする。それが自立の支援に繋がる。暖房器具を買って渡す、衣類を買って渡すのではなく、地元の人達のやる気を後押しするために支援を使っていくのがいいのではないかと思っている。
 いま金華干物でもやっている辺見君は現在23歳。地元にいた彼は8月までボランティアをしながら夜はコンビニで働きながら手伝っていた。そういう根性のあるやつがいることで、こういった街が良くなっていくんじゃないかと思っている。どうしても高齢化が進む街なので若い人達の力、そして若い人達が戻ってくることで、より活性化が計れるようなまちづくりが出来ればいいと思っている。



お話を伺った遠藤さんも当面は牡鹿に残り、「おしかのれん街」を中心に支援活動を続ける予定で、「おしかのれん街」に続く、2つめの復興商店街の計画も始まっているということです。


牡鹿半島のボランティアについては、ツイッターで情報を発信しています。
詳しくはこちらからどうぞ。
【石巻牡鹿ボラPikari支援プロジェクト official twitter】

2011年12月22日

12月22日「宮城県石巻市・牡鹿半島の今(4)」

今週は宮城県石巻市・三陸海岸の南端に突き出た牡鹿半島の現在の状況、復興に向けた動きをご紹介しています。

鮎川地域に先日完成した復興商店街「おしかのれん街」は、平屋の建物2棟に飲食店・販売店が16店舗入っています。



その中の一軒、「マルニ鮮魚店」のお母さんは、お店の軒先で牡蠣鍋をお客さんに無料で振る舞っていました。
その理由を尋ねると、「牡蠣を剥いたことがない人がやってるから売り物にならないので」 とおっしゃっていましたが、どういうことなのか、お店の裏で黙々と牡蠣を剥いていたお父さんに事情を伺いました。

◆違う仕事をしている
 (牡蠣を剥くのは)練習。(もともとは)鮎川モータースというクルマ屋さんをやっていた。今からクルマ屋を再開するため工具を揃えては、私の代では借金が返せない。てっとり早いのが魚屋さん。地元の漁師さんは友達がいっぱいいる。全部回してくれるから手に入る。地元の人達にいくらでも安く出してやろうと思って。お店は難しいけど楽しい。朝早く仕入れにいって、市場を覗いて。地元の猟師さんを手伝って網から魚をはずしたり。全部が楽しい。
 クルマ屋さんじゃなくても大丈夫。今はある程度、スパナとか工具は少しずつ揃えている。それで故障だと言われれば現場に行って直す。この商売をやりながらちょっとした仕事を。こんなのに負けてられない。はりきってやらないと。頑張っています。


牡鹿半島の復興商店街の完成は、マルニ鮮魚店のご夫婦にとって、過去を乗り越えて先へ進むための大きなきっかけになったようです。
お母さんはこのように語ります。

◆夢を持って進む
 変わったと言うより思い出さなくなった。忙しいから思い出すヒマがない。避難所にいた時は怖い想いをしたのも夢に見たし、生きている人が 「助けて」と言ったのを見殺しにしたのもあるし。そういうのがグルグル思い出されたが、それがない分いいか。だって目の前で助けてって叫ばれても、結局自分の身が大事だから。結局見て見ぬフリしたような形になるから、そういうのが一番気持ちに引っかかっていた。
 こういう風にみんなと接してしゃべったり普段と変わらなく、「生きていたっちゃ」とか「お茶飲んでけ」とか、「これ食ってったら」とか言うのが嬉しい。一番心残りなのはクルマ屋の腕があってもクルマが出来ない。
 うちらの夢は、子どもたちが大きくなったら、工場を小さくしてパンクとか直して2人でやっていくべっていう夢があったから。やっぱり何をやったってクルマ屋さんは離れない。クルマ屋をやるには大金が掛かるし先行きも不安だし、だからお父さんはこの魚屋さんをやるって決めた。



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2011年12月21日

12月21日「宮城県石巻市・牡鹿半島の今(3)」

今週は宮城県石巻市・三陸海岸の南端に突き出た牡鹿半島の現在の状況、復興に向けた動きをご紹介しています。

伝統的なクジラ漁が再開した鮎川地区。
そのクジラを使った伝統工芸の職人さんも、津波の被害を乗り越え、仕事を再開しています。


鮎川の特産品の「鯨歯」を使った工芸品を扱っている、千々松商店の千々松正之さんにお話しを伺いました。

千々松さんは震災と津波でお店を失い、4ヶ月間避難所で生活をしながら、役場の一角に作業場をもうけて、ご商売を再開する準備を続けていました。
そして11月末。鮎川地区に仮設の復興商店街が完成し、お店を再開しました。


◆鯨歯工芸品を作り続けている
 (工芸品は)マッコウクジラの歯で作っている。(漁が)禁止になって23年。23年前までは獲っていたがそれ以降は獲れないから、ストックしてあるもので作っている。つまり昭和3年から鯨工芸を。私の父は現役83歳。私が3代目。
 家は流されたが鯨の歯はこの付近に散らばって残っていた。その歯が残っていたからこそ、3代目の私がやめるわけにはいかないと新たな決意で頑張る。当然 被災後だから観光客は来ない。鯨の加工もやっているが、はんこも彫っている。はんこは誰もが欲しがる状況だから。結果的にはんこを専門にやっている。よけいお客さんは喜んでくれた。
 お客さんから開店時に花がたくさん届いた。俺も嬉しいがお客さんも一緒に喜んでくれるのが最高。


◆お店を再開して
 今まで仕事がしたくても出来なかった。まだいっぱい働いて稼ぐところまではいかないが、お店があるというのは、気持ちのゆとりが全然違う。



商売をされていた方にとって、お店や職場という「場所」は、生活そのもの。それをサポートするのが、いま求められている復興支援の一つです。

この仮設の復興商店街について、牡鹿復興支援協議会の遠藤太一さんに伺いました。

◆復興商店街「おしかのれん街」
 今年の4月に行政の方と話をしていく中で、今後物資を切っていくのなら買い物が出来ないとねということで企画書を出して、各NPO法人や任意団体、支援者個人などからお金をちょうだいして11月18日にオープンさせた。
 かなり立派な建物が建った。全部で16店舗。酒屋さん、八百屋さん、お魚屋さん、鯨歯の工芸やお土産屋さん、ラーメン店にお寿司屋さん、お弁当屋さん。16店の中の12店舗が既存のお店、4店舗が新規に立ち上げた店。
 カフェレストランB4、牡鹿工房、金華ひものは支援を受けて、住民をどれだけ雇用できるか、雇用の拡大を狙ったプログラム。ここでアルバイトやパートを雇う。漁業支援で仕事が今年はできない人達の雇用スペースとして用意。
 牡鹿工房でやっているのは、地元の高校生。高校生がアルバイトできるのはこういう場所しかない。雇用を薦める中で若い世代が手に職を持って地元に根付いていくものがあればと考えている。干物屋さんには23歳の青年にこれから先の雇用を背負っていってもらえばと勉強してもらっている。



牡鹿半島・鮎川地区の仮設商店街「おしかのれん街」


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2011年12月20日

12月20日「宮城県石巻市・牡鹿半島の今(2)」

今週は宮城県石巻市・三陸海岸の南端に突き出た牡鹿半島の現在の状況、ボランティアの動きをご紹介しています。

がれき撤去が終わるのは来年春、遅ければ夏までかかる。世帯数の問題で、仮設住宅に入りきれない方がいる…。
そういった現状でも、一歩一歩 復興へ向けた歩みは続いています。


牡鹿・鮎川地区では先日、古くから続く伝統のクジラ漁が再開。
仮設商店街のお店にも、クジラが並び始めています。
鮮魚店やお寿司屋さんに「クジラ」の文字が並ぶという、牡鹿の日常風景が戻りつつあります。

牡鹿のクジラ漁について、鮎川の仮設商店街「おしかのれん会」会長・沼倉憲一さん、復興支援協議会・遠藤太一さんにお話を伺いました。

◆牡鹿のクジラ漁
(沼倉さん)
 牡鹿の捕鯨の歴史はだいぶ古い。明治時代から。いま残っているのは宮城県鮎川、和歌山県太地、千葉県和田浦。その中で鮎川は一番大きい。中学校の頃は捕鯨船が入ってくると学校の窓が振動で震えた。捕鯨船が両脇にクジラを抱えて帰ってくる。当時はマッコウクジラで20mくらい。うちはお袋が好きだったので、マッコウの胸肉を小さい頃から食べていた。
 いまはモラトリアムの関係で捕鯨が規制されている。ミンクも年間70の調査捕鯨。IWC(国際捕鯨委員会)の枠から外れたツチクジラ、ゴンドウクジラがある。これも自主規制しながら年間70くらい。いま上がっているのがツチクジラ。10mくらい。たぶん明日の朝くらいに出るのでは。


◆「クジラ1頭7浦潤す」クジラ1頭で、牡鹿の7つの港が潤う
(沼倉さん)
 捕鯨船は北上川に1杯が廃船、2杯が丘の上に上がった。もう1杯が石巻の港地区に上がった。大型クレーンで下ろして修理して、いま捕鯨をやっている。
 先月末くらいに連続で3頭くらい獲った。


(遠藤さん)
 おいしい。ここにきて良かったのはクジラが食べられること。クジラとともに繁栄した町。クジラが上がったことで急にわっと士気があがった。

(沼倉さん)
 決して安くない。1kg3000円。牛の最高級(と同じくらいの価格)。ここの人は金に糸目はつけず牡鹿の人はクジラは食う。
 「クジラ1頭7浦潤す」(浦=港)という言葉もある。




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また、ボランティアに関するお問い合わせはメールで受け付けています。
石巻牡鹿ボラPikari支援プロジェクト:cheetahllc@gmail.com

2011年12月19日

12月19日「宮城県石巻市・牡鹿半島の今(1)」

先週に引き続き、宮城県石巻市の被災地からのレポートをお伝えします。
場所は石巻市の東、三陸海岸の南端に突き出た牡鹿半島です。

牡鹿半島は地理的な理由で道路の復旧に時間がかかり、支援も届きにくかった場所です。現在は道路もほぼ元に戻りつつありますが、本格的な復興はまだ時間が掛かる見込みとなっています。

震災直後から住み込みでボランティア活動を続けている、牡鹿復興支援協議会の遠藤太一さんにお話しを伺いました。

遠藤さんは、各地からやってくるボランティアの受け入れ・手配・作業の割り振りを続けています。
現在 牡鹿半島では、平日で20人から30人、週末には200人から300人のボランティアが
活動をしているのですが、遠藤さんは「それでも数が足りない」とおっしゃっています。


◆牡鹿の現状
 がれきの撤去がまだ全然終わっていない。林の上の方には車が入っていたり船が出てきたり。がれき撤去、側溝の掃除(泥だし)、家具や家財を出すということに関しては来年の3月がめど。
 実際、全体の量からすると人数が少なくなることも鑑みて、最大で来年の夏までかかってしまうと思っている。
 だんだん個人のボランティア受け入れをやらなくなり、観光ボランティアもどうなのかという風潮がある。しかし手を借りられるものならみなさんの手を借りてやっていこうと思い、受け入れを今後もやっていく。


◆「モチベーション」の問題
 作業が膨大なので、毎日ちょっとずつでも作業が進んだ実感がないと、精神的に参ってしまう。今後もボランティアは大人数を確保する必要がある。


牡鹿半島は約445戸の仮設住宅がすでに完成、約430世帯が入居していますが、遠藤さんによると、この仮設住宅で新たな問題が起きているようです。

◆支援はまだ必要
 仮設に入らず家を借りて住んでいる方や、仮設住宅に入ったが、3Kに8人で暮らしており、場所がなく納屋などで生活している人もいる。3世代家族だと人が多い。
 仮設住宅を借りる時に世帯分離をした家は1世帯に1軒だが、しなかった場合は1軒。みなし仮設に入らず納屋を使っている方がいて、その辺りの隙間をどう支援していくか。








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2011年12月16日

12月16日「Ishinomaki2.0 『復興バー』」

今週は、宮城県石巻の若い世代が立ち上げた草の根の復興プロジェクト「Ishinomaki2.0」の現地レポートをお送りしています。

Ishinomaki2.0の松村豪太さんが作り、東京の美大生たちが未来のイメージを壁に描いた、小さなカウンターバー「復興バー」。




復興バーのオーナー、松村豪太さんに伺いました。

◆毎晩生まれる新しい“つながり”
 (店内は)せまい。椅子の数だけでも全部で10。それも無理やり置いている。そこに15〜20人が入る。
 自然と隣の人と触れ合って話すきっかけが出来てしまうバーだと思っている。昨日は記録に迫る25人。若い子も多いが年配も多い。外から来た大学の先生から、地元の肉屋、瀬戸物屋、呉服屋のご主人や奥さん、東京から来た外国人と話す。


◆お店が持つ意味
 明日の計画を考えられる、集まれるバーが欲しいと思って作った。表の黒板に「見切り発車」と書いて始めてしまった。まだ何も完成していないがとりあえず開けちゃえと。
 場所を作る大切さ。Ishinomaki2.0自体が色んな動きがあり、やりたいことがある人のきっかけづくりをするプラットフォームだが、復興バーは小さくてリアルなプラットフォーム。どこかに行きたい、やりたい、仲間を探したいという時に、場があると一気に具体化する。お酒を飲みながら出てくるアイデアもたくさんある。スターウォーズの話題で盛り上がって、被災地のがれきの中でパレードが出来たらいいよねとか。人が訪れるきっかけにもなる。いつまでも忘れられないということが被災地・石巻にとって一番大事。
 我々と正反対にあるのは、自粛。ふざけるなと思う。この場所に足を運ぶことが大事。色んなことができる状態になっている。チャンスがたくさん生まれていて、津波が来たからこそできる動きをしていきたい。楽しみながらやりたいし、そうしなければ津波に負けたことになる。もっといろんなことをやっていきたい。



Ishinomaki2.0は、復興そのものを楽しもうとしています。


【Ishinomaki2.0】

2011年12月15日

12月15日「Ishinomaki2.0 フリーペーパー『VOICE』」

今週は、宮城県石巻の若い世代が立ち上げた草の根の復興プロジェクト「Ishinomaki2.0」の現地レポートをお送りしています。

Ishinomaki2.0は、様々なジャンルの方が、それぞれの職業を生かした復興のアイデアを形にしています。

日本中に5万部を配布したフリーペーパー「VOICE」を制作したのはIshinomaki2.0のメンバーで、広告代理店のプロデューサー・飯田昭雄さんです。
青森県出身の飯田さんは、被害の大きな地域でできることはないかと、震災直後に東京から石巻に入り、現在は、仕事に費やす時間の多くを、Ishinomaki2.0の活動に傾けています。

◆フリーペーパー「VOICE」の意図
 石巻で被災した人達は、道を歩いている人をつかまえても、誰もが映画1本分くらいのストーリーを持っている。4月から石巻に入り、色んな話を聴いていて、こういう声こそ伝えなければと思った。町の人の声に全てが凝縮されている。未来も現在も過去も含め。そこで「VOICE」と名付けた。その声を伝えるのが僕らの役目なんじゃないか。

◆これからの日本は東北から変わる
 復興のフェーズが進んでいない。ガレキは片付き泥掻きは終わった。街はキレイになったが、次どうしようかというところで足踏みをしている被災地が多い。それを見て、広告代理店・コミュニケーションを作ることを生業にしているので、ネットワークを使ってモノを作るノウハウを持ってくることにした。プロダクトデザイナーやウェブデザイナーを置いて、異能集団を集めることで、承認プロセスを飛び越して「やっちゃう」。現実的なプロセスをどんどん立ち上げてすごいスピードで形にしていく。そういった活動が、リアルな生活に作用していく。そこで“のれん分け”をする。マネをしてくれと。
 これからの日本は東北から変わると実感している。日本は地方が変えると思う。高齢化社会で坂を転げるように転がる中、問題意識を持っているのは、東北をはじめとした地方。被災の問題だけでなく生活サービス全般の問題。今までのように誰かエライ人に話を通してはんこをもらってから考えよう…では無理。ここにいる人達は、明日にでも行動をしなければいけない。来月の生活費を稼がなければいけない。構造自体を変えなければいけない。そういう意味で日本再生のチャンスはここにある。
 なぜこの街が変わっていくのか、どうしたら変われるのかという実験の最前線にいると思っている。それを見て欲しいし、伝えていかなければいけない。日本を変える歯車になるならなりたい。今しかない。



フリーペーパー「Ishinomaki2.0 vol.0 VOICE」は、Ishinomaki2.0のウェブサイトから、データをダウンロードすることができます。
また、間もなく 最新刊の「vol.1 future」も発刊される予定です。


【Ishinomaki2.0】

2011年12月14日

12月14日「Ishinomaki2.0『石巻マルシェ』」

今週は、宮城県石巻の若い世代が立ち上げた草の根の復興プロジェクト「Ishinomaki2.0」の現地レポートをお送りしています。

江戸時代から続く石巻の老舗旅館の14代目で、旅館から独立したダイニングバー「松竹」を開業した阿部久利さんは、津波でお店を失いました。
しかし、同じ場所に新たに「松竹」を建てて、商売も一部再開されています。

地域の老舗を受け継いだ若き経営者である阿部さんの、今までの考え方を大きく変えたのが、今回の震災でした。

◆震災を機に、物事がよい方向に変わるなら
 「頑張んなきゃな」という気持ちが湧くと同時に、ここまで痛めつけられて、マイナスまでなってしまった。なら一から作り直した方がいいんじゃないかと思った。今までは日和見で、「おじさんたちが決めたことをやってればいいんでしょ。その中で生きられているからいいか」という感じだったが、これを機会に良い方向に物事が変わるのなら、今やらなくてどうするのと。そういう話をしていたら、Ishinomaki2.0のメンバーが集まってきた。
 この町の良さってなんなんだと突き詰めて考えた。商店街の人たちを集めて勉強会を開き、再開発していく中で、どういう街がいいのかを住民同士で考え直す機会、情報共有を始めた。
 他になくて石巻にあるのは、川港という地の利、歴史。その歴史の中で先祖代々商売させてもらってきた。それは受け継いでいかなければいけない。昔、港機能を備えた街だったころは人も集まるにぎわいのある場所だった。それを郊外に分散したため人が集まらない街になってしまった。なら人が集まる場所、捕った魚を売る場所、ヨーロッパで言う市場、港町にいくとある氷が敷き詰めて魚のある場所。築地の場内のお洒落バージョンみたいなものを作って、川を大漁旗を立てた船が登ってきて荷卸しするとか。そしてそこに移動販売車がいて、屋台をやったり。でっかい話になり今はお金を集めてる。



阿部さんはIshinomaki2.0として、地元食材などを販売する小さな市場「石巻マルシェ」を考案するなど、飲食業の経営者らしい発想で動き続けています。
また石巻マルシェは、東京・大森商店街にも週末限定でオープンしています。


◆町の復興を、ひとつのチャンスと捉えている
 少なくともIshinomaki2.0のメンバーはチャンスだと思っている。
 いかに自分たちが今までコントロールされてきたか、決められた枠の中で生きてきたかというのを痛感した。逆に言えば、もっと自由にやりたいことをやっていいんだ、と思っちゃったのが石巻の人たち。行政がこうしろということをしなくてもいいんだ。やりたいと思ったことをやれば形になると気付いちゃった。だからそういう雰囲気を感じ取った若い子たちが集まってきちゃってる。
 大災害があるとそこには革命が起きると言うが、それは理解できる。既存の体制が機能しなくなった状態で個人個人が発言しだす。何らかの動きをすると、それがすぐに形になる。そのドラマチックな展開が、みんなのクリエイティビティを刺激するんだろう。それを直感する人たちが集まってきている気がする。





ダイニングバー「松竹」オーナー、阿部久利さん


【Ishinomaki2.0】

2011年12月13日

12月13日「Ishinomaki2.0『石巻工房』」

今週は、宮城県石巻の若い世代による、草の根の復興プロジェクト「Ishinomaki2.0」の現地レポートをお送りしています。

今月、石巻市中央の通り沿いの、津波で浸水した建物の1階部分に生まれたのが「石巻工房」。




ここはIshinomaki2.0の活動拠点であり、その活動のシンボルのような場所です。
Ishinomaki2.0の松村豪太さんにお話しを伺いました。

◆「石巻工房」は、市民工房
 震災後、大工さんがこない。お店が直せないしどのくらい直していいか見当もつかない。建築制限があり、大規模補修をしても無駄になってしまうかも知れない。とりあえず住めるように、例えばドアひとつ直すならドライバー1本で意外と直せる。そうしたことの出来る身近な装置として作った。
 あとはモノ作りに触れあって欲しい。電気ノコギリとインパクトドライバーがあれば意外とものは作れる。やってみる行為が素晴らしい。ものを生み出す体験。しかも自分で作ったものは自分で直せる。大工さんに頼むと、また改めて大工が必要。見てくれが悪くても自分で作ったものは把握できる。
 Ishinomaki2.0の活動にも通じる。街を自分たちの手作りでやろうとしている。そうすると不具合が起きたときに、自分たちで作った仕組みだから修正が可能。それは住みやすい街。大工仕事も街の仕事も、不具合が怖くない。自分で直せばいい。



石巻工房は、市内の方を集めたワークショップも行なっていて、そこで手作りされた木のベンチなどは、仮設住宅や、街のあちこちに置かれ始めています。
まさに石巻の人達自身が、街を形作っているんです。


◆石巻工房が目指すもの
 製品として作り、流通して販売したい。仕事が無くなってしまった人も多いので、少しでもお金が発生する仕組みを作りたい。流通もある程度相談ができている。いいものを作れば売れるのではないかと見込んでいる。
 家具メーカー、六本木のギャラリーのデザイナーに活動に共感してもらい、デザインは担当してもらった。そのデザインを元に、手芸やペーパークラフト、絵はがき作りなどを住民と共にやって、石巻工房というブランドがすでに始まっている。焼き印を押すとなかなか素敵。販売することで自立に向けた経済活動を起こしたいと考えている。



既に石巻工房ブランドのベンチやスツールは、ウェブを通じて販売がスタート。
さらに工房では、被災された方の要望を受けた、家具の製作も続いています。
工場長の千葉タカヒロさんは、憎まれ口を叩きながらも、すごく楽しんでいるようです。

◆趣味で続けていたDIY
 元々寿司職人。趣味でやっていたら、こいつDIYできるじゃんとなって、やってみないかとそそのかされてやらされている。
 もう一人小泉君という横浜の建築家の卵が長期滞在して番頭役をしているが、朝起きてこないので 私が起こしに行く。将来的には解放して、さくっと来て作る場にしたい。作ってくれっていうのが多い。小泉君はできないくせに安請け合いする。キミが作れと思う(笑)。


【石巻工房】
【Ishinomaki2.0】

2011年12月12日

12/12 Ishinomaki2.0「思い絵プロジェクト in 石巻復興BAR」

今週は、宮城県石巻で始まっている復興プロジェクト
「Ishinomaki2.0」の、現地レポートを5日間かけてお送りします。

街を元に戻すのではなく、自由な発想で、新しいものを産みだそうというこのプロジェクト。様々なアイデアを持った若い世代が石巻に集まり、それを形にしはじめています。

例えば、「復興バー」。石巻2.0のメンバーがアイデアを語り合う場所としてオープンしたこのお店は、今では2.0の活動に賛同する人、そしてボランティア同士の交流の場にもなっています。

そして先日、この復興バーでこれからの石巻を象徴するイベントが行なわれました。

中心になったのは東京からやってきた美術大学の学生たち。
彼女たちは、被災された方の想いをヒアリングして、そのイメージをキャンバスに描いて
プレゼントする…という活動「思い絵プロジェクト」のメンバー。

◆武蔵野美術大学、山崎百香さん
「マスター豪太さんのお話し、復興バーの経緯、復興にかける思いを絵に残せたらと。
これが石巻の第一号。
実際に渡しに行った方は喜んで下さる。
たぶん絵事態に喜びがあるが、お話しを聞いてこっちが何時間もかけて描くから、その時間はずっと被災地、その人のことを考えている。興味をずっと向けていることを喜んでくれているのではないかと。美大生たちが被災地のことをずっと考えて欲しいと思って企画している。そうあって欲しい。」

復興バーのマスター松村豪太さんの想いをヒアリングし、そこからイメージした絵が壁一面に描かれていきます。






復興バーのマスター松村さんは、その様子を眺めながら、こんなことをおっしゃっていました。

◆復興BAR マスター・松村豪太さん
「2.0はやりたいことがある人のプラットフォーム。ボランティア団体、クリエイター集団、商店街を盛り上げたい人達が2.0という場を利用して色んなプロジェクトを申し込んできている。今回の思い絵プロジェクトも、彼女たちが「こういうことを考えている」と提案してきた。提案が素晴らしかったので、ぜひ復興バーを1号として描いてくれと依頼。
色がついている。いま石巻は「壊す段階」にある。行政の工事で建物がなくなり空き地になっている。記憶がなくなっていく。すっきりするが寂しい。そんな壊されていく中でこの絵は“生み出されていく”。創作活動。
白い壁があると描きたくなる。街もいま壊され真っ白になったが、そこに手作りで面白いモノを作ろうとしているのとも共通している。被災地から生み出されていくものもあるんだと思うと感慨深い。」


「たくさんの乾杯!」。真白い壁に、たくさんのグラスを持った手が描かれています。そしていくつものカンパイが、壁一杯にカラフルに描かれています。すごく賑やか。

ISHINOMAKI2.0
http://ishinomaki2.com/

思い絵プロジェクト in 復興バー メイキング
http://www.youtube.com/watch?v=xsnbsajRveQ&feature=g-upl

武蔵野美術大学 思い絵プロジェクト
http://omoie.docan.co.cc//

2011年12月9日

12月9日「災害支援のプロ・Civic Forceの活動(5)」

災害支援のプロ・「Civic Force」は、震災直後は緊急の物資・サービスの提供を行い、その後は復興を目指す地元のNPOや企業を、システム、ノウハウ、資金など、さまざまな角度からサポートしています。


Civic Force事務局長・根木佳織さんにお話しを伺いました。

◆海外と日本、災害支援の違い
 海外での支援は調整機能が入っている。無政府状態や戦後などでもNGO、NPO、国連を含む調整がなされる。その中で分担がされていく。ある程度、支援の中の秩序がある。一方日本では、行政がその役割を担っているが、今回は行政が被災してしまった。
 日本では支援者がNPO、NGOだけでなく、個人や企業が支援者になりうる。企業のほうが支援できるリソース(資源)を多く持っていることを改めて認識した。支援のアクターを調整する機能を強化しなければいけない。


◆災害に対して必要な「今後の心構え」
 緊急支援は「いかに経験があるか」より、「いかに準備するか」が大事。自分のこととして準備をするのは難しいが、私たち日本人はいつでも被災者になるかもしれない。平時から備え、緊急支援にすぐ飛び出すために準備、訓練、シミュレーションをすることの大切さを知った。次の被災、次の災害に備えていくことを初めていかなければいけない。

Civic Forceでは今後も、被災地のNPOや企業と協力して、復興のサポートを行っていくそうです。


Civic Forceの活動について、詳しくはオフィシャルサイトをご覧ください。
【Civic Force official site】

2011年12月8日

12月8日「災害支援のプロ・Civic Forceの活動(4)」

災害支援のプロ・「Civic Force」は被災地支援を行うNPOを、資金、ノウハウなど、さまざまな形で支援してきました。

支援活動の一環として9月にスタートしたのが、「社員ボランティア派遣プログラム」です。
企業単位で、10人〜40人の社員を被災地にボランティアとして送る取り組みです。


Civic Force事務局長・根木佳織さんにお話しを伺いました。

◆「社員ボランティア派遣プログラム」とは
 Civic Forceでは、9月から本格スタート。これまで3か月間で9社・延べ284名が参加している。
 5泊6日のプログラムだが、労働力を提供するだけでなく、企業人・社会人がこれまでの経験を、被災地の方と触れ合い、どうやって復興に役立てていくのか。被災地の方の話を聞いたり、地元の青年団と話したりするプログラムも組み込まれている。
 参加した社会人の方が意見交換をして、復興のアドバイスや新たなプログラムを提案するなど広がりを見せている。


◆この先の支援
 個人は、ツイッター、インターネットやラジオで東北の今、災害時どうすべきかを能動的に情報を取っていくこと。どうやって関心を持ち続けるのか。個人の関心は社会、企業の関心に繋がる。
 企業は、持っているサービスやノウハウを復興にどう生かすことができるのか、考えてもらいたい。
 どうすればいいのかわからない、迷った!というときには、Civic Forceのホームページを訪れてもらって、一緒に考える機会を持てれば。



Civic Forceの活動について、詳しくはオフィシャルサイトをご覧ください。
【Civic Force official site】

2011年12月7日

12月7日「災害支援のプロ・Civic Forceの活動(3)」

今週は、災害支援のプロ・「Civic Force」の活動と被災地支援の現状をお届けしています。

Civic Forceは被災地支援を行うNPOを、資金、ノウハウなど、さまざまな形で支援してきました。

Civic Forceが目指す次の支援のカタチが、「東北共益投資基金」。
義捐金の支給など、「あげ切り」の支援でなく、地域の経済を活性化させ、雇用を創出しようという取り組みです。


Civic Force事務局長・根木佳織さんにお話しを伺いました。

◆被災地した住民の生活を支えるため
 住民を勇気づけて新しい生活を支えるのは、「経済」「仕事」。「あげ切り」の支援だけではなく、中長期的にサポートしていける仕組みとして「基金」を立ち上げた。
 寄付を原資に、地域経済に波及効果がある事業に対して出資する、日本初のモデルではないか。多くの企業のネットワークや経験を生かして、商品開発、販路拡大などのノウハウと資金の支援。


◆無利子で融資?
 5年後をめどに償還する仕組み。返ってきたお金をまた新たな事業に投資する、または地元のNPOに寄付するなど、非営利な形で進めていこうと思っている。
 二重ローンの問題、産業・農業・漁業の復興、伝統工芸をどう継承発展させていくのか。東北を元気にするには経済の復興が直接繋がっている。


◆これから、被災した方が主体的に
 あげ切りの支援だけでなく、被災地の皆さんが主体的に進めていく仕事作りが必要。
 基金立ち上げのため、いま各地を回っている。資金を投下して支援が始まるのはまさにこれから。


被災地では、二重ローンなどによって、銀行などの金融機関から融資を受けられないケースがたくさんあります。
そんな事業の中でも、造船所の再生など、地域の産業の要となる事業にも資金を投下して、被災地の経済の活性化を図りたいとのことです。

Civic Forceの活動について、詳しくはオフィシャルサイトをご覧ください。
【Civic Force official site】

2011年12月6日

12月6日「災害支援のプロ・Civic Forceの活動(2)」

今週は、災害支援のプロ・「Civic Force」の活動と被災地支援の現状をお届けしています。

東日本大震災の発災以来、さまざまな形で被災地支援を行ってきた「Civic Force」。
その中心となっているのが、「パートナー協働事業」と呼ばれるプロジェクトです。

人、ノウハウ、資金など、いちNPOでは対処しきれない問題が起こった時に、NPOを支援するためにあるのが「Civic Force」です。

Civic Force事務局長・根木佳織さんにお話しを伺いました。

◆Civic Forceが行なったパートナー協働事業
 ・「難民支援協会」と、取り残された外国人の支援について協働した。ボランティアをしたい、という外国人ボランティアの受け入れや調整なども行なった。
 ・7〜8月からは、被災地でカーシェアリングをするNPOとも協働。車社会なのに多くの車が流され、不便な中、カーシェア(複数台の車を地域で活用する)のプログラムを実施。現在も実施中。
 ・仮設住宅に入居した方への見回り事業。お茶会や話し相手になるという100%被災者によるNPOに対しても、協働して事業を展開している。


◆協働事業は仕事を生み出す?
 雇用対策に繋がっている部分もあると思う。
 お金を生み出すための事業ではないが、被災者の方がミサンガを作って販売、その収益が生活費の一部に、という例もある。
 資金が少しずつでも循環していく仕組み作りがパートナー事業の中でも生まれている。


Civic Forceの事業が、被災地の経済の循環にも繋がっています。

Civic Forceの活動について、詳しくはオフィシャルサイトをご覧ください。
【Civic Force official site】

2011年12月5日

12月5日「災害支援のプロ・Civic Forceの活動(1)」

今週は、災害支援のプロ・「Civic Force」の活動と被災地支援の現状をお届けします。

Civic ForceはNGO「ピースウィンズ・ジャパン」の代表・大西健丞さんらが中心となり、東日本大震災の発災以来、さまざまな形で被災地支援を行ってきました。
少数精鋭、10人ほどのスタッフで、被災地と政府、民間企業、そして専門家をつなぐ調整役を担ってきました。

Civic Force事務局長・根木佳織さんにお話しを伺いました。

◆Civic Forceとは
 大規模な国内災害に備えての準備のため、いち早く被災地に入って支援が始められるようにと、2009年1月に立ち上がった団体。災害に対し立ち上がってくれる企業などに呼び掛けて準備をしていた。

◆この9ヶ月の活動
 ・最初の3ヶ月の緊急支援は主に物資。かねてから協定を結んでいたヘリコプターサービスの会社と連携して3月12日、ヘリコプターで被災地に入った。それが突破口となり物資、サービスを提供した。
 ・インフラがなく、3〜4月のまだ寒い中、手作りのお風呂を南三陸町で提供。
 ・気仙沼市のフェリーを失った離島に対し、広島県の廃船フェリーをアレンジし、運行支援をした。
 ・看護師、臨床心理士のチームを派遣。
 ・地元のNPOが中心となって活動するプログラムを支援。


◆支援格差について
 地理的にアクセスのいいところにはボランティアがたくさん入り、アクセスの悪いところには支援が入りにくく、格差が生まれたかもしれない。被災地のニーズが変わってくる中、支援する団体で調整するような機能がなかった、遅かった。


Civic Forceの活動について、詳しくはオフィシャルサイトをご覧ください。
【Civic Force official site】

2011年12月2日

12月2日「ISHINOMAKI2.0」

商店街の店主や若い世代が中心となって、行政の支援を待つだけでなく、自分たちの力で石巻の街を再生しよう!という取り組み「ISHINOMAKI2.0」

ISHINOMAKI2.0の松村豪太さんにお話しを伺いました。

◆ISHINOMAKI2.0の活動
 「ISHINOMAKI2.0」は草の根的に、街を新しく作ろうというクリエイター活動。今回の津波で大変な被害を受けて、全て無くなった状態。それをもとに戻すのはもったいないことで、何も無くなったのをチャンスとして新しくコミュニティの濃密な楽しい街をつくろう、という活動。
 最初の大きなイベントは、「スタンドアップウィーク」という10日間のイベントを開催。被災したビルの壁に映して野外上映会を行ったり、自分たちでペンキを塗って「復興バー」を作った。
 また石巻に行きたいけど宿がないという方のために、空き店舗をゲストハウス的に利用する「復興民泊プロジェクト」や街中に工房をつくって製品を商品として売る「石巻工房」なども立ち上げた。
 ボランティアというより「街づくり会社」というのが一番近い。


◆新しい石巻を
 「元に戻すのではなく新しいものを作る」という我々の考え方に共鳴してくれれば、 誰でも2.0メンバーになれる。
 街の商店主のお父さん、お母さんなども毎日復興バーに来てくれた。ボランティアと交流を持ってくれた。
 今回、石巻の「ボランティア文明開化」、外部の方との出会いによって先進的な考えが生まれている。ホスピタリティにあふれている。それでも行政の手当てを待っている人がほとんど。でも待っていてもしょうがない。
 「やっちゃえば面白いことはなんとかできるよ」という体験を提示したいと、活動している。



石巻では、震災前から人口の流出や高齢化が問題となっていましたが、松村さんは、震災を経て強まった「故郷への思い」が、活動の原動力になっていると話していました。


「ISHINOMAKI2.0」の活動については、オフィシャルサイトをご覧ください。

【ISHINOMAKI2.0 official site】

2011年12月1日

12月1日「元気メール年賀状」

神戸のNGO「アセック」が展開している「元気メール年賀状」は、16年前の阪神・淡路大震災にさかのぼります。
当時、神戸の仮設住宅では地域とのつながりを失い、一人で暮らすお年寄りの自殺、
孤独死が増えました。それを止めたいという願いのもと、ラジオを通じて全国に呼びかけ、およそ1万通の年賀状を仮設住宅に住む被災者へ届けたそうです。

「アセック」の理事長、瓜谷幸孝さんにお話を伺いました。


◆最初の1通が会うことに発展
 阪神大震災のとき被災者と文通していた長野県の中学生が、学校と教育委員会、PTAを説得して、修学旅行で仮設住宅を訪問した。その時、半年間文通しているおじいちゃん・おばあちゃんにそれぞれ会って、抱き合って泣いていた。お年寄りたちは手紙一枚で生きる勇気をもらったと、手紙を重箱の中に大事にしまっていた。
 世の中に誰かひとりでも自分のことを心配していることがいたら、人は生き行ける。心の支えが必要。
 私も6月に宮城県の仮設住宅に住んでいる人と文通している。正月に会いに行きたい。


◆16年続く文通
 手紙の次は「会いたい」になる。会いたいということは、その人と会うまで(お年寄りは)死ねない。「生きる」という目標につながる。
 阪神大震災から16年経っているけど、未だに文通は続いている。当時の中学生は、いま30歳。
 一年の新しい年の始まりに一つの小さな希望が見いだせるような、元気メールであればいいと思ってる。



知らない相手であっても“自分のことを気遣ってくれている人がいる”ことが、生きる希望に繋がるのではないでしょうか。



【元気メール年賀状の送り方】
はがきに、自分の名前、住所、メッセージを書いて、
宛名は「被災された方へ」としてください。

このはがきを封書に入れて、「アセック」の事務局宛てに送ってください。

送付先
 〒655-0046 神戸市垂水区舞子台8丁目16-16-604 アセック

 12月25日必着です。

お問い合わせは、電話・FAXともに、078-766-3481 までどうぞ。

パーソナリティ 鈴村健一

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