「必ず僕らは復活します!」輪島塗を能登復興のシンボルに 田谷漆器店【2】
先週に引き続き、石川県輪島市の伝統工芸「輪島塗」の復興・再生を目指す、田谷漆器店・田谷昂大さんのインタビューをお伝えします。
「これが僕らが作っていたギャラリーです。足場だけ残っているんですよね。火災現場は川の反対側から見ていました。ああ燃えたなって。こんな風になるとは思わないですよね、本当に。。。」
輪島市を襲った最大震度7の揺れ、そして「輪島朝市」の大規模火災は、輪島塗をなりわいとする方々にも大変な被害を及ぼしました。輪島塗の業界団体によれば、ほぼすべての組合員の工房・事務所が被害を受け、職人さんの中には、いまも避難生活が続いている方が大勢いらっしゃるといいます。
今回取材した田谷漆器店も輪島市内の関連施設がすべて倒壊。朝市にオープン予定だった新しいギャラリーも全焼という被害を受けています。ただ、田谷漆器店は金沢市内にもギャラリーがあり、そちらは無事でした。田谷さんのお住まいも金沢にあったということで金沢から通いながら、再生に向け力を注いでいます。
現在32歳。若き輪島塗プロデューサー・田谷さんは、輪島塗・復活への課題をこう考えています。
「今回を機にやめるとおっしゃっている職人さんもたくさんいるのは事実で、それは仕方のないことかなと思います。これだけの地震が起きてしまったので、住むだけでも怖いと思うんですけど、結構若い子たちは「またやろう」みたいな。それは若い力だと思うんですけど、やっぱりベテランからの技術の継承というところも今後は必要になってくるかなと。
漆の話でいうと、例えば朝起きて床を踏むじゃないですか。床を踏んだ足の感覚で、その日の湿度と温度がわかるという職人もいて。その日の漆をどうすればいいかが一瞬で頭の中で計算できる職人もいるんです。僕も最初、輪島に戻ってきた時に「なぜオートメーション化しないんだろう」とかなり疑問で。機械を全部導入すればもっと生産コスト下がるじゃん、と思っていたんですよ。でもいまは全くそんなことは思わない。データ化できないんですよね、すべての感覚が。やっぱりその経験が必要なので、技術を継承していきたいなと思っています。」
田谷漆器店・10代目 田谷昂大さんは一度 輪島を離れ、東京の大学を経て地元に戻ってこられました。そのきっかけも、輪島塗職人の「技」を肌で感じたことでした。
「僕は輪島塗に対して全く興味のない人生を送ってきました。大学も経済学部で。ただ大学に行くときに、時間がなくて輪島からお椀を送ってもらうのを忘れていて、自分でお椀を量販店で買ったんですね。それでお味噌汁を入れて食べたら全然美味しくなくて。お椀ってすごい大事じゃんと思ったところから輪島塗に興味を持って、今まで使っていた器ってすごく良いものだったんだと思いまして、戻りたいと思って戻ってきました。父親の言葉で今でも忘れられないのは、輪島に戻ってきた時に「お前は既存のお客様のところ、お取引先のところへは行かせない。自分で新しく販路を開拓して誰よりも売上を上げないと、お前のポジションはねえ」って言われたんですね(笑) あれはいまだに心に残っていますし、どんどん新しいチャレンジをしていきたいというスピリットが生まれたのも、その瞬間だったような気がします。これだけ輪島全体、能登全体が壊滅的な被害を受けたので、大変な方がたくさんいる中で、この言葉を使ってよいかという前置きはあるんですけど、これだけ「輪島塗」という言葉が日本全国で飛び交っている時期も無いと思うんですよ、いまだかつて。このピンチをチャンスに変える事もできると思っていますし、僕らは新しいものをココに作っていかなきゃいけないと思っています。その新しいものって何かというと、輪島塗の本来の良さが伝わるような場所。輪島塗の複合型施設を作りたいなと思っています。工場があってギャラリーがあって、倉庫や事務所があって、ちょっと家庭料理が輪島塗で出てくるような飲食店があって、民泊があって、その民泊も内装を漆でやったりとか。輪島塗をもっと深堀りして楽しむような場所をいまから作っていくのが夢で。これは初めて人に行ったんですけど(笑) いま初披露で。やっぱりやりたいなというのは昨日から思い始めたので、それを僕らは焼け野原になってしまった朝市の中でやりたいなといま現時点での考えはそう思っています。朝市に活気が戻るようにしたいなというところで、僕らが朝市で輪島塗の複合型施設を作る、というのが今の夢です。」
田谷漆器店では現在、輪島塗の復活を目指したクラウドファンディングを実施中。市内の漆器店で地震の被害を免れた輪島塗をリターン品として届けるという活動を始めています。
⇒田谷漆器店によるクラウドファンディング