「ただいま」と帰れる場所へ 唐桑御殿つなかん
今週は、宮城県・北東部に突き出た半島、気仙沼市・唐桑半島からのレポートです。
取材したのは「唐桑御殿つなかん」。東日本大震災から2年後、2013年に開業した民宿です。災害ボランティアの人たちに寝床を提供していたことがきっかけで生まれたこの民宿は、10年が経ったいまも、たくさんの人たちに慕われ、支えられながら商売を続けています。
実はこの民宿、海が見えるサウナ(!)があって、それも人気の理由なのですが、なによりお客さんをひきつけてやまないのが、女将である菅野一代さんの存在です。
一代さんに、これまでの「つなかん」のストーリーを伺いました。
「岩手県久慈市、あまちゃんで有名なところから嫁いできました。唐桑をみると分かるけど、とってもきれいなところで、海の暮らしに憧れていたし、旦那は二の次で「ここに来たい」というほうが強かったかな。その時は牡蠣とホタテとわかめの養殖をしていたんですよ。私はここで3人の娘を育てて、それで12年前に地震が起きて津波になって。
うちだけがポツンと残ったという感じなんですよ。というのは1階が鉄筋コンクリートで、2階、3階が木造造りなので、基礎が離れなかったんですね。だいたい他はみんな基礎から離れて浮いて流されたが、うちは基礎から離れなかったので形が残った。もちろん三階まで津波が入っていますよ。だから全壊です。でも屋根と柱だけが残った。せっかく柱と屋根が残ったので、ここを直そうと思って。
そのきっかけが、震災当初、壊そうか悩んでいる時に、日本全国から来た学生ボランティアたちが、瓦礫とかを拾いながら、キャンプのように寝袋を持ってくるんだけど「屋根だけでもあればいい、雨風しのげればいいのでここに寝泊まりさせてくれないか」と言われて。それで、好きなように使っていいよ、というのが「つなかん」の始まりだったんです。それで500人〜700人とかなりの人数が寝泊まりする場所になって。そういう子たちを見ているとパワー、力がもらえるんですよね。若い子たちがドロドロになりながらガラスの破片を拾い、泥をかいてくれる姿を見て、私たちが落ち込んでいてはダメだ、負けてられない!という気持ちがふつふつと湧いてきて。そう思っているうちに、この子たちが戻って来られる場所にしたいって、お宿にしようと。さらに、いまはまだ養殖業をやれてはいないが、私が嫁いで来て感動した牡蠣の味、海の味を、この旅館でみんなにも食べてもらえたら嬉しいなということで、それがこうして「つなかん」という形になった。
さらに当時のボランティアの学生たちが何度も来るうちに移住して地元の人と結婚したり、ボランティア同士で結婚して移住したり。だから唐桑は移住者の多いところとして有名になっていて、いまはもう孫もいっぱいできてすごいですよ。みんな集合したら。わたし、園長先生のような立場になっていますから(笑)」
一代さんを慕って、当時ボランティアで唐桑に来ていた人たちはその後も「つなかん」のリピーターに。そして多くの方が移住したといいます。
しかし、震災から6年後の2017年。一代さんは、たいへん辛い出来事を経験します。
「そうやって順風満帆できたんですけど、いまから7年前に海難事故で私の主人と長女と義理の息子が海に仕事に行っていて、転覆事故で亡くなったんです。そのときは人生の中でもこういう事があっていいのかと思うくらい、どうやってこれから生きていこう、死にたいと思いました。それでもやっぱり当時の学生だった子たちが心配して手紙をくれたり、関わってくれるんですよ。最初は何を見るのも聞くのもイヤで、ずっと塞いでいましたけど、だんだん時間が経つと、みんなが心配してくれているなと、だからみんなを心配させないために、大丈夫だよ、という姿を見せないと、と思って。そこからちょっとずつ、私が立ち上がらなきゃと思うようになって。わけのわからない「大丈夫」が出てきて(笑)」
いま一代さんは、亡くなったご家族に「胸を張れるように生きよう」、気仙沼に集まる若い人たちのために「良いものを残していこう」と、きょうも明るく笑顔で、宿泊客を受け入れています。
「Hand in Hand」、来週も引き続き、「唐桑御殿つなかん」のレポートをお伝えします。
唐桑御殿つなかん