復興庁出前授業 福島視察 〜 高校生たちが学ぶ福島の今
今回のテーマは、「復興庁出前授業 福島視察 〜 高校生たちが学ぶ福島の今」。
福島県外の高校生たちが、福島県浜通り地方を訪ね、復興の現状や福島第一原発の廃炉に向けた取組みなどを視察するプログラムに帯同させて頂きました。
【今回のダイジェスト動画はこちら】
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2011年の東日本大震災による東京電力福島第一原発の事故で、東部の浜通り地方を中心に12の市町村が避難指示の対象となった福島県。今なお一部の区域で居住制限が残るものの、去年夏に双葉町の特定復興再生拠点区域の避難指示が解除となり、12市町村すべてで住民の帰還が可能となりました。
一部の地域では若い世代のUターンIターンが進み、新しい事業もスタートするなど、着実に復興へ向けて歩んでいる福島県浜通り地方の「今」を、県外の高校生たちが学ぶのが、「復興庁出前授業」。全国の高等学校に復興庁職員を派遣、復興の現状や福島第一原発の廃炉に向けた取組みなどを講義するとともに、風評の影響の払拭に向けて生徒と一緒に考える特別授業を実施してきました。
その出前授業を受けた各校代表の生徒たちが、去年11月、福島で実施された視察プログラムに参加。視察のほか、地元福島県の高校生との交流会などを行ないました。
視察ツアーに参加したのは、北海道の立命館慶祥高校、兵庫県の舞子高校、広島県の山陽女学園高等部、沖縄県の首里高校の4校。それぞれ代表の生徒が2人ずつ、計8名が参加しました。
初日、郡山駅に集合した生徒たちは、1台のバスに乗車。まずは、浪江町の震災遺構「請戸小学校」へ向かいました。
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「ここは福島県で唯一の震災遺構です。海岸から300メートルの距離にあって、当日、1年生は帰宅していたんですが、90人のうち80人、生徒2年生から6年生までいたんですが、事前に準備を色々していたので、先生の指示のもと、ここから1キロ先の西にある大平山に避難して、全員無事でした。11年前、ここは瓦礫の山でした。2階の床下まで水がきたというのを見てもらえれば分かると思います。」
海のブルー、船のようなデザインが印象的な請戸小学校。海から300メートルの場所にあって、東日本大震災の時は15メートルの津波が押し寄せました。児童93名は全員が無事避難。2021年10月から震災遺構として一般公開しています。
そんな震災遺構「請戸小学校」の見学を終えて、二人の生徒の声です。
●山陽女学園高等部の原美月さんと平川胡桃さん
「山陽女学園高等部1年の原美月です。驚くことが沢山あって。1階の教室がいちばん惨状がひどく使っていた道具とかもそのままあって、そこがいちばん驚いたところです。この津波や地震があったとき、ちゃんと避難訓練していたから逃げられたわけじゃないですか。だから日々訓練して、津波が起きたときのイメージを持つというのは大切かなと思いました。」
「山陽女学園高等部1年の平川胡桃です。今まで身近で使っていたものが見たことのない形になって、壁とかもほとんどなくって、想像していたのよりも凄く衝撃的でした。逃げる場所とかも遠かったりするから、ハザードマップとかで自分の家の周りとかもちゃんと確認しておいた方がいいなと思いました。」
初めて見る津波の爪痕に衝撃を受けたものの、命を守る行動や意識することの大切さを感じた二人でした。
一行はこのあと、福島第一原発が立地する双葉町に、2020年秋にオープンした、「東日本大震災・原子力災害伝承館」を訪ねました。
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「平成23年3月11日は金曜日でした。午後2時46分ごろ、東北地方を中心に激しい揺れが襲います。東北地方太平洋沖地震、後にいろいろ合わせまして『東日本大震災』となります。この町は震度6強を観測しました。3分後には津波警報等が発令されました。特に本県、宮城県、岩手県には大津波警報という特別な警報が出ておりましたが、最初のうちはこの辺りの津波の高さは“約3メートル程度かな”と言われていたんですね。そんなものではとても収まり切れなかったわけです。3時頃から順次津波が到達してしまいます。南相馬市の映像で津波の高さをご覧ください。下を車、自転車で逃げている方が映っておりましたが、大変残念な話ですがたくさんの方が津波にのまれて亡くなられております。ご冥福をお祈りいたします。こちら県南部の映像です。津波の速さをご覧ください。決して走って逃げられる速さでないことは一目瞭然です。沖合ではジェット機なみの速さ。陸上ではオリンピック100メール走金メダリストくらい速いと言われています。津波が来てからでは逃げられないんですね。その前に逃げないといけません。そしてさらに、3時37分ごろには、東京電力福島第一原子力発電所にも津波が到達してしまいます。巨大な津波、浸水しまして、原発が大変なことになっています。その様子につきましては、その先のコーナーでご覧いただけます・・・」
展示や語り部、研修、調査・研究を通じて、福島で何が起き、どう向き合ってきたかを伝え、防災・減災に向けた教訓を、国内外や未来へつないでいく事をテーマにする、「東日本大震災・原子力災害伝承館」。
一行は案内人のガイドで館内を見学したあと、NPO法人「富岡町3.11を語る会」副代表の語り人、渡辺好さんによる講話に、耳を傾けました。
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「私の住んでいたのはここから南の富岡町というところです。町の人口は震災当時、約6300世帯1万6千人くらい。12日、震災の翌朝から、“原発が危ないぞ! ここから出てください”と。“出てください”ではなく“出なさい”という“命令”ですね。それでもってそれぞれの避難生活がスタートしてしまうわけです。それから約6年間、2017年の4月1日にようやく、富岡町は一部を除いて帰れる町になったわけです。“じゃあ帰ってもいいよ”という町になって、みんな帰ってきたのか?ということですね。実は2022年11月1日付の富岡に住んでいる人口、どのくらいあるか?というと、2077人になります。じゃあその2077人は、避難先から帰ってきた元々の富岡町の人たちなのか?というと、謎なんです。実は今月も14人増えたんですが、何世帯増えたかというと、13世帯増えたんです。という事は一人で住んでいる方が圧倒的に多いんです。今一人で住んでいる方というのは、全国からやってきて新しい町づくりとか除染とか廃炉とか、あるいは不動産屋さんの会社ごとみんなで来てここで活動している方とか、そういう人達が大部分という風に感じざるを得ないと。いま皆さんバスとかでこの辺り一帯を通って来た時にどんな風に感じました? 例えば女性の方、ここにたった一人で住めます? いくらアパートに電気がついているにしてもちょっと難しいかなと。商店にしても病院にしても、色んなものがまだみんなが生活できるような状況にはまだなっていないような感じを私は受けております。報道なんかでは、“富岡町、2千人以上、帰ってくるようになったよ!”、“いやぁ〜、2千人も戻ったのか!”という風になりがちなんですが、もともと住んでいた人たちはあまり戻ってきていないというのが現実なんですね。ここが復活するのは、建物とか道路とか会社ができたとか、そういう事よりもまずは人が戻らないといけないと。子供たちが増えて笑顔が戻って来た時に、初めての復興かなと思います。」
●立命館慶祥高等学校の白間あかねさんと酒井爽晴さん
「立命館慶祥高等学校2年、白間あかねです。映像資料が非常に多く、そしてガイドの方々の解説も分かりやすくて、この伝承館を実際に訪れることができて非常によかったなと感じています。やはり北海道で自宅にいて調べて学習するだけでは伝わってこないこと、分からないことが沢山あるなと感じました。」
「酒井爽晴です。津波と原発事故の恐ろしさだったり、住民たちがどれほど、今までも、今もなお苦しい生活を強いられてきているということが、すごく身に染みたような気がしました。僕は北海道胆振東部地震の時、安平町という所で被災しているので、なんとも言えない気持ちになったんですけど、語り部さんの震災後の教訓だったり、これから活かしていけるんじゃないかというところを学ぶことができたので、とても良い機会になったと思いました。」
初日夕方からは、地元高校生、そして資源エネルギー庁 廃炉・汚染水・処理水対策官、原子力災害対策本部 廃炉・汚染水対策現地事務所参事官、木野正登さんを招いての交流会も行われました。
木野参事官の講演の一部です。
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「私は2011年3月20日に福島県に来て、今でもずっと福島に住んで、11年間、福島に暮らしながらこの仕事をしていますけど、第一原発に今日は皆さん行っていないと思うんですが、やっぱり現場を見せて説明するのがいちばん伝わるわけですよね。なので最初の頃はマスコミの方を第一原発に連れて行ってモノを見せながら説明したり、報道して頂くのはメディアの方々なので、メディアの方にまずは分かってもらわないといけないということで、そういう勉強会を何十回と繰り返してきました。そして今は一般の方を第一原発にお連れして、第一原発の廃炉や処理水のことについて学んでもらっています。第一原発は高校生以上は入れるようになっているんですけど、今すごく申し込みが殺到していて、なかなかチャンスが少ないという事も聞いています。ぜひ皆さんも大学生になったら、社会人になったら、第一原発に来て見てもらえるといいかなと思っています。それから初めて来た方がたぶん大部分ですよね? 浜通り、この辺に来て、みんな心に思ったこととかあると思います。事故のあと、人がみんな居なくなって、で、いま避難指示が解除された場所がどんどん広がっていっているんですけど、各町で復興を、元々の地元出身の方が頑張っているという例が結構あります。例えば富岡町と川内村ではワイン造りが進められているんです。要はこの地、いろんな産業が無くなってしまった、人もいなくなってしまった。人を呼べるために何をやっていこうか?と考えて、ワインを新たな産業にしようという事で始まったわけです。あと『クラフトジン』というお酒を造っている方がいたり、大熊町で作ったお米で作った日本酒を作ったり、浪江町で若者が集まって楽しく暮らそうというコンセプトで団体を立ち上げたり、楢葉町でシェアハウスを運営する女の方がいたり、いろいろ復興の活動をしている人がいる。何が言いたいかというと、この浜通りは、“復興に頑張っている、カッコイイ大人たちがいっぱいいる”地域なんです。今日はいろいろ施設を見てまわったと思います。今度はそういう、“復興を頑張っている人たち”の話を聞きに来たり、見に来てほしいと思います。」
今は構内の除染が進み、ほとんどの場所を、防護服などを着ることなく、ふつうの服装、装備で歩くことができるようになっている福島第一原発。その現状や、処理水のことなどを、包み隠さず伝え続けているのが、木野参事官です。震災と原発事故から間もなく12年となりますが、その当時小学生だった生徒たちにとって、初めて耳にする事も多かったのではないでしょうか。
木野参事官の講演のあとは、地元高校生との交流会も行われました。参加したのは福島県立相馬高校新聞部の部員たち。震災のわずか38日後に学校新聞を発行したという先輩たちの話や、その意志を受け継ぎ、活動を続けている地元高校生たちと意見を交わし、そのあと参加した高校生全員が2組に分かれてのワークショップ。締めくくりは、今回の視察で見たこと知ったことを、どう自分の糧にして行動に移していくか、生徒一人一人が発表しました。
そんな交流会を終えたあとの生徒たちの声です。
●舞子高校の山中瑛大さんと今井千愛さん
「兵庫県立舞子高校2年の山中瑛大です。自分が考えてなかった事や新しい事、ここに参加しないと知れなかったことが知れました。最初はまだ復興が全然進んでいないのかな?とイメージがあったんですけど、実際に来てみて、復興に携わっている人が大勢いて、ワインやお酒とかいろいろな事業が展開されていることを初めて知って、来てよかったとすごく思います。
「今井千愛です。私は人と喋ることが好きなので、新しい友達や関係を築けたことに嬉しく思うのと、いろんな意見交換ができて、それを自分のモノにできたというのを嬉しく思います。今回知ったことを身近な人から伝えられるように、私も(相馬高校の生徒たちのように)新聞とかを作って人の目に留まるような文章とかを書いて、いろんな人に見てもらえるように自分たちで工夫して発信したいです。」
●首里高校の貍塚瑚子さんと國吉佑輔さん
「首里高校2学年、貍塚瑚子です。(防潮堤で)海が見えないこととか、自分たちの当たり前が当たり前じゃないことを知って、相手の立場に立つことって、立っているつもりだったけど、もっと今まで以上に相手のことを考えるのが、復興にとって大切だと思いました。今までは、自分ができることは“発信すること”って思っていて、それは当たっているけど、実際に福島には発信している人がたくさんいて、沖縄でできることを考えたら、発信するのも大事だけど、“知りたい人を増やす”のも大切だなと思ったので、今日知ったことをみんな広めて、“知りたい、調べたい”と思っている人を増やそうと思いました。」
「國吉佑輔です。沖縄にいるだけでは分からない、新しいことが知れました。来る前は、被災したということでネガティブなイメージが結構あったんですけど、新しい事業を始めている人だったり、前向きに復興のために、福島のためにということで頑張っている人たちがいるんだということを、あらためて知らないといけないと思いました。まずは自分が知識を蓄えて、いつか首里高で講演会をしたいと思います!」
4校の生徒たちは、翌日、福島県の復興のシンボルである「Jヴィレッジ」、「道の駅なみえ」を訪ね、視察を終えました。ぜひ今回の視察で持ち帰った福島の「今」についての学びを、まわりの人たちに伝えて欲しいと思います。
【今回のダイジェスト動画はこちら】
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