宮城県女川町 海が見えるまちづくり
2023年.今年は東日本大震災からまる12年の年となります。
東北沿岸部のそれぞれの町も、復興から“次の段階”へ進みはじめています。
例えば、人口減少が続く中、どうやって町の賑わいを持続可能なものにするのか。
そして、今後に備えた「災害に強い町」をいかに作っていくのか。
これは被災地に限らず、全国的な課題でもあります。
この課題解決のヒントになる町が、今回フォーカスする宮城県女川町。
震災からたった5ヶ月で、町の復興プランを作り上げ、町に暮らす人々が中心となって、100年先を見据えたまちづくりに取り組み、いつしか女川町は「復興まちづくりのトップランナー」と呼ばれるようになりました。
この女川町で、震災から10年に渡り、復興アドバイザー役として町の人々とともに、まちづくりに力を注いできたのが、リバーフロント研究所の土屋信行さんです。
女川はなぜ、「トップランナー」になれたのか、その復興まちづくりの手法に隠された、これからのまちづくりの「ヒント」とは?
土屋さんに2週に渡って伺っていきます。
―――そもそも土屋さんは、東京都の職員で、土木の専門家。
震災当時は江戸川区の土木担当だったとか? どうして、女川町の復興に関わることになったんですか?
「私は、多摩ニュータウンの区画整理や街づくり、環状七号線や環状八号線の道路建設、橋を作ったりと、様々な仕事をしていましたが、女川町の復興まちづくりに一緒に行ってくれないか?というお話をいただき、ご縁をいただきました。」
―――女川の復興が、東北沿岸部の他の町と、大きく違う点があると聞きました。これは、どういうところなんでしょうか?
「女川町に行くと、町のどこからも、海が見えるんです。震災の後、岩手、宮城、福島と海岸線は非常に高いコンクリートの防潮堤で取り囲まれるようになって、人々が暮らしていた場所から、海が見えないという町が非常に多くなってしまいました。それが、女川に行くと海が開けて見える。“防潮堤のない町”という評判を時々聞きますが、防潮堤がないわけではなく、防潮堤を作って、防潮堤の周りも盛土して駅から見ると、海へ向かって緩やかなスロープになって降りていけると。実はスロープの先端に道路があるんですが、道路の下に防潮堤が隠れています。」
―――ゼロになってしまった町を作り、後世に残すために“海が見えない選択肢”は違うな!と思ったということですよね?
「女川の場合は、復興計画を作る際、現在の町長さんの前の町長さんが各避難所を全部回って、これまで昭和三陸津波、遡ると、明治三陸津波、もっと遡ると、慶長津波、さらに遡ると、貞観津波。1000年も昔から何度も何度も命を失う津波に襲われてきたんだ。女川町の復興は、今度は二度と孫・子の代に安心して夜も寝てられる町にしようじゃないか! 高台に町を作ろうぜ!というのを全部の避難所に行って声をかけて、そのコンセプトが“海の見える町”だったと思います。」
―――女川の人たちを象徴するのが高台に移転するときのエピソードだと伺ったと伺いました。
「高台は、岩場を崩して、広い面積の土地を作るには相当お金がかかってしまいます。一定程度、制限をした高台になってしまいます。そこで、町の方々が決めたのは、大きな土地を持っている大地主も、小さな土地を持っている方も、高台にいって、居住用の建物を建てるときは、一人100坪に制限し、皆、同じ広さで住宅を建てるんだということを、皆で決め合ったんです。実際、法律上、区画整理というのは前に合った権利をそのまま、新しい町に移転するルールがあります。でも、一人100坪という制限をかけて、大地主も100坪、小さい土地を持っている人も100坪とみんなで決めてしまうというのは、ハッキリ言って法律違反かもしれないですよね。でも、それをみんなで決めたんならいいじゃないか!ということで、100坪ルールというのを実施されていったんです。」
「女川町の方々の中でお話が出てたのは、女川町は“サンマの町”として誇りを持っていらっしゃる。サンマを獲るときの船は、運命共同体として、働いている。それは船に一旦乗ってしまえば、みんな同じ立場で協力し合わなければ、無事に帰ってこれない。そういう中では町全体が運命共同体という意識で繋がっているという事が、ベースにあったのかな?と思います。女川の場合は、“年寄りは口を出すな。若いやつらでやる! 還暦以上のヤツは口を出すな!”みたいなルールも作っていろんな取り組みをなさっていましたが、でも、そういう時は、まさに功労の意見が皆さんの不満を解消してくださったんです。みんなで安全に暮らせる場所、それをみんなで共同して作って、共同して使おうや!ということを言ってくださったんです。それが正に、女川町の今の100坪制限が皆さんに受け入れられていった大元だったかなと思います。」
―――ほかの町が選択できなかった、「海のみえる町、防潮堤のない町」を、女川だけが実現できたのは、なぜなんでしょう。
「国道の下に隠しこんだ防潮堤は、基準通り、レベル1という高さで作られています。ただ、その背面、皆さんが今、お住まいになっているプロムナードを作っていく方は、さらに盛土をして駅に向かって、緩やかなスロープになり、それから先ほどお話した“100坪ずつ分けて暮らそうよ”という、いわゆる安全高台はレベル2。今回の東北震災の津波が到来した高さよりも高い地盤を作って、100坪ずつ分けて使うということで、最終的には今回の復興予算の中で使えるようになりましたけど、最初は防潮堤の裏側の盛土は、国のルールとしては、復興予算では出せないと復興庁からお断りされてしまいました。町の人と、どうしようか?と話し合った際、復興予算で行う区画整理事業ではなく、いわゆる“まちづくり”というのに、いつも区画整理事業というのは、普通に行われている事業なんです。じゃあ、防潮堤の裏側の盛土については、普通の区画整理事業でやろうじゃないかと。それは100パーセント、補助金が出る事業ではないんです。半分は負担しないといけない。でも町として、半分負担したとしても、100年後、200年後、次の世代がこの町に海が見えるということを誇りに思って暮らしてくれるなら、それを負担してもいいんじゃないか?という結論を出されて、復興庁に「出してくださらないなら、結構です。」と。結論とすれば、復興庁の方も国土交通省の方も話し合ってくれて、OKとなりました。」
―――東北の沿岸部のほかの町も、もっとこうやってみたかったという声はなかったんですか?
「ほかの町のことは正直、分からないんですが、いわゆるマニュアルがあって、マニュアル通りでなければダメだと思っちゃう。私たちは、東京の多摩ニュータウンや下町のゼロメートル地帯の区画整理やスーパー堤防というまちづくりの中で、ずっと経験してきたのは、法律に書いてないことはやっちゃいけないという事はなく、法律に書いていないことは、なんでもできる。だから、書いていないことはできると判断して、今まで東京はまちづくりを進めてきたんです。一番大きなまちづくりは、関東大震災後の東京復興事業でした。後藤新平という方が、都市計画を作ってくださったお陰で今の東京ができています。その時もやはり、“予算が付けられませんよ”と書いていない事業はほとんど、全部、取り組んでいるんです。そういう過去の経験が東京にはありましたから、今も全国の区画整理事業はそういう意味で、阪神淡路大震災、中越大震災、何度も何度も、そういう大きな災害に何度も使いやすいように変えられてきて、今、区画整理事業というのは柔軟に使える事業になっています。そういうのを最大限に使えることができたのが、女川町の皆さんだったなと思います。」
★★プレゼントのお知らせ★★そして今日は、プレゼントがあります。
女川のまちづくりについて、紆余曲折が書かれている土屋さんの新刊『災害列島の作法』(主婦の友インフォス)を3名の方にプレゼントします。
ご希望の方は番組ホームページのメールフォームから、「土屋さんの本希望」と書き添えてご応募ください。
「Hand in Hand」、来週も、土屋信行さんのインタビューをお送りします。