W杯の感動から3年、釜石を旅立つラガーマン、長田剛さん
「『13年間ありがとうございました』、その一言に尽きますね。ただこれで釜石離れることにはなるんですけど縁が切れるとはまったく思ってなくて、これからも釜石で繋がった人との関係というのはずっと続いていきますし、僕が弘前という新たな土地で頑張る中で、釜石っていうのはラグビーを活かした町づくりの先進的な町だと思うので、ここにはお手本がいっぱいある。ですのでまた釜石から学ばしてもらうこともたくさんありますので、13年間ありがとうございました、そしてこれからもよろしくお願いします、ということですね。」
こう語るのは、岩手県釜石市の長田剛さん。今回は、『W杯の感動から3年、釜石を旅立つラガーマン、長田剛さん』と題してお届けしました。
アジアで初めての開催となった「ラグビーW杯2019」。日本代表も史上初のベスト8に進出するなど、日本中がラグビー人気に沸きました。その会場の一つとなったのが、岩手県釜石市の「釜石鵜住居復興スタジアム」。
釜石といえば、日本選手権7連覇を成し遂げた「新日鐵釜石」の歴史が息づく“ラグビーの聖地”ですが、東日本大震災では津波で大きな被害を受けました。瓦礫だらけになった町の復興のシンボルとして、市はW杯誘致を目指してスタジアム整備に着手。2015年に釜石市が開催地の一つに選ばれ、2018年にはスタジアムも完成。そして2019年9月25日、W杯のフィジー対ウルグアイ戦が、このスタジアムで開催されました。
釜石市民が歓喜に湧いたその様子を、当時、市の職員として見守っていたのが、元ラガーマンの長田剛さんです。
2009年、釜石シーウェイブス入団を機に釜石に移住し、震災当時は副キャプテンを務めていた長田さんは、チームを退団した後も釜石に残り、“ラグビーで町を復興させる”という思いで、力を尽くしてきました。
そんな長田さん、13年前に釜石に来た時の思いとは。
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「今になってものすごく振り返るんですよね。正直、2009年に釜石に来た時は、“ラグビーだけしに来た”みたいな感じでした。“釜石シーウェイブスでいかに活躍するか”ってことしか考えてなかったんです。それが来て1年目、どこに行っても声かけられるし、飲みに行っても“頑張れよ”って酒をおごってもらって、負けた次の日は怒られながらまた酒おごってもらってみたいな日が続いて、なんかすごく選手とチームと地域だったり応援してくれる人の近さを感じて、なんか僕はそれがすごく居心地が良くて。ラグビーだけしに来たのに、いつしかその“応援してくれてる人たちのために頑張ろう”、“地域のために頑張ろう”って、思うようになりましたね。」
奈良県出身で天理高校では花園へ3度出場。名門・帝京大学で活躍し、卒業後はトップリーグの「ワールドファイティングブル」に加入し、4シーズンプレー。試合をコントロールするポジション、SHの選手として、華々しいキャリアを重ねてきた長田さん。2009年、釜石シーウェイブスにやってきた時のことを聞きましたが、長田さんが副キャプテンを務めていた2011年、東日本大震災が起こりました。
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「地震が起きて、よく覚えてないんですけど、僕たちは“ラグビーしてる場合じゃない”と、町のためにボランティアをしていました。ボランティアやってる最中に、“来年契約あるのかな”、“僕たちここでもうラグビーできないかもしれないな”っていう風に思ったことはありましたね。でもその時に、“こんなことしてないで、早くラグビーでまちを元気づけてくれよ”って言われたんです。それで僕もなにか感じるところがあったんですが、釜石って町にはラグビーが無いといけない、ラグビーがあったから復興できたんじゃないですかね。」
奈良県出身で生粋の関西人でもある長田さん。故郷奈良に帰ることも出来たはずですが、釜石のためにボランティアで汗を流し、チームもこの年の5月には活動を再開しました。町の復興の歩みとともに、釜石でのラグビー人生を重ねていた長田さんですが、2012年暮れの試合中に、顔や頭を骨折する大けがを負います。
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「入院してる時に集中治療室に入ってて、家族以外一切面会遮断されてた状態だったんですけど、普段から応援してくれてる人とかが“家族や”って嘘ついて入ってくるんですよ。チームメイトはもちろん。病院の先生に毎日治療はしてもらってたんですけど、それ以上にその嘘ついて入ってくる人とかチームメイトとかと喋ったり、彼らが来てくれることが、なんかね、すごく自分の身体を回復させてくれたように感じています。彼らに命を救ってもらったと。ただそれまでは僕はラグビーしかやってこなかった。ラグビーをやってなんぼや!と思ったんで、それ以外のことは何も考えてなかった。その時はまだプレイすることしか頭になかったから、選手として復帰するぞと思って退院をしてリハビリ生活を送ったんですけど、結果として、ドクターから“復帰させることはできない”って言われて、諦めるしかなくなったんですけど、その時点で僕の頭の中では、“現役引退、もう釜石を離れるしかないのかな”って思っていたんですが、その時に当時のヘッドコーチが、“現場でプレーすることだけじゃなくてそれ以外でもチームに貢献できることがある、コーチをやってみないか”って言われて、自分の頭にはコーチってのはまったくなかったんですけど、それを言われて、“チームの為にできるんであれば是非やらしてください”と返事をしたのを覚えています」
ケガで選手を引退した後、こうしてコーチに就任。指導者としてチームに残った長田さんでしたが、2018年に釜石シーウェイブスを退団。この年から釜石市の職員として、「ラグビーW杯2019推進本部事務局」に勤務することになりました。そして迎えた2019年のW杯は、裏方として奔走していたそうですが、この年の暮れに番組でインタビューした時、当時を振り返って、“満席の会場で喜ぶ観客の様子を見たら涙が止まらなかった”と語っていました。
そのW杯、9月25日のフィジー対ウルグアイ戦は無事開催されたものの、10月13日のナミビア対カナダ戦は台風の影響で中止に。改めてその当時のことを聞いてみました。
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「2018年の3月31日で自分のチームとの契約が終わって、その時はまだ市役所に勤務という選択肢は無かったんです。僕としてはなんとか釜石市に残る方法はないかなと思ってたんですが、ラグビーしかしてなかったんで何をしたらいいのかわからない。仕事がなければ、もう実家に帰って家業を継ぐしかないのかなーと思って、父親に連絡をして、“親父の仕事、勉強させてくれへんか?”って言ったら、“おまえ歳いくつやねん?”って言われて、“35や”って言ったら、“もうちょっと人のためになることしてから帰って来い”って親父が言ったんですよ。それで釜石で仲良くしてもらってる人に話をしたら、“釜石でワールドカップが開かれる。そのための職員として、市役所で採用試験を受けるチャンスがあるから、受けてみないか”って言われて、それで“ぜひ受けさせてください!”ということになって、受けたらうまくいって、市役所に勤めることになったんです。ラグビーが導いてくれたみたいなことですね。ラグビーの縁ですね。」
「2019年のワールドカップ、何ていうか、嬉しいやら驚きやら感謝する気持ちやら、すごい複雑な気持ちでしたね。やはり釜石でラグビーに携わった人は全員これ待ってたんじゃないかなって思います。もちろんワールドカップ自体が、あの大きな震災から復興のために行うワールドカップ、災害から立ち直るために誘致した2試合だったんですけど、そのうちの1試合がまた災害でできなかったってなった時に、すごく悔しかったですね。その日のこと今でも忘れないですけど、夜中まで仕事して、朝方に「中止」っていう判断が出て、現場を確認しに向かったんですけど、道路は土砂崩れがあったりとか、危険やなーっていうところいっぱいありながら、このスタジアムに向かってる時に、携帯がポンって鳴って、誰やろうと思ったら、釜石シーウェイブスの選手からだったんです。“僕ら元気ありあまってるんで、何でも言ってください!何でも手伝います!”っていうメールだったんです。それが来た時に、なんかこう、めっちゃ心強いなと思って、嬉しいなーって思ったの覚えてますね。スタジアムはとても試合できる状態じゃなかったんですけど、それを確認して事務所に戻ろうとしてたら、さっき連絡くれた釜石シーウェイブスの選手や、あと、本当は一番試合がしたかったであろうカナダの選手達がボランティアしてくれたんです。誰から頼まれたわけでもないんですよ。なんかそれを見た時に、ラグビーってすごいなーって思って、なんかすごい状況だったんですけど、なんか感動しながら帰ったの覚えてて、それと同時に、僕たちワールドカップするために頑張ってきたんですけど、これって別にゴールじゃない、これは一つの通過点で、またこっからもっともっと大きくなって、もっともっと復興を遂げなあかんねんなって、彼らがやってる姿を見て思ったのは覚えてますね。忘れかけたことに気づかされたっていう感じですかね。」
試合が中止とはなってしまったものの、より大切なものを教えてくれた、と、当時を振り返る長田さん。W杯の後は、スポーツ推進課「ラグビーのまち」推進係の主任として、ラグビーを通じて町を活性化させる事業に携わってきましたが、3月いっぱいで、13年間に渡る釜石での生活に終止符を打ち、新天地・青森県弘前市に移ることになりました。
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「なぜ釜石を離れることになったかというと、市役所で4年間仕事をさせて頂いたんですけど、僕はラグビー選手とコーチをやってきて、いかにこの100×70メートルのグランドの中でしかものを考えてなかったのかなってすごく思ったんですね。自分たちがここで表現する為にどれだけの人が準備してくれて、チーム以外の人、地域の人がどれだけサポートしてくれているかというのを、市役所に入ってものすごく感じたんですよ。それからですね。チームから地域に対してもっともっと貢献できること、町づくりにもそうだし町を盛り上げること、グランドでラグビーするだけじゃなくて色んなことやっていけるんじゃないかって、思うようになったんですね。市役所で仕事をすればするほどそういう気持ちが大きくなってきて、あれもできるあんなこともできるやん!って毎年毎年毎日毎日感じてました。で、その気持ちが強くなった時に、次に携わることになった「弘前サクラオーバルズ」の理事長にラグビーの関係でお会いする機会があって、いろいろ話をしてる中で、お互いラグビーの熱い話をしたんですが、その「弘前サクラオーバルズ」が、“ラグビーの力で地域を輝かせる”っていう事を掲げて活動してるチームだったんです。それで、“俺にできることがここにある”って、ものすごくその瞬間に思ってですね、その日からなんかその気持ちがものすごく強くなってきて、“よし”と思って、で、理事長に連絡して、受け入れてもらえることになりまして、決断しました。
思えばグランドしか知らなかったのが市役所でラグビーの価値だったりラグビーが持ってる力を自分が知って、というかそれを知ってしまったんで、血が騒いだっていうんですかね。もちろん現場のコーチングもさせてもらいますし、チームの運営っていうところもしっかりやらしてもらいますので、現場だけってわけじゃないんですけど、若いカテゴリー、中学生から教えさせて頂いて、ラグビー人口をもっと増やしていく、高校のカテゴリーも作っていければなって思っています。
家族は反対もなくて、“かっこいいやん”って嫁さんには言われました。僕が若い中学生とかに教えに行ってるのをすごく楽しんでいるのを彼女も分かってたんですね。“あんたやっぱりラグビーやと思うで”って。
あと自分がこういう判断をしたっていうのをお世話になった人たちに伝えに行くんですけど、みんな“お前らしいなあ”って言ってくれるんですよ。“お前なら絶対できる、お前のその決断を応援するわっ”って、そこでまた後押ししてもらったっていうか。こっちから感謝を伝えに行ったのに、また感謝することが増えるみたいな。なんかこう釜石に来て、ラグビーを通じて色んな人と知り合ったりいろんな人に応援してもらって生活させてもらった中で、感謝することがいっぱいやなと。世の中舐めてたじゃないけど、正直ラグビーむっちゃ出来たと思うんですよ。ラグビーでそこそこ生きてきたと思うんで、ラグビーさえ出来ればまあええねんって思ってて、ラグビー出来てる俺すごいやろぐらいの感じやったんですけど、それがラグビーを通じて、俺達がやってることってこんなに人に喜んでもらえるんやっていうのも当時の僕にはまったく思いもつかなかった。まったく変わったっていうか、釜石に来てからいろんなこと教えてもらった、成長させてもらったと思ってます。あそこで釜石にくるっていう決断をして良かった、13年間釜石に居れて良かったって、ものすごく思ってます。」
「釜石鵜住居復興スタジアム」をはじめ、体育館などのスポーツ施設は充実したものの、長引くコロナ禍でラグビーを通じた交流人口を増やす取り組みが思うようにいかない状況が釜石でも続いています。それでも長田さんは“ラグビー人口・日本一”というほど地域とラグビーの結びつきが強いのが釜石の魅力であり、必ず今の状況を乗り越えて、もっと釜石は強く復興していくはずだと語っていました。
4月から弘前での新生活をスタートさせる長田さん。新しいチームの「弘前サクラオーバルズ」でも、釜石で得たものを発揮して活躍されることを願っています。
釜石シーウェイブスRFC
弘前サクラオーバルズ