しんどい人は地獄へおいで。南阿蘇に湧く 地獄温泉
熊本県、阿蘇五岳の一つ、鳥帽子岳に湧く 「地獄温泉」。
200年以上前から湯治場として栄えてきた温泉ですが5年前の熊本地震と直後の豪雨で壊滅的な被害をうけ、地獄温泉の長い歴史が止まってしまっていました。
それでも、先人たちが守ってきた湯治への想いを自分たちの代では終わらせたくないと歩み始めた、再建への道。日帰り温泉や離れ、湯治の宿など徐々にオープンしていき、2021年4月、明治から続く歴史的建物「本館」が営業を再開し、地獄温泉「青風荘」が本格的に再スタートしました!
そこで今回のHand in Hand は、地獄温泉「青風荘」代表、河津誠さんの想い、湯治の真の魅力をお伝えします。
地獄温泉・青風荘は5年前の熊本地震と2ヶ月後の豪雨で敷地内に土石流が流れこみ、明治から続く本館をはじめ、8割が壊滅的な被害をうけました。
しかし、そんな中でも奇跡的に「すずめの湯」は被害から逃れ、変わらずに湧き続けていたといいます。
地獄温泉「青風荘」の象徴的なお風呂、「すずめの湯」
―――ポコポコと温泉が湧いている音が元気よく聞こえますが、この「すずめの湯」は青風荘にとって特別なお湯で、地震後、再生するきっかけになったんですよね?
「うちは3万坪の敷地のなかに3つの源泉を持っています。その中でも奇跡の湯とされる『すずめの湯』は足元から濁った状態で沸いて適温で入れる。このライジングエナジーであるすずめの湯と『元湯』の源泉が地震や土石流で途絶えなかったというのが大きいですね。押さえて蓋をしてもどんどん沸いてきますのでそのエネルギーに助けられたというのがあります。また地獄温泉は山間部の奥のほうにあるので全ての道路が寸断されてしまって、支障なく通えるようになったのが4年後なので、それまでなかなか前へ進むことが難しかった。その状況の中で、福島の温泉の方から「少し離れてみたら?」と声をかけていただいて行ってみたんです。いわば私たちの震災の先輩方が話すことが、「こうやればうまくいく」という話ではない。「こうやってもこうやってもうまくいかないけど、ちゃんと今がある」、ということだったんです。そうすると自分も今、全く一歩も前へ進めなくて閉塞感にいるが、ちゃんと復興の路線上にいるとわかったんです。そこからですね、気持ちがガラッと変わったのは。だから僕もその役目をしたいんです。だからここは絶対に復興させて、成功させないといけないと思っています。」
心と身体を癒す「すずめの湯」に河津さんが浸かったのは、3年後に日帰り温泉としてお客様を迎えた後だったといいます。
「2年前にすずめの湯をオープンしたんですけど、最初は地元の人やボランティアの方に無料で入っていただいて。そこから1週間ぐらいして震災後はじめて入りました。やっぱりこの癒しの力、ライジングエナジーの力はすごいな〜と肌で感じましたよね。これを求めてお客様はいらっしゃるんだと。ただ温泉に入って気持ちいいだけじゃなくて、本当に傷が癒されたり、毎日腰が痛くて眠れなかったのがその一晩寝られたり。そういうことを求めて来られるんだってわかりました。」
―――地震前はそういったことに気づいていなかった?
「震災前は天狗になっていたし200年にのっかってあぐらかいてる状態だったなと今振り返れば思います。だから地震が良い方向に変えてくれたと思います、人生を。」
明治時代から代々受け継いできた木造の建物が、地獄温泉・青風荘の「本館」です。
ここにも熊本地震後の豪雨による土石流が押し寄せ、ボランティアの方々と土砂を撤去するところから再建への道がスタートしました。そして5年がたち、ついにこの4月に営業を再開しました。
梁や柱、天井など使えるものはそのままに、傷んだところだけ新しい木材で補強し、飴色に輝いた歴史ある木材と、真新しい木材とが混在する佇まい。あえて色を塗らなかったのは、「100年かけて経年変化し、古いのと新しいのが同調していく様子を感じてほしい」との河津さんの想いが詰まっています。
―――オープンしたばかりの本館、ここにも震災の時は土砂が?
「震災の時は腰上ぐらいまでの土砂で、川がこの中を流れていました。残せるものは残して、階段も当時のまま。天井も明治時代のままです。
ここは多少お隣の声が聞こえたり、テレビの音が聞こえたりしますけど、湯治場というのは向こうにも誰かがいるということがとても大事で。あの方も肩が痛いのかな。腰が痛いのかな。というのがこちら側に生まれた時に、はじめてライジングエナジーが注がれるんです。優しい気持ちが生まれた人にしか注がれません。自分も痛んでいるから人の痛みもわかるという。」
―――先ほどからここにいるだけで暖かい気持ちになるというか、ほっとするから不思議。
「明治からなのでここに何十万人か何百万人かが泊まっていらっしゃって。その方々のエネルギーもここにあるのかもしれないですね。」
常連のお客様に人気だったという、二階の角部屋の部屋「上の五」
最後に、200年前の先人たちが残した、本館の裏手側へと案内していただきました。
「ここは本館の裏、いろんなところからお水が沸いていたり温泉が湧いていたり、柔らかい場所なんです、ぐずぐずなところ。ここになんとか2階建ての宿つくって長く湯治してもらいたいという想いで先人たちがつくったのが、水が逃げるための石垣の水路なんです。明治の中期ぐらいなので、当時は人が手でやるしかない。10年計画どころじゃないと思います。私財を全て投げうって、すごいエネルギーかけないとこんなのできない。ここは溶岩がたくさん眠っている場所なんで、2m掘ると巨石が出てくるんです。その巨石を掘って、コンコンと手で割って石垣をつくっていた。」
―――この存在をちゃんとわかったのは震災後?
「そうです、ここには大広間が建ってたので見えなかったですから。」
―――これを見た時、どう感じました?
「馬鹿じゃないの、と(笑)。ご先祖さん達ちょっといっちゃってるねと。ここまでかけるエネルギーってなんだろうと思ったとき、ライジングエナジーの発想になったんだなと。そのエネルギーが人々を癒すことを知っていたからこそ、これだけの建物を作ったんだと思います。これを自分に置き換えると、パワーシャベルある、SNSでこの被害知ってもらえるな、楽勝じゃんとなる。だからただオシャレな建物じゃなく、そこに魂がこもっている建物になったと思います。今後は例えば新しい柱と古い柱の色が全然違うな、という場所にバーコードがあって、そこにカメラをむけると情報にたどり着くということをやりたいなと思っています。」
―――湯治の本質は明治から脈々と続いてきて、それをさらに100年先にも渡していく
「100年後、この被災の状況やその時の気持ちや、どうやって復興してきたか、その歩みを届ける方が大事。生きているうちはそういう話をできれば被災された地域で経験をお話したいというのが最終目標です。」
地震と豪雨で壊滅的な被害をうけた中でも沸き続けた温泉、そしてそのお湯で人を癒すんだと再建をスタートさせた河津さんの想いが地獄温泉・青風荘には至る所にあります。明治時代から続く本館には古い傷があってそこを触ってみたり、食事をするときも河津さんからここまでのストーリーを聞いたりすると、あの時諦めないでくれて本当にありがとうございます、という感謝の気持ちが沸いてきます。本当に今しんどい人は、いや、しんどくなくても一回地獄の底を踏んでみませんか?あとは上へあがるだけです。
地獄温泉「青風荘」
http://jigoku-onsen.co.jp/