- 2019.10.27
宮城県南三陸町・戸倉地区で林業に取り組む若者1

今週は、宮城県・南三陸町・戸倉地区で林業の担い手として奮闘する若者に焦点を当ててお送りします。
名前は、小野寺翔くん。戸倉地区で生まれ育ち、今年4月、地元の山林を管理する林業会社に就職。日々、地元の山林に入り、林業家としての腕を磨いています。

もっと本当は木が混んでいたんですけど、間引いてやって光を入れることで一本の木が太くまっすぐに伸びるようにしてやります。
~重装備ですが、腰につけているのは?
ナタやノコギリです。あと、材の寸法を測るものです。本当はもっと良いやつがあるんですがお金がないのでメジャーですね(笑)あとは木を倒す時に必要なくさびとかです。









~すごいですね!
本当はもうちょっと右に倒したかったんですけどね。。方向がちょっとずれるだけで、後で山から下ろすときの手間が増えたりするので、コントロールが大事ですね。ちょっと難しい作業ではありますが、葉のつき方とか曲がり方、重心の位置なんかをちゃんと見て狙うようにしています。

このあたりの木は40年くらい前に植えられた杉の木ですね。基本的には50年とか60年前なので、僕らのおじいさん、ひいおじいさんの代が植えたものが、今こういう風に育っているんですね。僕の家もそうなんですけど、震災の被害で家や財産がなくなったんですけど、でも山だけは残った。それまで全然あんまり興味関心を持たなかったんですけど、よく考えてみると、やっぱり唯一の財産として山が、木材が残ったのかなと思いました。せっかく代々受け継いだ地域の財産なので、守っていきたいなと思いますね。昔と比べたら木の値段はすごく安いと言われるんですが、とにかく何も気にせず全部切ってしまえばそれだけのお金にはなる。でもやっぱり、次の世代への恩送りということで…。木は何十年も育つので、自分が管理したものは自分が生きているうちに完成しないというか、不思議な世界の仕事ですね。でも次の世代への希望を込めて管理しなければなと思いますね。
翔くんが勤めているのは、「波伝の森山学校 合同会社」。東日本大震災のあと、2014年に立ち上がったこの会社は、戸倉の「波伝谷」と呼ばれる地域の山林を、山主さんの依頼を受けて、長い年月を見据えて管理する会社です。

~小野寺翔くんは、違う番組で何度か取材していて、現在は23歳になりましたが、震災があったときは中学2年生でした。以前の取材時に印象的だったのは、卒業するときに卒業生答辞を読んで、南三陸の未来を語ったのが印象的でした。
当時は14歳くらいでしたが、そこで第二の人生が始まったような、そういう気持ちがあります。そこで地域に戻ってきたいという決意は持ったような実感があるので、こうして8年経って、言った通りに戻って来れたかな思いますね。
~高校卒業して、いちど南三陸を離れたんですよね。
首都圏の大学を出て、何を仕事にして地元に戻るのが良いのかなというのはずっと考えていましたんですが、首都圏の人たちを南三陸町に連れて行って案内するという機会を作ったりしているうちに、地元の人の話も聞く機会もあったんですね。地元にそのまま住んでいたら、あまり漁師さんの話は聞く機会はなかったんでしょうけど、紹介するときに初めて知る情報もあって、地域の資源の豊かさであり、価値というのを感じるようになりましたね。そんな時に、津波で流されて、自宅も畑もなくなってどうしようという状況だったんですけど、昔からあった山だったり木材は残っていたんだなと思って。そこをなんとか管理するような仕事は無いのかなと思って、それで大学3年になる時に大学を辞めて岐阜にある林業の専門学校に入りました。岐阜県の西之保は林業が盛んで、木材の伐採から加工までの流れ、流通までの過程を勉強してきました。そのとき初めて一本の木が倒れる瞬間を見て、自分で切ってもみて、何とも言えない、すごいなという感覚がありましたね。それで林業をやろうと決めた時に、渡辺さんが地元の戸倉で林業を震災後に始められた。そういう人がいたというのも大きくて、戻ってこられるという安心感もありましたし、先進の人がいたと言うのは運命的なような感じがしました。
宮城県南三陸町・戸倉地区で林業に取り組む若者、小野寺翔くんのお話、いかがだったでしょうか。この波伝の森山学校のような、山主と地元の林業の担い手が、長期的なスパンで森を大事に守り、育てながら行う林業を“自伐型林業”と呼ぶそうです。森を守りながら、一定の収入も得られる持続可能な林業として各地で注目されています。
来週もインタビューの続きをお届けします。
【今週の番組内でのオンエア曲】
・Some Nights / Fun.
・JUMP / 忌野清志郎