今週は、森・自然の中で暮らし、そこで生まれる命と向き合いながら生きる道を選んだ、一人の若い女性にスポットを当ててお送りします。
ネットでも話題になったその方は、ちはるさん。
「狩猟女子」と呼ばれる彼女は、その名の通り猟師として、現在、福岡県で暮らしています。
きょうは、彼女がこういう生き方を選んだ理由、今のライフスタイルについてご本人のインタビューをお届けします。
ちはるさん。かわいらしい声の、普通の女の子・・・という印象です。現在28歳、新米猟師ちはるさんの、猟師としての暮らしとはどんなものなんでしょうか?

◆猟師としての暮らし
狩猟免許は2013年1月にとりました。いまは罠をメインでやっています。できるだけ身の丈にあった狩りがしたいと思っているので、罠も自分でつくり、山にかけにいける大きさのものを使っています。
”くくりわな”といって、足にワイヤーがかかって動物の身動きをとれなくするというものなんですが、周りで田んぼと畑をやっているのでそれを守る意味でも近辺の山にかけています。
うちで捕れるのはイノシシですね。山にイノシシがかかりそうな場所に狙いを定めて罠をかけるんです。イノシシは警戒心が強いので簡単には捕まりません。鼻先で匂いを嗅ぎながら歩いているので、匂いで罠がばれてしまうんです。ですので、匂いをかがないような場所にかけようと思って、坂道の最後にかけました。そうすれば駆け下りてきて、においをかぐ暇もなく罠にかかるというわけです。
実際、足跡がたくさんある坂道の下にかけたら、次の日かかっていました。わたしが考えた通り、前足の一番最初のところにかかっていたんです。罠が思い通りに作動したのは嬉しかったですね。
罠で死ぬことはないのでとどめは自分でささないといけません。鈍器でイノシシの額を殴って気絶させて、足で鼻先を踏み、噛まれないようにします。そして耳から顎にかけての頸動脈を狙ってナイフで刺し、放血させて出血多量で死ぬということになります。そして内臓を出し、皮をはいで、ばらして牡丹鍋にして食べました。美味しかったです。



お話を伺うと少し驚くところもありますが、普段私たちが食べているお肉も、捕まえて、それを解体して調理しているんですよね。
ちはるさんは、基本的には フィッシュベジタリアンだそうです。ポリシーとしてお肉を食べるのは、自分で動物を解体した時だけなんだそうです。
猟師になったのはつい最近で、実は数年前までは、横浜で映画配給会社の会社員をしていました。
会社員時代から、農業や持続可能な暮らしに関心が高かった彼女が、猟師を目指すことになったのには大きなきっかけがありました。

◆猟師になったわけ
東日本大震災が一番の大きなきっかけでした。当時は横浜に住んでいたのですが、都市ならではの小さなパニックが起きていました。それをみて、いざというときにはお金を持っていても役に立たないと感じたんです。
食べ物がなくなって、電気も来なくなった時、自分の暮らしがなりたたないことにショックを受け、自分がどれだけ暮らしを他人任せにしていたかを感じたんです。その人任せの暮らしを、少しずつでも自分の手に取り戻して、周りがどうなっても生きていける人になりたいと思いました。
自分で生きていく力といっても色々あると思うんですが、そのなかでも食べ物に興味がありましたので、食べることを自分で最初から最後まで出来るようになりたい、自分の手から離れた食べ物を自分の手でやっていけるようになりたいと思って始めたのが鶏を絞めて食べることでした。
両親は普通のサラリーマンですが、震災後にバラバラだったが家族が埼玉の実家に集まって家族会議をしました。そして父親が「みんな成人して仕事、学校、恋人など、それぞれ大事にしているものがあるのだから、まず自分が生き抜こう」と話してくれました。「生きていれば必ず会えるから、まずは家族一人一人が生き抜くこと」を約束したんです。そのとき、東日本大震災のときから感じていた生きることへの執念みたいなものが心の中で燃えはじめ、絶対に死にたくないという気持ちがかなり強くなったんだと思います。


こうして、ちはるさんは、去年7月に職場を退社。現在は福岡県糸島市で生活をしています。
ちはるさんは、別に山にこもって一人で猟師をやっているわけじゃないんです。
震災を経験したことで、ひとつのものに依存した暮らしをやめようと考えた彼女は、仕事も“ひとつに依存しない”スタイルを始めています。

◆シェアハウス
いまの暮らしはお金がかからないんです。福岡の田舎で運営しているシェアハウスは自分の家賃はゼロ。水道も通っていないので水道代もゼロ。おとなりの家から水が湧きでていて、それがポンプで全体を回るような仕組みです。
畑と田んぼもシェアハウスのみんなでやっていて、とても豊かな暮らしです。うちは一人一芸、手に職の家なんです。なにか自分が得意なものを活かして暮らしを作る。一緒に住んでいるだけでないんです。うちのシェアハウスのテーマは「食べ物と仕事とエネルギーをつくる」です。仕事もできるだけ外に出ず、自分たちのスペースでお金を稼ぐことを目標に、定期的に家でマルシェを開催しています。シェアハウスの敷地はとても広いのですが、住人がそれぞれ特技を生かして出店します。料理人は料理を出したりだとか、写真家と着付け師の双子姉妹は青空写真館を、音楽家はライブをしたりします。1回50人以上は来てくれます。
自分たちの得意なことを活かして、少しずつお金を稼ぐ仕組みを家から発信していければいいなと思っています。うちの暮らしはとても楽しいですよ。



現在、ちはるさんの運営する古民家を改装したシェアハウスには、猟師・兼シェアハウス広報担当のちはるさん、料理人、元農家の方、着付け師、写真家、元酒蔵の方、そして音楽家というメンバーが暮らしています。いまは20代男性・大工さんを募集しているそうです。
そしてちはるさんは、先日本をだしました。『わたし、解体はじめました ─狩猟女子の暮らしづくり─』(木楽舎)です。ちはるさんが狩りを始めた理由、鶏やイノシシの解体方法、私たちが食べるお肉がどこからきているのかなどがまとめられています。
また、ちはるさんの日々の暮らしはブログ「ちはるの森 | @chiharuh の日々。」でも紹介されています。
ちはるの森 | @chiharuh の日々。

今回のお話はポッドキャストでも詳しくご紹介しています。
こちらもぜひお聞きください!


【今週の番組内でのオンエア曲】
・Brave / Sara Bareilles
・きらきら武士 / レキシ
今週は、古くから林業の町として知られる埼玉県飯能市から、木材の魅力をちょっと変わった形で広めようという 動きをご紹介します。

それは…

お酒なんです!

飯能市は、市の面積の76パーセントが森林に囲まれ、江戸時代から木材業が地場産業として根付いていた地域です。飯能市や、おとなり日高市で取れる質の高い杉やヒノキは、西川材と呼ばれています。
そしてこの「西川材」を変わったアプローチでPRしようとしているのが、飯能市で材木屋さん一筋50年のベテラン、町田木材の町田喜久雄さん。
まず、西川材の特徴について教えていただきました。

◆西川材の特徴
この辺りの木材は西川材といいます。江戸からみて西の方の川ということでこの名前がつきました。西川材はきめが細かく、板にしても柱にしてもとてもに落ち着きのある目をしています。柱取りとしては日本の三大杉のひとつで、吉野杉に匹敵する杉ということで東吉野(あずまよしの)ともいわれています。「東吉野とその名も高い、飯能名物西川材よ」と歌にも歌われたほどです。
うちは材木屋としては、周りに比べればまだ日が浅いほうで、始めたのは昭和30年頃ですね。その頃は電柱も全部木でしたので、電柱用の丸太が随分出ました。また、今は見かけなくなってしまいましたが、鯉のぼりの竿の産地としてもこの辺は有名です。
当時は夜中に出て、都内各地に配達して、朝帰ってくるということを随分やりました。



昔は、お庭のあるお家はこいのぼりの竿を立ててたんですね。
また、関東大震災や東京大空襲のあと、復興の目的で東京に供給されたのも西川材だったそうです。とはいえ、当時は移動手段も限られ、飯能の山奥から木材を運搬するのはとても大変な作業でした。

◆筏で木場まで
昔は、名栗地区、奥武蔵一帯からでる材木は筏(いかだ)にして運び出していました。飯能からここまでの道も狭く、それ以前は牛車などをつかっていましたが、運べる量も限られていたので、台風がくるのを待って川で流す”筏流し”が主流になりました。一度川の淵に木材を貯め、あらかじめ筏を組んでおいて、水量が増えた時に一気に運ぶんです。4mくらいのものを5つ繋ぎ、筏師が3人くらい乗って下っていきました。名栗川、入間川、荒川、隅田川を通って、東京の木場まで運びました。
東京までは1週間から10日ほどかかります。帰りは武蔵野線に乗ったり、あるいは荷馬車などに乗って帰ってきました。若い人なんかは遊びに行ってしまってなかなか帰ってこない人もいたそうです。お金もらって帰ってきますから(笑)。



昔は大変だったんですね。台風で水の量が増えたときを見計らって、筏で運んでいたんだそうですが、これはやはり危険を伴う方法なので、事故も多かったそうです。
その後、西川材は陸路で運搬されるようになり、昭和30年頃には材木産業はピークになりました。飯能駅の周辺は、ほとんどが材木関係のお店だったといいます。しかし、木材の輸入自由化で需要はどんどん減り、名栗地区に40軒近くあったお店も、現在では10軒を切っています。
こうした中、西川材の魅力を改めて広める方法はないか…そう考えた町田さん。
晩酌をしている時に、ふと思いついたのがお酒でした。


◆「きこりの夢」
私は現役で製材をやっていますが、杉には杉の匂い、ヒノキにはヒノキの匂い、イチョウにはイチョウの匂いと、それぞれに匂いがあります。その中でも西川材のスギ・ヒノキは製材機で木を引いていると、ぷ~んと香りがしてきます。それでこの西川材の香りをなにかに入れたらどうかなと思ったんです。
杉の樽に日本酒を入れると匂いがするのは知っていましたが、同じことをするのも嫌だったので、杉じゃなくてヒノキを使おうと思いました。私は焼酎が好きなので、市販の焼酎の中に割り箸のように切った西川材のヒノキを入れてみました。
そして1週間ほど置いておくと、とてもいい香りが出てきました。飲んでみるととてもうまい!そこで商品化できないかという話になり、酒屋さんに相談に行ったら快諾してもらいました。
「西川材 桧の香り酎・きこりの夢」という銘柄で出しているんですが、糖分を入れることによって、まろやかになり女性向きの味になります。ロックだと特に女性向きです。ただ、あまいからといってグイグイ飲むとけっこうききますよ。アルコール度数が高いですからね。



町田木材の町田さんが考案した、西川材の香り付けをした焼酎ベースのお酒、その名も「西川材 桧の香り酎・きこりの夢」。町田さんによれば、ロックがおすすめとのこと。
こちらは現在、飯能市内の酒屋さんでのみ取り扱っています。取り扱い店舗などお問い合せは、飯能商工会議所までお願いします。

今回お伝えした内容はポッドキャストでも詳しくご紹介しています。
こちらもぜひお聞きください!


【今週の番組内でのオンエア曲】
・桜の森 / 星野源
・アオゾラペダル / スガシカオ
先週に引き続き、5月31日(土)に宮城県岩沼市で行われた『千年希望の丘 植樹祭』の模様をお届けします。

岩沼市が推し進めるこのプロジェクトは、震災廃棄物を利用して小高い丘を作り、苗木を植え、津波から命を守る森の防潮堤を作るというものです。
植樹会場に集まったのは、地元・岩沼市はもちろん、全国からの6000人のボランティアの方々。瓦礫を活かす森の長城プロジェクトは、植樹の指導を担当しました。
また今回は、この取り組みに賛同するアーティスト、石井竜也さん、女優の鈴木京香さんも植樹に参加しました。


◆千年希望の丘 植樹祭 石井竜也さん 細川護煕さんのお話
石井竜也さん:僕の田舎は北茨城市なんですけど、津波と放射能でやられちゃいまして、みなさんつらい思いをしているんです。震災の後、実家にかえってみると、すぐとなりに瓦礫が、僕は「思い出山」と呼んでいるんですが、屋根の高さよりも高く積まれていたんです。「瓦礫」とみんな呼んでいますが、近くから見ると、おじいちゃんが使っていた座椅子やタンスだったりするんですよ。これを瓦礫って…。これは「思い出山」だよなと思ったんです。
一時期はそれをどこで焼く、焼かない、放射能がはいっているからこっちくるなとか、色々言われていました。それを聞いてとても気持ちが痛くて…。そんなことを言われるのなら、どうせここで亡くなった方々が使っていたものだし、それを埋めて土台を作って丘を作れないかと思っていたんです。そうしたらこの森の長城プロジェクトがあった。これだ!ということで、早速連絡して、細川先生にお会いし、コンサートも開きました。
「希望ヶ丘へ」という曲を作り、それを中心としたコンサートを3月11日に渋谷オーチャードホールでやりました。細川先生にも見に来てもらい、「希望ヶ丘へ」も披露しました。
今回もその曲を歌うんですが、僕たちの世代だけじゃなく、これから生まれてくる世代の役に立つものを、その人たちの気持ちが安らぐものを僕らは目指していかなければいけないんじゃないかと思ったんです。

細川護煕さん:今回は7万本という大規模な植樹ですが、去年の植樹祭で植えたものも立派に育っていますから、2~3年後がとても楽しみですね。植樹をした場所は約1500m。歩くのに30分もかかります。これくらいの規模でずっと続けていけたら、象徴的なものとして、ほかの市町村からも、うちでもやろうという話になると思います。こういうことは形、モデルがないとなかなか進まないので、今回のような植樹ができるということは素晴らしいと思います。

石井竜也さん:どんな津波がきても、多少の津波なら食い止められるような頑強な、土塀ができるといいと思います。木の根の強さは半端じゃないですからね。
こういうプロジェクトは、人の力と政治と思いが一つになっている動きだと思います。日本は木で家をつくりますから、植樹は文化として昔からありました。それを子どもたちに伝えるというのはとてもいいことだと思います。特に東北は自然に対して畏敬の念を持っているので、広がっていくのではないかと思います。



お話にあった『希望ヶ丘へ』という曲は、この植樹祭でも歌われました。
石井さんの実家は茨城県・北茨城市の港町にあります。すぐ北が福島県いわき市です。石井さんの実家の港町も、震災で大きな被害があり、原発事故による漁業の風評被害も受けたといいます。
ですから石井さんは、被災地には特別な想いがあり、何度も地元に足を運び、音楽を通じた支援を続けています。そして、そこで目にした震災瓦礫を、瓦礫ではなく「思い出山」と呼んでいます。
また、石井さんは自然や環境問題にも関心の高く、森の防潮堤について、こんな考えを持っているんです。

◆森の防波堤について 石井竜也さんのお話
僕の実家近くの港も、頑強だった7mくらいの外側の堤防がVの字に割れていました。地盤がきっと上に上ったんでしょう。外海が見えてしまっていました。でも山は崩れていません。がけっぷちは崩れましたが山は無くなっていない。だから自然なものは自然が食い止めてくれるのかなという想いは強くあります。
それにやっぱり風景がきれいですよね。最初は何かを守ろうと、一生懸命、正義感で入っていくんでしょうが、そのうち木を植えるのが楽しくなって、夢中になっていますよね。ある意味それが本当の人の姿なのかなと思いながら、植樹をしている皆さんの後姿を見ていました。
元来、日本には自然崇拝・アミニズムがずっと神社などに根差していて、それがこのような形になっているという気がします。自然災害で亡くなった方はちゃんと天に昇っていると思いますが、こんどは生きている人、生きていく人たちをどうやって守ったらいいのかということを体現している気がします。
コンクリートの堤防と森の防波堤、どっちが強いかといったら、森の防波堤だと思います。木と木がつながる力、根の力というのは大変なものですから。今日植えている木は、全部下に根を張る木です。ですから、とても”スゴい”丘になると思う。
それに、こういうものを中心にして町が形作られることもあるでしょうから、町を作るヒントにもなるんじゃないかと思いますね。東北のみなさんは町を作るのにどうしようかと悩んでいると思いますが、これが一つのモデルになって、緑を基調にしてそこに家が建ち、その森を見るように窓を開け、木々を通して風が入ってくるというのは、環境としては最高だと思いますね。


そして植樹祭の会場には、同じくこの取り組みに賛同する、女優の鈴木京香さんも参加。ボランティアの方々とともに、楽しそうに植樹をしていました。

◆千年希望の丘 植樹祭 鈴木京香さんのお話
瓦礫の上に、新たに私たちが自分たちの手で木を植えるというのは素晴らしいアイデアだと思って、発足当時から支援を続けています。今日はじめて自分で植えることができてうれしいです。
実際に一緒に植えるというのが何よりいいですね。皆さんの声援、ありがたさが実感できます。


確かにみんなで一緒に木を植えるのは気持ちがいいし、楽しいですよね。今回の植樹で木を植えた場所が1.5kmもの長さになったということで、将来ここが森になるのがとても楽しみですね。

今回うかがったお話はポッドキャストでも詳しく紹介しています。
こちらもぜひお聞きください!

【今週の番組内でのオンエア曲】
・a song dedicated / PUSHIM
・希望ヶ丘へ / 石井竜也
今週は、5月31日(土)に、宮城県岩沼市で行われた『千年希望の丘 植樹祭』のレポートです。

千年希望の丘は、岩沼市が推し進めるプロジェクトで、震災廃棄物を利用して小高い丘を作り、たくさんの苗木を植え、津波から命を守る森の防潮堤を作るという取り組みです。番組では去年行われた第1回の模様もお伝えしています。
今回も「瓦礫を活かす森の長城プロジェクト」をはじめ、およそ6000人のボランティアの方が仙台空港すぐそばの植樹会場に集まりました。さらに鈴木京香さんや石井竜也さんといった著名人の方も駆けつけ、楽しい雰囲気の中、植樹祭は行われました。
植樹が始まる前に行われたオープニングセレモニーでは、井口経明岩沼市長が、この計画にこめた想いを語りました。

◆『千年希望の丘 植樹祭』開会式~井口経明岩沼市長
東日本大震災から三年二ヶ月あまりが経ちました。犠牲になった方、そして多くの皆様のためにもしっかり復興を進めていかなければなりません。そのなかで、千年先の子どもたちも笑顔でいられるような安心、安全、そして持続可能な岩沼をつくっていきたい。その象徴が『千年希望の丘』です。
災害廃棄物の有効活用、あるいは津波の減衰、いざというときの避難場所、あるいは二度とこういった悲劇を起こさないための防災教育の場にもしたい。そして、仙台空港がそばにありますので、メモリアルパークとして、全国の皆さん方に被災地の状況をお知らせする、これが我々の責任だというふうに思っております。昨年三万本の木を植えていただきました。今年は七万本以上植えて、十万本がこの千年希望の丘に植樹できるということです。



この千年希望の丘は、高さ10m小高い丘をいくつも作り、その丘を、森の防潮堤が「つなぐ」形で、およそ10キロの長さまで広げる計画となっています。津波の被害を減らすだけでなく避難場所として、また、震災の記憶を後世に伝えるモニュメントの役割も果たす考えです。
岩沼市長によるメッセージのあとは、内閣府大臣政務官兼復興大臣政務官の小泉進次郎さんも壇上に上りました。


◆『千年希望の丘 植樹祭』開会式~小泉進次郎さん
みなさん、こんにちは。ご紹介を頂きました、内閣府大臣政務官兼復興大臣政務官を務めています小泉進次郎です。さきほど井口市長のお話の中で最も大事だと思われることは、いまだに多くの方が仮設住宅に暮らしているということを忘れないで下さいというお言葉だと思います。一歩一歩進んでいるところもありますが、まだまだこれからが正念場です。
今日のこの植樹の意義は、みんなでつくる希望の丘ということだと思います。一本一本木を植えた、その木の成長を継続して見守るように、これからの岩沼市、これからの東北、みなさんも一緒に見守っていただけるようなきっかけになれば、こんなに嬉しいことはありません。これからも全力で復興のために力を尽くしてまいりますことを心からお誓いを申し上げて、本日のご挨拶と代えさせていただきます。今日は暑いなか、ありがとうございました。



そしてこの植樹祭は、番組が継続して取材している『瓦礫を活かす 森の長城プロジェクト』の理事長・細川護熙さん、副理事長で植物生態学者の宮脇昭さんも参加しました。
宮脇さんは今回も、ステージ上ですごくパワフルに、熱のこもった植樹の指導をしていました。しかも今回はアーティストの石井竜也さん、女優の鈴木京香さん、小泉進次郎さんも参加。6000人のボランティアの方々と一緒に苗木を手に丘の斜面に穴を掘り、植樹を行っていました。


2年目の植樹を見守った岩沼市・井口市長に、千年希望の丘のこれからについて伺いました。

◆千年希望の丘のこれから~井口市長のお話
丘、それ自体はそんなに長くかかりませんが、丘をつなぐ森の防潮堤部分は相当の年月がかかります。ここに植えた樹木も5~10年たたなければ本来の目的通りの力は発揮できないので、そういう意味では10~20年先まで時間はかかります。
これまで国交省の防潮堤はコンクリ一辺倒だったわけですが、岩沼の希望の丘の防潮堤は木を植え、なんらかの効果がないかと実証実験しています。林野庁のほうでも、これまでの松だけの防災林ではなく、広葉樹を使えないかと実証実験がスタートしています。これが一定の効果があれば、岩沼モデルとして、日本の、あるいは世界の防災に役立つのではないかと思っています。



ちなみに岩沼市の井口市長は任期満了にともない、千年希望の丘の計画は今後、次の市長へ引き継がれることになります。そんな中、千年希望の丘の計画を受けて、林野庁も同じ岩沼市の寺島地内・蒲崎(かばさき)海岸で宮脇さんの指導の下、実証実験をスタートさせました。林野庁はこれまで松林による防災林の計画を進めてきましたが、これに宮脇さんが提唱する「広葉樹」も植えて、効果を調べるということです。
もし効果が確認できれば、今後の事業にも反映されていくでしょうし、こうやって岩沼モデルが世界に広がっていったら嬉しいですよね。


今回ご紹介した『千年希望の丘 植樹祭』の模様はポッドキャストでも配信中です。
こちらもぜひお聞きください!


【今週の番組内でのオンエア曲】
・Good time / SALU
・風をあつめて / はっぴいえんど
今週は前回の続き、宮城県気仙沼市のNPO法人『森は海の恋人』の理事長で牡蠣漁師の畠山重篤さんによる、トークイベントの模様をお届けします。

「森は海の恋人」は、森を育てることが、豊かな海を育てることにつながるという考えのもと、植林活動や、子どもたちへの環境教育に取り組んでいます。また、東日本大震災後は、震災によって大きく変化した地元、舞根湾の生物、生態系の調査も行っています。
こうした活動の、新たな拠点として4月に完成したのが『舞根 森里海研究所』。
そのオープニングイベントとして、森は海の恋人・理事長の畠山重篤さんと、元NHKアナウンサー住吉美紀さんによるトークセッションが行われました。
先週は「舞根 森里海研究所」のお話や、体験学習のお話をうかがいましたが、ほかにも興味深い話がたくさんあったんです。
その一つが、気仙沼の牡蠣漁師と、あの世界的ファッションブランドの震災後に生まれた「ツナガリ」のお話です。


◆森は海の恋人 トークセッション~ルイヴィトンとのつながり
畠山:我々は長靴に合羽という世界なのでファッションとはかけ離れているわけです。ですので、支援したいという話があった当初は怪しいと思ったんです(笑)ルイ・ヴィトンはフランスの貴族の会社だと思っていたんですが、歴史を調べてみると全然違う。ヴィトンという名前はドイツ語系のフランス語で、「石頭」という意味なんだそうです。頑固な職人のイメージですね。
彼が生まれた場所は生活が厳しいところで、初代ルイは13才で母親を亡くし、継母にいじめられたりなど、いろいろ大変だったようですが、やがて家を出て、パリへ丁稚奉公へいったんです。
当時のフランスは女性の服を仕立てると、白木の木箱に入れて届けるので、木箱を作る職人が大事だったんですが、ルイは実家が製材所でした。ですので木をよく知っていて、あっというまに木箱づくりのマイスターとなり独立しました。そして旅行ブームがやってきてトランクの需要がでてきた。
当時のトランクは雨漏りがしないように斜めにつくってありました。しかし、斜めだと重ねられないですよね?ルイはそこを平にして、なおかつ水が入らないようにし、これが成功しました。つまり、ルイ・ヴィトンは元々、森の木に接点のある会社で、今でも山を持っているんですね。
さらに調べると、フランスは50年前にウィルス性の病気で牡蠣が全滅したんですが、それを助けたのが宮城の牡蠣。フランス人がいま食べている牡蠣は宮城の牡蠣の末えいです。
住吉:それをルイヴィトンが知っていた?
畠山:いや、ルイヴィトンの経営者は全員牡蠣好きだったわけです(笑)。それで、美味しい牡蠣を作るには山に木を植えるという、私たちの活動を面白いと思って、支援を受けることになったんです。
住吉:こちらにもルイ・ヴィトンの方々が何度か来たそうですが?
畠山:ええ、いらっしゃいましたよ。支援した後、どうなっているかを見に来ました。5代目当主のパトリックさん、この方は職人で石頭。スペシャルオーダーという世界のセレブが注文した自分だけのトランクとかバッグを作っている責任者で職人なんですが、彼はポケットにいつもナイフを持っていて、いかだの上で牡蠣を自分であけて食べてました。「トレビアン」って言って喜んでくれていましたよ。カモメたちも聞き慣れないフランス語を聴いて変な声で鳴いていました(笑)
私たちは今、ひとりひとりでは仕事を復活できないということで、グループを作っています。舞根地区の牡蠣漁師たちはほとんど家を流されて仮設住宅にいるんですが、その方々に手伝ってもらっています。みんな1年間よく働いてくれたので、ルイヴィトンのネッカチーフを購入してみんなにプレゼントしていました。そして、ルイ・ヴィトンのCEOがやってきたときに、みんなの首にルイヴィトンのネッカチーフをまいてもらい、通訳を通して「働くものにこそルイヴィトンは似合う」と伝えました。そうしたらCEOが泣いていました!そして「支援を2年間延長する」となったんです。
ルイ・ヴィトンは150年前、貧しい製材所の息子から頑張ってきた会社です。今までは、ルイ・ヴィトンなんてチャラチャラしていると思っていたんですが、見方が変わりました。あれは堂々と持って良いものですよ(笑)



こうしてルイ・ヴィトンによる支援で気仙沼舞根湾は牡蠣養殖再生へ向け大きく前進しました。
5代目当主パトリック・ルイ・ヴィトンさんのお話がありましたが、自分でナイフを使って牡蠣を開けて食べてしまうって、なんか驚きですよね。フランスの方はきれいなレストランでムール貝なんかを白ワインで食べるなんて、そんなイメージがありますが、とても親しみやすい方なんですね。
また、フランスの牡蠣は宮城の牡蠣の子孫というのも、すごく縁を感じます。ヴィトンも牡蠣漁師さんも、同じように仕事にひたむきなものづくりの人たちなんですよね。畠山さんの最後のお話にもありましたが、歴史のお話を知ると、ブランドに対する見方も変わりますよね。

今回のお話はポットキャストでも詳しくご紹介しています。
こちらもぜひお聞きください!


【今週の番組内でのオンエア曲】
・Tonight the Night / BONNIE PINK
・Headlight / Monkey Majik
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高橋万里恵
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