落語と演劇、その表現の違い
南沢奈央(俳優)×立川談春(落語家)
2023
12.01
立川談春さんは、高校を中退し、憧れの立川談志さんに弟子入りしてから、芸歴40年。ベテランの域に達している中、近年、落語に対する思いに変化が生じているそうです。
10年間は、ひたすら師匠の真似をせよ
- 立川
- 最初に落語を喋るときに師匠から「語りは歌え、歌は語れ」と教わった。歌って語るんだと、語りは逆に歌うんだ、それはどういうことかと言うと、落語は、リズムとメロディーだと教わった。実は音楽的な要素があって、人の耳がどういうトーンで喋ると一番想像力が増すとか、その辺は後にわかるんだけど、「最初は笑わせるな」と言われる。笑わせるには「間」が必要になってくるから、ウケるな。これが伝統芸能の凄さでわかりやすくて10年間は、待ってくれるのね。やっぱり土台が必要だから。今は、あんまりないんだけど、全て模倣。ものまねから始まる。真似て、真似て、真似て、真似て、その次どうなるのかと言ったら、そこそこお客さんが聞いてくれているなと思ったときに落語家になって10年、思春期ぐらいだよね。やっぱり自我が出てくるから、これ真似ているだけでいいのって話。そこが出てくるまでは真似でいいんだと言ってあげるんだけど、「考えるな」って言われるわけでしょ。ウケなくていい、真似だけでいい。何でウケなくていいかと言うと、テンポも間も崩れるから。今の時代に合わないよね。オーディションはそういうことではないじゃん。ドラマだってバラエティーだって「今日、何ができますか?」。ところが落語家は10年先を目指しています。考えるまでに10年間が必要なの。
- 南沢
- うわー!すごいスパン。
- 立川
- 今の人は、それはできない。だって今日、自分を表現したい。
- 南沢
- 待てないですね。
- 立川
- ところが、本当に個人的な意見で、仕方がないんだろうけど、落語を自己表現の場に使っているのが、今の若い落語家に対する正直な感想。落語家になれればよかったし、落語が喋ればよかったし、もっと言えば師匠の真似がしたかった。そういう人が多い。だからよく芸人になって食えるとは思いませんでした。食べるとか生活するとか、わかりやすく経済的な幸せを求めるのは、もしかしたらいけないことではないか、みたいな勝手な覚悟を持って入ってきて、やっとそれに慣れたときに初めて「考えるって何だ」って話になる。考えるってことを考えるの。なんで俺は考えたいの?って話。テンポもリズムも間も時代によって変わってくるから、そうするとどうなるかって10年前にウケていたものがそのままやってもウケないじゃん。今の落語はすごくお笑いコントの間が多いよね。
- 南沢
- そうなんですね。
- 立川
- そこのサイクルがものすごく短くなっている。入門3日で考えることをし始める。もっといえば考えてから落語家になるから。
- 南沢
- どう自分の個性を出していきたいかみたいな。
- 立川
- そのときにお笑いやバラエティーと違って、面白かろうがつまらなかろうが、10分なら10分、15分なら15分、自分しか見てない舞台、自分しか見てない高座が、落語家にはわからないけど、他の特にお笑いをやっている人からするとものすごく恵まれていると思うんだよ。それでいながらちゃんと、例えば、漫才から落語家になった、お笑いから落語家になった人は、落語が好きなのよ。だから僕が古臭いだけなのか、僕らが入ってくるアプローチとは違う角度から落語を愛している。もう60歳近くなると、それは当然ありだよなと思っているのが、あれ?もしかすると、みんなそうなったときのために、ちょっと時間はかかるけど、きちんと昔の落語のやり方を守っている、そのレールに乗っている人が商品になれそうな人が少ないから、食べていけるよっていうところで、立川談春なら立川談春というレール、鋳型は、必要なのかなと思い始めたのが、ここ2〜3年かな。
- 南沢
- わりと最近なんですね。
- 立川
- もういい加減、いつかは俺だってうまくなるとか、もうあとちょっと経ったら、きっといい落語できるって言っていちゃいけないんだな。芸人としての老境。
自分が疑問に思わないといけない
- 立川
- わかりやすくいうと落語は、ものすごく間をもっていて、その間は、その演者の個性って言うんだけど、演出ですよ。考えが出てくる。それは1拍とか、もっと言えば2拍なんてそんなもんじゃなくて半拍とか4分の1拍だけど、落語家がすごいんじゃなくて、聞いている方が4分の1拍で見えている絵が変わるのね。これは、1人でやっているから成立することで、俺、最初に談志に言われた。「一生懸命やっているけど駄目だ。いいか、君は基本ができてない、基礎ができてない、型がないんだ。型がないやつが芝居をする、これ型なし。プロは聞いていられない」と。伝統芸能がすごいのか、談志なのか両方だと思うけど、観客を対象にしていない。なぜかっていったら教育だから。型ができたやつが、間を持って自分の個性を出すのは「型破り」と言って認められる可能性もあるが、頼むから演じるな、頼むからウケようと思うな。ずっとスラスラスラスラ喋っている。これね、談志が言ったのはスラスラスラスラ喋ってろってだけ。俺は今言ったように弟子に伝えるのね。教えちゃいけないんだね。自分が気づかないとだめ。自分が疑問に思わないといけない。僕が言っている、演じないというのは、こういうこと。そうするとどうなるというと落語の立ち位置がわかってくる。今のように音楽的なものを重要視するとやっぱり正座が必要なんですね。体の動きが邪魔になるから、下半身を消した方がいい。それから何で落語は小道具、美術一つ置かないんですか、これが面白いんだけど、とてもいい小道具でも、一つ置いた瞬間にそれが観客に見えたら観客は想像する力を低下させるというか、何もない方が、人の脳はどこでも行ける。これは、さだまさしさんから教わったけど。「時代劇は、SFだよな」って言われた。あんなに江戸で事件は起きないよね。あんなに一度に持っている刀で人は切れないよ。だから事実でいくと、どこまで飛んでいってもいいんだから、時代劇は、SFだよなって。常に新しいもの、常に自分らしいものを探そうと思ったときに、新しい表現を探そうとするんだけど、散々やり古してきたもんだよ。古いものの方が実は個性は投影しやすい。
*南沢さんのエッセイ集『今日も寄席に行きたくなって』は、新潮社より発売中です。