人生かけてひとつのことを追求する
松浦 弥太郎さん(ウェブメディア「くらしのきほん」主宰、エッセイスト)×水野 仁輔さん(カレー研究家)
2018
02.11
雑誌「暮しの手帖」の編集長を9年間務め、その後も、暮らしや仕事における楽しさや豊かさ、また、学びについて数多くの本を執筆されている松浦さん。そして、水野さんは、「東京カリ〜番長」名義で全国各地へ出張し、これまで1,000回を超えるライブクッキングを実施してきました。
自分なりの視点で新しい価値を与える
- 松浦
- おはようございます。
- 水野
- おはようございます。
- 松浦
- 水野さんお元気ですか?
- 水野
- 元気でやっています。
- 松浦
- なぜか定期的に水野さんとおしゃべりがしたくなるんですよね。不思議なシンパシーみたいなものがありまして、それが何かというと、ひとつのことをやり続ける、掘り続けること。僕も本にまつわることをやっていますが、本もカレーも一緒で普遍的な昔からあるものだけれど、自分なりの視点で新しい価値や新しさを感じる魅力を見つけたくて、そして、それを人に伝えていくことをしてきたんですけど、対象が違うだけでやっていることは一緒なのかな。
- 水野
- 僕もそれは全く同じことを思います。最初、はじめた当時はひたすら目の前のことをやっていました。カレーはもちろん好きなんですけど、カレーという食べ物をモチーフに自分が何をできるのかとか、どの角度から見たらどうおもしろがれるのかということをずっとやってきたということはあって、だからよく思うのは、僕はカレーですが、例えば、革靴なら革靴で同じことやる、ウイスキーグラスだったらウイスキーグラスで同じことをやるので、僕にとって対象がたまたまカレーだった。
- 松浦
- テーマなんですよね。好きには違いないんですけど、僕だったら本が好き。でも、それが全てではないという非常に客観的な自分もいて、僕は本も好きだけど、食べ物も好きだし、洋服も好きだし、インテリアも好き。そのうちのひとつが本であって、それをたまたまテーマにしている。
- 水野
- 本をテーマに出会える人がいて、本をテーマに新しく自分ができることがあって、それをずっとされているわけですよね。
- 松浦
- カレーも本が、深いんですよ。
- 水野
- そうですね。
- 松浦
- これがある程度、やりつくすことができる対象であれば、突き当たりにいけば、何かまた違うものを見つけるかもしれないけど、まだまだ奥が深いから続いていて、これを知ってもまだ自分が知らないことがある。
- 水野
- ほんとそうなんですね。
- 松浦
- 僕と水野さんの共通点というか、僕がシンパシーをもっている理由が、今話したように、それぞれの見つけたテーマについて取り組んでいる。長く取り組んで、いろんなものとやっている人としてずっと気になるんです。
追求している中で見えてきたもの
- 松浦
- 水野さんは、カレー。僕は、本ですが、飽きないですか?
- 水野
- それ聞かれます?
- 松浦
- 聞かれないですよ。
- 水野
- 僕、すごくいろんな人に聞かれますよ。「良く飽きないね」って。でもまったく飽きないし、あと、どれだけ生きるかわからないけど、死ぬまでやり続けても絶対に飽きない自信があるというよりは、とにかく正解を求めないことに決めたんですよね。昔は”究極のカレー”とか”日本で一番おいしいカレー”を作るにはどうしたらいいのかを考えていたんですけど、例えば、弥太郎さんと僕とでは好みが違うので、一番うまいカレーの味が違うんですよね。そうすると僕が30年かけて「これだ!」というのが出来上がって、「弥太郎さん作るんで食べてください」と言って食べてもらったら「悪くはないけど、あの時のあのカレーのほうがうまかったな」になるわけですよ。
- 松浦
- それじゃないよなってね。
- 水野
- そうそう。これは、正解を求めると何かに説得力を求めて、それをいったん正解にするしかなくなるんだけど、好き嫌い人それぞれあると思ってしまうと、もう正解は見つからないし。僕の好みと弥太郎さんの好みは、時が経つと変わるんですよ。本の世界もそれがあるんじゃないですか?
- 松浦
- ありますよね。自分がどう本を定義したらいいのかにしょっちゅうぶちあたるわけですよ。
- 水野
- 本とは何かを考えることですよね。
- 松浦
- 考える。その都度、再定義して、ある時、本は人だなと思ったんですよ。
- 水野
- え!
- 松浦
- 世の中には、たくさんの人がいて、本棚に本が並んでいて、本というのは誰かが書いたものだけど、文字を物理的に読むというよりも、その人の話を聞く。そういう意識で本を開くとそれまでの本を読むという意識とまったく変わるんですよ。
- 水野
- 必ず書いた人がいるわけですからね。
- 松浦
- 例えば、水野仁輔さんという人の話を今日は聴こうと、いう気持ちで本を開くと全然入り方が違うんです。本というのは紙に印刷した物理的なものではなくて、人そのものなのだと思った時にずいぶん自分が救われたというかね。やり続けていても終わらない世界がばーと広がったというか。そうすると、もう亡くなって世の中にいない人の話もまた聴ける。翻訳されていれば外国人の話も聴ける、いろんな人種の人の話も聴ける、というおもしろさがある。
- 水野
- それは弥太郎さんが"本とは人である"という定義をいったんするじゃないですか。この定義は覆ったりするんですか?
- 松浦
- そうです。また変わるんですよ。たぶん、それでしばらく自分が付き合っていくわけですね。
- 水野
- 今の段階で本が人だとすると、もう人に違わないという気持ちですか?
- 松浦
- それに近い。
- 水野
- 僕も四六時中カレーとは何かを考えているんですけど、いったんこうであるの定義がでてこないんですよね。
- 松浦
- なるほどね。
- 水野
- そこまで、まだ弥太郎さんに比べて未熟なのかもしれない。
- 松浦
- 僕もとりあえずなんですよ。正解でもないけど、いったんこうでもしておこうという感じ。
- 水野
- そうか。僕もカレーとは人であるにしておこうかな。(笑)
- 松浦
- そうそう、そういうことですよ(笑)