幼いころからの夢だったオリンピック出場。
それを果たした2004年アテネで、松田丈志はひとつの決断をした。
彼が出場したのは専門種目にしていた自由形中・長距離の400mと1500mと、サブの種目である200mバタフライだった。
結果は400m自由形では日本人40年ぶりの決勝進出を果たして8位になったが、力を入れていた1500mは予選で200mバタフライも、準決勝進出で敗退した。
宮崎県延岡市生まれの松田が高校まで練習をしていたのは、25mプールをビニールハウスで囲っただけの東海スイミングクラブ。
だが、そんな中でも、世界を目指し、久世由美子コーチとともにオーストラリアまで1500m世界記録保持者のグラント・ハケットを訪ね、一緒に練習をさせてもらったこともあった。
そのハケットは、アテネでは、オリンピック新記録でシドニーに続く連覇を達成。
その存在は遠かった。
それに加えてこの大会は、日本が平泳ぎの北島康介の2冠や800m自由形の柴田亜衣の金メダルを含め、8個のメダルを獲得と飛躍した大会だった。
松田が出場した200mバタフライでも、山本貴司が前年の世界選手権に続いて銅メダルを獲得していた。
「オリンピックは出場するだけではなく、メダルを獲らなければいけない場所」と強く感じた松田と久世は、自由形をベースにしながら、メダル獲得の可能性が、より高い200mバタフライに照準をシフトすることを決めた。
翌2005年の世界選手権で松田は、バタフライで銀メダルを獲得した。
だが、そこには怪物・マイケル・フェルプスも山本も出場していなかった。
そして2007年世界選手権では準決勝で9位と、僅かな差で決勝にも届かなかった。
その反省からそれまでの後半型を、前半から速いペースで突っ込むスタイルに変えた松田だが、2008年日本選手権では2位と敗れた。
しかし、6月のジャパンオープンで1分54秒42のアジア記録を樹立して勢いに乗ると、北京オリンピックでは目標にしていた1分53秒台前半を上回る、1分52秒97をマークして銅メダル獲得を果たしたのだ。
かつて狙っていた1500m自由形にはハケットがいたし、200mバタフライにはフェルプスという絶対王者がいる。
松田は北京のレース後、「これが自分色のメダルなのかなと思う」と、穏やかな顔で口にした。