Legend Story
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15.08.01
為末大

アテネ五輪イヤーを迎えようとする2003年の秋、為末大は重大な決断をした。
自らを崖っぷちに追い込むためにと、それまで所属した大阪ガスを退社し、プロアスリートという立場を選んだのだ。

高3の1996年夏に「世界で勝負するのは400mハードル」と決め、初めて挑戦した秋の国体で世界に肉薄する、49秒09の日本ジュニア新をマークした為末。
層の厚いトップを切り崩して世界大会初出場を果たした2000年シドニーオリンピックは大観衆に舞い上がってしまい、9台目のハードルで転倒という屈辱の結果に終わった。

だが翌年の世界選手権では47秒89の日本記録をマークして3位になり、日本短距離初のメダル獲得を果たした。
その後はさらなる進化を求めてアメリカを練習拠点にしたが、筋肉を付けすぎて失敗。記録も低迷する中で余分な筋肉をすべて削ぎ落とて走るのに必要な筋肉だけにする体の改造を決意すると、生活を懸けてレースに臨む外国選手に勝つためには精神面でも自分を追い込まなければと、安定した実業団の道を捨ててプロになる道を選んだのだ。

再び輝きを取り戻した為末は、積極的に出場した海外のレースでも好成績を残してアテネに臨んだ。だが準決勝で最初のハードルを倒してしまい、執念の走りで48秒46のシーズンベストを出したが3位。
0秒22差で決勝進出を逃した。

それでも「多分、北京オリンピックへ向けて一番早く始動するのは僕だと思う」と前を向いた為末は、翌2005年の世界選手権では決勝に進出し、豪雨でスタートが遅れた中で戦略を駆使して3位になり、2度目のメダル獲得を果たした。
だが3度目の挑戦だった2008年北京オリンピックは予選落ち。

オリンピックでのメダル獲得の夢を諦めきれない彼は、新たな走法を求めて挑戦を続けたのだ。

そんな彼のラストランは、4度目の大舞台を目指した2012年日本選手権だった。
予選の1台目のハードルで転倒して、夢を絶たれた。それでも為末は起き上がると、ゴールを目指して走り出した。
結果は最下位。
しかし彼にとって、五輪への挑戦の最後を締めくくるためにも必要なゴールだった。

天才ランナーの最後は泥臭いまでの結末。
だがそれはオリンピックのメダルを追い求め続けた彼らしい、散り方でもあった。