初出場の2000年シドニーオリンピック100m平泳ぎで4位入賞を果たしながらも、「やっぱりオリンピックはメダル。次のアテネは金を狙おう」と、平井伯昌コーチと話した北島康介。その後の道のりは順調だった。
2001年世界選手権200mでは銅メダルを獲得して、2002年にはアジア大会で世界記録を樹立。
他の選手にプレッシャーを与えておこうと臨んだ2003年世界選手権は、ともに世界記録で2冠獲得を果たしたのだ。
だがオリンピックシーズンは苦しみぬいた。相次ぐ怪我で泳ぎを崩してしまったのだ。
それでも「なるようにしかならないですから」と開き直っていた北島。
そんな時に届いたのが、全米選手権100mでブレンダン・ハンセンが、北島の記録を0秒48更新する59秒30の世界記録を樹立したニュースだった。
その3日後には200mでも2分9秒04の世界新をマークし、強力なライバルとして浮上した。
不調に追い打ちをかけるようなライバルの出現。
だがそれは、北島の心に火をつけた。焦ることなく徐々に状態をあげていくと、本番1週間前になってやっと、体が浮く泳ぎが出来たのだ。
だが平井は、ハンセンに前半の50mを27秒台で入る泳ぎをされて、59秒30を出されたら勝てないと判断した。
そのため予選では相手にプレッシャーをかけようと、北島には「今出来るベストの泳ぎをしろ」と指示を出した。
ほぼ完璧な泳ぎで1分0秒03を叩き出した北島に対し、次の組のハンセンは1分0秒25。
北島はタイムを見てホッとした。あれで初めて『戦えるな』と思えた。
その思い切った泳ぎは、世界記録保持者のハンセンの気持を狂わせた。
準決勝はハンセンが北島を上回ったが、その泳ぎには焦りが見えた。
そして決勝でも前半を全米選手権の時のように27秒台で入るのではなく28秒22。
0秒04差で折り返した北島が浮き上がりでトップに立った瞬間、彼の優勝は確実なものになった。
結果はハンセンに0秒17差をつける1分0秒08での完勝。
平井の綿密な戦略と、それを迷いもなく実行した北島の挑戦。
レース後最初に口にした「チョー気持ちいい」という言葉は、彼が長い苦しみから開放された瞬間の素直なひと言だった。