1998年長野オリンピック。
スキージャンプ日本団体チームは、誰がメンバーになっても勝てるという自信に溢れていた。
直前までのワールドカップでは、全17戦中、原田雅彦と船木和喜が4勝。
斉藤浩哉を含めた表彰台独占も2回あった。
だが、悲願の金メダル獲得に待ったをかけようとしたのは、会場となった白馬の天候だった。
朝から降り続く湿った雪で、競技は予定より30分遅れて始まった。
2番手・斉藤の130mジャンプで大きなリードを奪い、金メダルへ一歩前進したが、第3グループが飛び始めると、降雪が急激に強まった。
最終13番目の原田の時には、踏み切るポイントが見えないほどの降雪。
助走速度は直前のドイツの選手より1・7?も遅く、飛距離は79・5mに止まった。
そして4番手の船木も思ったように距離を伸ばせず、1回目のジャンプは4位に止まった。
小野学ヘッドコーチは、即座に第3グループのジャンプのやり直しを申し入れたが、受け入れられず、直ぐに2回目の競技が開始された。
降雪は再び激しくなり、第1グループの8人目が飛んだ後で競技は中断。
そのまま中止になる可能性があった。
1回目のジャンプだけで終われば日本は4位と、メダルを逃す。
そこで奮起した男達がいた。のちに日本に栄光と感動をもたらす、25人のテストジャンパーたちだ。
試合では必ず前走者として飛び、ジャンプ台の安全を確認する意味も持つ存在。
そこには、前回のリレハンメル大会団体銀メダルメンバーの西方仁也もいた。
「自分の中のオリンピック」に決着をつけるために、テストジャンパーを引き受けていた西方に心の中には、複雑な思いもあった。
だが、原田がメンバー入り出来なかった自分のアンダーウエアを着て、葛西の手袋をして戦っている姿を見て、気持ちが吹っ切れた。
「自分たちが転倒をせずに飛んで安全だと証明すれば、競技は続行になる」
助走路の溝に溜まった雪でバランスを崩し、着地でも積もった雪にスキーを取られて転倒することもある状況。
その中でテストジャンパー達は「溝に雪が積もらないうちにスタートしよう」という、西方の指示で次々に飛んだ。
そして最後に飛んだのは西方。飛距離は123m。
実はこの時、審判団は「出場選手と同等の技術を持つ西方が、K点を超えたら競技を続行しよう」と決めていた。
競技再開が決まった。
2回目が始まると、1番手の岡部が137mを飛んでトップに立った。
そして、3番手の原田も137mの大ジャンプでリレハンメルの汚名を返上。
最後の船木は、確実にK点を超えるジャンプで、日本は金メダルを獲得した。
日本ジャンプ界悲願の金メダルは、4人の選手だけではなく、25人のテストジャンパー達が支えた、金メダルでもあった。