国立競技場が揺れた。
1983年1月8日、第61回全国高校サッカー選手権は決勝戦を迎えていた。
静岡県代表の清水東高校が3対0とリードした後半、山梨県代表韮崎(にらさき)高校のベンチが動く。
3年生のフォワード羽中田昌(はちゅうだ まさし)がユニホーム姿になったのだ。
中学時代から将来の日本代表候補として期待された羽中田は、1年生からレギュラーをつかんでいた。
ところが、2年生の冬に急性腎炎(きゅうせいじんえん)を患い、長期の闘病生活を強いられる。
練習を再開したのは選手権が開幕する1か月前。医師からは「1試合15分まで」と出場時間を制限されていた。
「20分だけど、できるか?」と監督が聞く。
羽中田は迷わず「いけます」と答えた。
背番号15を着けた羽中田がピッチに立った。
6万人の大観衆で埋まる国立競技場に、地鳴りのような歓声が沸き上がる。
ピッチの空気も一変した。快速を飛ばした羽中田のドリブルと、相手の急所を突くパスに、
ここまで無失点の清水東の守備陣が翻弄されていく。
羽中田は不思議な感覚にとらわれていた。身体が軽い。
まるで羽が生えたかのように、息苦しさを感じることなく走れるのだ。
羽中田は後に「国立競技場のピッチは、魔法の絨毯なのかな」と語っている。
両チームともに1点ずつを加えた決勝は、清水東の初優勝で幕を閉じた。
しかし、第61回大会の決勝で主役を務めたのは、羽中田だった。
この試合を解説したセルジオ越後は語る。
「選手権の決勝であんなにも国立が盛り上がったのは、あの試合が初めてだった。大会の歴史に残るゲームだ」と。
高校卒業後、不慮の事故に遭った羽中田は、車椅子のサッカー指導者として国内最高のS級ライセンスを取得した。
「日本一にあと一歩のところで届かなかった悔しさは、いまも自分を支えるエネルギーのひとつです」と、羽中田は振り返った。