Legend Story
  • mixi
  • Facebook
  • ツイッター
  • Google
14.09.27
三村仁司

1992年バルセロナオリンピック。女子マラソンのレース4日前に、選手村近くにあるアシックスのブースを有森裕子が訪ねてきた。
そして涙を流しながら三村仁司に語ったのは「踵が痛くて走れない」と言う衝撃的な状況だった。
最終調整地だったイギリスで練習中、木の根っこを踏んでしまったのだ。痛みでまともに走れない状態。
棄権するか痛みが和らぐジョギングシューズで走るしかないと言ってきた。
「それじゃレースにならないぞ」と三村は言った。

前年の1991年世界選手権東京大会で有森は、銀メダルを獲得した山下佐知子に次いで4位入賞を果たしていた。
バルセロナはその時と同じような酷暑のマラソン。彼女は有力なメダル候補のひとりだった。
2時間ほど話し合って「何とか走れるようにするから」と言って有森を帰した三村は、溜まっていた他の作業を後回しにして有森のマラソンシューズの改良に取りかかった。

高校時代に長距離を走っていてすぐに破れてしまう靴を見て、「いいランニングシューズを作りたい」とオニツカへ入社した三村。
26歳だった1974年に当時の鬼塚喜八郎社長から特注シューズ専門の担当を命じられてからは、素材の開発からフィット感、軽量化など、選手にとって走りやすいシューズの開発に取り組んできた。
だがオリンピックでは彼のシューズを履いた外国選手がメダルを獲得しても、日本人選手はメダルに届かない。
そんな無念さをやっと晴らせそうだったのがバルセロナオリンピックだったのだ。

選手が2時間以上も履いたままでいられるようにしなければいけないマラソンシューズは生き物だという三村。
クーラーも無い作業場にこもるとソールをすべて剥がして素材を変え、踵の衝撃を和らげるための作業に没頭した。
そして2時間後に完成させると有森の下へ。
彼女はそれを履いて「何とかいけそうだ」と笑顔を見せた。

レース当日。三村はスタート地点のマタロへ行って有森を激励したあと競技場へ戻った。
だが他の競技もやっていてマラソンの映像はなかなか流れない。
「あの状態では無理。正直、ダメだろうなと思っていた」と話す三村は場内のモニターに、モンジュイックの丘に入る手前の36?過ぎの映像が映し出されて有森がエゴロワとトップ争いをしているのを知ると驚いた。

「あれを見た瞬間は本当にビックリして、何かが胸に込み上げてくる気持ちになりました。
彼女の踵の状態を知っていたのは、会社でも社長を含めた数人だけ。
最後はエゴロワに突き放されて2位になったが、悲壮な顔をして最後まで食らいつく姿を見て涙が止まらなかった。
自分が銀メダル獲得に貢献したことより、あの状態で乾燥した有森の精神力のすごさに感動していました」

こう話す三村のシューズはこの大会、有森の銀だけではなく山下の4位。
そして男子では森下広一の銀メダル獲得や中山竹通(たけゆき)の4位、谷口浩美の8位と、5人の日本人入賞という大きな成果を残した。